慟哭の歌人とは・・・ 明石海人の人生
明石海人(本名:野田勝太郎)は沼津市に生まれ、沼商から師範学校をへて、教職に付き、結婚し、長女が生まれ、これからという26歳の時にハンセン病を発病します。
名を捨て、家族もすて(素性を隠し)明石楽生病院から長島愛生園での療養生活をしいられます。32歳で長島の地に来た海人はかなりの病状悪化にもかかわらず、短歌を勉強し、34歳ごろから短歌を発表しその才能が開花しますが、歌集「白描」を世に出した年、昭和14年、37歳の短い生涯を閉じました。この優れた慟哭の歌人といわれる明石海人(あかしかいじん)とその心を皆様に知って頂きたいと思います。
  沼津商業高時代 当時「ハンセン病」は不治の病として嫌われ患者は家族への差別を恐れ出身地や素性を隠したため、沼津市の人とは思われていませんでした。絶望の中から生まれた慟哭の歌を最後の時まで作り続けました。
そんな海人が自分の心境を綴った手紙や、発表した歌集「白描」への思い「作者の言葉」を次ページで紹介します。
海人は短歌を勉強し、短歌を通して自分の思いや、同じ境遇の人々の思いを伝えたかったのでしょう。              
千本浜のこの海人の歌碑は終焉の地「長島」の地を象っています。
正月になると海人のこの歌を思い出します。
     年祝ぎのよそおひもなく島の院に百八つの鐘ただ静かなり・・・
     元日をきたる年賀の文ふたつうちのひとつはふるさとの子より・・
長島の地で、名を捨て、家族もすて、絶望を感じながら故郷の妻と子を偲び一人さびしく正月を迎える海人のその心を思うと、いかに我々は幸せなのか、新しく迎える一日いちにちを大切に過ごして生きたいと思いを新たにします。
 
◆明石海人の思い。 白描の作者としての思いはこちらから◆
 
◆明石海人の思いが伝わるスケッチがあります。こちらから
 
◆明石海人の歌碑や墓所へのアクセスマップもこちらから・

◆SBSテレビで明石海人の放映がありました
  SBS スペシャル 生くる日の限り 〜ハンセン病の歌人・明石海人〜  
平成14年3月17日(AM00:50〜)に、また再放送として、5月19日(25:00〜)SBSで放映。
深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない

この白描の序文を日下武史氏が朗読して始まりました。千本浜歌碑の除幕式には海人のお孫さんである関信之さんも出席されており、「この歌碑が立てられることを知って、初めて祖父が歌人で、ハンセン病であったことを知りました」と語っています。「熊本地裁で国の責任を認める判決」がおり、国が控訴断念をしました。

この訴訟の原告に加わってる入る沢田二郎さん西村時夫さんが記者会見で「これからは体だけでなく心の社会復帰を、人間復帰をしたい」との思いを語っていた、お二人の駿河療養所での生活や経験談、活動も紹介しながら、そして、海人の研究をした岡野久代さん、また長島愛生園の園内誌「愛生」編集部の双見美智子(85)さんや、愛生園で医者を務め今は御殿場在住の林富美子(94)さんに海人の出会いや、
お三人の話などから海人の生きた時代の背景と、海人の長島愛生園での療養生活こと、歌碑に刻まれた故郷沼津を歌った歌、歌集白描の歌の紹介し海人の思いを伝え、愛生園や関さん所蔵の資料やスケッチを交えなから、海人その37歳の生涯の足跡をたどります。歌碑建立などの顕彰活動の意味である偏見差別をなくしていくことを訴え、最後に日下氏のこの序文の朗読で終りました。

 再放送が出きるといいと思っていましたが、この放送が「前島賞」(郵政事業や通信・放送分野で功績があった 人(番組)に贈られる)受賞しましたので、再放送がありました。

顕彰会からのインフォメーション
◆明石海人・ハンセン病について、更に詳しくお知りになり方は最終ページのリンク集からどうぞ・・・
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