H.25.08.25
亀山〜関
鶴屋の向こうに、山車庫があり、其の前に問屋場跡の石碑が建っている。
天気予報で、昨日より今日のほうが天気が良いと出ていたので、今日にしたが、予報ははずれ、5時に家を出るときには、すでに雨がパラパラしだしていた。 9時25分過ぎに、亀山に着いた。雨は本格的に降りだしていた。前回のような暑さはなく、雨の中を歩き始める。晴れならば、「ノボノ神社」に行こうと思っていたが、諦めた。亀山の駅には亀山の地図が出ていた。
其の向こうには、「川北本陣跡」の石碑が建っている。
町屋の細部意匠・関宿の町屋には、庇下の幕板、軒の持ち送りの線形、二階の虫籠窓や漆喰細工、起り屋根、格子、建具など、細部の意匠に工夫されたものが多くある。特に、漆喰細工や瓦細工には、子孫繁栄、家運長久などを願って職人が技をこらして作ったものです。
開雲楼(雲林院家は、昔かいうん楼と称し、隣の松鶴楼と並んで芸妓置店であった。街道筋の宿屋では、大抵の旅籠は、飯盛女と呼ばれる遊女を置き、また、専門の遊郭も多かった。かいうん楼は、その代表的な店で、表の立繁格子、べにがらぬりのかもいや柱にその面影を残している。)
街道に戻り、5分ほど歩くと、右側に、大きな木が見えてくる。椋(むく)の木の野村一里塚である。現存するのは、北塚だけで、椋の木は、樹齢300年を越し、幹周り5m、高さ20mの大木に成長している。南塚は大正12年に壊された。 更に進むと、左側の空き地に、「大庄屋 打田権四郎昌克邸跡」の木柱が建っている。隣の立派な家は関係ないらしいが、こんな感じだったのかもしれない。このあたりは、歩道がないが、白線の内側が赤く塗られている。
竜川は随分下を流れていて、昔は川を渡り、坂を登って対岸の京口門にたどり着いたのだろう。広重の亀山・雪晴は急な坂を登り京口門を目指す旅人が描かれている。 竜川を渡ると、照光寺がある。沢山の碑が建っていて、その中で一番新しい碑は、赤堀水之助の石碑であった。石川兄弟に京口門外で討たれた相手で、かわいそうに思った人たちが此の寺に墓を作った。石碑は平成に入ってから造られたものである。境内には、彼の墓がある。
外堀を左折し、黄色舗装の道路を進むと、「京口門跡」の説明板がある。(亀山宿の西端、西町と野村の境を流れる竜川左岸の崖上に建てられた門である。京口門は、石垣に冠木門・棟門・白壁の番所を構え、通行人の監視にあたった。門に通じる坂道は、左右に屈曲し、道の両側には、カラタチが植えられ、不意の侵入者を防いだ。大正3年、京口橋がかけられたことで、坂道を上る道筋は途絶えたが、往時は、坂の下から見上げると、門・番所がそびえる姿が壮麗で会ったことから、亀山にすぎたるものの二つあり伊勢屋蘇鉄に京口御門 と詠われた。)京口御門の古い写真が載っていた。
前回、見残した「大手門跡」や「高札場跡」を見たかったが、多門櫓のおじさんが、「行っても何もないよ。加藤家や舘家に寄っていきなさい。」といって、道順を教えてくれた。 櫓をでて、坂を下り、亀山中学校の校庭を右に曲がり、次の道を左折する。右に、「西の丸庭園」と書かれた門があり、入ってみたが、草が生えていて、手入れされているとは思えなかった。左には、「加藤家屋敷跡」がある。入ってみると、「侍屋敷遺構加藤家長屋門及び土蔵」の説明板があった。
亀山城多門櫓(現存する石垣は、本丸東南隅にあたり、外側高さ13.5m、内側高さ4.0mで、石垣を多用しない亀山城内では、最大の規模を有する。長大な自然石を多用した野面積で、宝キョウ印塔などの石造物の転用も見られる。石垣の上の、多門櫓は、木造平屋入母屋造りで、平面がL字型である。明治以降、城内の建造物が取り壊される中、旧藩士により落札され、失業武士の授産所にされ、その後は会議室、展示室として、幾度かの改修を受けている。)昨年の改修の折、火事を出し、{放火らしい)その燃え残りが展示されていた。パンフレットでは、外壁の下半分が木の板になっているが、全部白の漆喰で塗られていた。
前回の東海道まで戻る。途中の角に、石柱があり、「右 停車場 左 阿野田椋」と刻まれていた。数分で、前回の交差点に出る。ここは、小公園になっていて,「お城見庭園」といわれている。、「亀山領内東海道分間絵図」が石垣にはめ込まれていた。其の上に、階段を上ると、「問屋場跡」がある。ここを左折すると東海道だが、亀山城址に寄って行く。
雨もやまないので、ここから駅に向かって帰る事にした。国道に出ると、「関地蔵堂エ二町」の石碑が立っていた。道の駅で「伊勢うどん」を食べた。土産は、「関の戸」と「志ら玉」「味噌焼きうどん」を買った。今日は、一日雨だったが、涼しくて助かった。迷ったり、見落としたりしたが、関は見所が沢山あり、次回も楽しみです。
山石 岩間家・幕末に建った建築で、山岩は明治、大正にかけての料亭だった。屋根の隅に唐獅子の置物が取り付けられているのは、忌除けの一種である。
観音堂鬼瓦(家紋の揚羽蝶が付いている。平家の血 関氏の家紋 揚羽蝶
桶屋の手前の細い道を入ると、瑞光寺がある。境内には、「権現柿」がある。家康が上洛の折、瑞光寺の和尚を訪ね、此の柿を賞味したそうだ。家康は後年「権現様」と言われるようになったので、此の柿も「権現柿」と言われるようになった。 瑞光寺 今も実りの 権現柿
「桶重 明治15年」の看板がかかる手桶屋さんがあり、職人さんが木を削っていた。
延命寺山門・旧川北本陣の門を移築したもの。
山門は 本陣の門 延命寺
環金具に 手綱つながれ 馬や牛
百五銀行・町並みに配慮した意匠の銀行。
細工瓦 虎
漆喰彫刻 龍
漆喰彫刻 虎
街道に戻る。開雲楼の隣に、鮮魚・青果商と書かれた店があり、遊快亭と書かれている。(松鶴楼といい、芸妓置店であった。松鶴楼も開雲楼も江戸側の御馳走場の前にあり、関宿の中心部の入り口をなす賑わった場所であった。太閤秀吉が実施した文禄検地の小崎村検地帳が所蔵されている。)
大井家の角を右に入ると、突き当たりに、関神社がある。関神社は、関氏の始祖が、紀伊国の熊野坐神社の分霊を勧進し、江戸時代には、熊野三所権現と呼ばれた。明治時代には、笛吹大神社や大井神社などの小祠にあった神々を合祀して、関神社と名を改めた。
大井家(代々玄庵を名乗る医家で、明治初年には、西洋医学を学び、種痘医として、眼科、産科、内科医として、地域医療に活躍した。医学書や明治末期の医療器具などが保存されている。)
7〜8分歩くと、左側に大きな鳥居が見える。ここが、関の東の入り口で、東海道と伊勢別街道の追分でもあった。大鳥居は、伊勢神宮に立ち寄れない旅人が、神宮に向かって遥拝するためのものである。伊勢神宮二十年の遷宮の際に、古い鳥居をここに移築するのが慣わしになっている。常夜燈のところに、一里塚跡があるそうだが、見落とした。
石薬師・石薬師寺 四日市・三重川
右側に、「太岡寺(たいこうじ)縄」の説明板があった。(縄とは、まっすぐな道のことです。東海道が約2kmに渡って鈴鹿川沿いに築かれた堤の上を通り、東海道の縄道では、随一の長さとされます。かっては、「わしの思いは太岡寺 他に気(木)がない 松(待つ)ばかり」と詠われたほどの松並木だった。)松尾芭蕉は、ここで珍しく和歌を読んでいる。「から風の 太岡寺縄手 ふき通し 連もちからも みな座頭なり」左手に鈴鹿川、右手に水田を見ながら、雨の中を歩く。小学校をすぎ、名阪高速道路の高架をくぐる。高架下の壁には、広重の東海道浮世絵が描かれている。
能古茶屋は、「布気皇舘太神社」の前にあったようだ。雨がひどくなり、参道は向こうが見えないくらいの続く。直角にまがると、本殿があった。「ふけこうたつだい神社」は延喜式に小布気神社とある式内社である。皇舘とは、垂仁天皇の御代、天照大御神を忍山に遷幸の折、大比古命が、神戸、神田を献じたことから、神戸七郷の総社である。
三叉路に、東海道の道標があり、それにしたがって、右折する。布気地区は、江戸時代には、立場茶屋があった所で、1690年に開かれた能古(のんこ)茶屋が有名だった。亭主の禅僧道心坊能古は、奈良の茶飯や家伝の味噌、煮豆で旅人をもてなした。松尾芭蕉も能古の友人で「枯れ枝に 鳥とまりたるや 秋の暮れ」という句を残している。
15分ほど歩くと、交差点に出る。向こう側に、「忍山神社 徒歩3分」と書いてあった。3分なら行ってみようと思い、左折して、国道の高架橋を越えると右側にあった。1427年の戦火で焼け落ちるまでは、愛宕山という海抜90mの丘陵の南麓に、神宮寺の神福寺と共にあったという。此の神社は、延喜式神名帳に載る古社で、垂仁天皇の時代、皇女倭姫が御杖代となって、天照皇大神の鎮座の地を求めて、大和の国から忍山(おしやま)に御遷幸になり、神宮を造営し、御鎮座になること十年、なおも南へ遷り坐した。と伝えられる。神社の前には、「鈴鹿小山の宮(忍山)倭姫命御巡幸地跡」の木柱が立っていた。
しばらく歩くと、左側に「森家住宅」がある。説明板によると、(亀山宿・関宿間の野村集落に所在。切妻造棧瓦葺で、西面に切妻棟を付設し、周囲に下屋をまわす。左手に土間、右手に居間を配し、奥に座敷を設ける。妻を漆喰で塗りこめ、正面は上屋を黒漆喰、真壁、下屋に格子を設けるなど、町屋的な表構えを見せる。) 現在は、「骨董カフェ」をやっているようだった。伊勢うどんと書いてあったので、食べたかったが、開店が11時からということで、あきらめて歩き始めた。
京口御門の奥に、梅厳寺がある。(亀山藩石川家菩提寺である。他に、本宗寺、本久寺が菩提寺で、これらの寺は、もともと亀山にあった寺ではなく、石川家の移転や転封により創設された寺である。石川家歴代藩主の墓は江戸の大久保寺にあり、亀山にはない。また、本宗寺本堂は、亀山城三重櫓の旧部材を使って建立されたものである。) 庭には、「雪景色 亀山城は広重の 画に見るがごと 石垣高し」の歌碑が建っている。このあたりで、亀山宿は終わる。
旧舘家からすすみ右折し、直進すると、先ほどの、加藤家の通りにでる。突き当たりに、「西之丸外堀」がある。説明板によると、(西之丸は、亀山城の西南部にあり、家中屋敷と表記されることもあり、佐事場や重臣の屋敷地の他、藩校の「明倫舎」も置かれた。復元した西の丸外堀は、城の外周を取り囲む亀山城外堀の一部で、特に東海道と外堀が平行する場所に当たり、防衛上、また城の景観上重要な場所であった。町屋側には番所、西の丸側には西之丸西櫓があった。)
街道筋には、このようなお宅もありました。
其の先に、「旧舘家住宅」がある。(屋号を枡屋といい、幕末から大正にかけて呉服屋を営んでいた大店で、現在の主屋は、明治6年に建てられた。亀山宿を代表する商家建築である。)
大久保神官家棟門(江戸時代に、南町権現社の神官であった大久保家の邸宅の門であった。亀山小学校に移築され、裏門として利用されていたが、昭和30年、亀山神社境内に移築され、平成24年、解体修理された。
明治天皇行在所(あんざいしょ)(明治天皇は、明治13年、三重県下御巡幸の際、東町藤屋を行在所にされた。此の建物は、玉座とされた奥8畳の間など、行在所の一部が移築保存されたものである。
亀山神社・宝キョウ印塔基礎部(此の地にあった善導寺が、西町に移転された時に残されたもので、昭和26年の西小学校運動場拡張工事の際に、取り壊された本丸石垣の中から、五輪の塔と共に発見された。
亀山城址・伊勢亀山城は、1265年に関実忠が若山の地に築いたと伝えられる。中世の亀山に勢力を誇った関氏の居城である。東海道の要衝ということもあり、城主はだいたいが普代大名で、1744年石川総慶が入城後は、明治まで、石川家が城主を務めた。丹波亀山城の天主を壊すように命じられた堀尾田忠晴が間違えて、伊勢亀山城の天主を取り壊したと伝えられている。明治6年の廃城令により、城内の建造物は大部分が取り壊されたが、現在は、本丸東南隅の多門櫓と石垣、外堀、二の丸から西出丸の北側の土居が残っている。
右側には、「飯沼慾斉生誕の地」の石碑がある。(飯沼慾斉は、京都で、漢方医学と本草学を学び、江戸に出て、蘭学を修め、大垣で医者を開業した。50歳で、引退し、研究に没頭し、リンネ分類法による植物の分類を行い、「草木図説前編」を著した。わが国の近代科学の礎を築いた一人である。)
坂を上って行くと、右の堀の傍に、「石井兄弟亀山仇討遺跡」がある。説明板によると(亀山城内石坂は、元禄14年石井源蔵(33歳)、半蔵(30歳)が、28年目に、父石川宇右衛門の敵・赤堀水之助(源五衛門)を討ち取ったところである。本懐をとげた兄弟は、旧主の青山忠重に帰参を許され、青山家が丹波亀山に(現亀岡市)に移封になると、藩主に従って移り住み、生涯を終えた。「元禄曽我兄弟」と称され、歌舞伎、講談、浮世絵、絵本などに取り上げられた。)其の手前に、「亀山城石坂門跡」の木柱がある。
その向こうに、石碑があり、「伊勢亀山 備中松山 藩主交代之碑」がある。案内板によると(亀山藩主・板倉勝澄が備中松山(岡山県高梁市)へ移った。板倉氏は5代に及ぶ亀山領有が終わり、石川総慶が、松山から亀山に替わった。)
(加藤家長屋門は、藩主石川家の家老職・加藤内善家の正門であった。明治以降、母屋の建造物は、大半が他所に移築されたが、長屋門、土蔵、土塀は保存さtれた。昭和62年、当時の姿に復元された。長屋門は、入母屋棧瓦葺、西端の土蔵があり、土塀によって長屋門につながる。創建は江戸時代中期以降と推測される。)
道は、関西線の線路を渡り、国道1号線にでる。歩道橋で反対側にわたっる。小野川橋を渡り、国道をしばらく歩くと、関宿の看板が見えてきた。
右側の池は、池の側(外堀)で、水草に覆われていた。まさか外来の草ではないでしょうね。池を覆いつくしている。左側には、「池の側松並木」の木柱が立っていて、松が2本あった。ここは、以前は松並木だったようです。
18切符 2300円
タクシー 1200円
バス 160円
計 3660円
鶴屋・玉屋、会津屋と共に、関を代表する旅籠の一つ。江戸時代に末には、脇本陣も勤めた。座敷の前に付いた千鳥破風が其の格式を示している。
虫籠窓の内部から外を見る。
保存されている高札
格子戸から外を見る。
蔀戸
夕暮れに 閉める蔀戸 すりあげ戸
外には、ばったりという店棚がある。上げ下げの出来る棚のことで、商品を並べたり、通る人が座ったりした。
関町並み資料館・関の文化財の紹介や、関宿に関する歴史資料などを展示している。土蔵二階には、町並みの移り変わりを一目で見ることが出来ます。
関宿かるた・うち揃い 殿様迎える ご馳走場
関宿かるた ・のんびりと 旅人休む 一里塚
左側に、関の小萬のもたれ松の説明板があり、最近植えたと思われる松が植わっていた。(久留米藩士・牧藤左衛門の妻は、夫の仇を討とうと旅を続け、関宿の山田屋に逗留し、小萬を生んで、病没した。成長した小萬は、三年ほど亀山で修行し、母の遺言どおり、仇の軍太夫を打つことが出来た。此の松は、亀山通いの小萬が若者の戯れを避けるために、姿を隠したと伝えられる。)
奈良時代以前には、伊勢の鈴鹿、美濃の不破、越前の愛発(あらち)の三関が最も重要で、日本三関といわれていた。関の地名は、此の中の鈴鹿の関が地名になって残った。東方の攻撃から都を守るため置かれた。鈴鹿関は、天智天皇の死後、大友皇子と大海皇子が皇位を争った壬申の乱(672)の際、大海皇子が此の地を固めたことによるが、(789)神武天皇によって廃止された。
本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠42軒あった。鈴鹿峠を控えた、東海道の重要な宿駅として、また、伊勢別街道や大和街道の分岐点として、江戸時代を通じて繁栄した。
庄野・白雨 亀山・雪晴
関・本陣早立 坂下・筆捨山頂
桑名・七里渡口
直進し、坂を下る。下ったところに、東海道の標識があった。左折し、陸橋を渡る。道なりに歩いていったが、畑の一本道をあるくという記述と合わない。右に曲がって畑の間を歩いたりしたが、どうも間違いのようで、小学校まで来て、元の道に戻った。最初の道でよかったようです。考え過ぎでした。
慈照寺にあった広重の亀山宿・雪晴には、(当山(照光寺)東下の竜川よりのぞむ 京口門の景勝 旧東海道の京口坂は 大正時代後半まで 其の面影をとどめていた)とあった。
その道を直進すると、角に「青木門跡」の木柱が建っている。(亀山城の搦め手門で、亀山城に泊まった家康が、此の門を通るときに、門一帯にアオキが茂っていたことを賞賛したことから、青木門と呼ばれるようになった。)ここをを曲がると、「右 郡役所 左 東海道」の石の道標があった。
与助井戸・(亀山城本丸で使用された井戸。1519年、岡本宗憲による亀山城築城の際、此の場所にあった民家「与助鍛冶」を城外に移したとの伝承からこう呼び習わされてきました。城外への抜け穴伝説があるが、確認されていない。)
亀山城楠門跡