道が大きく左にカーブする所に、古く立派な家があったが、壁は崩れ、塀は傾いていた。其の先で、交差点に出る。「東海道・亀山宿」の石碑がある。ここを渡るが、左が亀山駅と書いてあったので、今日は、ここで帰る事にして、駅を目指す。

本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠21軒であった。

道は、左にカーブする。東町バス停のある三叉路に突き当たる。ここが、亀山宿の東の入り口である。説明板によると、(江戸口門は、1673年、亀山藩主・板倉重常により築かれた。東西120m、南北70mを土塁と土壁で囲み、北側、東側には、堀を巡らせる曲輪を形成し、東端に、平櫓が一基築かれた。西側の区画に番所が置かれ、通行人の監視と警護にあたった。現在その遺構は存在しないが、ほぼ直角に屈曲した街路に其の名残をとどめている。)

本殿の御参りを済ませたあと、本殿の右手から道を下り、矢印方向の向かう。「白鳥塚」の指差しどうひょうがある。

加佐登〜亀山

H.25.08.17

早朝家をでて、JRを乗り継ぎ、関西線加佐登駅に9時30分に着いた。庄野宿に向かうのだが、寄り道をする。JRの踏切を渡って、左折すると、加佐登駅になるが、そのまままっすぐに行く。教えてもらったとおりに歩いていくと、信号に出る。其の信号交叉点を右折し、坂を下っていくと、三叉路に標識が立っている。右方向に行くと加佐登神社がある。朱塗りの白鳥橋を渡り、石段を上ると、神社の境内に出る。祭神は、天照大御神 日本武尊であり、神殿には、日本武尊の額遍がかざられていた。

駅前に着いたのは、15時33分で、名古屋行きの電車が出た後だった。50分ほど、駅前を歩き、観光協会や、バス案内所に行ったりして、時間をつぶし、「亀乃尾」をお土産に買って帰った。今日は、暑かった。

左手に、遍照寺がある。本堂は、(1862年に建てられた亀山城二の丸御殿の大書院と式台部分を、明治5年に移築したもので、壮大な大名御殿の姿を示す貴重な遺構である。)と書かれていた。

亀山宿

屋号札の提示・宿場の賑わい復活プロジェクト」の案内板があり、住宅の前に、屋号を書いた木札が下がっている。

信号交叉点で、県道41号線をわたると、左手に、「亀山ロウソク」の工場がある。帰りに、お土産を買いたいと思っていたが、駅前にはなく、国道1号に出ると「カメヤマキャンドルハウス」があると言うので、今度寄ってみたい。

国道1号の歩道橋を渡り、向こう側にでる。少し歩くと、東海道の道標があるので、左折する。直ぐに、道路に「亀山城址」だろうか?を描いたタイルが埋め込まれていた。

駅前を右折し、直進すると,「旧井川田小学校跡」がある。石碑に刻まれた文字を読むと、(大正4年小田町より移転し、昭和54年まで存続した。この石ふみは、その門柱の片方である。)と刻まれていた。 傍には、「二宮金次郎」の像が立っている。

道を下り、交差点を横断する。このような道標がこの先あちこちに立っていた。 踏み切りをわたり、道なりに、カーブを繰り返し井田駅前に出る。井田駅は改修したばかりで、とても綺麗だった。でも、無人駅である。

交叉点を渡ると、亀山本町郵便局がある。本町3丁目の交差点の左側に、小公園があり、「巡見道」説明板がある。(巡見道とは、江戸時代に此の道を巡検使が通ったことによる。巡検使が最初に派遣されたのは、三代将軍家光の時で、その後将軍の代替わりごとに、諸国の政情、民情などの査察、災害などの実情調査を行なう目的で実施された。東海道から分岐して北上し、菰野をへて濃州道と合流した後、伊勢国を通過して、中山道とつながる。

東海道の標識がある交叉点を渡ると、「和田道標」が立っている。説明板によると(元禄3年、東海道から神戸、白子、若松(鈴鹿)方面への分岐に建てられた道標である。正面に「従是神戸白子若松」と書かれている。「東海道分間延絵図」には、「脇道神戸城下町へ二里半、白子町へ三里、若松邑へ三里三十町」とあり、亀山城下から亀山領若松港へいたる重要な分岐点であった。県内東海道の在銘道標のなかで、最も古いものである。)

無上冷水井跡

其の先の右手に、庄野集会所があり、其の右側に、本陣跡の石碑が建っている。本陣は、大名や幕府の役人が宿泊したり、休憩したりする施設。庄野の本陣は、沢田氏が勤め、明治5年に廃止になるまで続いた。間口16間で、建坪198坪余、部屋数28、畳数198枚半、板間3室、の大邸宅で、東海道に面して門があった。また直ぐ南隣には、脇本陣があった。本陣、脇本陣のレプリカが資料館に造られていた。

18切符   2300円
タクシー    1200円
タクシー    1070円
計    4570円

石薬師宿へ

亀山宿続き

駅前には、ノボノ神社の一の鳥居が立っていた。

坂が終わると、右側に、「和田一里塚」がある。(平成5年に一里塚があった東側に隣接する場所に復元された一里塚である。かっては、榎が植えられていたが、昭和59年の道路拡幅工事により、壊された。)と書かれていた。

亀山宿・江戸の道」の案内パネルもあった。

駅前に、「ヤマトタケル」の像が建っている。(ヤマトタケルは、古事記、日本書紀にでてくる伝説上の人物で、景行天皇の皇子オウスである。東国からの帰路、伊吹山の荒ぶる神を倒すため山に入るが、怒りに触れ、病となり、下山する。大和の国に向かう途中、「ノボノ・亀山市北東部」で亡くなり、陵墓が造られた。亀山市田村にある「ノボノ王塚古墳」がヤマトタケルの墓とされ、宮内庁が管理している。)

「田村道」道標

右側の小高い所に、「明治天皇御小休止所」の碑が建っている。ここにも「和泉橋」の主柱が無造作に置かれている。 其の奥に「観音堂跡」がある。 其の上に「地福寺」があり、大きな歌声が響いていたので、行ってみると、マイクの調整中で、今日は「カラオケ大会」が本堂で行なわれるようで、準備に追われていた。

緩やかなのぼり坂を鈴鹿川に沿って歩いていく。前方の堤防に近づくと、坂の左側に川俣神社がある。これで3社目目である。鳥居の脇にある常夜燈は、慶応2年(1866)のものであるが、元は、大筒川辺にあったものである。境内には、神戸城主・織田信孝(信長の子)が愛した無上冷水井は無く、「無上冷水井跡」の石碑が建っている。 庚申塚座標の石柱いずみ橋の柱などがある。

しばらく行った三叉路に「ひろせ道」と書かれた石道標があった。

西富田町にはいると、右手に常念寺がある。ここはかって延命地蔵を祀る平建寺があったが、安政地震の後、常念寺が移転してきた。明治32年に鐘楼堂が出来たが、太平洋戦争で供出し、鐘の無くなった堂は、昭和19年の東南海地震で倒壊した。昭和49年に新しい鐘楼堂が出来た。麻生はつが、隣地の屋敷跡を寄進し、境内には、「屋敷跡」の碑が建っている。

江戸時代には、油問屋を営んでいた小林家が、市に寄贈した主屋の一部を創建当時の姿に復元して、平成10年に「庄野資料館」として公開している。庄野町に残る膨大な宿場関係の資料や320前の高札5枚が保管されている。暑くて最近は来館者が少ないとこぼす係りの方が、張り切って案内してくれた。

戻る途中に「浄安寺」がある。立派な山門があり、説明板によると、(県指定の木造釈迦如来坐像」は、檜の一本造りで、もともと慈悲山正福寺に祀られていたが、明治の廃寺により、現在地に移された。)とあった。

正面に丸い小山があらわれ、おじいさんが草刈をしていた。円墳の周りを一周する。 説明板によると、(尊が葬むられた後、白鳥となって飛立ったという伝説にちなみ白鳥塚といわれている。円墳とされていたが、近年の発掘により、帆立貝式の前方後円墳と判明した。鈴鹿川流域を支配した首長の墳墓である。)

東町は宿場の中心だったらしいが、今は、商店街になっていて、面影はない。江戸口門から10分くらい歩いた所の左手に、脇本陣・椿屋跡、その向こうに、樋口本陣跡の木札が下がっていた。本陣は、樋口太郎兵衛が、脇本陣は、椿屋弥次郎が務めた。

この先で、道は県道28号線にでる手前で右折すると、東海道の道標がある。 緩い上り坂になる。 右手に福善寺がある。其の先にあるのが、石上寺で、(796年に、熊野那智社の夢告を受けた紀真龍により、新熊野三社が勧進され、この鎮護のため開基された神宮寺である。鎌倉幕府の手厚い保護を受け、壮大な伽藍を有したが、信長の伊勢進攻による兵火により、伽藍を失い衰退したと伝えられる。鎌倉から室町時代の古文書が残されている。)と書かれた説明板があった。

西信寺を過ぎ、国道1号の陸橋の下をくぐり、200mほど先に、「谷口法悦題目塔」が建っている。説明板によると(この題目塔は、東海道の川合と和田の境にあり、昔から「川合のやけ地蔵さん」「法界塔さん」と呼ばれている。正面に「南無妙法蓮華経」と刻まれている。造立者の谷口法悦は、京の日蓮宗の篤信者で、17世紀末頃、一族と共に、各地の寺院、街道筋、追分などに題目塔と呼ばれるこれらの造立したことが分かっている。 近くに、「法悦の供養塔」と書かれた標識が立ってる。元は供養塔といわれていたものが、題目塔と変わったようだ。

堤防に上がると、安楽川が見える。江戸時代には、ここに土橋があり、出水の時は、渡しとなった。今は少し下流に和泉橋があり、その橋を渡る。道なり川に沿って歩くと、和泉町に入る。そこで、亀岡から歩いているという方に会った。先週と、今日は、暑いからか、東海道ウオーカーに会っていない。久しぶりのウオーカーだ。しばらく話をして分かれた。持っているものは、昨年見つけて買い求めた東海道の地図だそうだ。「ちゃんと歩けると書いてあるが、迷ってばかり。」と言っていた。私も随分迷っているので分かります。元気で完歩してください。

鳥居の所に、「従是西亀山宿」の木札がある。このあたりから、亀山宿となる。

神社の前に、新しい中富田一里塚の説明板があった。(1803年に作成された東海道亀山宿分間絵図によると、川俣神社の東隣に一里塚が描かれている。其の近くに「ご馳走場」と書かれた家があり、当時、東海道を行き来する大名行列の一行を接待する場所であったと考えられる。現在も東百里屋(とうもりや)と言う屋号で呼ばれている家がある。此の地から江戸まで100里(約400km)あったので此の屋号が付けられたと伝えられている。)とあった。

少し行くと、三叉路になり、右方向に行く。100mほど行くと、左側に、式内川俣神社がある。街道に背を向けて、社殿が建っている。鳥居の左に大正15年の常夜燈があり、右側の石柵の中には、中富田一里塚碑従是西亀山領と書かれた領棒石が建っている。

道の反対側には、「女人堤防碑」がある。鈴鹿川の洪水に悩まされたが、神戸藩の禁により堤防を築くことが出来ず、汲川原の村人は、辛い日々を過ごしていた。菊女を先頭とした女性たちは、男に代わり、打ち首の刑を覚悟に闇夜を選んで、6年がかりで堤防を築き上げた。此の功績を称えて此の碑が建てられたと言い伝えられている。

田畑の中を道なりに歩くと、集落に出る。江戸時代の汲川原村である。10分ほど歩くと、右側に、「従東神戸領」の石柱がある。領棒石は、亀山藩中富田との境界からここに移設したらしい。右側には、山神碑常夜燈があった。

しばらく道なりに歩くと、京口の石標がある。ここで庄野宿は終わる。そのまま進むと、汲川原町で国道と交差する。案内板があり、昔はここから斜めに道があったが、現在は国道があり、「横断歩道がないため、国道のガードをくぐり向こう側に出る案内の地図が書いてあった。京口と江戸口の石標は、旧庄野小学校の門柱に使用しされていたもの。

案内の標識は、資料館前の「本陣跡」の石柱だけだったが、東海道400年の平成13年に庄野宿石標江戸口京口に、案内板が、問屋場跡脇本陣跡郷会所跡高札場跡の四ヶ所に設置された。

其の先に郷会所跡がある。(助郷の割り当てを受けている各村の代表(庄屋など)が集会する場所。減免陳情のための会合がよく盛られていたらしく、資料館に陳情書の控えが残っている。)(助郷とは問屋場で常備する人馬だけで不足する場合、補助として周辺の村から人馬の提供をさせる課役。)

其の先の右手に「問屋場跡」がある。(問屋場は、御伝馬所ともいい、宿場にとって重要な役所である。問屋2名、年寄り4名、書記、馬差し4〜5名、が半数づつ交代で詰めた。公用書の継ぎ立て、往来者の要望に応じて人足、馬の割り振り、助郷村々への人足の割り当て、賃銭、会計が主な仕事であった、)

今でも、格子戸のある古い家並みが続き、此の家には、「清酒 庄野」の看板が架かっていたが、蔵元だったのか、ただ広告のため架かっていたのか分からない。

加佐登駅に戻り、道なりに歩く。関西線の踏切を渡り、11時に庄野宿の江戸口についた。

庄野宿

発掘調査により、伝説は覆されたが、日本武尊の墓はあちこちにあり、此の先の亀山市能褒野にも御陵がある。歌舞伎の「ヤマトタケル」で白鳥となって飛んで行くという場面が目に浮かんだ。(舞台を見たわけではないが)鳥居の横に、発掘品の収蔵庫があったが、閉まっていた。境内の西南部の丘陵南斜面にある椎山中世墳から出土した陶器や石仏が収蔵されている。

加佐登神社由来記によると、(古事記、日本書紀によると、日本武尊は、12代景行天皇の皇子だった。若くして九州の熊襲、出雲を平定し、東国の蝦夷征伐に出かける。各地で、勝利をおさめ、伊吹山の戦いで傷付き病に冒され動かぬ身体を引きずりの能褒野にたどり着き、はるかに大和を望んで短い一生を終えたと伝えられている。本殿北の白鳥塚は、県下最大の円墳で、古くから、日本武尊の御陵とされ、本居宣長や平田篤胤により、延喜の諸陵式の能褒野墓と考えられた。此の白鳥塚の近くに尊の笠と杖をご神体としてお祀りしたのが、加佐登神社のはじまりである。古代、此の地は、景行天皇が、行在所をおかれたことから、高宮の里ともいわれ、付近には、綺宮跡、奉装塚、奉冠塚などの多くの古い塚が残っている。)

集会場の向かいの角には「高札場跡」がある。法度、証書などを書いた「高札」を提示した場所で庄屋前とか人通りの多い辻に設けられた。資料館に保管された5枚の高札は、大きなものは長さ8尺5寸もある。(漆に墨を混ぜた物で書いた。墨は退色して、漆が残り盛り上がっている。)

東経136度30分25度

いずみ橋の柱

本殿

常夜燈

浅生はつ屋敷跡

旧鐘楼四本柱の礎石

其の先の右側に、川俣神社がある。境内には、樹齢数百年スダジイがある。(樹高11m、幹周り6m30cmの巨木である。県の天然記念物に指定されている。ブナ科の常緑樹で、初夏に雌雄の花をつけ、果実は小粒で硬い。以前には白ヘビが生息していて、神の化身だと言われていたようだ。)

其の横に脇本陣跡がある。(本陣の予備にあてた街道の宿舎で、本陣に余裕のない時に使われた。本陣に大名が泊まる時、家老や手代の宿舎にあてられた。本陣に次ぐ名望家が選ばれた。庄野では、本陣隣の楠与兵衛が脇本陣であった。

集会所の左前には、「距津市元標 九里拾九町」と書かれた石柱があり、横には、「石薬師へ壱里壱町 亀山へ弐里参町 庄野村」と書かれてる。

江戸時代のお土産「焼米」は、今は作れる人が少なくなっている。(青稲のモミを取り、臼でついて作る。青麦の藁を用いて俵を作りこれに包む。)

安藤広重の「庄野の白雨」は、彼の作品の中でも傑作と言われている。

庄野宿は、江戸から45番目の宿で、幕府の直轄領であった。他宿に比べ、1642年にできたこの宿は、草分け36戸、宿立て70戸で、鈴鹿川東の古庄野から移った人たちを合わせて70戸で宿立てをした。南北8丁(約1000m)で宿入り口の、加茂町、仲町、上町からなる。 本陣は1軒、脇本陣1軒、旅籠は15軒である。

先ほどの分岐まで戻り、左に行くと、「荒神山観音寺」があり、春日局が、釣鐘と五体の仏像を、寄進している。奥の院の三宝荒神は、春日の局の異母弟の順海上人が、礼祀りしたもの。また、奥の院の隣には、「荒神山の吉良の仁吉」の碑がある。そうだが、時間がないので、このまま戻った。

その向こうの交差点に、東海道の標識があり、左に曲がる。此の交差点の向こう側に、高札場があったようだが、見落とした。此の辺りから、街道は何度も鉤の手に曲がるようになる。左右にカーブしながら坂を下る。

少し先に、「露心庵跡」の説明板がある。(天正12年、神戸正武が亀山城を急襲したが、城を守る関万鉄斉は、わずか13騎で撃退した。この合戦の戦死者を城下東端に二つの塚を築き葬った。関氏一門の露心は、その近くに仏庵を建て、戦死者を供養した。)

右側に、鳥居がある。此の鳥居は、ノボノ神社の一の鳥居である。ここから約4kmのところにある。日本武尊を主祭神とする神社で、日本武尊墓陵とされる宇塚の傍らに建てられた神社である。 此の辺りには、日本武尊の墓に比定される古墳が幾つかあったが、明治12年、ここにある全長90m、後円径54m、高さ9mの三重県北部で最大の前方後円墳を武尊の墓とし、宮内庁の管轄となった。