H.24.09.01
豊橋〜国府
23年12月10日に吉田宿を歩いてから、東下りを始めて、日本橋まで歩いたので、今日からは、残りの区間を歩き始めます。早朝家を出て、豊橋で下り、まずは、まだ行ってなかった吉田城跡に行くことにした。久しぶりで、方向が分からず、歩いている方に聞いて、歩き始めた。札木の駅名が出ている電車道に出て、ここを通ったと思い出した。ちょうど「パト電車」と書いたパトカーのような電車が走っていった。「空き巣にご用心」などと書いてある。
11時15分, 街道から少し入ったところに、白鳥若宮遥拝所の石柱と、冷泉為村の歌碑がある。江戸時代の冷泉家の当主で、冷泉家中興の祖といわれている。一度だけ江戸に行った際に、桜町で詠んだものである。散り残る 花もやあると 桜村 青葉の木かげ 立ちぞやすらう
9時44分 瓜郷町に入ると、右側に、「瓜郷遺跡」の看板が出ている。100mと書いてあったので、行ってみることにした。角を曲がると、直ぐ右に、史跡境界碑があっている。傍の電柱には、「瓜郷町寄道」と住所が書いてある。珍しい名前だ。100mほど進むと左側に「瓜郷遺跡」がある。(この遺跡は低湿地に囲まれた自然堤防の上に立地する、弥生時代中期から古墳時代にかけての集落の跡です。奈良県の唐古遺跡、静岡県の登呂遺跡などどともに、低地にある弥生式時代の遺跡として重要である。)静岡の人間なのに登呂遺跡にも行ったことないのだが、こんな感じなのかと思った。
8時25分、豊橋公園に着いた。門前に「三の丸口門跡」の石柱がある。吉田城の縄張りは、背後に豊川を控え、本丸を中心に二の丸、三の丸を前面と背面に配した、半輪郭式の「後ろ堅固の城」といわれている。
神社の前には、芭蕉の句碑がある。芳野紀行で、芭蕉と越人は、貞亨4年、渥美の保美に社国を訪れる途路に、吉田の旅籠で一夜を過ごした際に、読まれた句である。 寒けれど 二人旅寝ぞ たのもしき
橋を渡り終え、直ぐに左折し、豊川沿いを歩く。この辺りは、下地という。しばらく行くと、豊川稲荷遥拝所の石碑がある。豊川稲荷に寄れない旅人は此処から参拝したのだろう。私も寄れるかどうか分からないので、参拝しておいた。 数分歩くと、右側に聖眼寺がある。山門前に、親鸞聖人の御旧跡の石柱があり、境内には、松葉塚という芭蕉の句碑がある。芭蕉が弟子の杜国の身を案じ、保美の里を訪れる際にこの寺に立ち寄り読んだ。 松葉を焚いて 手ぬくひあふる 寒さ哉
右側に、湊町神明社がある。拝殿の左側に、国学者平田篤胤が書いた、神代文字のカムナガラを刻んだ額が掲げられている。(神の心のままにという意味)
しばらく歩いていくと、魚臭くなってきた。両側には魚を卸す倉庫が立ち並び、その向こうに、豊橋魚市場がある。豊川市の標識があり、その向こうに豊川放水路がある。豊川は、古くは、飽海川、江戸時代には吉田川、明治以降は豊川になった。大雨が降ると洪水が起こりやすかったので、明治に入り放水路の計画が起案され、昭和40年に完成した。
上伝馬交差点を北上する。100m程で、三叉路に出る。右折すると吉田藩の舟寄せ場があった関屋にでる。東海道は左折する。
白川にかかる五六橋を渡り、さらに小さな 西古瀬橋を渡ると、左右に工場が立ち並ぶ工業団地に入る。団地の中を進み、道路標識によると、国府に行くには、前に見える高架の道路を迂回し向こう側に出るようになっている。向こう側にでて、しばらくすると、国1号に出る。 白鳥こ線橋東で名鉄の線路を越え、国府(こう)の国にはいる。奈良時代には、三河国府が置かれ、国分寺、国分尼寺が建てられ、総社もあった。 国府町藪下交差点から斜め左にのびる東海道の道に入る。12時2分半僧坊大権現と書かれた注連縄を付けた小さな祠が祀られている。浜松引佐にある奥山半僧坊のことだろう。火除けの神として全国に広まったそうだ。 その先には、秋葉山の常夜燈が建っている。
街道に戻り、JR飯田線の踏み切りを渡るところで、左側に、小坂井駅がある。街道は、宿地区(江戸時代は宿村)に入る。吉田宿と御油宿の中間にあったので、江戸時代には茶屋があった。10時43分、伊奈村立場茶屋加藤家跡(茶屋本陣跡)がある。粗末な標識があると書かれていたが、今は、石碑が二つと、説明板も建てられ充実していた。加藤家は「良香散」という腹薬を売っていることで、有名だった。芭蕉と烏巣の句碑が建っている。かくさぬそ 宿は菜汁に 唐が羅し(芭蕉) ももの花 さかひしまらぬ かきね哉 (烏巣)
街道を進み、信号交差点を右折し、船町に入る。9時11分、豊川のたもとに出る。その手前に、「吉田宿川会所 吉田の宿を考える会」の看板が架かった家がある。中に入って、記帳し、資料を少し読み、休憩した。直ぐ先には、船町と高札場の説明板がある。川にかかる橋は、豊橋(とよばし)である。江戸時代には、橋の右下辺りに、吉田湊があり、伊勢や江戸への航路の基点として栄えた。池田輝政により最初に架けられた橋は、現在より70m下流にあった。大橋百廿間(約220m)といわれた大きな木橋で、吉田大橋と呼ばれた。明治11年に現在の位置に架けられた際に、豊橋と名前を」変えた。大正5年に、鉄橋になった。
その先に、太鼓屋があり、その前に、一里塚が建っている。伊奈一里塚で、江戸から75番目の一里塚である。太鼓屋さんは珍しいので、中にはいって見学させてもらった。
才の木南交差点を越すと、右手に菟足(うたり)神社がある。先ほどの子だが橋の話は、この神社の春の祭りのことで、今昔物語に記載されている。社紋は兎で、社殿には大きな張子の兎が置いてあった。
10時8分、橋を渡り終えると、右側に、数本の松の木が植わってういる。「子だが橋」と書かれた石碑がある。(今から千年前に、神社の春の大祭の初日、この街道を最初に通った若い女を生贄に捧げるという、人身御供の風習があった。ある年、最初の若い女が通りかかったが、この女は祭りを楽しみに帰ってきたわが子だった。子だが仕方がないと生贄にしてしまった。)それからこの橋を子だが橋というようになった。
竪穴式住居(復元)
少し歩くと、道は右にカーブし、豊川とは分かれる。カーブの右側には、古い家と白居土蔵がある。道は歩道もない狭い道になる。10分ほど歩き、横須賀町交差点を過ぎると、松並木の名残の松が一本だけ立っている。
9時27分、下地交差点手前に、江戸から74番目の下地一里塚の標識がある。車道側に行かないと一里塚の字が見えない。
伊勢神宮の遷宮の時にいただいた神木に篤胤に書いてもらった文字を彫ったもの
8時51分、上伝馬町交差点で、吉田宿西惣門に出る。前回はここまで来て帰った。吉田宿の京側入り口で、ここで、吉田宿は終わる。
東海道に戻って、電車道を右に進むと、8時42分、前回見た吉田宿本陣跡ある。現在は鰻やさんになっている。案内版によると、(江戸時代には、清須屋、東隣りに江戸屋の二軒の本陣があった。吉田宿には、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠65軒あり、ここ札木町辺りは、宿の中心として賑わっていた。)
18切符 2300円
名鉄 290円
自転車 150円
計 2740円
鉄櫓(くろがねやぐら)
イスノキ(マンサク科の高木)
背後の豊川
藪下交差点のあった交番で、この先に名鉄の国府の駅があると聞いていたので、今日は此処で終わり、名鉄で豊橋に出て、藤枝に帰った。駅で、ヤマサの竹輪、豊川のお稲荷さん、知立の大あんまきを買って家に帰った。