柏原~豊郷
H.29.11.4~5
四十九院交差点の右手に「懸社阿自岐神社社標」次いで対の常夜燈、道標「従是本屋社八丁」がある。百済から渡来した阿自岐王の子孫の住居跡に祖を祀ったもの。庭園は最古と言われている。この辺りの地名「あじき」は神社名の阿自岐に由来する。安食とは食物に恵まれ安住できる地を意味する。
旧つづら村に入ると右手に「つづらマップ」が掲示され、葛籠町内の旧所名跡が描かれている。葛籠村は藤細工、葛籠、行李、団扇などが名産の立場であった。右手に月照寺がある。柏原地蔵とも呼ばれ、本堂中央には行基菩薩を伝えられる地蔵菩薩が安置されている。山門は左右の本柱と控柱をそれぞれ一組ずつ配し、屋根は切妻破風造りとなっている藥医門と呼ばれる形式の一種である。
早朝家を出て、東海道線を乗り継ぎ、柏原駅にAM.8:56に着いた。着いたとたんに雨が降って来た。傘をさして街道筋にでる。ベンガラ、虫籠窓の古民家が並ぶ柏原宿を歩き始める。「蝋燭屋」「問屋役」の看板が出ている。六軒の問屋があり、東西3軒づつに分かれ、十日交代で郷蔵でもあった。
旧あまご出村にはいると「日枝神社」がある。旧あまご出村の鎮守である。ケヤキ並木が続き「出町標石」がある。
名神高速高架を2か所くぐり、中仙道と中濃東西通りが交差する正法寺交差点手前の左手に「多賀大社常夜燈」道標がある。「是より多賀道」と刻まれている。多賀大社東参詣路の近道である。原町から地蔵町に入ると右手に「春日神社」がある。地蔵町の鎮守である。鬱蒼とした境内を歩いて行くと左手におおきな地蔵池があり、鴨やカワウのような鳥が沢山いた。
東海道新幹線高架橋をくぐりしばらく歩き、左に入り新幹線高架下に「原北地蔵堂」がある。新幹線敷設に伴い移された様な地蔵堂で、この辺りにあった「原北一里塚」は位置が不明になっている。江戸日本橋より119里目。
小野村を出ると緩い上り坂になる。「鐘突堂跡」標識がある。足利時代大寺で、仁王門があり門前で祭礼の後、宴が行われた。その先に「八幡神社常夜燈」がある。掃除をしている人がいたので、「御祭りですか?」と声をかけると、「神社の掃除をしている。」とのことだった。新幹線を越えた奥の八幡神社にも人が出ていた。(祭礼には郷土芸能「小野小町太鼓踊り」が奉納され、お囃子には小野小町が詠われる。
菜種川を渡ると街道は西番場に入る。道はゆるい上り坂になり、右手に北野神社がある。寛平6年(894)菅原道真が当地に立ち寄り,これが縁で祀られた。右の地蔵堂の先に「西番場碑」がある。西番場は元番場とも呼ばれ、中世東山道の宿駅で、源義経も宿泊している。
元弘3年(1333)反鎌倉幕府勢力(後醍醐天皇)方に寝返った足利尊氏に敗れ、京を追われた北条仲時はここ番場まで逃れたが朝廷軍に包囲され、本堂前庭にて432人全員が自刃した。「血の川」の立札がある。本堂脇の宝篋印塔は鎌刃城主・土肥三郎元頼の墓である。本堂右の山道を上ると、北条仲時以下432人の五輪塔が並んでいる。
四十九公民館を左に曲がると、唯念寺がある。行基49番目の建立。行基作の阿弥陀如来像と弥勒菩薩像が本尊。その隣には「先人を偲ぶ館」がある。豊郷生まれの八傑人を紹介している。今日は閉館日だった。
高速に沿った坂道を下ると、T字路に出る。ここを右折し上り坂を進む。ここには中山道道標「番場 醒井」「摺針峠 彦根」「右中山」{左中仙道」がある。旧摺針村に入る。坂を上ると右手に「磨針一里塚」跡碑があり。江戸日本橋より118番目。
本堂の裏てには、長谷川伸の瞼の母に登場する「番場の忠太郎」に由来する「忠太郎地蔵」がある。傍にある五輪塔の石柱には「片岡仁左衛門」「島田省吾」「中村勘三郎」などの名前が刻まれている。寺を案内してくれた方によると、「五大路子」さんが毎年忠太郎地蔵の法要に見えるようです。
岩の間から清水が湧きだしている。地蔵川の源が「居醒の清水」である。日本武尊に由来する腰掛石、鞍掛石、雄略天皇の頃、美濃にあった霊泉に棲む巨大蟹を持ち帰る途中、蟹に水を呑ませるためにこの清水に放したところ石になったという蟹石がある。
旧道は国道21号に吸収される。左手に小さな祠に安置されたお地蔵様と「一類狐魂等衆碑」がある。(母を慕い行き倒れた老人に乳を含ませると、安らかに往生した。この母親はお金をいただくことはできないと、老人が埋葬された傍にこの碑を建て供養したという。)その隣には「壬申の乱横河の古戦場跡」の解説板がある。
右側に「中山道 醒井宿碑」がある。「番場宿へ一里」と刻まれている。ここが醒井宿の西口である。付近には茅葺屋根をトタンに修理した家が多く残っている。左側に「松尾寺道標」がある。見逃した醒井資料館の傍にある寺で、本尊が飛来したという「空中飛行観音」で航空関係者の信仰が篤いという。
名神高速道路に沿って歩くと法面に「鶯ヶ端跡」の解説版がある。京の空が望める名所であり、旅人は足を止めて休息したという。「旅やどり ゆめ醒井の かたほとり 初音もたかし 鶯ヶ端]三十六歌仙の能因法師が詠んだ。その先には「見附跡、枡形」の説明がある。(醒井の東西には見附が設けられ、東から西まで八丁二間(876m)が醒井宿であった。見附から枡形になっている。)
奥手川を渡ると旧長沢(ながそ)村に入る。柏原宿の枝郷であった。村に入ると「薬師道道標」がある。享保2年(1717)建立は先ほどの道標と同じです。向かいには「白山神社」がある。応永13年(1406)創建です。
左側に「医師年寄り 堤 豊之丞」の看板が出ている。施療時間とあったので今は接骨院をやっているのではないかと思う。天保時代にいた医師1人はこの家だったのだろう。 その向かい辺りに「本陣跡」がある。(南部辰右衛門が勤めた。皇女和宮通行の際に建て直された。和宮の夫将軍家茂は第二次長州征伐の途上、この本陣に宿泊した。明治天皇行在所にもなっている。現在、旧本陣建物は、垂井宿の南宮神社に移築され宮司宅になっている。)
[中山道河南標識」を右の旧道に入る。右手の地蔵堂を過ぎると、左手に徳法寺がある。また左手の地蔵堂を過ぎると左手に「茶屋館場」がある。この辺りは立場で、饅頭や餡餅が名物であった。和佐川を和佐橋でわたる。敬永寺、八幡神社を過ぎ、北陸自動車道高架三吉橋をくぐると、小公園があり園内には「九禮の一里塚」がある。江戸日本橋より117里目である。往時は北塚にはとねり木、南塚には榎が植えられていた。本来の塚位置は約100m京よりの所にあった。
宿並に戻って進むと、地蔵川の中に「十王水」と刻まれた石灯籠がある。その奥からの流れが醒井宿三名水の二つ目十王水である。平安中期に天台宗の高僧・浄蔵法師が諸国遍歴の途中、この水源を開き、仏縁を結ばれたと伝えられ、浄蔵水と称すべきところ、近くに十王堂があったところから十王水と呼ばれるようになった。
先の道を右に入ると大きなイチョウの木が見える。了徳寺で、お葉付イチョウで、樹齢150年の大イチョウである。葉の上に銀杏の実を付けるという珍種で国天然記念物に指定されている。一部の銀杏が葉面上に付いている。銀杏の発育が不完全なものが多く、楕円形や細長く、普通のものと著しく違っている。落ちている銀杏を見るとなるほど形がいびつなものがある。
その先の角を右に曲ると法善寺がある。山門は彦根城の城門を移築したものである。宿並に戻ると右手に堂々とした旧家門がある。江龍家住宅で、問屋、庄屋を勤めた。門脇には明治天皇御駐輦所碑がある。
先の右手に二階白壁の軒卯建をあげた連子格子の商家は明治39年創業の「ヤマキ醤油店」である。味噌と醤油は居醒の清水仕込みである。その先の大きな山燈籠のある旧家は「旅籠多々美屋」跡で、現在の建物は昭和初期の建築で、今は料理旅館を営んでいる。
神社の隣に延命地蔵堂がある。地蔵尊は鎌倉時代の作で花崗岩の一石一尊の半跏像で、総高は2.7mある。魚の供養のために川の中に置かれた所から「尻冷やし地蔵」と言われた。現「割烹本陣樋口山」が本陣跡で、江龍家が勤めた。本陣の向かいが土屋脇本陣跡である。
地蔵川には梅花藻(ばいかも)が繁茂している。清流にしか育たないキンポウゲ科の水生多年草で、初夏から晩夏にかけて梅の花に似た白い花を咲かせる。今は梅花藻が流れに揺られていた。またここには清流を好む「ハリヨ」が生息している。水槽に1匹のハリヨが入れられていて、小学生の説明が貼ってある。ハリヨは「針が四本ある」とか「食べられる」とか書いてあった。
紫石燈籠
腰かけ石 鞍掛石
日本武尊
宿並を進むと左側に「加茂神社」がある。宿の産土神である。醒井宿の三名水のひとつ「居醒の清水」がある。日本武尊は伊吹山の大蛇を退治したが、猛毒で発熱し、この清水で体を冷やすと回復した。石段を上って社殿に上がると眼下に醒井宿の宿並が広がった。
醒井宿は名水の里として名をはせ、清水が豊富で旅人の休憩地として賑わい、名水を使ったところてんや素麺が名物であった。本陣1軒、脇本陣1軒、問屋7軒、旅籠11軒で大和郡山藩領であった。枡形の所に「醒井宿碑」がある。、
食堂の裏から街道に入る。しばらく歩くと「八幡神社」がある。村の鎮守で、大きな御神木がある。旧一色村に入ると左側に「一色の一里塚」跡碑がある。江戸日本橋より116里目である。
少し早めに国道に出てしまったので、暫く国道を歩く。雨はやんだと思うとまた黒い雲に覆われ雨が降って来る。国道沿いに大きな「中山道碑」がある。その先を左に入るところに大衆食堂「山形屋」さんがある。今までガイドブックで紹介されていた食べ物屋さんが閉まっていることが多かったので、今日は良かった。
街道に沿って歩くと右側に「慈圓寺」がある。梓川を梓橋で渡ると「八王子神社」の社標があり、旧道に入る。梓川は鈴鹿山脈の北端雲仙山に源を発し、天野川に落ち合い流末は琵琶湖に注ぐ。旧梓河内村に入る。往時梓川は蛇行し、「あなたこなたとわたり三度渡るなり」と言われた。梓川と国道に挟まれた街道は桜並木になる。
道の向こう側には自然石の大きな「中山道碑」がある。「←東山道横河駅跡 →江戸後期大和郡山領柏原宿」と刻まれている。少し行くとまた地蔵祠がある。前にもましてカラフルなお地蔵様たちである。
先に進むと「鶯が原」の看板がある。(文化2年の木曽路名所図会には長沢(ながそ)村を過ぎ、鶯が原に至り、柏原の宿に着く。と記されている。太田道灌は江戸から京都への旅日記・平安紀行に「聞くままに かすみし春そしのはるる 名さへなつかし鶯の原」と詠んでいる。往時柏原宿では松並木のことを「並び松」といった。記念植樹の並び松の若松が植栽されている。
西見附跡の先に「東山道と九里半街道解説」がある。(木曽、長良、揖斐川の水運荷物は牧田川養老三湊に陸揚げされ、関ヶ原から中山道に入り、番場宿で船積の米原湊道に入った。牧田から米原湊までは九里半であった。関ヶ原、今須、柏原、醒ヶ井、番場の五宿にはこれらの荷の継立を行う為に、問屋場が6~7軒あった。) その先の右手に「北畠具行卿墓」が400mはいった所にあるが、途中で電流ネットがありいけない。後醍醐天皇の側近で、元弘の変の中心人物で、挙兵の失敗で、鎌倉に護送される途中、この地で斬首された。
右手の坂の上に「六地蔵」が安置されている。街道筋には「西見附跡」がある。柏原宿の西口で、東見附まで13町(1.4km)あり、喰い違いの土塁が築かれていた。この地点の海抜は176mで、これから行く摺針峠(154.2m)より高い。
橋の向こうに復元された「柏原の一里塚」がある。江戸日本橋より115里目である。西見附付近に北塚と南塚があり、三本の榎が植えられていた。その先右側石段上に愛宕神社がある。.一里塚の北塚は参道石段の東にあった。
左手の黒塀の旧家(加藤家)は宿郷跡で、脇本陣と旅籠の間に位置し、武士や公用の庄屋等の休泊所であった。 中井川を中井橋で渡ると文化2年(1805)建立の「金毘羅山常夜燈」がある。その先で奥出川を丸山橋で渡る。
ふれあい交差点を横断すると右手の公園が「茶屋御殿跡」で、野洲の「永原御殿」水口の「水口御殿」と並ぶ近江三大御殿のひとつであった。御茶屋御殿は将軍専用の宿泊休憩施設であった。「柏原地区街なみ環境整備事業」の看板が立っている。柏原宿の町並を保全し、助成金で環境を整備していると書かれていた。よく整備された宿だと思う。公園入口には「問屋役 年寄 西村勘左衛門」とあった。
先の福祉交流センターの所が「西の荷蔵跡」で、後の柏原銀行跡である。荷蔵は当日中に継立処理ができない荷を保管した蔵で、東西二か所にあった。明治34年、江戸時代もぐさ屋だった「山根為蔵」が自宅別棟に柏原銀行を設立し、支店も増えたが、昭和18年に滋賀銀行に吸収合併された。
右手に「日枝神社」がある。宿並に面して対の常夜燈があり、奥に鳥居がある。元暦元年(1184)の創祀である。茅葺の立派な神社だった。神社の向かいには「造り酒屋松浦作佐衛門」跡がある。旧家を残している。
広重は木曽海道69次之内で柏原宿として亀屋の商い風景を描き、福助人形を配している。
柏原宿の資料や、正徳元年の高札、柏原御茶屋御殿の蟇股、亀屋の看板などが展示されている。 福助人形や吉村公三郎監督の映画のポスターなども展示されていた。
その先の右手に「柏原宿歴史館」がある。この建物は大正6年に建てられた「旧松浦久一郎邸」(伊吹もぐさ亀屋左京商店の分家)で平成12年に国の登録有形文化財に指定された。やいとうどん(うどんの上に艾に見立てたトロロこぶを丸めて乗せ、火の代わりに真っ赤な紅ショウガをあしらう。)まだ9時30分なので残念ながら食べなかった。
亀屋の向かいは「造り酒屋厳佐九兵衛跡」で、宿内には造り酒屋が4軒あった。柏原宿は水量水質に恵まれ、酒株は宿内合わせ150石が許可されていた。先の右手に「造り酒屋山根荘太郎」がある。
左手に寛文7年(1661)創業の「伊吹堂亀屋左京店」がある。営業を続けているということだったが、今日は閉まっていて、探してしまった。最盛期には十数軒の伊吹もぐさ屋が亀屋の屋号で軒を連ねていた。伊吹山には良質な蓬の葉が自生し、これを加工すると「御灸」に用いる艾(もぐさ)になる。亀屋の六代目松浦兵衛は江戸に出て伊吹もぐさの名声を高めた。亀屋のシンボル「福助人形」は働き者の番頭で、店を繁栄させた。今日は休みで福助人形を見ることはできなかった。
市場川の手前に文化12年(1815)建立の「秋葉山常夜燈」がある。ここが高札場跡である。橋には(吉村公三郎監督の若き日の思い出の橋、監督作品、(野添ひとみ 川口浩共演)を生んだ。と書かれた立札が建っている。
本陣の隣に「米原市醒井宿資料館」がある。ここが問屋跡(川口家住宅)で、江戸時代初期の建築で、修復されている。
醒井の不断桜
その先に産の宮井戸がある。「足利氏降誕之霊地」と刻まれた手水鉢がある。竹藪の先には「産の宮」が祀られているということだったが、雑草で進めなかった。南北朝の頃、足利尊氏の子・義詮(よしあき)は文和4年(1355)後光厳天皇を奉じて西江州で戦い、湖北を経て大垣を平定し、翌年京へ帰ることとなった。同行した妻妾が産気づきここで男子を出産した。付け人として家臣9人がこの地に残ったが、君子は幼くして亡くなった。生母は悲しんで髪を下し尼となり幼君の後生を弔った。土着した家臣たちは竹と藤蔓で作った葛籠を生業にするようになり、松寺の北方に一社を祀ったのがこの宮である。
16時を過ぎたので、近江鉄道豊郷駅から電車で米原に出て、新幹線で掛川まで、東海道線で藤枝に着いた。愛知川まで行く予定だったが、出来なかった。初日は雨の中のウオーキングだったが、2日目は快晴の中歩く事ができた。
石畑の地は文治元年(1185)屋島の戦いで弓の名手として名をはせた那須与一の次男石畠民武大輔宗信が那須城を築き、この地を支配した。一里塚の奥に八幡宮が鎮座している。宗信が男山八幡宮を勧請した。八幡宮の奥に称名寺がある。
春日神社、豊郷小学校旧校舎群を過ぎると、「石畑の一里塚跡」がある。一里塚が縮小して復元されている。江戸日本橋より121番目である。「石畑間の宿碑」がある。石畑は高宮宿と愛知川宿の中間に位置し、立場茶屋があった。
茅葺屋根の旧家や、トタン屋根に修復した旧家が並んでいる。
現在の高宮橋は昭和7年に鉄筋コンクリートで作られた古い橋である。と書かれていた。橋の渡詰めの左手には「牛頭天王道標石」がある。先で四の井川を新安田橋を渡ると旧ほうぜ村に入る。あるはずの法土(ほうぜ)一里塚標石が見つからない。探し回ると、壊されて空地に転がっていた。
多賀大鳥居の参道と商店で賑わう高宮宿の様子が描かれている。その先の小林家住宅の前に「芭蕉翁旧跡紙子塚碑」がある。貞享元年(1684)の冬、小林家三代目の許しで一泊した芭蕉は粗末な扱いを受け、自分が横になっている姿を描いてこの句「たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子」をしたためた。紙子とは紙で作った衣服のことで、小林家は芭蕉と知ると、新しい紙子羽織を贈り、古い紙子を納めて紙子塚と名付けた。
唯称寺の先の右側に「大堀家地蔵堂」がある。建久元年(1190)源頼朝はここで体調を崩し久我矢九郎宅(現大堀家)で療養し、地蔵堂の所に地蔵菩薩祈願の壇を築いた。
その先の右側に「彦根道道標」がある。「右彦根道 左すぐ中山道」と刻まれている。
参道石段の途中に「扇塚」がある。能楽喜多(北)流は井伊藩の手厚い庇護を受け発展した。9代目家元健志斎古能は指導を終え江戸に戻る際に、門人達の所望に応じて面と扇を与えた。門人たちは享保元年(1801)に扇を納めた扇塚を建立した。面塚のゆくえは分からない。
左側に「多賀道道標」がある。「是より多賀みち」と刻まれている。その隣に「かどや跡」があり、お休み処で、「お休み井戸」を残している。この井戸は岩の間からにじみ出る石清水であったといい、石清水神社の名前の由来となった。
橋を渡ると、「床の山碑」がある。芭蕉句「ひるがおに 昼寝せうもの 床の山」が刻まれている。公園ではゲートボールを楽しんでいる人たちがいる。その先に地蔵堂があり、山の法面には数十体の地蔵が祀られている。
先に進むと、右手に「矢除地蔵堂」がある。地蔵堂には地蔵菩薩と聖徳太子が祀られている。地蔵村の名前の由来となった地蔵様である。仏教伝来に反対する物部守屋に狙われた聖徳太子はこの地に逃れたが、矢を射かけられ、地蔵菩薩が現れ身代わりとなった。後には右肩に矢が射こまれた血の流れた跡のある小さなお地蔵さんが立っていた。これが矢除地蔵である。左手の山は鳥籠山(床の山)といわれ、歌枕や壬申の乱の戦場になった。
街道に戻る。名神高速の高架の手前に「中山道道標」、「原八幡宮」道標、天保15年(1844)建立の「天寧寺五百らかん七丁余寺標」がある。右に進むと原八幡宮の大鳥居があり、「日本一太鼓」と書かれた標柱が建っている。
少し戻って、左手原天然醤油醸造所の手前に「森川許六遺路道標」を入る。路地を進み、新幹線高架を越して、左折すると「森川許六庵跡」がある。許六は彦根藩士で芭蕉の弟子だった。庵跡には、井戸(枯れている)と句碑「水すじを 尋ねてみれば 柳かな」がある。
祇川居士(ぎせんこじ)の白髪塚「恥じながら 残す白髪や 秋の風」聖徳太子と守屋の戦い等、幾多の戦いの将士憐れみ、芭蕉の門人が師の夏の句に対して秋の句を詠んだ。
芭蕉句碑「ひるね塚」「ひるかおに ひるねせうもの とこのやま」旅人が夏の暑い日に、涼しい境内で昼寝している様を詠った。昼寝の床と鳥籠山(とこのやま)を掛けている。
その先の右奥に「原八幡宮」がある。聖徳太子を祀る。境内には「ひるね塚」「白髪塚」がある。境内には境内とその山林を開墾した際に出た大岩が祀られている。
「小町前茶屋跡」明治中期まで茶屋があり、お多賀さん参りの人で賑わった。
しばらく歩くと、左側に「六地蔵」が祀られ、その先には「小町塚」があり、地蔵堂には「小町地蔵尊」が祀られている。自然石に浮き彫りされたものである。
左側に「小野こまち会館」がある。出羽郡司・小野美実(好美)は奥州に下る際に、小野宿に泊まり、ここで生後間もない女児を養女にもらい受け、出羽国へ連れていった。此の子が小野小町と言われる。村内にあった池上家代々神授小町丸という赤玉の丸薬を製造販売していた。同家伝わる宝伝記には、病になった小野小町が薬神から授かって快気した薬を池上家が譲り受けたとある。 こまち会館は閉まっていて「太鼓踊り」の看板がかかっていた。
鳥居本の合羽は享保5年(1720)馬場弥五郎が創業したことが始まり。楮(こうぞ)を原料とした和紙に柿渋を塗り込め、防水性を高めた合羽は雨の多い木曽路に向かう旅人にとって必需品であった。文化文政年間には(1804~30)15軒の合羽所が軒を連ねていた。
地蔵祠が敷地内にある家を過ぎると、左手に「中山道番場宿」碑がある。名神高速道路にそって坂道を進む。本来の道は名神高速道路の敷設にで消滅した。
蔵のある家や、ベンガラ塗り元茅葺屋根の旧家がある。その先に「鎌刃城址約2km」の標識がある。
境内には「一向杉」と呼ばれる巨木がある。蓮寺寺を開山した「一向聖上人」は弘安10年(1287)に死去。ここに埋葬され、後にこの杉が植えられた。幹周り5.53m、樹高30.7m、推定樹齢700年の巨木で滋賀県指定自然記念物である。庫裏の裏には「齊藤茂吉」歌碑がある。
このみ寺に 仲時の軍 やぶれ来て 腹きりたりと 聞けばかなしも
日本には、合羽やもぐさなどの昔から作られていたものが近年使われなくなって廃業した産業がある。寂しいことだが、使われないのだから仕方がないことかもしれません。
高宮宿は多賀大社の門前町で栄えた。「お伊勢に参らばお多賀に参れ、お伊勢はお多賀の子でござる。」と言われた。宿内には名産「高宮布」を扱う問屋や小売店が軒を連ねた。本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠23軒だった。
地蔵バス停の先の芹川を大堀橋で渡る。橋から下を覗くと万葉歌碑がある。戻って、橋の左手から下に下りる。芹川は不知哉川「いさや川」と呼ばれ、歌枕になった。歌碑には二首刻まれている。
「淡海路の 鳥籠の山なる 不知哉川 日のころころは 恋つつもあらむ」
「犬山の 鳥籠の山なる 不知哉川 不知とを聞こせ わか名知らすな」
その先を右に曲ると近江鉄道鳥居本駅がある。(明治29年に、彦根~貴生川間で開通し、その後昭和6年に彦根、米原間も開業し、同時に鳥居本駅も建設された。その後建て替えられたが、建築当時の様式を継承している。)と駅前の説明板に書いてあった。
鳥居本の地名はかって宿内にあった多賀神社の鳥居に由来する。朝鮮人街道や北国街道の分岐、彦根城下に通じる要衝として栄え、賑わった。鳥居本宿の名物赤玉、西瓜、合羽(柿渋の赤)は「三つの赤」と言われた。本陣1軒、脇本陣2軒、問屋1軒、旅籠35軒で彦根藩領であった。
摺針峠からの下りは摺針峠西坂を呼ばれ、下ると中山町から甲田町に入り、下道に合流する。左側の「西国古道」の標識のある急な石段を下りる。舗装路に出て、「中山道」標識のある向かいの土道に入る。小さな木橋を二つ渡り、竹林を下る。雨で泥道になった山道を抜けると舗装路に突き当たる。ここを右折すると国道8号線に出る。昼なお暗く、心細くなった。
望湖堂ではない建物
称名寺を過ぎ、急坂を上がると、神明宮の鳥居、石段の前に出る。ここが摺針峠の頂上である。(修行に耐え切れず逃げ出した少年弘法大師は斧で石を摺る老婆に出会った。聞くと針を作るという。少年は己の未熟を悟り、再び修行に励んだ。この老婆を祀っている。)往時ここから琵琶湖が一望でき、中仙道随一の名勝と言われた。石段を上がると、「明治天皇小休所跡碑」がある。ここが望湖堂跡で、本陣の格式を備えた大きな茶屋があった。参勤の大名、皇女和宮、朝鮮通信使が立ちより、絶景を楽しんだ。
名神高速道路米原トンネルの上が小針峠の頂上で、ここが米原市と彦根市の境である。下りになると、右手に地蔵堂がある。傍らに「泰平水」がある。旅人の安全を見守り、喉を潤してきた水である。
「東の荷蔵跡」がある。(運送荷物の両隣宿への継立が当日中にできない場合は蔵に保管した。藩年貢米集荷の郷蔵であった。)その向かいには「脇本陣跡」がある。(南部源右衛門が勤め、問屋を兼ねた。)
左手に「彦根市モニュメント」がある。三本の石柱に「麻を背負った婦人」「菅笠」の旅人」「近江商人」の像が立っている。松並木をわずかに残している。
壊された一里塚碑
宿並を進み犬上川を無賃橋(現高宮橋)を渡る。橋手前に天保3年(1832)建立のむちん橋碑があり、碑の奥に「むちん橋地蔵尊」が安置されている。昭和52年むちん橋の橋桁改修工事の際に、脚下から二体の地蔵尊が発掘された。彦根藩が近江商人・藤野四朗兵衛に命じ、天保3年(1832)募金に寄り架橋、渡り料無賃とした。渡詰めの高宮橋と歩道橋の間に「むちん橋碑」と「高宮宿碑」がある。この辺りが高宮宿の京口である。
その向かいには本陣跡がある。門構玄関付で、間口約27m、建坪396㎡、式台を備え、次座敷、次の間、奥書院、上段の間と連続した間取りだった。山門のみを残している。
その先には円照寺がある。元和元年(1615)大阪夏の陣に向かう家康が腰かけた「家康腰掛石」がある。明治天皇の宿泊の際に松の大木が邪魔して乗り物が通れないため、伐採を命じられた。和尚はこれに抵抗したところ、明治天皇は自ら歩いたという「止鑾(しらん)の松」二代目がある。山門前には「明治天皇行在所聖跡碑」がある。
街道に戻り進むと、右手実に「脇本陣跡」がある。 塩谷家が勤め、問屋を兼ねた。門前には高札場がある。
左に入る道を進むと「高宮寺」がある。境内の千命堂には第4代彦根藩主井伊直興が寄進した石造延命地蔵菩薩像と千手十一面観音菩薩が安置されている。墓所には高宮氏歴代の墓がある。
右側に「多賀大社大鳥居」がある。多賀大社はここから南東3.7kmの地に鎮座している。この一の鳥居は嘉永元年(1635)建立の石造明神鳥居で、多賀大社社殿が火災で焼失し、寛永年間に再建され、その際に建立された。秀吉は母・大政所の延命を祈願し、春日局は二代将軍・秀忠の病気平癒を祈願し、多賀信仰が盛んになり「伊勢へ七度、熊野へ三度、お多賀さんには月詣り」と大いに賑わった。鳥居をくぐると。、左手の常夜燈があり、その背には石段が設置されている。往時は対であったという。
その先に「馬場提灯屋」があり、店先にたくさんの提灯が展示されていた。
随身門横の「笠砂園」には嘉永3年(1850)建立の芭蕉句碑がある。「をりをりに 伊吹を見てや 冬籠り」この句は芭蕉48歳の時、伊吹山麓にある大垣藩士で門人であった宮崎千用宅に立ち寄った時に詠んだ句である。 参道の西には長い塀と白壁の蔵がある旧家は「元庄屋屋敷」である。馬場家住宅で、高宮商人の中でもひときわ優れた商家であった。
布惣の向かいに「高宮神社」がある。高宮宿の氏神様です。本殿は嘉永3年(1850)の建立である。高宮神社の春季祭礼は「高宮の太鼓祭」として知られ、高宮17町より1町が神輿、8町が太鼓、全町が鉦(かね)を繰り出す。なかでも胴回り6mの大太鼓は圧巻である。
宿並の左手に「布惣跡」がある。高宮布の問屋跡で現在は宿駅座楽庵である。高宮布は高宮周辺で産出された麻布で、高宮細美とも「近江上布」とも呼ばれた。風通しが良く夏の着物に適し、室町時代から貴族や上流階級の贈答品として珍重され、江戸時代には毎年彦根藩によって幕府に献上された。布惣では、七つの蔵が集荷でいっぱいになり、これが年に12回繰り返され、近江商人によって全国展開した。布惣跡には現在五つの蔵が残っており、当時の高宮嶋の看板も現存している。当時の絵が掲げられている。「布類販売所 堤惣平」と書かれている。
近江鉄道を中仙道踏切で横断する。高宮町大北交差点の右手に「木之元分身地蔵尊がある。木彫り彩色の地蔵様が祀られている。横の壁に「高宮神社太鼓まつり」の写真が飾られてる。
近江鉄道踏切の手前に「中山道 高宮宿」碑と「多賀大社常夜燈」がある。ここが高宮宿の江戸口(東口)である。
その前には石清水神社がある。神社の祭神は応神天皇と母・神功皇后で、神功皇后は応神天皇を胎内に宿しながら三漢との戦いに出陣し、無事出産したことから安産の神として崇敬を集めている。
その向かいには足立寺があり、街道奥に鐘楼門が見える。街道沿いには、地蔵祠が祀られている。
急に宿並が終わり、小野町に入る。名神高速と東海道新幹線に挟まれた旧道を小野川に沿って。旧小野村は東山道時代の宿駅で、古宿と呼ばれた。小野小町の出生地でもある。蒲の穂が開いているのを初めて見た。これに因幡の白兎がくるまったのかと思い、感慨深かった。柿が鈴なりになっている。
彦根鳥居本本局から右に入る道は彦根道(朝鮮人街道)で、「彦根道追分道標」がある。文政10年(1827)建立で、「右彦根道 左中山道京いせ道」と刻まれている。彦根城へは約1kmである。朝鮮通信使が使った道であるところから「朝鮮人街道」とも呼ばれた。
彦根警察署鳥居本駐在所を過ぎると、専宗寺がある。境内に聖徳太子廟があり、山門前には聖徳太子跡碑がある。かって佐和山城下本町筋にあったが、寛永17年に当地に移転した。山門右の太鼓門の天井は佐和山城の遺構である。
街道には、地蔵堂が祀られ、「有形文化財」登録の旧家がある。
広重は木曽海道69次の中で鳥居本として望湖堂と琵琶湖を描いている。
交差点を横切ると右手に「木造常夜燈」がある。唐派風の檜皮葺の立派な常夜燈である。その先に「さんあか」鳥居本交流館がある。さんあかの説明や、合羽をつくる柿渋を塗った和紙などを展示してあった。
本陣の隣は「高橋脇本陣跡」で問屋を兼ねた。その先の左手に「合羽所松屋」がある。文政8年(1825)創業。合羽形の庵看板を掲げている。鳥居本での合羽の製造は1970年代で終了し、今では看板のみが産地の歴史を伝えている。屋根の看板を掲げる松屋松本宇之輔店は丸田屋から分家し、戦後は合羽の製造から縄作りに転業している。
街道に戻り木綿屋の前に「本陣跡」がある。寺村家が勤め、建坪137坪だった。寺村家は中世東山道小野宿の本陣を勤めた名家であった。その向かいには沢山脇本陣があったが、早くに消滅している。
有川家の横の細い道を入り、国道8号線を横断すると「上品寺」がある。歌舞伎で知られた「法界坊旧跡」がある。法界房とは7代目住職のことで、江戸を托鉢し吉原の花魁達の浄財を受け、江戸で梵鐘を造り、自ら大八車でここまで運んできた。了海(法界坊)托鉢の様子は歌舞伎になるほど有名だったため、第二次世界大戦で供出されることも無かった。
ホテルで朝食をとり、彦根駅から近江鉄道に乗り、鳥居本駅に戻る。昨日は夕方暗かったので、有川家のある枡形まで戻った。昨日は閉まっていたガラス戸が開いていて、薬屋さんとして営業しているようです。
近江鉄道に乗り、彦根に出て駅前に予約した今日の宿「サンルート彦根」に入る。
枡形の先には右手に「旧旅籠米屋」がある。旅籠の岩根治右衛門は井伊直弼より号「自然斎」を賜った絵付け師。湖東焼の絵付けを行った。 その先には「合羽所木綿屋跡」がある。天保3年(1832)創業。看板「本家合羽所木綿屋嘉右衛門」を掲げている。
枡形の右手には「赤玉神教丸有川家」がある。万治元年(1653)創業。多賀大社の神の教えによる「神教丸」は下痢、食あたり、腹痛の妙薬であった。今日は日曜日で店は閉まっていた。当家は有栖川宮家に出入りが許されたていたところから、二文字をいただいて「有川」と称した。右手の建物の前には「明治天皇鳥居本宿小休所碑」がある。明治11年、明治天皇巡幸の際に増築された。
宿内に入ると虫籠(むしこ窓)の旧商家、卯建をあげた旧家、その先には藁葺屋根の旧家がある。大きくカーブした宿並は突き当り、枡形になっている。
右に「中山道道標」がある。「磨針峠望湖堂」と刻まれている。ここが「鳥居本宿」の北口(江戸口)。Y字路を左折すると、「おいでやす彦根市」「またおいでやす」と刻まれてた石柱が三本建っている。近江商人、旅人、虚無僧の像が乗っている。
望湖堂は、往年の姿を良くとどめ、参勤交代や朝鮮通信使の資料を多数保管していたが、近年の火災で焼失してしまった。跡地の建物は復元された建物ではない。
街道の左手に「地蔵堂」があり、自然石のお地蔵さんが多数集められている。その先で左に入る道に「鎌刃城址3km」案内がある。鎌刃城は土肥三郎元頼によって築城された山城。その後の城主堀氏は浅井家の家臣でしたが、元亀元年(1570)織田信長の軍門に下り廃城となった。
街道に戻りすすむと右手に「法雲寺」があり、その奥に「直孝神社」がある。彦根藩二代目藩主井伊直孝を祀っている。寛永2年(1625)の創建で、古来清尻神社と称したが、昭和49年直孝神社と改称した。直孝は井伊直政の側室の子で、嫡男直勝が病弱なため、直孝が井伊家三代目を継いでいる。
「旅籠屋跡」 天保14年柏原宿には東部の市場町、宿村町と西部の御茶屋御殿跡辺りに22軒の旅籠が集まっていた。 右側に映画監督・吉村公三郎の実家があり、祖父は最後の庄屋、父は広島市長、兄は朝日新聞「天声人語」の執筆者と書かれていた。
高宮神社随神門
宿並が上り坂になると左手に大きな標柱「南北朝の古戦場 蓮華寺」「境内在故六波羅鎮将北条仲時及諸将士墳墓」が建っている。街道を外れ、名神高速道路高架の先に推古天皇の命によって聖徳太子が創建した古刹蓮華寺がある。当初寺名は法隆寺であった。
その先に「本陣跡」がある。北村家が勤め問屋を兼ねた。「明治天皇番場小休所碑」がある。その向こうにはまた「問屋場跡」がある。
交差点に出ると、手差し道標がある。「米原 汽車 道」琵琶湖線が開通した明治22年以降に建立された道標である。その先の右手に「脇本陣跡」高尾家が勤め問屋を兼ねた。
宿に入ると右手に問屋場跡が二軒続く。米原湊を控え物資輸送の要となり、最盛期には問屋場が6軒あった。その先に自然石の「中山道番場宿碑」がある。
慶長8年(1603)番場宿本陣を勤める北村源十郎は彦根藩の命により琵琶湖の米原湊を築き、同16年に湊と中山道を結ぶ米原道を開削した。本陣1軒、脇本陣1軒、問屋6軒、旅籠10軒で彦根藩領であった。
街道沿いには「中山道 久礼」の標識が建っている。街道は榎並木になる。往時は松並木だった。「中山道番場宿」の標識があるはずだが、見つからない。ここが番場宿の東見附跡である。
その先に「六軒茶屋跡」がある。昭和30年頃まで茶屋であった六軒の茅葺建物が軒を連ねていたが、今は一軒になり屋根は茅葺からトタン屋根に変わっている。享保9年(1724)大和郡山藩領の境に建てた茶屋である。草餅が名物でした。
Y字路を左に行くと「西行水・泡子塚」がある。岩の間から清水が湧きだしている醒井宿三名水の三番目の西行水である。岩の上に五輪塔があり、塔には「一煎一期終即今端的雲脚泡」と書かれている。これが泡子塚であるが、見つからなかった。(西行が飲み残した茶の泡を飲んだ娘が男子を出産し、西行が念じると泡となった。)
居醒の清水と蟹石
国道21号線に出る所に自然石の道標「左中仙道」と「墓跡黒谷遺跡標柱」がある。その向かいには色とりどりのよだれかけをつけたお地蔵さまが多数安置されている。
木立の中を10分ほど歩くと、先ほどの道と合流する。その手前に「番の面遺跡」の解説版がある。近畿地方で最初に発見された縄文時代中末期(約4000年前)の遺跡である。竪穴式住居や関東地方と深い係りのある土器、和田峠の黒曜石で作られた鏃や石斧などが発見されている。合流地点には「傍示杭」[歴史街道 橋本西郷氏領 梓河内村(東地内)」がある。
村を抜けるとY字路になる。分岐に「歴史街道 柏原宿枝郷 長沢 右 旧中山道」がある。この分岐に小川(こかわ 粉川 古川)の関があった。不破の関より以前に設けられた関である。左手一帯は「菖蒲ヶ池」跡で、芦が名産であったが、江戸後期に消滅している。大納言俊光は「君が代の ながき例(ためし)に長沢の 池のあやめは 今日ぞひかるる」と詠んでいる。右の旧道に入るが、直ぐに鉄の門があり鍵がかかっている。付近もがっちり柵があり入れない。もどって左の舗装の中山道を歩く。旧道には「十善寺跡」や東山道時代の館があるらしい。
2日目