内部〜加佐登
H.25.08.03
早朝家をでて、JRで名古屋まで行き、近鉄名古屋線に乗り換え、四日市まで行く。内部線に乗り換え、内部に9時20分頃着いた。「乗って残そう内部線」の幟がはためく。今日は、老人が何人か乗っているだけだった。
「信綱かるた道」と書かれ、「信綱かるた」から選んだ36首の歌が、これから1.8kmの間に掲示されている。ネットで調べると、朽ちたようになっているとあったので、最近新しくしたのか、綺麗だった。蛤と長餅の絵が描かれていた。「四日市の時雨蛤、日永の長餅の家土産まつと父を待ちにき」
石薬師寺の山門を出ると、「蒲冠者頼範之社」の石柱がある。(頼範は、頼朝の弟で、武道、学問に優れていたので、それらの願望成就の神様として祀られてきたもので、地元では、御曹司社と呼んでいる。昔は、弓矢を奉納し、文武の向上を祈願する慣わしがあった。)とあった。神社の南には、「石薬師の蒲桜」とよばれるヤマザクラが2本ある。(ヤマザクラの一変種として植物学上からも珍しい。花は一重の五弁、直径約5cm、白色から淡紅色で、開花時は見事である。伝説によると、頼範が、平家追討のため、西に向かう途中、石薬師寺に戦勝を祈り、鞭にしていた桜の枝を、地面に逆さに挿したのが、芽をだしてこの桜になったといわれている。そのため、逆桜ともいわれる。)とあった。 義経に隠れて、あまり表舞台に出てこない頼範だが、こんなところで、神様になっていたとは。街道に戻り、歩き始める。連子格子の家に信綱の歌が、 ますらをの 其名とどむる蒲さくら 更にかおらむ 八千年の春に
国道1号の内部橋を渡る。渡り終えると、東海道の矢印があり、それにしたがって階段を下りる。下は、小さな公園になっていて、東海道案内図もあり、先の道標にあった「平成内部の1里塚」はここなのかも。
小古曽3丁目交叉点まで戻り、左折する。角に「400年記念行事」で建てられた「東海道」の道標が建っている。5分ほど歩くと、川に出て、標識が建っている。江戸時代には、ここに橋があったが、今はないので、国道1号の内部橋を渡る。
寺の前からなだらかな下り坂になってる。坂が終わると、二股になっていて、左に行くと、川に突き当たる。江戸時代には、ここに土橋がかかっていた。道を戻り、蒲郷橋を渡る。 大木神社に、「河北元助翁」の碑があった。(当時、村内の橋梁は、木橋、土橋、で、朽ちたり洪水で流失したりして困難することが多かった。翁はこれらの橋を石橋に架け替えたいと決意し、明治42年より、大正3年までに、大小70余ケ所の橋梁を石橋に架け替えた。)
石薬師小学校の隣には、佐々木信綱資料館と信綱の生家がある。信綱は、歌人、国文学者で、文化勲章も受章している。生家では、唱歌「夏は来ぬ」が流されていた。(うのはなとは、ウツギの花で、卯月に咲くからともいわれる。白い花で、卯の花の匂う垣根に〜は、卯の花がにおうのではなく、白い花が美しく映える状態を言うそうです。)
その隣には、「石薬師文庫」がある。佐々木信綱が還暦の時、村に寄贈されたもので、現在も図書館として使われている。開館は、土曜日と書いてあったので、開いているかと思ったが、1時から4時と書いてある。佐々木幸綱と信綱の歌碑があった。
時刻表を見ると、14時36分の電車があるので、これで帰る事にした。 浴衣を着た若い女の子が何人か来た。四日市のお祭りに行くと言っていた。そう、今日は、桑名の石取祭りの日でもある。急行が止まったが、加佐登駅は無人駅だった。
東海道は、JR関西線を斜めに横切る形で道があったが、その道は今はない。JRのガードをくぐり、右に曲がり、田んぼの中の農道を歩く。国道1号下のガードをくぐり、JRの踏み切り手前で、左に曲がり、川を渡り、国道1号と合流する。鈴鹿川を左に見ながら国道を歩く。加佐登交差点で右の道に入る。JRの踏み切りを越え、四差路を左折すると、加佐登駅に出た。
橋を渡ると、左側に大きな石標と常夜燈、案内板がある。ここは、石薬師一里塚があったところで、江戸時代には、榎が植えられていたが、昭和34年の伊勢湾台風で倒れて、当時の面影はない。生家にゆくと 弱かりし母が 我をせおい徒渉せしか 此の甲斐川を 信綱の頃は、橋がなかったのだろうか?
広重の薬師寺 「薬師寺 三重の山なみと 杉木立 日暮れのわびしさが漂う」
(寺名は、本尊石薬師如来を祀ることによる。戦国の戦火の後、神戸城主一柳監物により、1629年、再建された。市内で最古の寺院建築。石仏は花崗岩で、像高190cm、弘法大師が、地面生え抜きの石に刻んだという。浅い線彫り、ほおは豊かで、薬師仏として親しまれてきた。秘仏であるが、12月20日の「おすす払い」には、清められる。)と書かれている。
国道を跨ぐ瑠璃光橋を渡ると、右手に、石薬師寺がある。東海道名所図会に、高宮山瑠璃光院石薬師寺とある寺で、宿の名前はこの寺の名前から来ている。奈良時代にの修験道の僧、泰澄がこの地を訪れ、堂を建てたのがはじまり。その後、弘法大師が、自ら薬師如来を刻んで、開眼供養をされた。と伝えられている。
道路を渡った向こう側には、浄福寺があり、室町時代の開創で、佐々木家の菩提寺であった。山門入り口の左側に、佐々木信綱の父、佐々木弘綱の記念碑があり、彼の歌が刻まれていた。
天野記念館があり、石碑も建っている。タイムレコーダーで有名なアマノの創始者が、故郷のために立てて贈ったものである。玄関を開けてみたが、鍵がかかっていた。記念碑の文字は天野修一翁のもので、鈴鹿市に奨学資金を寄付したり故郷に貢献している。」
小沢家本陣跡 説明板によると、(昔は、もっと広かった。残る文書も多く、元禄の宿帳には、赤穂の城主浅野匠守の名前も見える。国学者・萱生由章はこの家の出である。) 旅籠は、本陣を取り囲むようにあったようで、斜め前には問屋の園部家があった。
陶板で、広重の石薬師宿の図を、裏には、やはり、陶板で、宿内の軒並図が描かれている。石薬師宿図は、石薬師寺とその後の山を背景にした数軒の藁屋根の家が描かれている。 また、地図には3軒の本陣、小沢家、岡田庄兵衛家、岡田忠左衛門家、旅籠などが書かれている。
この裏手には、延命地蔵が祀られた北町地蔵堂がある。ベンチがあったので、ここでしばらく休んだ。風が涼しかった。説明板には、「江戸時代に、東海道の宿場として賑わった石薬師宿の入り口に、旅の安全のため、建てたのだろう。」と書かれていた。
石薬師宿は、1616年、四日市宿と亀山宿の間が長いため作られた新宿である。天領であり、宿場が出来るまでは、高宮村と呼ばれていた。本陣3軒、脇本陣はなかった。旅籠は15軒に対して、百姓が130軒と、農村的な性格を有していた。
左側に、「豊富稲荷神社」がある。また車の来ないときを見て、左に渡る。参勤交代の大名が通行する時は、、庶民や旅人はここで迎えたという土下座場があったと言う。今は、道路の拡幅工事によりなくなってしまった。なんと言うことのない小さな神社でした。20分ほど歩くと、国分町交叉点に出る。「鈴鹿市」にはいった。左の道が東海道で、入ると直ぐに二つのお堂がある。
10分ほど歩くと、国道1号に合流する。国道の向こう側に里塚があると言うので、車が途切れた時に向こう側に渡る。ガソリンスタンドの塀の向こう側に「采女1里塚跡」があった。
左に入ると、杖衝(つえつき)坂になる。直ぐ金比羅堂がある。境内には、日本武尊(ヤマトタケルのみこと)の墓とつたえられるものがある。古事記によると、日本武尊は、幾多の苦難の末、東国を平定し、帰途に付いたが、伊吹山で荒ぶる神の祟りを受け、深手を負った。大和に帰るため、伊勢国にはいり、この辺りまで来た時、急坂で登れなくなり、持っていた剣を杖がわりに、ようやく登ることが出来たことから、この坂を「杖衝坂」と呼ぶようになった。長さは200mくらいで、高低さは50〜60mで、かなりの急坂である。
国道の下をくぐりぬけ、直ぐに階段を上り、橋を渡る。左にマックスバリュウがある。その横の道を歩く。(この辺りで、迷い近くの交番で聞いた。詳しく説明してもらい助かった。)突き当りを右折し、国道の手前の道を左折する。この辺りには、矢印道標があり、良くわかる。
18切符 2300円
タクシー 1200円
近鉄 690円
計 4190円
大木神社の翁の碑
芭蕉の歌碑春なれや 名も無き山の 薄霞芭蕉が伊賀上野から奈良二月堂に向かう途中の句。
一休禅師の歌碑 名も高き 誓いも重き 石薬師 瑠璃の光は あらたなり この歌は、石薬師の御詠歌にもなっている。
参道
正面の山門
本堂
裏の山門
上田加佐登と書かれた石柱
信綱先生産湯の井戸
道の奥に大木神社がある。東京遷都の際には、明治天皇の使いが訪れ、玉串代を納めている。また、蒲の冠者と呼ばれた、源頼範ゆかりの神社でもある。名におへる 森の大木のかげふみて あふぎまつらふ 神の恵みを」
少し歩くと、下り坂になり、国道1号と合流する。ここが大谷の交叉点で、信号手前の地下道を渡り、向こう側に出る。しばらく国道を歩くと、左側に細い道があり、東海道の標識があった。(字で書くとすっきりするが、この坂を下りてから道路を行きすぎ、間違いに気付いてまた戻り、地下道を発見する。向こう側に渡り、道を素直に歩けば東海道だったのに、自由が丘の団地に入ってしまい一周して元に戻った。この間1時間炎天下を無駄に歩いてしまった。)
急坂を上り詰めると、「血塚社」がある。日本武尊が、坂を登り終え、血止めをしたところといわれる。鳥居の奥にある血塚の祠は、日本武尊の血に染まった石を集めて葬ったと伝えられる。
大日の井戸
芭蕉の句碑
弘法の井戸
杖衝坂
「うつべ街角博物館」が道の左側にある。内部に残る歴史を展示してある。また、内部線が今月で廃止になるということで、「内部線の歴史」なども展示されていた。いただいた資料によると、内部川の流域に開けた内部は、古く縄文の昔から人々の生活が営まれてきた。古事記や日本書紀に登場し、畿内と東国を結ぶ街道の町として歴史を刻んできた。内部川は、旧名を三重川といわれていた。
この辺りは、采女集落と言う。采女とは、宮廷に仕えていた女官のことで、地方豪族から未婚の美女が遣わされた。地名の由来は、雄略天皇に仕えていた三重出身の采女が、天皇の許しをえて、この地の名前にした。と言われている。