土山〜水口

H.25.10.12

早朝家を出て、掛川から新幹線で米原まで行き、琵琶湖線で草津まで、草津線に乗り換え、貴生川まで行った。そこからアイクルバスで「市役所土山支所」へ。前回は、土山西口からバスに乗ったが、国道沿いの[平成万人灯」見てなかったので、見に行くことにした。

500mほど歩くと、旧今宿村に集落が現れ、350mほど歩くと、国道1号に出る。大野西信号交差点の草むらに、松が植わっていて、「東海道土山今宿」と書かれた石碑と石灯籠がある。国道を渡って、向こう側に行くと、「水口宿」と書かれた大きな看板が立っている。小さな公園になっていたので、小休止する。

角を右に曲がって、「大岡寺」に行く。正面に見える山は、古城山とよばれるが、標高283mの大岡山である。水口宿は、秀吉が京への入り口であるこの地を重視し、中村一氏に城を築かせたことに始まる。関が原の敗北で、落城した。幕府は、廃城にし、幕府の天領にし、宿場町に替えた。この山の麓に大岡寺(たいこうじ)がある。

同じ敷地内に、眞風軒の「過土山即興」の漢詩の石碑が建っている。(眞風軒は、甲賀郡内をあちこち散策され、各地の風情を漢詩にしている人で、江戸時代後期から明治人でにかけての人である。

珍しい藁葺き屋根の家があるが、もう住んでいないので、草が生え、軒には、つる草が垂れ下がっている。その向こうに大日川(堀切川)がある。一里塚から百メートルほどの距離にある大日川は、江戸時代には、旧市場村と旧大野村の境だった。 川を渡った向こうに、「大日川堀割」の説明板が立っている。(頓宮山より流れ出る水は谷川を下り、平坦部に達すると、自然に流れ広がり、一度大雨になると、市場村、大野村方面の被害はひどかった。大野村は、水害を防ぐ手段として、江戸時代の初期より、市場村との境に堤を築き、そのため、間に挟まった市場村は洪水時甚大な被害を受けることになった。元禄12年、市場村は排水路を堀割りし、野洲川に流す事を計画し、領主堀田豊前守に許可を受け、頓宮村境より、延長504間、川幅4間の排水工事に着工し、川敷地の提供から、市場村民の総賦役により元禄16年に完成した。)

左側に、諏訪神社があるので、寄った。古い神社で、大きな杉の木の森に囲まれていた。お昼になったが、食事をするようなところがないので、ここで、おやつを食べた。 街道に戻り、向こうから2人のウオーカーが歩いてきた。第一声が「何処かに、食事が出来るような所がありましたか?」でした。「ないので、そこでおやつを食べました。」というと、がっくりして歩いていきました。本当に、コンビニもないのです。

左右に古い家が残るのを見ながら歩くと、信号のない交差点にでる。交差点を越える。この辺りは旧頓宮村であるが、越えてきた交差点の右側は頓宮村で、左側は旧前野村である。江戸時代後期から普及した虫籠窓、漆喰壁の家を見かける。 左側に、以前は萱葺きだったと思える家があった。 その先の民家に一角に、「垂水宮御殿跡」と書かれた石柱が建っている。説明板によると(伊勢神宮に伝わる「倭姫命世記」によると、垂仁天皇の皇女であった倭姫命は、天照大神のご神体を奉じ、その鎮座地を求めて、各地を巡幸した。土山町頓宮には、巡行地のひとつである「甲可日雲宮」があったとされ、その時の殿舎がこの付近に設けられたことが、「御殿」という地名の由来とされる。また、後世には、「垂水頓宮」に関連する施設も造営されていたと伝えられる。)

街道に戻り、10分ほど歩くと、右側に「地安禅寺」の石柱が建っている。鐘楼門をくぐると、御水尾法王の御影・御位牌安置所があり、皇室とゆかりのある寺だったことが分かる。「林丘寺宮御植栽の茶」の石碑があり、説明板によると、(御水尾法王の御影安置所建立の宝永年間に林丘寺光子(普明院)が植栽された。当時、鐘楼門の参道両側は、広き宮中ゆかりの茶畑で、地安寺が管理し、収穫された茶は正月、5月、10月に、鈴渓茶、仁泉茶の銘にて、京都音羽御所、林丘寺宮へ献納されていた。今は、一樹を残すのみとなった。林丘寺宮への茶の献納は今でも続けられている。) 「近江茶」と言うらしい。

土山宿の西の入り口に出た。道の反対側には、御参代街道の道標がある。(江戸時代に、近江国に整備された脇街道。土山宿から中山道小幡までの36kmを結ぶ。春日の局が、伊勢神宮から多賀神社まで参詣した際に整備されたと伝えられる。江戸中期には、公卿たちの間で年に3回、伊勢神宮と多賀神社に参代の名代を派遣する習慣があり、その際に利用された事から、「御参代街道」の呼称が生まれた。)

国道に戻り、右の道に入ると、旧徳原村の集落になる。10分ほど歩くと、「旅籠 東屋跡」と書かれた藁葺き屋根の家がある。ここは、まだ住んでいるようです。集落を見ながら歩いて行くと、国道が見えてくる。休耕田にコスモスを植えているのか、一面コスモスが咲いていた。

国道に出るところに、「大日如来」と書かれた小さな祠と「布引山若王寺」の道標があった。国道1号を渡って100mほど歩くと、若王寺がある。大きな杉の木があり、5色の吹流しが風にひるがえっていた。

徳原村 近江屋治右衛門」の木札のかかった家があり、家の前には「防火水」と書かれた貯水漕があり、水が張られていた。屋根の上に、煙出しの屋根を付けている。この地方独特の屋根というが、この家にしかなかった。

大きな家や、虫籠窓を持った風情のある家が続く。右側に「市場の一里塚跡」の石柱がある。(土山町内の設置場所は、中山地先、土山先、大野市場地先であったが、現在は殆ど残っていない。)

国道1号のすぐ北に、平安時代に斎王群行のときに宿舎が建てられた「垂水頓宮跡」があるが、松尾川を徒歩渡りしていた頃は直ぐ近くだったようだが、現在のように東海道を歩くようになると、ここに寄るのは、わざわざ遠回りするしかない。杉林の中に、碑が立っているだけだそうだ。

参道を歩いていくと、杉の大木があり、「御神木」書かれた石の説明碑がある。(今から680年前の室町時代に、神社の境内は、神の矛杉が鬱蒼と生い茂る宮として有名であり、領主により瀧大明神の神名を瀧樹大明神と樹の字を加え改名したという記録がある。現在、御神木の幹周りは、6m82cm、直径は約2m20cm。樹齢は、600年から700年と推定される。この地域では、天狗杉とも言われている。)

細い道を進むと、「見性庵廃寺」の石碑がある。標の少し先の新しい道標が建っている道を入る。しばらく歩くと、左の地図が立っている。これによると(東海道は、往時、野洲川(松尾川)を横切っていましたが、現在は通行できません。)と書かれていた。東海道の本によると「松尾渡し跡」があると書いてあったので、川まで行って見たが、何もなかった。昔は、ここから徒歩で川を渡り、川の向こう側に渡ったらしい。

この辺りの商店街に、アーケードがあったはずだが、見当たらない。店の人に聞くと、「最近取り外した。」という事だった。私の住む町でも、最近旧東海道筋にあった歩道の屋根を取り外した。最初は、慣れないので、変だったが、お店の前を改築したりして綺麗にしたので、現在では、すっきりしてよかったと思っている。

鴨長明発心所の碑

数分で「問屋場跡」の石碑がある。(問屋場は、宿駅本来の業務である人馬の継ぎ立てを差配した所で、公用貨客を次の宿場まで運ぶ伝馬と人足を用意した。水口宿では、江戸中期以来、ここ大池町南側にこの場所が定まり、町の有力者が宿役人となり、運営にあたった。)

本陣跡の先で、道は二手に分かれるので、左の道を行く。その先でまた二手に分かれるので今度は右の道を行く。分かれ道に「高札場跡」があり、小さな高札が復元されていた。

県道を横切り、さらに数分分歩くと、左側に竹垣に囲まれた路地がある。ここが、本陣跡で、奥に「本陣跡碑」と「明治天皇聖蹟碑」がある。石碑には(水口宿には、本陣と脇本陣の両方が、宿の東部の作坂町にあった。この本陣は、代々鵜飼氏が経営にあたり、間口も一般の三軒分に相当する広大なものでした。明治二年の天皇の宿泊をもってその歴史を閉じ、建物も撤去された。)隣が脇本陣のはずだが、表示が無かった。

国道に戻り、しばらく歩くと、「足進めれば歌声橋 のんびり歩こう旧東海道」の看板があるここを左手に入る。。立派なドーム状の屋根が付いた歌声橋を渡る。右手には、国道の白河橋が見える。

「右北国たがかいどう ひの八まん道」と刻まれている。

アイクルバス

(鈴鹿峠には、旅人の往来の安全を祈願し江戸地中期に建立された「万人講常夜燈」と称する石灯籠が現存している。その心を平成に生かそうと完成したのが、「平成万人灯」である。この「平成万人灯」は、自然石としては、日本一の大きさで、夜間には、火袋に明かりが燈され、またライトアップして往来する人々を楽しませてくれる。)

土山宿へ

藤枝〜貴生川 11880円
タクシー      1120円
バス       160円
バス       250円
計     13410円 

近江鉄道・水口石橋駅から電車に乗り、貴生川で乗り換え、草津、米原、掛川と乗り継ぎ藤枝に帰った。「今日は、名物を買えなかったね。」という話をしたが、自分達も昼食を食べられなかった。この区間は、多くの旅人が「食事をする所が無い。」と書いていました。

近江鉄道の「水口石橋駅」に向かう。数分の差で電車が出てしまったので、その先の「甲賀市ひとまち街道交流館」に行く。曳山倉に「河内町の曳山」が飾られていた。曳山の由来によると(当地の曳山は、「二層露天式人形屋台」という構造を持ち、複雑な木組み、精緻な彫刻、華やかな幕を飾り付けるともに、屋上に「だし」と呼ばれる作り物を乗せて町内を巡行します。その構造上、組みあがったまま、各町内の「山倉」に収納されます。)

広重の水口 名物干瓢」(夏 女達は 夕顔の果実を細く削って、干瓢作りに余念が無い。)

昔風の「旅籠屋 匠」の看板がある家や古い町並みが残っている。

また、入り口には、水口宿の案内板がある。(水口は、道によって開け、道によって発展した所である。古くから東国あるいは伊勢への道が通り、人々の往来が頻繁であった。室町時代には、伊勢参拝の将軍家が休泊しているように宿村として開け、市がたつところであったようである。東部市街の三筋に分岐した道路の形態は、特に珍しい。)

本陣 1軒 脇本陣 1軒 旅籠40軒だった。

水口宿

永福寺を右に入り、10分ほど歩くと、交差点の右奥に、八幡神社がある。八幡神社の森には、樹齢400年を超える大杉が何本かあった。

「旅籠 小幡屋跡」の石柱のそばに「明治天皇御聖蹟碑」がある。この旅籠で、明治天皇が休憩されたようである。

その先に、樽を使った建物があり、中にはお酒が並んでいる。向かいに、レンガ造りの煙突がある蔵元がある。「地酒 初桜」と書いてあり、入り口には、杉球が吊るされていた。

旅籠 丸屋跡」の石柱がある。この先、 旧大野村から旧徳原村にかけて、このような旅籠だったことを示す石柱や木札が下がっているが、土山と水口の中間にあたるので、間の宿だったのだろうか?

橋を渡ると、左側に、「東海道反野畷」の石柱が建っている。そこから300mほど歩いた先にも「東海道反野畷」の石柱があった。畷とは、まっすぐな道という意味である。この辺りは、まっすぐな道が続いていた。その手前に「従是東淀領」の石柱が建っている。(ここは、山城の国の淀藩の飛び地があったところである。)ということらしい。

瀧樹(たぎ)神社の説明板が建っている。説明板によると、(この神社には、二つの宮が祭祀されている。瀧樹大明神宮と天満宮である。瀧樹大明神は、水害を守る神様である。近くに二つの川が合流している落合があり、大昔から洪水が多く、そのたびにこの近辺は大被害にあい困っていたので、おまつりされた神様である。天満宮は、学問の柿様・菅原道真をおまつりしている。5月3日の祭礼日には、ケンケト踊り花奪神事や神輿の渡御が行なわれる。)

芭蕉碑「命ふたつの 中に生きたる 桜かな」ここは、桜の名所だったようです。

次ぎの交差点の手前に、「からくり時計」があり、「9時、正午、3時にからくりが動きます。」と書いてあった。2時50分だったが、曳山がもう動いていた。

「曳山倉 田町・片町」と書かれた曳山倉がある。(水口曳山祭りは、水口神社のお祭りで、享保年間に宿場町であり、城下町であった水口の活力を背景に、町民の力によって創りだされた近江東南部を代表する都市型祭礼祭。華やかな曳山巡行と江戸祭り囃子の流れをくむ「水口囃子」で知られている。)

交差点の手前に、小さな祠と、石灯籠があり、交差点を渡った向こう側には、「秋葉水公園」の看板と、「田町 水口宿」の石柱がある。 この辺りに、東見附跡の冠木門があるはずだが、見落とした。大きな絵地図があり、それに目を奪われてしまったようだ。

また少し行くと、道は二又に分かれる。「旧東海道」と書かれた道標を見て、右に曲がる。「松並木の碑」がある。それによると(「水口宿」に程近いこの辺りから、松並木の合間から古城山が望まれ絵の様な景色であったと思われる。)現在は、松並木は無く、最近植えられた松が数本あっただけだった。

左手には、野洲川が流れている。右側は、岩山で、岩神とよばれたところ。巨石や奇岩が多く、伊勢名所図会には、絵入りで紹介された名所だった。それによると、(やしろはなく、岩を祀るとあり、村人は、子供が生まれると、この岩の前に抱いて立ち、旅人に頼んで、名前を決めてもらう習慣があったことを記しています。) 

県道を少し歩き、右の方に入る道が、東海道である。今郷集落には、古く大きな家が多い。虫籠窓のある家もある。信号のない交差点をすぎ、宝善寺の前を通り過ぎると、道が登り坂になる。左にカーブし、また県道に出た。

その先を左に曲がり坂を下りていく途中に、浄土寺がある。その先で、県道に出る。県道を歩いていくと、「街道を行く」という石碑がある。そこに、「高札場」の案内板がある。(多くの人の目に触れるように、村の中心や、街道の交差点などの人通りが多い場所に設置されることが多く、この付近には、今在家村の高札場があった。また、小里村の高札場も「東海道分間延絵図」に描かれている。)

県道を少し歩き、右に入る細い坂を上がる。左側に林が続くが、昔この辺りに獣のようなお化けがでたということで、比叡山を開いた伝教大師最澄上人が、今郷の坂道で、大般若経を読経を始めたところ、化け物が出なくなり、村人はそのお経を土中に埋めたということです。いつしかこの辺りを「経塚」というようになったということです。。その先に、「今郷(今在家)一里塚」がある。この一里塚は、江戸から112里にあります。かっては、榎が植えられていたが、今は、桜の木が植えられている。その隣に、「小鈴鹿峠お休み処」と書かれた休憩所がある。

角に石碑と「三好赤甫旧跡」と書かれた案内板が立っている。石碑には、「三好赤甫先生をしのびて 師の訓え 座右の銘とし 汗に行く」と書かれている。案内板には、(生家は魚商を営んでいたが、家業を子に譲り、京都に上り、俳諧を学び、持花園月坡と号し、通称才市と呼ばれた。郷里に帰って、後進を指導し、この地方の俳諧の基礎を築いた。)現在は、「赤甫亭 みよし」という料理屋になっている。

大野公民館の敷地には、「鴨長明歌碑」がある。「あらしふく 雲のはたての ぬきをうすみ むらぎぬ渡る 布引の山」向こうに見える山が布引山だろうか。

橋を渡ると、この辺りは、旧頓宮村で、民家に、「東海道頓宮村 たばこや」の木札が下がっていた。

水口宿続き

瀧樹神社表参道

天満宮

瀧樹大明神宮

三筋の街道が合わさる所に、「からくり時計」がある。