【 明石海人略年譜
(年齢表記は数え年を用いた)
明治34年(1901)1歳
7月5日、父野田浅次郎36歳(元治元年11月10生)母せい31歳(明治3年5月9日生)の
     3男として静岡県駿東郡片浜村西間門96に生まれる。本名野田勝太郎。父は農業に
     従事したが、後に富士製紙会社に転職。10歳違いの兄長兄敬太郎は王子製紙会社に
     勤務。次男、義雄は福壽家の養子となる。妹は政子。
明治40年(1907)7歳
6月1日、片浜村立尋常小学校入学。体格は中位で沼津千本浜でよく遊んだ。健康児。
大正2年(1913)13歳
3月25日、片浜村立尋常小学校を卒業。
4月、静岡県沼津町立沼津商業学校予科に入学。
大正3年(1914)14歳
3月25日、沼津町立沼津商業学校予科第一学年終了。とくに目立った生徒ではないが
      平均して成績はよい。墨絵をよく描いた。
大正4年(1915)15歳
3月24日、沼津町立沼津商業学校予科第ニ学年終了。
大正5年(1916)16歳
3月24日、沼津町立沼津商業学校本科第一学年終了。学年成績は徐々に上がる。
大正6年(1917)17歳
3月24日、沼津町立沼津商業学校本科第ニ学年終了。学年成績はさらに上がる。
大正7年(1918)18歳
3月20日、沼津町立沼津商業学校本科第三学年終了。学年成績はまたさらに伸びる。
4月、静岡県静岡師範学校本科第二部入学
大正9年(1920)20歳
3月25日、静岡師範学校本科第二部卒業。小学校本科正教員免許状を下付される。
3月31日、静岡県駿東郡原尋常小学校に訓導として勤務。
夏、中国の天津に赴任した兄敬太郎を尋ねて旅行。
大正10年(1921)21歳
6月4日、静岡師範学校講習会に於いて、図画科手工科講習会を受講。
8月5日、駿東郡教育会主催心理学講習会受講。
9月6日、静岡県富士郡伝法尋常小学校に勤務。
9月20日、静岡県富士郡村立伝法農業補習学校助教諭を兼任。
大正12年(1923)23歳
6月30日、静岡県富士郡須津尋常小学校に転勤。富士郡加島村本市場300番地に住む。
      同僚の清水真一(雅号清水塊音)から短歌指導をうける。
大正13年(1924)24歳
須津尋常高等小学校第六学年男子を担任。
7月頃、結婚

大正12〜13年(1923〜1924)
 富士郡須津尋常小学校に勤務していた頃の
 野田勝太郎(明石海人)
  
大正14年(1925)25歳
須津尋常高等小学校第六学年男子を担任。
2月、長女誕生。
5月18日、静岡県富士郡村立須津農業補習学校助教諭を兼任。
8月31日、静岡県富士郡富士根尋常高等小学校に転勤。第五学年男子(65名)を担任。
      富士郡須津中里1059番地に住む。
大正15年・昭和元年(1926)26歳
1月頃、ハンセン病の兆候あらわる。(前年の可能性がある)
    桜満開のころ、東京帝国大学医学部付属病院にて、
    ハンセン病の診断を受ける。
4月30日、ハンセン病の診断により、富士根尋常高等小学校を退職。
   年末、次女誕生。
       富士根尋常高等小学校を退職の辞令
昭和2年(1927)27歳
6月6日、明石楽生病院(兵庫県明石郡玉津村)に入院のため、明石に到着。
秋、紀州粉河の近在に独居して、佐野病院(和歌山県須賀郡田中村)で治療。
10月末日、妻が次女を連れ
田に二、三日逗留。
10月31日、大阪駅で妻子を見送る。これが次女との最後の別れ。
昭和3年(1928)28歳
4月9日、次女(享年ニ歳)腸炎にて死す。
夏、妻が長女を伴い、再び
田を訪ねる。離縁の話あり。
昭和4年(1929)29歳
佐野病院を退院し、再び明石楽生病院に入院。晩夏か初秋、離縁の話し合いのため一時帰省。
四、五日故郷に滞在し、再び明石楽生病院に戻る。隣室の女性患者と親密になる。
昭和5年(1930)30歳
近在の加古川に同患者と同棲、病状悪化。
昭和6年(1931)31歳
初夏、同棲関係を絶ち三度目の、明石楽生病院に入院。
褄の便りを待つが音信無し。病状進行。
8月妻からの手紙に元気づく。
経営困難のため、明石楽生病院の閉鎖が表面化し不安募る。
昭和6年(1931)31歳
10月、不明の高熱に襲われ精神錯乱となる。
11月24日、明石楽生病院閉鎖。
11月28日、人事不省のまま、担架に乗せられて国立癩療養所長島愛生園に移動。
       幻視幻聴追跡妄想にかられる。
昭和8年(1933)33歳
3月中旬、妻の面会。
5月、療友(松村好之、高見孝平)の献身的介護により、精神錯乱状態は軽快し、
   作歌、俳句を開始。
12月初旬、長島の光が丘で神秘体験をし、精神錯乱全快。
12月21日、兄の手紙で父浅次郎の逝去を知る。
12月23日、アメリカ人、B・C・オールズ宣教師から受洗。発熱。歳暮から
       正月にかけて病床につく。
昭和9年(1934)34歳
3月、長島愛生園機関紙『愛生』に詩歌を発表。
6月3日、虹彩炎と発熱に苦しむ。
6月22日、妻より東京で美容院をもった知らせを受ける。
8月10日ごろから、眼痛、発熱。10月18日朝日新聞社トーキーニュース班来園慰問。
この頃、眼疾の進行に備え、先人の歌集を大きく墨書する。
昭和10年(1934)35歳
1月、『水甕』に入会、まもなく退社。
2月、『短歌研究』に発表、雅号は目白四朗・明石海人。『日本詩壇』に詩「冬の納骨堂」掲載。
6月、『日本歌人』に入社。「妻」九種を発表。
8月、『日本歌人』に掲載した「療養所」五種が高く評価される。
   長島短歌会常任理事に推薦されるが半年で辞任。
10月、『日本歌人』に歌論「短歌における美の拡大」を発表。
昭和11年(1936)36歳
1月、内田守(長島愛生園医師、長島短歌会指導者、『水甕』同人・雅号を内田守人)
   と出会う。 激しい眼神経痛が襲う。
2月11日、三浦環来園し、慰問独唱会開催。
4月、『日本詩壇』新年特集号の「全国詩人住所録」に載る。
『日本歌人』
4月13日、「長島事件」起こる。
   『日本歌人』四月号にて「進出する人々」のなかで将来を嘱望される。
9月、『日本歌人』の「作品合評欄」に合評歌選出者として登場。
秋、失明。
昭和12年(1937)37歳
6月、『日本歌人』で最も注目すべき作家と評価される。
8月、『日本歌人』に評論『真実の具現』を発表。
9月、『愛生』に「粉河寺」を発表。
11月、『日本詩壇』に詩「夏至」を発表。(同誌で最後の作品)
12月、長島短歌会合同歌集『楓蔭集』の巻頭に八十ニ首採録される。
昭和13年(1938)38歳
1月、改造社出版『新万葉集』に十一種が掲載され日本詩壇の脚光を浴びる。
3月、『文芸』に「天刑」十七種発表。
4月、『短歌研究』に「癩」五十種発表。
7月、『短歌研究』に「杖」六種発表。
11月11日、呼吸困難のため内田守医師執刀によって気管切開。発声困難となる。
昭和14年(1939)39歳
2月23日、歌集『白描』改造社より出版、空前のベストセラーになる。
3月頃、『文芸』から『白描』の小説化(自伝)を依頼される。
4月、『短歌研究』に随筆「ある日ある夜」。
   精密検査の結果、腸結核と判明。
5月、『新女苑』にて河上鉄太郎が『白描』を絶賛。
6月9日午後九時四十五分、腸結核のため、園内「水星病舎」(重病室)にて生涯を閉じる。
8月、主治医内田守が遺骨を抱き、故郷沼津の生家に届ける。沼津市西間門共同墓地に
   埋葬される。    戒名「光阿勝道信士」。

この略年譜は「明石海人伝覚書」(日本大学大学院国際関係研究科『大学院論集』(平成四年)に発表したものを削除・補注したものです。)詳しくは『海人全集』(晧星社・平成五年)を参照下さい。(若山牧水記念館に在庫があります。)

(明石海人生誕百年歌碑建立記念、
明石海人歌集『白描』の岡野久代氏による略年譜です)


明石海人研究家 岡野久代先生
「明石海人」2ぺージへ戻る
「海人に思う」へ