水口石橋~手原
H.26.05.10~11
その先の左側に、おおきな屋敷がある。旧和中散本舗の豪商・大住矢右衛門家である。和中散は、徳が亜家康が腹痛を起こした時、この薬を飲んで治したことから腹の中を和らげるという意味で名づけられた。江戸時代には、和中散を作って売る店が何軒もあり、大住家はその一軒で、間宿の茶屋本舗でもあった。建物に付随する日本庭園は国の名勝に指定されている。 また道の反対側には、お堂があり、その隣には、大住家住宅隠居所がある。現在、和中散が製造されていない。
右折し、しばらく行くと、「巖谷一六旧居跡」の石柱が建っている。一六は滋賀県水口に生まれた明治の政治家で、能書家としても知られ、明治の三筆の一人。児童文学者・巖谷小波は子で、政治家・岡田克也氏は、玄孫である。
早朝家を出て、掛川から新幹線で米原まで行き、琵琶湖線で草津まで行く。草津線に乗り換え貴生川まで行く。近江鉄道に乗り換え、前回の「水口石橋」駅まで行った。前回訪れた「水口中部コミュニティセンター」で地図をもらい、道順を聞いて歩き始めた。
右側に、国宝地蔵尊と書かれた石碑のある福正寺がある。案内板によると(木造地蔵菩薩坐像は、96.5cmのヒノキいっぽん造り、平安時代の作で、国の重要文化財に指定されている。ここ六地蔵の地名となった六躯の地蔵像の一躯であると伝わる。)とあった。庭には、石造多層塔があり、説明板によると鎌倉時代のものである。
また、藤栄神社の方角に歩いていくと、水口高校があり、その校庭に「布袋塚」があった。ちょっとした塚だが、説明板によると(織田信長の家臣となった美濃部茂濃の武具甲冑をその子・茂盛が埋めたものと伝えられる。塚の名は、茂濃が布袋のように巨漢であったことにちなむ。この地は江戸時代、水口城内に組み入れられたが、本塚はここを本居とした美濃部氏の遺跡、あるいは水口城築城に関わる遺構の可能性がある。)
水口宿へ
しばらく歩くと「水口城天王口跡」の案内板がある。それによると(江戸時代この場所は水口城の東端にあたることから、木戸が置かれ、「天王口御門」と呼ばれていた。もともと直進していた東海道は、ここで北に直角に曲がり、城の北側を迂回し、林口五十鈴神社の南で、当初の道に戻った。これより木戸内には、武家地が広がり、普段は藩士以外の通行は制限されていた。四月の水口祭には藩主や藩士に見せるため、曳山を引き入れられた。)
その先に「行者堂」がある。(文政3年、開祖里内九兵衛が、大和より役行者大尊像を背負って持ち帰り、小堂を建てたのが始まりである。)
その先の道を隔てて大きな道があるが、ここに一里塚跡と石碑があった。石碑には、(梅ノ木・宿場と宿場の間の休憩所である立場が置かれ、梅ノ木立場と称された。「ぜさい」を名乗る道中薬・腹薬を商う店があることで、京、大阪、江戸にまでも知れ渡っていた。)
六地蔵集落に出る。このあたりの家には、このような木札のかかっている。この家には「麹屋太郎兵衛」と書かれていた。六地蔵集落は、江戸時代には、石部宿と草津宿との間の宿(あいのしゅく)だった。
昔ここは、石部金山と呼ばれ、聖武天皇の時代は銅が、江戸時代には黄銅鉱が採掘されたといわれている。石部金吉という言葉は、ここからきていて、石部宿には飯盛り女がいなかったことから、頭の固い人のことをいうらしい。 田んぼに囲まれた道を進むと、伊勢落集落に入る。伊勢落の名前は、伊勢参りの旅人が、中山道から東海道に行くのに、守山市伊勢町からここに出たが、その道は伊勢大路とか伊勢道と言われており、伊勢に落ちるところということに由来する。
少し歩くと、三叉路に出る。その正面に、「田楽茶屋」がある。街道400年の時に作られた施設で、当時の茶屋を再現したものである。そばの説明板によると(広重の風景道中がでは、田楽茶屋は石部の象徴として紹介されています。「京いせや」「こじまや」「元いせや」の三軒の田楽茶屋があった。)今日は土曜日なのに営業していなかった。残念です。
この先には、浄現寺、明清寺があり、その先に真明寺がある。ここには芭蕉の句碑があるというので、中に入って行った。住職さんのような人がいて、芭蕉の句碑の説明をしてくれた。「つつじいけて その蔭に 干鱈さく女 」と書かれている。右書きではなく、左書きになっているのは、この石の形によるそうで、以前はこの上の社のそばにあったが、火災ではがれてこのような形のなってしまったそうです。またこの句には季語がなく、芭蕉にしては珍しいそうです。
三大寺本陣跡(参勤交代の制が定められる7年前の寛永4年から明治3年まで、242年間営業した。建坪数は小島本陣より少ないが、収容数は同じであった。焼失再建を繰り返し営業した。)
高札場跡
道路の反対側には、「石部宿・問屋場跡」の説明板がある。(石部宿の問屋は、人馬、伝馬、荷馬を集めて継立事務を行う場所で、役人がいつも3~5名つめていた。場所は石部中央の信号から100mほどの砂川の東側にあったが、後に信号の北側に移ったと言われている。)
石部城跡(享禄年間に築城され、城主は石部久綱。信長の家来・佐久間信盛に攻め込まれ、落城する。城跡の北側に建立されていた菩提寺を移転し、現在の善隆寺として石垣の一部が残っている。石部氏は約40年間城主であった。)
歌川広重の「石部宿」と「石部宿・常盤館跡」の説明板がある。常盤館とは、昔石部宿には2階建ての大きな芝居小屋があったが、大正8年に焼失したため、資料が何も残っていないと書かれていた。そばに「お休み処」の東屋があったので、休憩した。
その先に「うつくし松」の説明板がある。(平松に自生する赤松の変種。根から放射状に出て傘を開いたような美形の松。200本ほどが自生し日本ではここしかない。平安時代に体が悪く弱々しい生活を送っていた藤原頼平がこの地を訪れた時、美娘が姿を現した。松尾神社に頼平のお供を命じられたと言って姿を消した。あたりをを見ると周囲の木が美しい松に変わっていた。この地を頼平の平と三松の松をとって平松となったといわれている。)行って見たかったが、街道から900mと書いてあったのであきらめた。行った方によると美松山の中腹にあるので、それ以上の距離に感じたと書いてあった。
夏見地区には古いお屋敷が多い。盛福寺、天満宮、覚蓮寺の石柱を右に見て通る。「石部宿 一里塚」の説明板がある。(この辺りが夏見の立場で、何軒かの茶屋があり、名物のところてんや銘酒桜川を売っていた。ここから70m東に一里塚があった。)
ここから1km下流にある横田橋を渡る。歩行者用の橋を渡ると、旧甲西町三雲で、合併により、湖南市になった。三雲駅前に出る。その手前にお寿司屋さんがあったので、ここでランチを食べる。土曜の昼時なのに、客は私たちだけだった。でもこの辺りには、回転すしはないようなので、生き残っているのだろう。 東海道に戻ると、右側の角に「微妙大師萬里小路藤房卿御墓所」の石碑がある。左側に「妙感寺 従是二十二丁」とある。萬里小路は鎌倉時代の公卿で、元弘の乱の謀議が露見したため、後醍醐天皇の笠置山脱出に従ったが、その後出家して妙心寺の二代目住職になった人物である。ここから西南にある妙感寺は晩年を過ごした寺である。
5分ほど歩くと、「横田の渡し」に出る。説明板によると(鈴鹿山系に源を発する野洲川は、このあたりで「横田川」と呼ばれていた。伊勢参宮や東国に向かう旅人は、この川を渡らなければならなかった。江戸時代に入り、東海道が整備され、東海道13渡りの一つとして幕府の直轄下に置かれた。通年の架橋は許されず、3月から9月は四艘の船による舟渡し、10月からは流路に土橋をかけて通行した。)堤にあった大常夜灯は、旅人の夜間の目標として火がともされた。日本一とも言われている大きさと存在感である。 明治24年には、三雲と泉を結ぶ板橋がかけられた。昭和4年には下流のほうに移され、現在は国道1号の横田橋を通行している。と書かれ、その時の石垣が残っていた。
長屋門のある屋敷を過ぎると、西見付け跡の角に出る。探したが何の標識もなかった。この角を右折ししばらく行くと、一里塚がある。(林口の一里塚は、これよりやや南方にあったが、水口城の郭内の整備に伴い、東海道が北側に付け替えられて、五十鈴神社の東端に移った)。と刻まれていた。旧水口宿には、今郷、林口、泉の三か所に一里塚があったが、明治維新後にすべて壊されたそうです。
塚の反対側には「水口城跡(水口城資料館)がある。水口城は、徳川家光が寛永11年、京都上洛の際、宿館として築城された。作事奉行には、建築や作庭などで著名な小堀遠州があたった。歴代の藩主は幕府からお借りしている城として大切に管理し、本丸部の御殿を使わなかった。明治に入り、城は壊され、わずかに堀や石垣が残るのみである。今の水口高校のあたりが本丸だったようです。
西水口を左折すると、「藤栄神社」があった。案内板によると、(当社は、水口城内に位置し、水口藩主加藤氏の祖・加藤嘉明を祭神に文政4年「1829年」藩によって創建され、近世は嘉明大明神と呼ばれた。なお、社号標識は、領界標識を転用したもので、巖谷一六の書) 石柱に、「従是川中西水口領」と刻まれている。これは歴史資料館にあった境界石の片割れで、藤栄神社の標柱に転用されていた。
センターの方が北に行っても見るべき物はないというので、しばらく道なりに歩いた。左側に「水口キリスト教会」がある。そばの案内板によると(本教会の歴史は明治中期にさかのぼる。昭和5年にW・M・ヴォーリズの近江ミッション「後の近江兄弟社」により、牧師館とともに建てられた。礼拝堂に続き畳敷の和室が珍しい。) 「朝日医院」と書かれた古い屋敷がある。もう廃院しているようだが、立派な門構え、蔵もあった。
林集落に入ると、右側の民家の前に「新善光寺道」の道標があった。近くにいたおじいさんに道を聞いたが、距離がありそうなので、行くのはやめた。
{明治天皇聖蹟」の前には「小島本陣跡」の石碑が建っている。(吉川代官所の跡地に建てられ、明治維新で本陣制は廃止されるまで続いた。数多くの大名や明治天皇も宿泊された。老朽化で、昭和43年に取り壊された。)
左に吉見神社の石柱があり、その先には2体の石仏が祀られた小さな社がある。その先にトンネルがある。このトンネルの上には川がある。人も車もトンネルをくぐって向こう側に行く。これを天井川といい滋賀県東部に多い。運ばれた土砂が堆積して川底が上がり、川が家や田畑より高くなったのだが、氾濫をを防ぐため、土手を高く築きなおしていった結果、川が上のほうを流れるようになった。江戸時代には、土手を登って川を渡り、向こう岸の土手を下って行ったが、明治以降はトンネルを作りその下を通るようになった。大紗トンネルはその一つである。
東海道は直進する。この辺りは旧田川村で、江戸時代には立場があったところである。駐在所の前の民家には「明治天皇聖蹟」の石碑が建っている。 荒川橋を渡った左側に、「雲照山妙感寺 従是十四丁」と書かれた、妙感寺、立志神社、田川ふどう道の道標が建っていた。
泉川を渡ると「日吉神社御旅所」の石碑があり、その先には「泉一里塚」があった。説明板によると、現在より野洲川よりにあったが、これはモニュメントとして整備された。と書かれていた。水口に三か所あった一里塚のひとつである。
柏木公民館前に、消防士が梯子を上る姿をかたどった火の見櫓があり、下の箱を開けると、浮世絵師が絵を描くからくり人形が入っていて、箱を開けると人形が動き出した。安藤広重が描く水口宿は、街道の脇で、干瓢を干している図柄であり、それが人形になっていた。 三代藩主が、下野国壬生藩から転封になった時、名物の干瓢を持参したので、水口の名物になった。私たちも水口城で、干瓢を買い求めた。
今までの街道歩きはすべて日帰りでしたが、今日は泊まるつもりで来たので、5時30分まで歩いてしまった。ここを右折し「手原駅」に向かう。手原には宿がないということで、隣の草津に草津線で向かう。草津外一ホテルに宿がとれた。今日は草津泊まりです。
その先の右側に、長徳寺がある。この寺には、石仏群があり、寺の一角には「従是東膳所領」と書かれた領界標があった。
上野夜雨(かみののやう)
道は右にカーブし、橋を渡りT字路にでる。左は五軒茶屋道、東海道は直進するということだが、道案内がなく、人に聞いてもわからないので、直進することにする。江戸時代初期には、直進する道だったが、野洲川が氾濫して歩けなくなったため、直進する道を下道、左に迂回する道を上道といったようだ。その先には金山跡のやまがあり、今でも山砂をとっているようで、ほこりが舞い上がっていた。今日は風が強いです。名神高速をくぐると、左からの上道と合流する。ここからは栗東市に入る。
道はかぎ型に折れ、さらに左折する。木の看板があり、(江戸時代に、ここは宿内に入る前に整列した場所で、西縄手とよばれ、長い松並木があった。)松は植わっていたが新しい木のようであった。その先には、西口跡があり、ここで石部宿は終わる。このあたりに一里塚跡があったはずだが、見落としたようだ。
街角にある「石部宿場の里}
51番目の宿場として、2軒の本陣、62軒の旅籠、200余軒の商家で栄えた。
松尾宮・南照寺参道の道標、上葦穂(あしほ)神社を左手奥に見て進み、落合川を渡ると湖南市石部に入る。その先300mほどで石部宿の東口跡である。
さらに進むと、角に「力石」と書かれた大きな石が置かれている。説明が刻まれていて(東海道の面した小坂町の角には、力石と呼ばれる大石があり、江戸時代にも知られていたようで、浮世絵師・芳国が題材にとっている。この辺りは、水口藩の藩庁にもほど近く、長大な百閒長屋や小坂町御門など城下のたたずまいが濃かった。)
五十鈴神社の注連縄は変わった形をしていた。東海道を逆走ししばらく行くき、左側の細い道を入ると、「長屋門」のある真徳寺がある。案内板によると(当寺の表門は、水口城の郭内に所在した家臣・蜷川氏の屋敷の長屋門を近代に移築したものである。)と書かれていた。
天井川の由良谷トンネルをくぐり、針地区に入る。左側に創業文化2年という北島酒造があった。店内で湧く鈴鹿山系の伏流水を使って酒を仕込むのだという。玄関には杉玉が下がっていた。
伊勢落晴嵐の石碑
トンネルをくぐると左側に「弘法大師錫杖跡」の碑がある。土手の上には、大杉が立っている。説明板によると(弘法杉とよばれ、樹高26m、周囲6m、樹齢750年で、弘法大師が当地を通過した時植えたとも、食事をした時杉箸を挿しておいたのが芽を出したともいわれる。最初は、2本並立していたが、安永2年の台風でで1本は倒れた。)木の根元には弘法大師堂があった。
見通しの良い街道の両側には、水田が広がり、水路が張り巡らされ、水が流れている。古い屋敷も残り、道端には、小さな石仏が祀られている。
街道には、べんがら格子の家や古いたたずまいの屋敷が残り、しばらく行くと松並木が残るところに石標が建っている。(北脇縄手と松並木・東海道の整備に伴い、曲がりくねっていた旧伊勢大路を廃し見通しの良い道路にした。江戸時代には、両側は土手になり松が植えられていた。)
さらに進むと、「百閒長屋跡」も看板だけが残っている。それによると(小坂町には、百閒長屋がありました。長屋は城の郭内の武家地にあり、百間「180m」の棟割長屋には、下級武士が隣り合って住んでいた。東海道に面した北側には出入口はなく、町場と自由に行き来ができませんでした。敵が攻めてきたときの防御の役割をしました。長屋には往来に向かって小さな高窓があり、買い物などはここから首をだし、ざるに銭を入れ、品物を入れてもらって、買い物をしました)昭和50年ころにはまだ残っていたようで、写真が載っていました。