H.30.1.20~21
野洲~草津
東海道を通った時は逢坂越えだったので、今回は小関越えをした。逢坂越えを相撲の大関にたとえ小関と称した脇街道である。
早朝家をでて、東海道線、新幹線を乗り継ぎ、米原駅に着いた。琵琶湖線に乗り、野洲駅に着く。バスを探すが、タクシーで前回バスに乗った西池まで行く。9時30分に歩き始める。 小堤信号機の左に「正蓮寺」がある。門は閉まっていたが、回りこむと境内に石仏や石塔がたくさん祀られている。
左側に「大乗寺」がある。酔芙蓉の寺として有名で、石段を上っていくと、質素な寺と酔芙蓉が植えられていた。花の見ごろは9月中旬から1か月だということです。
草津宿は東海道との分岐点であり、琵琶湖舟運の矢橋湊へ至る矢橋街道との分岐点にあたり、交通の要衝として繁栄した。本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠72軒であった。広重は草津川の仮橋を画面手前に、中央には東海道と中山道の追分に立つ木製常夜燈と草津の宿並を描いている。
「停車場道」と刻まれた石標が移設されている。JR守山駅と中山道をつなぐ道に建てられた「守山停車場線」の道標である。
左手に「宇野本家酒造跡」がある。銘酒栄爵の蔵元宇野本家で、75代総理大臣宇野宗佑の実家である。平成22年、守山市が宇野家を譲り受け「町屋うの家」として公開している。江戸時代から明治初期に建てられた町屋である。今日は、「ゴスペルのコンサート」があるということで、暫く歌声を楽しんだ。
その先で、右の旧道に入る。しばらく歩くと右手に「愛宕大神」がある。寛政6年(1794)建立の金毘羅大権現常夜燈と山灯篭が並んでいる。
吉身三丁目交差点の手前左手に「益須(やす)寺跡解説版がある。益須寺は交差点の東側100m辺りにあった。日本書紀に著わされている日本最古の療養施設である。すぐ先の右手に「吉身村高札場跡」がある。(吉身は江戸時代、守山宿の加宿であり、守山川から高札場までの街道は「稲妻型道路」になっていた。一戸ごとに段違いの屋敷割になっていた。)
野洲川北詰にあるコンビニで「おでん」と「肉まん」を買い、中で食べた。やっと温まった。 野洲川の流れを利用して野洲晒布の生産が盛んに行われた。野洲川は鈴鹿山系に源を発し、琵琶湖に注ぐ。河口に八つの洲があったので「八洲川」とよばれ「野洲川」となった。通常は仮橋、増水時は舟渡し、朝鮮通信使通行の際は仮土橋を架けた。橋からは、近江富士とも呼ばれる三上山(432m)が望めるが今日は曇っていて見えなかった。平将門を討ち取った俵藤太(藤原秀郷)のムカデ退治で知られ,百足山とも呼ばれた。
琵琶湖疎水の第一トンネル出口を見ながら土手を歩いたが、抑々この道が間違っていた。「小関越え道標」の所に出る筈が京阪京津線」四宮駅に出てしまった。「小関越道標」まで街道を戻る。「三井観音小関越」小関越追分道標と常夜燈がある。
きたなかアーケードの手前の中央分離帯に「草津の一里塚跡」がある。見つけられなくて、後で探したら、壊れて草むらに放置されていた。
大宝神社の立派な鳥居を出ると、向かいの佛眼寺の参道口に「佛眼寺地蔵堂」がある。綿被り地蔵が安置されている。川中から拾い上げられ「さぞ寒かっただろう」と頭から綿を被せた。
大宝年間(701~4)の創建でこの地の産土神。近江守護職佐々木氏、足利将軍や徳川家の庇護を受け隆盛を極めた。本殿は三間社流造りで弘安元年(1278)の再建である。茅葺屋根の立派な社殿であった。境内にあった重文・木造狛犬は京都国立博物館に保管されている。
守山市二町町から栗東市綣(へそ)に入る。この綣とは糸を丸めると言う意味だそうです。鳥居をくぐって大宝公園を進むと芭蕉句碑がある。「へそむらの まだ麦青し 春のくれ」元禄3年(1690)綣村で詠んだ句である。参道を左に折れると「大宝神社」がある。
右側に「古高俊太郎先生生誕地碑」がある。新撰組の拷問を受け、風の強い日に御所に火を放ち、天子をさらう謀議が池田屋で行われることを自白してしまった。有名な池田屋事件の発端で、優秀な志士が多数惨殺され、維新が一年遅れたといわれている。俊太郎は六角獄舎に収容されたが、禁門の変による兵火が迫ると、逃亡の恐れありと斬首された。36歳だった。 その先には「市杵島姫(いちきひめ)神社」がある。大宝神社の飛び地境内社。明治24年にその功績をたたえ、朝廷から正五位が追贈された。
その向かいには「諏訪神社」がある。社殿は珍しくコンクリート製である。境内には領界石「従是南淀藩領」がある。今宿村と閻魔堂村の境にあったもので閻魔堂村は山城淀藩領であった。
その先に「十王寺閻魔堂」がある。小野篁(たかむら)の開祖である。篁は平安時代前期の官人、学者、歌人で遣隋使・小野妹子の子孫である。門前に「閻魔法王小野篁御作」と刻まれた標石がある。境内の閻魔堂には篁が作った閻魔像が安置されている。 篁は毎夜井戸を通って地獄におり、閻魔大王の下で裁きの補佐をしたという伝説がある。
その先の左手には「本像寺」がある。境内の築山にある貞治6年(1367)建立の「南無妙法蓮華経題目碑」は守山市文化財指定である。この題目塔は笠塔婆とよばれ供養墓碑として建立されたものであろう。墓地にも大永4年(1524)建立の題目碑がある。 街道には虫籠窓を残す旧家が残っている。
境川を渡ると守山宿の今宿村に入る。右手に延久3年(1071)建立の「樹下(じゅげ)神社」が鎮座している。境内には天保2年(1831)伊勢屋佐七が寄進した常夜燈がある。菅原道真の娘ゆかりの「安産石」がある。
右手に「門前茶屋かたたや」がある。旅篭堅田屋跡である。守山銀座交差点を左折すると、JR守山駅がある。直進し境川を土橋で渡る。瀬田の唐橋の古材を使って架け替えられる公儀の御用普請橋であった。守山宿の京口(西口)である。
左手に「本陣推定地標石」がある。小宮山九右衛門本陣跡で、問屋を兼ねた。幕末には皇女和宮が宿泊した。宇野本陣は東町に、小宮山脇本陣は西町にあった。 並びに「井戸跡」がある。防火井戸であった。
その先の右手に「守山天満宮」がある。元は東門院の中に祀られていた。鳥居前に「稲妻型屋敷割の解説」がある。
比叡山延暦寺の鬼門にあたる東方を守護するために東門院が建立され、「比叡山を守る寺」から守山と名付けられた。京を立った東下りの旅人の最初の宿泊地で「京立ち守山泊まり」といわれ賑わった。本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠30軒だった。、広重が守山宿として、遠景に三上山、中心に宿並、手前に境川(守山川)全体に春爛漫の桜を描いている。実際は境川は宿並に沿って流れていない。
伊勢戸川手前の右手に「吉身解説」がある。(吉身は古くは吉水郷といわれ豊かな森林ときれいな水に恵まれた天下の景勝地であった。野洲川の伏流水で宿場の防火用水であった。近年ゲンジボタルが復活している。伊勢戸川は吉身加宿と守山本宿の境を流れている。
JR東海道本線のガードをくぐる。緩い坂を上ると「十輪寺」がある。日が暮れると野洲川を渡る旅人のために、常夜燈に火を灯した。本堂裏に芭蕉句碑「野洲川や 身はやすからぬ さらしうす」
行畑から旧野洲村に入ると顕了寺があり、先の左手に「宇野勝酒造」がある。銘酒「玉の春」の蔵元である。高い煙突が聳えていた。向かいには「石仏、五輪塔」が並んでいる。道祖神で、村口に置かれ悪霊の侵入を防ぐ塞神である。
左手のお堂の裏に「四ツ家八幡神社」がある。源頼義は勅宣により奥州の安倍氏追討のため、野洲河原にくると、佐々木源太夫章経率いる四百余騎が加勢に現れた。頼義は氏神石清水八幡宮の神慮と喜び、後でここに八幡宮を祀った。
枡形状に進むと「蓮照寺」がある。境内には道標と領界石が移設されている。 錦織寺(きんしょく)は約5km北の中主町木部にある浄土真宗木部派の本山である。
街道は直進であるが、左折すると「行事神社」がある。神亀元年(724)御上神社の神託を受けた三上宿禰が勧請したところから三上別宮とも称された。鳥居をくぐると勧請縄と呼ばれる独特な注連縄がつり下がっている。魔除けと言われている。途中で見た「愛宕大神」の注連縄と似ている。
小篠原から行畑に入ると、ふれあい広場がある。二体の石造地蔵立像が安置されている。二体とも鎌倉時代のものである。大きな方は「阿弥陀如来像」で小さな方は「せくらべ地蔵」である。(「わが子もこの地蔵さん位になれば一人前」と背を比べるようになった。)
東海道新幹線高架をくぐり、左折する。この辺りに「小篠原の一里塚」があった。江戸日本橋より127里目であるが、位置不明。野洲病院の手前に「外和木の標碑」があるが見つけられなかった。野洲小学校の門の所に「外和木の標」の解説板がある。朝鮮人街道との追分が小篠原字外和木であったところからこの名がついた。門の脇には「中山道野洲碑」がある。
その向かいには「愛宕大神」が祀られている。お正月飾りなのか前回見た石の祠は注連縄で飾られている。勧請縄と言うらしい。
川を渡ると「旧辻村」に入る。この地は野洲郡から甲賀郡に出る辻であった。右に入っていくと「篠原神社」がある。藤原秀郷の次男・田原二郎千時が平将門平定の軍功により栗田野洲二郡を賜り社殿を建立した。
家棟川を家棟川新橋で渡る。「家棟川砂防事業の概要」「家棟川と隧道の歴史」の解説板がある。(上流の山から大量の土砂が流れ出し、この辺りに天井川を形成していた。大正6年の大正天皇の行幸の際に、天井川の下にトンネルが掘られ「家棟隧道」と名付けられた。家棟川の切り下げ工事を機にその歴史を終え撤去された。)
日ノ岡峠は京を出発した旅人にとって最初の難所だったため峠道には多くの地蔵様が祀られている。旧道は「旧東海道」の標識を右に見て最後の地蔵堂のところで三条通りに合流する。その先は「車石広場」になっている。トラピックスの名札を付けた大勢のウオーカーが休んでいる。街道ウオークの人たちだろうか。旧道でも2グループの人たちに出会った。広場の荷車が火事にあったのだろうか?壊れていた。
坂を下ると「普門院前」案内がある。地蔵堂があり、西大津バイパスをくぐる。
閻魔堂町に入ると左手に「住蓮坊母公墓標石」があり、市村家の庭?に入っていくと墓がある。母朝子は我が子が捕えられた悲しみで盲目となり、一目会いたいと京から馬淵を目指した。この地までくると既に首を討たれたと聞き、当地の閻魔堂村の尼が池に入水した。母公の法名は住然という。市村家は住蓮坊の首を討った刀を所蔵していたが延宝5年(1677)大宝神社に奉納した。
左手に「中山道街道文化交流館」がある。中に入ってみたが、だれもいなかった。明治初期の町屋である。向かいに「錦織寺道道標」「高札場跡」がある。ここは木浜(このはま)道追分。「右中山道 美濃路」「左 錦織四十五丁 こ乃者満道」錦織寺は浄土真宗木部派本山で、このはまみちは琵琶湖の津として賑わった木浜に通じる道である。
右手にある「養専寺」の境内には大イチョウが聳えている。次いで、「暁酒造」の藁ぶき屋根が見える。慶長年間(1596~1615)創業の老舗で「銘酒暁」の蔵元である。
田圃の間を歩いて行くと左側に「桜生(さくらばさま)史跡公園」がある。(大岩山古墳群は冨波古墳、古冨波山古墳、大塚山古墳、亀塚古墳、天王山古墳、丸山古墳、甲山古墳、宮山2号墳の8基が国史跡に指定されている。一番大きなものは「天王山古墳」で、前方後円墳で、全長50m、後円部径26m、前方部24m、高さ8mである。
その先の右手に「子安地蔵堂」がある。極彩色等身大の地蔵菩薩像は平安末期の造立、安産祈願の子安地蔵として信仰を集めている。秘仏となっていて、毎年1月、8月の縁日に開帳されてる。境内に「愛宕大神」も祀られていた。
小関越え
宿に入ると、「慈眼寺」寺標がある。延暦23年(804)創建で、本尊は帆柱観音と呼ばれる十一面観音菩薩である。唐からの帰途、最澄を大しけから救ったといわれ、海運関係者の信仰が篤い。吉身西交差点先の枡形を残している。その手前に「すぐいしべ道」「高野郷新善光寺二十五町」道標がある。東海道の石部に至る道で、その途中に平重盛の一族高野宗定が善光寺如来の分身を授かり、創建した新善光寺がある。
橋を渡ると、守山市吉身に入る。旧吉身村は守山宿の加宿でした。右手に「馬路石邊(うまじいそべ)神社社標」がある。馬路は古代この地が駅(うまや)であったところに由来する。参道を行くと寒桜が咲いている。茅葺の山門をくぐると三間社流造りの立派な本殿がある。
これで今回の旅は終わりです。無事に中山道(まだ和田峠を歩いていないが、気候が良くなったら歩こうと思っています。)を踏破し、念願だった小関越え、天智天皇陵、日ノ岡峠越えを歩く事ができた。相棒にも感謝です。今回も道を間違えたり、見つけることが出来ないものもあったりと「だいたい中山道」であった。27年1月29日から歩き始めた中山道なので、3年かかったことになる。少しづつでも歩けば踏破できるということです。人間の足は大したものです。
左側に「亀の水不動尊」がある。元文3年(1738)木食正禅養阿上人が道普請の際に、人足寄場として建てた梅香庵跡。ここで井戸を掘りあて日ノ岡峠越えの旅人を潤した。前は道から直接行けたようだが、手前の駐車場だったところが、柵で囲われていて回りこまないといけないようになっている。坂の上に行き、急ごしらえの石段を下りるとやっと行きつけた。駐車場の持ち主ともめたのかもしれない。
前回、道を間違い旧道に入ることができなかったので、今回また再挑戦をする。日時計を過ぎ、横断歩道で向こう側に亘ると、大きな標識が出ていた。その路地を入る。東海道最後の難所と言われる「日ノ岡峠越え」である。上りの始まる辺りに「日ノ岡の一里塚」があったが位置不明。江戸日本橋より124番目で東海道最後の一里塚である。
暫く街道を歩き前回行くことができなかった「天智天皇陵」を目指す。街道沿いに日時計がある。(38代天皇の上円下方墳。大化の改新を断行し古代天皇制を確立した。御陵入口に日時計があるのは、天智天皇が日本で初めて奈良の明日香に漏刻(水時計)を作り、時刻制度を定めたことに因んだもの。)
「小関越えの道分岐点」案内の所で坂を下る。その先に「琵琶湖疎水 第一堅坑」がある。
薄暗い時々車が通る道を歩いて行くと「小関越えハイキングコース」の案内がある。その先に「峠の地蔵」が祀られている。道路拡張の際に発見された地蔵を祀っている。ここが峠の頂上である。向かいに清水があるというが、自転車のおじさんがいて挨拶をしても帰ってこないので、早々に立ち去る。
左側に等正寺がある。当寺には「堅田源兵衛の首が安置されている。本願寺中興の祖である蓮如上人が寛永6年(1465)京都大谷の本願寺焼き討ちされた際に、親鸞の木像を三井寺に預けて北陸に逃げた。後に返却を求めた所「人間の生首と交換しよう。」難題を吹っ掛けた。これを聞いた門徒宗の漁師堅田源兵衛は自らの首を刎ねさせ差し出したという。
道標には「左り三井寺是より半丁」「右小関越 三条五条いまくま 京道」と刻まれている。いまくまとは第15番札所の京都今熊野観音寺のことで、この道が巡礼道であったことを示す。小関越えは三井寺への参詣道でもあった。背の高い道標には「蓮如上人御跡 等正寺」「かたたげんべゑの首」と刻まれている。左手には小関天満宮の鳥居がある。
京町1丁目にあるホテルをでて、東海道は左折するがそのまま直進する。伝光寺、本要寺を過ぎ、T字路を枡形状に進む。天満宮を過ぎると「小関越道標」がある。
アーケードを抜けると草津追分に出る。ここから先は「東海道」で歩いているので、草津駅に戻り、JR草津線で「大津」に向かう。
その先を左折すると「覚善寺」がある。門前に命じ9年建立の道標「右東海道 左中仙道」がある。以前はここが追分であったが草津トンネルが開通するとここが追分になった。その先には「小汐井(おしおい)神社」がある。境内には御神水(潮斎の井)がある。
佛乗寺、行圓寺、光明寺を過ぎると家屋の中に祠が安置されている「地蔵大菩薩」がある。一度通り過ぎて駅に戻る際に見つけた。
県道2号線の高架をくぐると「伊砂砂神社」がある。本殿は一間社流造り檜皮葺で応仁2年(1468)建立で、国の重要文化財に指定されている。伊佐々川を渡ると「ふるさと渋川・風景の記憶絵」が描かれている。昭和30年代の渋川の様子が描かれている。
大宝小学校を過ぎると栗東駅西口交差点にでる。中の井川を百々川橋(どうどうがわ)で渡る。花園交差点を過ぎ、綣を抜けると、左側に「八幡宮」がある。葉山川を葉山橋で渡る。この先は道が分断されている。県道の左側道を進むとJR草津線高架下になる。左の渋川隧道をくぐる。右折し線路わきの道を進むと旧渋川村に入る。
四脚門
川の中にお地蔵様が祀られている。増水したらどうなるのか心配。その先の左手に「今宿の一里塚」がある。滋賀県で現存する唯一の一里塚で、規模は小さくなっているが南塚を残している。塚木の榎は二代目で、一代目は昭和の中ごろに枯れたが脇芽が成長して現在に至っている。江戸日本橋より128里目である。
追分を左に進むと右手に「東門院守山寺」がある。仁王門は東門院最古の建立である。仁王像は坂上田村麻呂が東征の際に戦勝祈願し、勝利をおさめた所から門出仁王と呼ばれている。また、朝鮮通信使の宿舎ともなった。境内の石造五重塔、石造宝塔、石造宝篋印塔は国重要美術品である。1月に訪れた時には、不動堂の重文・不動明王坐像を見せていただいた。
錦織寺道標「左 錦織寺四十五町」領界石「従是北淀藩領」
その先に「朝鮮人街道追分標識」がある。朝鮮人街道は近江八幡~安土~彦根を経て鳥居本で再び中山道に合流する。朝鮮通信使ゆかりの街道である。
交差点を渡ると「唯心寺」がある。藁ぶき屋根の趣のあるお寺である。大王松の門松もきれいで、中のお庭も手入れされている。山門脇に「釈尊身御舎利碑」がある。
右手に「小篠原村庄屋苗村邸跡碑」がある。この辺りの家々の「ロウバイ」が咲き始めていて、良い香りが漂ってくる。
その先の左手に「稲荷神社」鳥居がある。社殿は国道8号線を越えた向こう側にある。壬申乱野洲河原の戦死者を供養する福林寺の守護神として天歴2年(948)伏見稲荷大明神を勧請した。この辺りには屋根の上に屋根を乗せた立派な家が多くみられる。
この辺りに「本藍染紺九」があるはずだが見つからずうろうろした。家の脇に「甕」があるということで探した。表札がわりの小さな木の札に「紺九」と書かれていた。藍染の伝統技能を今に伝え、先代は人間国宝であった。
中の池川を越すと「地蔵尊」が祀られてる。傍にはよく読めなくなっているが「修行大峯登山」の碑も立っている。 その先の左側に「中央池地蔵尊」が祀られている。
家の庭に「なかせんどう」の石標がある家を過ぎると、左手に「銅鐸のモニュメント」を屋根に乗せた桜生(さくらばさま)公民館がある。東海道新幹線敷設工事の際に、多数の銅鐸が出土し、桜生は「銅鐸の里」と言われている。国道8号線の方に「銅鐸博物館」もある。
公開されている「甲山古墳」を見学する。直径30mの円墳で、横穴式石室の内部に熊本県阿蘇産出の凝灰岩をくり抜いた家形石棺を残している。副葬品の冠、装飾太刀、切り子玉、ガラス玉、武具類が出土しているが、石棺内は盗掘されていてガラス玉が2点出土しただけであった。
かっての隧道
朝鮮人街道追分道標「左 八まんみち 右 中山道」
蹴上の駅から「追分」駅まで戻り東海道57次を歩きました。東海道53次の続きに書きます。
駅から今日のの宿に向かう。途中で「京町食堂」にはいり「豆腐サラダ」と「牛すね肉の赤ワイン煮込み」を食べた。