土山の大きな案内板がある。安永4年以前の東海道は、田村川を渡って、この左の道に続いていた。 「吹け波ふけ 櫛を買いたり 秋の風上島鬼貫の句碑がある。(鬼貫は、伊丹の生まれで、東の芭蕉、西の鬼貫と言われた。彼が、1686年、東海道を旅して、お六櫛を買い求め、鈴鹿に向かう途中土山に寄り詠んだ句である。)街道には、お六櫛商「三日月屋」の看板が出ている家が何軒かある。お六櫛は木曾の薮原宿の名物であるはず。

坂下〜土山

東海道を歩き始めてから、初めて新幹線を使った。掛川から名古屋まで新幹線で行き、関西線に乗り換え、関まで行き、関からは、バスの便が悪いので、タクシーで、前回の続きの片山神社まで行った。途中、前回、とり忘れた法安寺の庫裏玄関で、タクシーを下り、急いで、一枚だけ庫裏の写真をとった。庫裏玄関は、松屋本陣の門の遺構である。坂下の集落を通る時、運転手さんが、「この辺りの家は、鈴鹿峠の山賊の子孫と言う話もある。」と言い出した。山賊と言っても、無理やり籠に乗せたり、法外な賃金を要求したりしたらしい。

H.25.09.28

坂を下っていくと、国道1号線に出る。トラックが猛スピードで何台も通り過ぎる。15分くらい国道を歩くと、右側に半分埋まった鳥居と常夜燈がある。また8分ほど歩くと、左側に、道祖神の石仏がある。その少し先には、鳥居があり、「村社 熊野神社」と書いてあった。長い参道を歩いていくと、新しい社殿が建っていた。

熊野神社

階段を上ると、芭蕉碑が建っている。「ほっしんの 初にこゆる 鈴鹿山」その横に鈴鹿峠の説明板がある。(鈴鹿峠(378m)を越える初めての官道は阿須波道と呼ばれ、平安時代886年に開通した。八丁二十七曲がりと言われるほど急な曲がり道の連続する険しい峠道は、平安時代の今昔物語に「水銀商人が盗賊に襲われた際、飼っていた蜂の大群を呪文を唱えて呼び寄せ、山賊を退治した。」話や、「坂上田村麻呂が立烏帽子という山賊を捕らえた。」という話など、山賊にかかわる伝承が多く残っている。箱根峠につぐ、東海道の難所であった。)

角を右に曲がり、常明寺に向かう。(この寺には、森鴎外の祖父が葬られていたが、鴎外が墓参りに訪れると、墓が荒れていたので、住職に頼み、墓を整備した。その後、祖母と母が葬られたが、昭和28年故郷の津和野に移された。現在は、森白仙の供養塔が建っている。)

街道筋には、旅籠跡の石碑があちこちに立っているが、ここには、3本まとめて立っていた。「旅籠 釣瓶屋」「柏屋」「大工屋」 道の反対側には、井筒屋跡の石柱があり、「森白仙終焉の地」の看板が立っていた。(森鴎外の祖父 森白仙は、1861年この井筒屋で没した。森家は代々津和野藩亀井家の典医で、白仙は、長崎と江戸で漢学、蘭医学を修めた篤学家であった。参勤交代にしたがって江戸の藩邸より旅を続ける途中、この井筒屋で息をひきとった。後に白仙の妻清子、一女峰子の遺灰も白仙の眠る常明寺に葬られた。)

右側の家の前に土山一里塚跡の標柱がある。日本橋から数えて110番目の一里塚である。(甲賀市土山町には、山中地先と大野市場地先にあったが、現在は殆ど残っていない。土山のこの地名を一里山と呼称しているのは、この一里塚に起因している。)

国道を5,6分歩くと、右側に入る道があり、白川社の石柱があり、鳥居の先に小さな社が二つ、白川神社御旅所の石柱が建っている。神社の横には、「ようこそ 歴史の道 東海道へ」の案内板があった。(ここは、土山町蟹ヶ坂です。東海道を歩かれる方は、海道橋を渡り、道の駅「あいの土山」方面に向かってください。土山宿までは、ここから800mです。)

坂道を上っていき、「鏡岩150m」と書かれた道標がある。10mほど行った所に「田村神社跡」がある。田村神社は、明治39年の神社合祀令により、片山神社に合祀された。平坦な道を道標どおりに歩いていくと、「鈴鹿山の鏡岩」があった。(鈴鹿山山頂にある巨石で、岩面の一部が青黒色の光沢を帯びている。これは鏡肌(スリッケンサイド)と呼ばれ、断層が生じる際に、強大な摩擦力によって研磨され、平らな断面が鏡のような光沢を帯びるようになったもの。「東の箱根峠、西の鈴鹿峠」と言われるほどの難所で、山賊がこの岩を磨き、そこに映った旅人を襲ったと言われる伝説から「鬼の姿見」ともいわれる。)

その直ぐ傍に、「馬の水のみ場」跡がある。平成4年に復元したもので、(街道を上り下りする人馬のために、水瓶が置かれた。)と刻まれていた。

片山神社で、車を下り、9時36分に歩き始める。この辺りは、かって「古町」と言われ、坂下宿はこの辺りにあった。慶安3年の大洪水により、埋没してしまったため、宿全体が移転した。琴の橋を渡る。(かって天皇の秘宝の一つに和琴の「鈴鹿」があった。この琴は鈴鹿川にかかる桐の橋板から作られたことからこの名があり、「平家物語」にも登場します。藤原俊成が「鈴鹿川 桐の古木の丸木橋 これもや琴の音に 通うらん」と詠んだ木の橋は、古町にかかる小橋のこととする説がある。)

もらった「土山絵地図」によると、(木曾の旅人が、伊勢参りをした後、病に罹り、土山の東、大森家の先祖に助けられた。本国に帰って、再び生里野を訪れ、木櫛の原木を探したが得られず、木曾より製品を送るからそれを販売せよとして帰った。この木櫛をお六櫛と名づけ販売し、土山名物になった。)

街道に戻り、少し歩くと目の前が開け、ここが鈴鹿峠だった。鏡岩往復をいれても30分ほどで峠に着いたことになる。なんだかあっけなかった。(伊勢と近江の国境にまたがる鈴鹿山の脇を縫うように越えるのが鈴鹿峠である。「鈴鹿山」は本来は「三子山」のことを指していると見られるが、「今昔物語」や和歌に登場する「鈴鹿山」は鈴鹿峠越えを指しているものが多い。なだらかな近江側と名違い、山深い急な山道は、古くは山賊の話が伝えられ、江戸時代には箱根越えに次ぐ東海道の難所として知られていた。)

国道を歩いていくと、十楽寺があり、今日はお葬式が行なわれていた。そのまま、国道を歩くと、右側に、「一本松緑地」がある。「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨がふる」鈴鹿馬子唄の石碑と、「東海道鈴鹿  山中」と書かれた石碑と常夜燈が建っていた。

藤枝〜関    4410円
貴生川〜藤枝 5950円
アイクルバス   250円
バス        160円
タクシー関     1400円
タクシー藤枝    1070円
計       13240円 

水口宿へ

坂下宿へ

土山宿の旅籠石碑 江戸時代末期、土山宿にあった旅籠として町史に残る33軒のうち、29軒を調査して設置している。屋号看板 石碑に記された旅籠以外の屋号90軒を調査して設置。当時の屋号のまま呼ばれている家も沢山ある。
 「土山宿」は、町並みを残し、復元、修復に力を入れているのがよく分かった。関に劣らない町並みだった。これを、後世まで、残して欲しい。

貴生川駅で出あった高校生。お祭りがあったようです。

しばらく国道を歩き「土山西口」バス停から、アイクルバスに乗る。貴生川駅まで30分だった。琵琶湖線で草津まで行き、草津線で米原まで出て、新幹線で掛川まで行き、藤枝に帰りついた。

国道に出る右手に、松が植えられ、常夜燈と東海道土山宿の石柱が建っている。国道に出る。ここは、追分で、向こう側に伸びる道は、御代参街道で、多賀神社へお参りする街道で、ここから多賀へ通じ、お参りの人々や近江商人が行き交った。

禅俳僧虚白住寺跡」の石碑が建つ。この地方の俳諧の師匠であった虚白は、この寺の住職であった。

立派な木があるので、撮ったが、奥に芭蕉の句碑があった。「さみだれに 鳰のうき巣を 見にゆかん」(におとはカイツブリのこと)字が消えていて分からなかった。

道はここから、右に曲がっていく。左側に、「土山宿陣屋跡」の石柱が建っている。(陣屋とは、江戸時代、勘定奉行の配下である代官が在住した屋敷である。1683年に建造された。1803年の土山宿の大火災により焼失し、以後再建されなかった。以来陣屋は、信楽に移り、多羅尾氏の子孫が世襲し、明治維新に至る。)吉川にかかる大黒橋を渡る。鈴鹿馬子唄の一節と、街道の様子を描いた陶板が張られている。

大黒屋本陣の説明板によると(土山宿の本陣は、甲賀武士の末裔土山氏と豪商大黒屋立岡氏が務めていた。土山本陣は三代将軍家光が上洛の折設けたのがはじまりで、参勤交代の施行以来、土山本陣のみでは、収容しきれなくなって、大黒屋が、控本陣に指定された。)

土山宿本陣跡がある。隣に、「明治天皇聖蹟碑」と「歌碑」が建っている。(明治天皇は、明治元年9月、この本陣で誕生日を迎えられ、第一回天長節が行なわれ、土山の住民に対し、神酒、スルメが下賜された。)

その先に、「問屋宅跡」の石柱がある。問屋場を仕切っていた宿場役人の家で、(土山宿は、南土山村と北土山村の二つの村からなり、問屋場も両方の問屋場が交代で務めていた。土山宿の問屋場は、この両方をまとめ宿駅業務を運営していく重要な役割りを果たしていた。)

その奥には、「東海道伝馬館」がある。江戸時代後期に建てられた土山の民家を改造。建物自体が貴重な展示品になっている。館のおばさんが張り切って案内してくれた。

「文豪森鴎外 来訪の地」碑

「東海道伝馬館」の入り口に「「かしき屋」跡と書かれた大きな家がある。また、反対側には、「問屋場跡」と「成道学校跡」の石柱が建っている。(土山宿の問屋場は、中町と吉川町にあったとされるが、問屋宅に設けられていたこともあり、時代ともにその場所は、移り変わってきた。明治の宿駅制度の廃止にともない問屋場も廃止されたが、その施設は成道学校として利用された。)

左側に「二階家本陣跡」の石柱が立つ家がある。どういうわけか「脇」の字が消してある。貰った絵地図にも「脇本陣」と書いてあるが、何の説明も書いてない。

その先の左側に、江戸中期の建物を改造した「うかい屋」がある。土山名物だった夕霧そば(かも南蛮)を出しているお店だったが、昼食は済ませたので、中を見学した。「お蕎麦、美味しいですよ。」と出てきた方が言っていた。道の駅で食べたお蕎麦はいまいちだったので、残念です。

そのはす向かいには、平野屋がある。(鴎外が、祖父白仙の墓参のため、土山を訪れ、明治33年に一泊した旅籠である。小倉日記には「墓より寺に還りてこれを境内に移さんことを議す。固道(住職)許諾す。金を贈りて明日来たり観んことを約して去る。寺を出づる頃おほひ天全く晴る。平野屋籐右衛門の家に投宿す。宿舎井筒屋といふもの存ぜりやと問うに、すでに絶えたり。」)

その先の左側に、白川神社がある。(七月の第三日曜日に開かれる「土山祇園花傘神事」は、祇園祭りの前宮祭と呼ばれ、大字南土山14組ごとに奉納された花傘から花を奪い合う「花奪い行事」が行なわれる。滋賀県無形民俗文化財になっている。)

道の左側に、大きな家がある。江戸時代の屋号「油屋権右衛門」とある。油商を営んでいた家なのだろうか。 来見川にかかる来実橋には、街道にまつわる絵が陶板になって、飾られていた。

手挽き お六梳き櫛

扇屋・伝承文化館と書かれた家がある。説明板によると、(江戸時代、宿場町として栄えた土山宿で扇や櫛を販売していた商家「扇屋」を地域住民が購入し、平成21年に、改修したものである。)と書かれていた。中には、お六櫛も飾られていた。ここには、信州信濃から伝わったお六櫛と書いてあった。

本家 御櫛所

鳥居の所に出て、国道を渡ると、「かにが坂飴」の高岡商店がある。(恵心僧都が、蟹の供養をするため、村人に石塔を建てるように願い、また、蟹の甲羅を模した飴を作り、厄除けにするように言い残した。その飴がかにが坂飴である。)道の駅「あいの土山」で、飴の作り方が写真で公開されていた。今でも手作りで、夏の間は、瓶詰めで売っているようです。「かにが坂飴」と「イガ饅頭」を買い求めました。

海道橋を渡ると、田村神社がある。(田村神社は、平安時代822年の創建と伝えられる古い神社で、蝦夷征伐で功績のあった坂上田村麻呂と嵯峨天皇、倭姫命を祀っている。810年、田村麻呂が、鈴鹿の悪鬼を退治したことから、厄除けの神として有名である。)鳥居には、「正一位田村大明神」と書かれていた。

鮎の背に 朝日さすなり 田村川」作者は井上士郎で、江戸中、後期の俳人。

現在は、平成17年に架けられた海道橋を渡る。当時の板橋を再現したものである。 広重の「土山宿 春の雨」は、この橋を渡る大名行列の様子を東側から描いたものである。

5分ほど歩くと、田村川にでる。土山宿は、江戸から49番目の宿場で、田村川板橋から西の松尾川(野洲川)まで、22町55間の細長い宿場だった。当時の板橋は、巾約4.1m、長さ約37.3mで、橋を渡ると、右側に番所があり、橋の袂には、高札場があった。板橋がかけられたのは、1775年で、それ以前は、川の手前を左折し、国道にでる道である。道は消滅しているが、国道の50m先で、田村川を徒歩で渡り、道の駅あいの土山の先の道に合流していた。

本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠44軒だった。

土山宿

坂を下りていくと、民家の前におばあさんが座っていて、話しかけてきた。工場に囲まれた道を抜けると、小さなトンネルがあり、そこを抜けると右側に、「蟹坂古戦場跡」がある。(1942年、伊勢の国司北畠具教は、甲賀に侵入しようとして、鈴鹿の間道を越えて山中城を攻めさせた。当時の山中城主は、直ちに防戦態勢を整え、北畠軍を敗走させた。北畠軍はひとまず後退したが、直ちに軍勢を盛り返し、一挙に山中城を攻略しようとした。山中秀国は、守護六角氏に援軍を乞い、一方、北畠軍も兵一万一千を率い、蟹坂周辺で秀国軍と合戦した。秀国軍が勝利し、北畠勢の甲賀への侵入を阻止することが出来た。

寺の先に、「旅籠中屋跡」がある。その奥には、「明治天皇聖蹟碑」が見える。明治天皇が立ち寄られ、休憩されたところのようである。 ここから、急坂になり、国道に合流する。道の脇には、「猪鼻村」の道標があった。

しばらく国道を歩く。15分ほど歩くと、「猪鼻」の交差点に出る。右に入る道脇に、「若宮神社」の石柱が建っている。ここは、江戸時代の猪鼻村で、道を下り、「東海道 猪鼻村」と書かれた石の道標を左折する。右側の浄福寺の先に、猪鼻村の説明板があった。(猪鼻村は、鈴鹿山麓の西方に位置し、中世は鈴鹿山警護役であった山中氏の支配を受け、近世は、幕府領や諸藩領となり、幕末に至る。東西に5町36間(約610m)あり、往時50軒を越えた。土山宿坂下宿間の立場があり、草餅、こわ飯が名物であった。)

その奥には、「馬子歌の碑」と「馬子と馬」の石像があった。

公園を出て、馬子唄橋の手前で左に入る道を行くと東海道だったのだが、間違えてその道と平行に走る国道を歩いてしまった。第二名神高速道路の高架橋をくぐる。その下に、滋賀県知事による「第二名神滋賀県起工の地」の記念碑があり「一里塚緑地」と書かれた石碑も立っていた。その隣には、「中山一里塚公園」がある。ここは、江戸から109番目の一里塚である。「いちゐのくあんおん道」と書かれた道標がある。(「櫟野観音道」のことで、東海道から分岐して、旧神村、旧櫟野村に至る道で、大原道と言われた。ここはその追分で、南東に伸びて、第二名神高速の橋脚に向かってあった。)と書かれていた。

茶畑の中の柿の木

神武天皇遥拝所と書かれた石碑

巨大な石積みの常夜燈が見えてきた。「万人常夜燈」と言われるもので、(江戸時代に、四国金比羅神社の講中が建てたもので、旧中山高畑山天ヶ谷産の荒削りの大きな自然石をそのまま使って、山中村をはじめ坂下宿、甲賀谷の人、三千人が集結して造られたものと伝えられる。重さ38トン、高さ5m44cm、もある。元々は、東海道筋に立っていたが、国道トンネル工事のため、現在地に移された。)近くにある2本の金木犀が咲き、よい香りが漂よっていた。

茶畑が広がる

東海自然歩道

東海道

歴史の道・東海道・中山

(伊勢と近江の国境には、松葉屋、鉄屋、伊勢屋、井筒屋、堺屋、山崎屋の6軒の茶店が立ち並び、峠を往来する人々で賑わっていました。)今は、色々な道標が立ち並び、付近一帯は茶畑になっています。土山茶です。

道はかなり、急坂だが、ゆっくり上って行くと、国道の橋げたが頭上に見えてくる。その下をくぐると、広場があり、東海自然歩道の看板が立っている。坂下〜鈴鹿峠は、2.1km 35分と書いてあった。

灯籠坂

片山神社から右に上がる坂が、峠道入り口で、灯籠が並んでいる。ここから八丁二十七曲がりと呼ばれた鈴鹿峠越えが始まる。一部に石畳が残るが、大部分はコンクリートで固められている。

片山神社の境内には、「孔子万吉の碑」がある。(坂下古町に生まれた万吉は、4歳で父をなくし、6歳から茶屋の使い走りや、旅人の荷物を運んで賃銭を得て、病弱な母を助けていた。旗本の石川忠房が、万吉のことを知り、ことあるごとに金品を与え、その話を広めた。幕府の耳にも届き、万吉親子は江戸に召され、手厚い保護を受けた。成人した万吉は、信楽代官に召抱えられ、長寿を全うした。万吉の事跡を記した石碑が建てられた。)

林羅山の漢詩

明治天皇聖蹟

「鈴鹿流薙刀術発生の地」の碑

大黒屋本陣跡、問屋場跡

「これより京まで十七里」

高札場跡

高札場跡

巖稲荷神社跡

高桑蘭更の歌碑