八幡神社参道口左のベンガラ塗の旧家辺りが「藤屋脇本陣跡」である。向かい側には「問屋跡」の標石がある。 その隣が文政11年(1828)創業の「赤かぶら漬け」の老舗・マルマタ商店」である。赤かぶら漬けを買い求めました。糠漬けでした。
H.29.12.9~10
豊郷~野洲
早朝家を出て、東海道線で豊橋に、新幹線で米原まで行き、彦根から近江鉄道に乗って、豊郷に着いた。駅のシャッターに「江州音頭のさと」と書かれている。午前9時19分歩き始める。
街道は近江八幡市東横関町に入る。東横関村は立場で横関川の渡しを控え大いに賑わった。室町時代にはこの辺りに関所があり、これが地名の由来となっている。村はずれのY字路を左の上り坂に入る。土手の突き当りが「横関川の渡し」である。広重は武佐としてここ「横関の渡し」を描いた。舟2槽を縦につなぎ、両舷に杭を打ち、船の上に渡し板を敷いている。
愛宕大神
旅篭吉田屋跡
愛宕山常夜燈
石仏石塔群
旅篭富田屋跡
街道に戻り、「広済寺」まで戻る。推古天皇2年(597)聖徳太子による創建。宿並に明治天皇聖蹟碑がある。中に入ると、明治11年、巡幸の際の行在所になった。
土手道を戻り、日野川に沿って歩き横関橋を渡る。日野川(旧横関川)は鈴鹿山脈の綿向山に源を発し近江八幡と野洲の境を流れ琵琶湖に注いでいる。渡ると土手道に入り、川に沿って歩く。旧道が復活し旧西横関村に入る。右手に若宮神社がある。
国道8号線に合流するところに「道祖神」がある。大篠原村境の塞神である。街道の左手には「西池」が広がる。篠原堤のために池は見えない。途中にある石段を上り池を見渡す。 先ほどから持病のめまい症の発作がでて、なんとなく不安だった。西池バス停までくると、ちょうど「野洲駅」行のバスが来た。今日はここで終わりにして帰ることにした。午後2時を過ぎた所でした。
左側に道祖神がある。旧出町村の西口である。しばらく進むと「平宗盛胴塚→」の看板がある。矢印に沿って草道を行くと突き当りに「平宗盛清宗親子胴塚」があった。壇ノ浦の戦いに敗れ、囚われの身になった親子はここで斬られ首級は京へ送られ、胴はここに葬られた。「平家終焉の地」である。
道祖神のある左側の道に入る。左側に「明治天皇聖蹟碑」がある。明治11年北陸巡幸の帰途ここで休息した。その先に「愛宕大神」が祀られている。その先で、国道に合流する。
神社を過ぎると右側に「愛宕大神」が祀られている。その先に「義経元服の池」がある。平家の追手が稚児姿の牛若を探しているのを聞き、元服を決意した。鏡池の石清水を使って前髪を落とし、己の姿を池の水に映したという。
右手に鏡神社がある。本殿はこけら葺きの貴重な建築様式で、国の重要文化財になっている。その参道口に「義経烏帽子掛けの松」がある。承安4年(1174)3月3日、鏡の宿で元服した義経はこの松の枝に烏帽子を掛け、鏡神社に参拝し、源氏の再興と武運長久を祈願した。元服に使った盥も神社に保存されている。板切れになっているが、戦時中出征兵士のお守りになったという。
駐在所跡
本陣跡 林惣右衛門
旧道を進むと、国道8号線に合流する。西横関交差点を渡ると左手に道標がある。「是よりいせみち みなくち道」がある。東海道水口かた伊勢に至る道である。善光寺川を善光寺橋で渡る。西横関から鏡に入る。その先で左の細い道に入る。旧鏡村は中世東山道時代の宿駅であった。江戸時代には間の宿として賑わい、鏡宿と呼ばれた。右手の道祖神の隣に「旅篭亀屋跡」がある。
馬淵町に入ると馬淵町交差点の右側に八幡社があり、参道口に高札場跡碑がある。源義家が奥州遠征の途次、愛馬が熱病を患いこの地で水を飲ませるとたちまち平癒したので応神天皇の霊を勧請し、武運長久を祈願した。本殿は信長の兵火で焼失し、現在の総丹塗りの本殿は文禄5年(1596)に再建された。国指定重要文化財に指定されている。
旧道は国道8号線に合流する。この右手にも「御墓道標」がある。白鳥川を千僧共橋で渡ると、左手に寺標「具足山妙感寺 従是八丁」があり、南無妙法蓮華経が刻まれている。その奥に「高野世継観音道標」がある。近江守護佐々木氏頼の子、満高が子宝に恵まれず、この観音に毎夜祈願した所、世継ぎが授かったという。
先ほどの六枚橋交差点を真っ直ぐに行けばよかったのだが、ここまで来てしまったので、行ける道を探して畑の中を歩いた。円墳の上に安楽坊と住連坊の墓がある。2人はともに浄土宗開祖の法然の弟子であった。建永元年(1206)後鳥羽上皇が熊野詣の留守中に、上皇が寵愛した女官が安楽坊に帰依し、髪をおろし尼になった。上皇は二人に死罪を命じ、法然を讃岐へ、親鸞を越後に流罪とした。これを承元の法難という。
しばらく歩くと左側に「御墓道標」がある。「住蓮坊 安楽坊 御墓 是より三丁」がある。遠くに見える住蓮坊 安楽坊古墳への道であるが、現在はミニ開発の住宅が立ち並び行くことができない。その先の右側に「住蓮坊首洗い池」がある。住蓮坊はこの池のほとりで斬首され、この池で首を洗われた。池の水は干上がっていてなかった。 安楽坊は京の鴨川六条河原で斬首された。
先に進むと右手に鎮火霊璽がある。火伏の愛宕信仰である。国道8号線を歩き、六枚橋交差点を左折し、髭題目碑の所を右に入る。六枚橋は寛永20年(1643)領主の架けた橋が六枚の板だったところに由来する。上田町から千僧共町(せんぞくちょう)に入る。
隣の広大な空き地は「伊庭貞剛邸跡」で現在は「いばECO広場」になっている。広大な屋敷だったが、近年解体され、大楠を残すのみである。伊庭家は近江守護佐々木家の流れを汲む名家である。尊王攘夷に奔走し、後に住友財閥に入社し、手腕を振るい住友家中興の祖と言われた。
突き当りの近江鉄道八日市線を右折する。枡形で、この辺りが武佐宿西見附跡である。左手の武佐駅を越して、T字路を左折し、武佐踏切を横断する。長光寺町から西宿町に入る。しばらく歩くと、右手奥に「若宮神社」がある。本殿は一間社流造で、西宿町の鎮守である。
街道に戻り、「西の高札場」の看板を見ていると、向かいの家から先ほどの方が豆腐屋さんの格好をして出て来た。「豆乳を飲むか?」と言うので中に入って御馳走になった。今日は日曜日でお休みだが、数年前に奥さんが亡くなって、一人で店を切り盛りしているそうです。ハナノキの紅葉はみられなかったが、おじさんの親切が心にしみました。
道を教えてもらって、近江鉄道を渡り、長光寺の鳥居に着くと、おじさんが車で待っていた。寺まで車で送ってもらう。残念なことにハナノキの紅葉は終わって、枯れ木になっていた。本尊は聖徳太子の持念仏と言われる千手観音で、秘仏となっている。今年は50年に一度の御開帳があったということでした。本堂を開けてくれて、御前立の千手子安観世音菩薩を拝ませていただきました。花を付けたハナノキと紅葉のハナノキの絵が飾られていた。
すぐの裏手に「愛の神神社」がある。境内にはカゴノキの大木がそびえている。よく見ると斜めに上の方に伸びた枝はけやきである。また、手前にあるのは、おじさんが子供の頃切られて、その後真ん中から幹が伸びて来たという珍しい桜の木である。
陣屋の先に道標「武佐寺長光、従是三丁」がある。ここを左折すると「長光寺」がある。近江鉄道を越した先にあるので、パスすることにして先に進んだ。右手に「愛宕山常夜燈」と「愛宕山碑」がある。傍の家からおじさんが出てきて、「長光寺に行ったか?」と聞いてきた。「ハナノキの花も終わっているので行かない。」と言うと、「紅葉も綺麗だ。」とパンフレットを見せてくれた。おじさんに連れられて長光寺に向かう。
本陣先の十字路手前の左に文政4年(1821)建立の八風街道道標がある。「いせ みな口 ひの 八日市道」と刻まれている。八日市、八風峠をへて伊勢に至る。十字路を越えると右手に「安土浄源院道標碑」がある。安土道追分で、信長が伊賀と近江の浄土宗総本山として再興した寺院である。左手には、「松平周防守陣屋跡」がある。武佐は川越藩松平家の飛び領地であった。
その先の右手に武佐郵便局がある。武佐宿の景観のため、郵便局や書状集箱を往時の様式に模したと書かれていた。伝馬所跡である。その隣に「本陣跡」がある。下川七左衛門が勤めた。本陣門と土蔵を残している。皇女和宮はここで昼食をとった。
その並びに「大橋家役人宅」がある。大橋家は米,油などを商い十五代目金左衛門は伝馬所取り締役を勤めた。切妻造り、桟瓦葺平入で虫籠窓、出格子の建物は宿内最古の建物。向かいは創業400年の旅籠中村屋跡である。平成23年まで営業していたが、漏電が原因で全焼した。
武佐町交差点を渡ると「いっぷく処綿屋」がある。まだ8時20分なので開いていなかった。店の前には「ベトナムから来た大象」の絵が飾ってあった当時の武佐宿の人にとって、像の話は大事件であったに違いない。
西福寺の向かいには「不動明王道標」がある。「不動明王道 是より二丁半」と刻まれている。その先の右側に「西生来の一里塚」がある。「三喜屋」の陰に隠れて見落とし、探しに戻った。江戸日本橋より124里目である。
旧郵便局の向かいには「西澤梵鐘鋳造所」があり、門前に鐘が置かれている。9代300年にわたり、代々梵鐘鋳造を家業としてきた。梵鐘の鋳型造りに野洲の粘土や琵琶湖の砂が適しているという。若宮神社を過ぎると天保15年(1844)建立の常夜燈がある。道標を兼ね、「右京道 左いせ ひの 八市日」と刻まれている。
右手に「小幡神社御旅所」がある。祭礼の際に御神体を乗せた神輿が休息または宿泊する場所である。境内には山王神社が祀られている。杉玉を飾った古いお酒屋さんがある。 長宝寺の先のY字路は追分で、享保3年(1718)建立の道標がある。伊勢神宮と多賀神社を結び、天皇の名代として公家が代参するところから「御代参街道」と呼ばれた。 また、近江商人の行商に使われたことから市場通りとも呼ばれた。「右 京みち 左いせ ひの 八日市みち」と刻まれている。
厳島神社、小幡人形窯元を過ぎ、旧小幡村に入る。小幡村は「生掛蝋燭」が名産であった。小幡踏切を渡ると、その先に善住寺がある。延文2年(1357)の創建で、参道口に「聖徳太子御旧跡碑」がある。太子所縁のお寺です。小さな祠と、「開けずの門」と書かれた古山門がある。
旧道を進むと、左手に「愛宕神社」がある。ついで右手に「東嶺禅師御生誕地碑」がある。享保6年(1721)ここで出生し、9歳で出家し、駿河の白隠禅師のもとで修業した。臨済宗中興の祖となり、72歳で没した。茅葺屋根をトタン屋根に吹き替え、屋根に上って修理している家があった。
しばらく街道を歩くと左側に「祇園神社」がある。天保9年(1838)無賃橋の橋神として勧請された。橋の手前には弘化3年(1846)建立の睨み燈籠があり、対岸と対になっている。
御幸町の左手に「割烹旅館竹平楼」がある。宝暦8年(1758)創業の元旅籠竹の子屋である。四代目平八の時に竹の子屋から「竹平楼」と改名した。並びに「明治天皇御聖蹟碑」がある。明治11年、北陸東山道巡幸の際にここで休息をした。この巡行には侍従長の岩倉具視、大隈重信、井上馨、山岡鉄舟等が随行していた。
源町を進むと、右手に八幡神社がある。養老年間の創建で、聖徳太子がこの地で物部守屋との戦いに際し、身の安全を祈願し、信託により当社に身を潜めて難を免れた。常夜燈わきに「高札場跡」の標石がある。
右手の奥に「宝満寺」がある。当寺は本願寺中興の祖である蓮如上人御影道中の定宿として知られている。毎年5月宿の家々に提灯を掲げ、御影道中の一行を迎える。境内には親鸞手植えの紅梅があり、直筆の掛けも保存されている。
その先の右手に本陣跡がある。現日本生命愛知営業部、西沢家が勤めた。その隣は「旧近江銀行愛知川支店で、現在保存修理工事をしている。
恵智の駅で教えていただいた寿司屋さんで「鮨ランチ」をいただく。寒かったので、暖かなうどんが美味しかった。店主と街道の話などをして美味しくいただきました。
右に「恵智の駅」があり、お茶をふるまってもらった。この辺りは繊維産業が盛んで、靴下の継ぎ目にできてしまう切れ端で、指あみしたたわしをいただいた。店先に広重の「愛知川宿」の切り絵が飾ってあった。交差点を渡ると、ポケットパークがあり、「広重画レリーフ」や「書状箱」が再現されている。
左手に「郡分延命地蔵堂・愛知川宿北入口碑」がある。地蔵堂脇を流れる中の橋川は中宿と愛知川宿の境で、神崎郡と愛知郡の境。地蔵堂前に「愛知川宿北口碑」がある。愛知川宿の江戸口(東口)である。 その隣には「和菓子しろ平老舗」がある。慶応元年(1865)創業の和菓子店である。
その先の右手に「近江商人亭」がある。「旧田中新左エ門宅」である。田源の屋号で呉服、蚊帳、麻織物を商った近江商人の豪商で国の有形文化財に指定されている。現在は、湖魚季節料理の近江商人亭三角屋中宿店になっている。
「中山道愛知川宿」ゲートがある。ゲートをくぐると、左手に地蔵堂があり、宿口を守っている。
沓掛と中宿の間の小川を左に入ると「井上神社」がある。ここには豊かな清水があり、この「井」の「上」に一社を創建し、菅原道真を勧請して産土神とした。愛知川小学校を過ぎると右側に「河脇神社」がある。延喜式に記載されている古社で、白山大権現と言われた。
`先の右手に「千樹寺」がある。「江州音頭発祥地碑」と「伝統芸能扇踊り日傘踊り中山道千枝の郷碑」がある。千樹寺は行基創建の四十九院の位一寺で観音堂ともいわれた。先ほど、豊会館の方が江州音頭は河内音頭に通じると両方を唄ってくれた。
「柳池分水工」と書かれた水タンクがあり「ここは豊郷下枝です」と書かれ、江州音頭を踊っている絵が描かれている。 その先の右側に「又十屋敷」がある。豪商藤野喜兵衛屋敷跡である。
先の右手奥に「天雅彦(あまわかひこ)神社」がある。戦国時代佐々木京極氏の家臣・高瀬氏がこの地に城を築き守護神とした。その先の右手に、「金田池碑」がある。(ここより北50mの所に金田池と呼ばれる湧水があり、田の用水や旅人たちの喉を潤した。これを模したものである。)
杉崎の「旧中山道ポケットパーク」には明治5年建立の大神宮常夜燈がある。この手前を右に進む。右手に正眼寺がある。国指定重要美術品の「安南国書」とよばれる御朱印状が残されている。近江商人がベトナムと朱印交易をしたという証である。大同川を砥心橋で渡り、突き当りを左折する。宮荘町に入る。右側に「名残の松」が保存されている。
「彦根屏風」や「歴史由来屏風」湖東焼、井伊家の赤備え、などが展示されていた。
古い「百閒橋の欄干」がある。(佐和山城の搦手には、内湖をまたぐ木橋・百閒橋がかかっていた。内湖が干拓により陸化する昭和20年頃まで長い間利用されていた。此の欄干はその橋の一部である。)外に出ると「中山道一里塚跡」がある。これは余所にあったものをここに移したものである。街道沿いには、「長屋門」が残っている。又十屋敷には、上級武家屋敷に設置された同格の長屋門が威風堂々と構えている。今日では「開かずの門」と言われている。
2日目
ホテルで朝食をとり、AM.7時40分に歩き始める。街道に戻る途中の左側に立派な神社がある。八坂神社だった。。掃き清められた玉砂がきれいで、踏むのが惜しいくらいだった。本殿まで行くと、神社の方が出てきて、いろいろ教えてもらった。今日は例祭があるということだった。
左手に「東池」が広がる。浄勝寺前交差点を右の道に入る。ここは旧大篠原村の東口である。東山道時代には宿駅として栄えたが、鎌倉時代になると、鏡宿に移った。江戸時代になると、立場となり旅人や近江商人の往来で賑わった。街道を進むと、左側に「大笹原神社社標」が立っている。境内社の篠原神社の祭神は鏡餅の神で、別名「餅の宮」と呼ばれる。鏡餅の発祥地と言われる。
街道沿いに「鏡の里保存会」による説明板が両側に立っていたが、昔の面影を残すものは何も残っていなかった。
八幡社前の交差点を右に入る。旧馬淵町には茅葺屋根の旧家が残っている。地蔵堂を過ぎ、畑の中を歩いて行くと、「大黒屋本店」がある。窓ガラスには「コロッケ揚げてます。」と書かれている、中に入ってコロッケを3個買って、店先で一つ食べました。近江牛100g1500円の肉はおいしそうだった。
その隣に「牟佐神社」がある。武佐宿の氏神。市神大明神とも呼ばれ、境内に盛大な市が立った。鳥居脇に「高札場」があった。境内の大ケヤキは樹齢300年以上で御神木になっている。午後5時になり、辺りは暗くなったので、今日の宿に向かう。
武佐宿は近くに近江商人の町である近江八幡があり、物資の往来が盛んに行われた。伊勢に通じる八風街道の追分を控え、塩や海産物の往来で賑わった。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠23軒、宿長は約873mであった。
蛇沢川(いさかわ)を渡ると「大門跡」がある。武佐宿の東(江戸)口である。
「中山道標石」がある。正面に「中山道大道寺橋」右面に「内野道 右観音正寺 左十三仏」左面に「内野道 右八日市 左安土」と刻まれている。先の左手広場は「奥石神社御旅所」で、祭礼の際に神輿を仮に鎮座しておく所です。
先の角を左折すると、福生寺がある。本堂は根来陣屋の書院を移築したもので、境内の轟地蔵堂には小幡人形の千体仏が安置されている。境内に入ると鐘を撞いていた住職が轟地蔵堂を教えてくれた。ちょうど4時になったところだった。轟川を轟橋で渡る。橋の手前に「轟地蔵跡」の標石がある。明治になって、福生寺に移設された。渡ると、「金毘羅大権現常夜燈」がある。
東老蘇公民組合まえに標石「←陣屋小路」がある。中に入っていくと、「根来陣屋跡碑」がある。根来衆は戦国時代鉄砲で武装した僧兵の集団で、紀伊国の根来寺に属していた。秀吉に敵対して、焼き討ちにあっている。後に家康の家臣になり、この地を領し、根来陣屋が設置され、代官所が置かれた。
街道の右手一帯が「老蘇の森」。7代・光霊天皇の頃、この地一帯が裂け、水が湧いてとても人が住めなかった。石辺大連が神助をえて、この地に松、杉、桧を植えたところ、たちまち大森林になった。石部大連は森の主となり、百数十歳まで生きたところから「老蘇の森」と呼ばれた。この森の中に「奥石神社」がある。石部大連が老蘇の森に社壇を築き、天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祀り、繖山を御神体とした。鳥居は天明4年(1784)領主の旗本根来新右衛門が寄進したもの。本殿は信長が寄進し、柴田勝家が普請奉行を勤めた。
国道8号線に出て、JR東海道新幹線高架をくぐり、東老蘇(おいそ)1号橋地下道で横断する。道標「中山道 東老蘇 武佐宿へ 一里」と看板「安産守護 交通安全祈願 史跡老蘇の森鎮座 鎌宮奥石神社 」がある。
浄敬寺を過ぎると、五箇荘清水鼻町から安土町石寺に入る。ここから北西の方向に信長の築いた安土城址がある。Y字路を左折する。直進すると八幡道(八風街道)である。近江八幡に通じている。左折すると、大神宮常夜燈がある。街道筋には、半分茅葺屋根の家がある。内部はどうなっているのだろうと想像する。
少しの間国道を歩き、その先の交差点を右折し、直ぐ左折する。国道によって分断された旧道が復活する。右側に日枝神社への石段が見える。祭神は日枝権現で本殿は一間社流造。その先に「清水鼻の名水」がある。湖東三名水のひとつ。醒井宿の「居醒めの清水」「十王水」清水鼻は立場でひなあられ風の「焼米はぜ」が名物で、立場には女郎もいたという。
その先の左側に「石塚の一里塚跡」がある。江戸日本橋より123里目。以前は位置不明で標石も無かったようだが、新しく出来ていた。石塚側には榎が2本、山本側には1本植えられていた。 僅かに残された松並木の先の右手に「てんびん棒の里モニュメント」がある。道中合羽を着た近江商人が天秤棒を担いで立っている。近江商人は行商に行ってつらい時に、「てんびん千両」とつぶやきながら耐えたという。その先で国道8号線に合流する。
その先の右手に「大郡(おおごおり)神社」の鳥居がある。北町屋の鎮守で、社殿は国道8号線の向こう側に鎮座している。県道209号線を横断すると天保8年(1837)建立の「金毘羅大権現常夜燈」がある。その隣の茅葺屋根の家は旧片山家住宅である。大名,公家、武家が休息した茶屋本陣跡で、「ういろう」が名物であった。
五箇荘北町屋町に入り、右に進むと「近江商人屋敷」が立ち並ぶ「五箇荘金堂」があるが、立ち寄らなかった。 その先の左手のポケットパークに「明治天皇北町屋御小休所碑」がある。明治11年北陸東海巡行の際に向かいの市田家で休息した。向かいには「市田邸跡」と「明治天皇御聖蹟碑」がある。これは元帥伯爵東郷平八郎謹書による。
ポケットパークがあり、「中山道分間延絵図」の五箇荘部分が掲げられている。五箇荘三俣町に入ると「松居家住宅」がある。大正14年竣工した木造2階建てで外装はモルタル仕上げになっている。昭和39年まで五箇荘郵便局として使用された。国指定有形文化財に指定されている。
茅葺屋根の旧家が残っている。その先には屋根だけではなく、外壁も茅葺になっている家もあった。立派な家である。
五代目の御幸橋を渡ると五箇荘に入る。渡り詰めを左折する。愛知川南踏切を横断し、進むと文政8年(1825)建立の大神宮常夜燈がある。対岸との睨み燈籠である。ここを右折すると、旧道が復活する。一本目を右折すると「秋葉山常夜燈」がある。
愛知川を御幸橋で渡る。愛知川は別名「人取川」と呼ばれ、出水の度に多くの人命を奪ってきた。現在の御幸橋は明治天皇巡幸に際し、馬車を通すために板橋が新設された所から御幸橋と命名された。文政12年(1829)愛知川宿の成宮弥治右衛門忠喜が4人の同士と共に彦根藩に架橋を申し出た。この橋は渡り賃をとらないことから「無賃橋」と呼ばれた。 広重は愛知川として、この無賃橋を画面中央に描き、橋のたもとの標柱には「むちんはし はし銭いらす」と記され、橋上には天秤棒を担ぐ近江商人を描いている。
愛知川は、恵智川、越知川、愛智川とも書かれ、地名は宿の西外れに流れる愛知川に由来する。中世東山道時代からの宿駅で、近江麻布の生産及び集散地として栄え、東海道土山宿への御代参街道を控え、大いに賑わった。本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠28軒、宿長は約607mあった。皇女和宮は西沢本陣に宿泊している。
江戸末期から蝦夷と内地の間を北前船で交易し、財を成した近江商人で、明治になると、わが国初の鮭缶の製造を初め、後の「アケボノ缶詰」に受け継がれた。現在は歴史資料館「豊会館」として開放されている。庭園も県の名園100選に選ばれている。会館の方に丁寧な説明を受け、展示物をを見学する。また、ガイドブック「本当に歩けるシリーズ」の方が中山道の調査で歩いていて「京街道」のガイドブックを送ってもらうように頼んだ。
武佐町交差点を右折し、しばらく歩くとホテル(ビジネスホテルシェル)があった。
先の右手には「市田庄兵衛本宅」がある。建物は明治初期のものである。江戸時代から呉服繊維商として京都、大阪で活躍した。奥に細い京町風の建築様式で、平成13年に北町屋町が屋敷を購入して保存、活用している。
駅から街道に出る途中で、左に入ると「犬上神社」がある。(犬上君の始祖が稲神を祭神とし、犬上君に吠えかかる犬の首を刎ねると、君を狙う大蛇を喰い破った。君はこの犬を犬上明神として祀った。)駅からの道に戻り、右に曲ると豊郷駅前公園に「犬上君屋敷跡」がある。(遣隋使や遣唐使を歴任し、犬上朝臣と称した。)
その向かいには「平尾屋敷跡」がある。宿役人を勤めた。その隣の武佐町会館が「脇本陣跡」である。奥村三郎右衛門が勤めた。敷地内には「馬頭観世音文字塔」や「愛宕大明神」が祀られている。
鎌若宮神社がある。本殿は一間社流造りで、寛政3年(1791)の暴風で倒壊し、再建された。西老蘇村の鎮守である。奥石神社の若宮社として勧請された。その先の右手には「東光寺」があり、秀吉の祐筆であった建部伝内の宮居跡がある。伝内堂には元禄8年(1695)造立の伝内の木像が安置されている。
その先に「蛙不鳴池」がある。宗盛親子の首を洗った池跡で、以後蛙が鳴かなくなったという。
左側に「旧八幡警察署所武佐分署庁舎」がある。明治19年築で登録有形文化財に指定されている。木造2階建ての洋館である。 武佐町交差点手前の右にポケットパークがあり、常夜燈モニュメントと武佐宿解説がある。解説には「象の絵」が描かれている。享保13年(1728)ベトナムより八代将軍吉宗に献上された象は武佐宿に宿泊し、東海道に出て、姫街道を通り江戸に到着した。
この辺りには茅葺屋根の家が残っている。五箇荘山本局の前に「小祠」が祀られている。その先に「観音正寺道標」がある。西国三十二番札所の観音正寺は聖徳太子の建立と言われる古刹で、万事吉祥縁結びの祈祷道場。繖山(きぬがさ)の山頂近くに鎮座している。
瓶てまりとは、愛知川町の伝統工芸品で、瓶の中にその口より大きな刺繍を施した手毬を入れたもの。橋を渡り、愛知川宿ゲートをくぐると、右側に「愛知川の1里塚跡」がある。江戸日本橋より122里目。
沓掛交差点を越すと、Y字路になり、街道は右に進む。三叉路に「豊満神社」への道標がある。豊満神社は近江鉄道愛知川駅の南に鎮座している。神功皇后の軍旗を祀る。源頼朝はじめ多くの武将が参拝した
しばらく行って、左に入ると「石部神社」がある。対の常夜燈の奥に石造り鳥居があり、参道には石灯籠が並んでいる。本殿は一間社流造りで、延喜式に記載されている古社である。
橋を渡ると、普門寺がある。その後ろ側に「平将門首塚」がある。実際は山塚古墳の円墳である。山頂には小さな祠があった。 愛荘町消防団の敷地内に「薬師堂」がある。
宇曽川を歌詰橋で渡る。この川は古くから水量が多く舟運が盛んであったことから、運槽川と呼ばれていた。いつしか「うそがわ」と呼ばれるようになった。天慶3年(940)平将門は藤原秀郷によって討ち取られ、首級を京まで運ばれた。この橋までくると、首が橋から転げ落ち、目を見開いて秀郷に襲い掛かった。秀郷はとっさに「歌を詠んでほしい」と頼むと、首は歌に詰まって橋上に落ちた。これ以来「歌詰橋」と呼ぶようになった。
その隣には、「伊藤忠兵衛家屋敷跡」があり、その先に「伊藤忠兵衛生家」があり、現在は「伊藤忠兵衛記念館」になっている。(大手商社「丸紅」の創始者・初代伊藤忠兵衛は1842年、繊維品の小売業を営む「紅長」の家に生まれた。記念館は「開国後の我が国は、貿易の拡大によって開かれなければならない。」と信念を貫いた伊藤忠兵衛の本家を開放したものである。)伊藤忠兵衛は高宮布の行商から身を立て、大阪で呉服太物商「丸紅」を設立し、神戸では海外貿易を扱う「伊藤忠商事」を設立し、発展させた。
野洲駅から米原に出て、新幹線で掛川へ、東海道線で無事藤枝まで帰った。カメラの調子が悪く、何とか撮れたが、最後の方の画面がおかしくなっていた。帰ってからカメラを買い替えた。今回もいろいろな方とお会いでき、親切にしてもらえた。だから街道歩きはやめられないのかな。「本当に歩く」の京街道のガイドブックも送っていただきました。
徳化学校跡
旅篭 加賀屋跡
源義経宿泊の館跡
街道沿いの「くれない園」には「伊藤忠兵衛翁碑」がある。若林長次郎は伊藤長兵衛商店の丁稚から、七代目伊藤長兵衛を襲名した。
鏡郵便取扱跡
脇本陣跡 白井弥惣兵衛
明治時代 徳化学校跡
旅篭京屋跡