国府〜本宿

H.24.09.08

早朝家を出て、JRで豊橋まで行き、名鉄本線で国府まで行く。8時4分国府に着いた。よく晴れた青空の下、先日の街道まで戻る。

並木を過ぎると、赤坂宿の見附跡の看板があった。(見附とは、宿場の入り口に石垣を積み、松などを植えた土居を築き、旅人を監視したところある。赤坂宿は東西にあり、東は東海道を挟んだこの辺りにあり、西は八幡社入り口付近の片側にあった。「赤坂旧事記」によれば、寛政8年、代官辻甚太郎の時、東側の見附を関川神社の前に移築したとされ、明治7年に取り壊された。

9時14分、松並木が始まった。中ごろに、「弥次喜多茶屋食堂]があったが、閉まっていた。綺麗に整備された松並木を歩き、9時25分に並木は終わった。

少し歩くと、右側に、秋葉常夜燈と、本宿村道路元標がある。(旧道路法により、各市町村に一箇所道路の起終点、経路地を表示するため設置され、里程の基準となった。)

12時10分、左側に、法蔵寺がある。僧行基が開祖といわれ、松平氏の初代、親氏が堂宇を建立し、法蔵寺と改めた。家康も子供の頃ここで勉強したという徳川氏と縁が深い。左側の六角堂に上がる途中に、新撰組隊長、近藤勇の首塚がある。(板橋で処刑された近藤の首級は、境三条大橋に晒されたが、同士が三晩目に持ち出し、ここに埋葬された。当時は世間をはばかって、石碑を土で隠し、無縁仏のようにした。いつしか忘れ去られたが、昭和33年の調査で埋葬の由来が明らかになり。土を取り払い、胸像を建てて供養した。)さらに上に上ると、家康を祀った東照宮がある。

11時31分、右にカーブする所に、秋葉常夜燈石仏が安置されている。

8時38分、古い家があり、その前の空き地にベルツ博士花夫人のゆかりの地跡の案内板がある。(ベルツ博士は、日本の医術に貢献したドイツ人で、草津の温泉療法を広めたことで有名である。花夫人は、熊吉とそでとの間に生まれた子で、ベルツ博士と結婚し、日本とドイツで暮らした。熊吉はここで戸田屋という旅館を営んでいた。

8時22分、交差点の向こう側に、姫街道始点追分がある。秋葉常夜燈と、三尺坊大権現道と書かれた石碑が建っている。もう一つの石碑には、「國幣小社砥石鹿神社道 是ヨリ汎二里卅町」とある。姫街道の道標を探したら、朽ち果て、僅かに姫街道と書かれた文字が残っている板切れが立てかけてあった。姫街道は、東海道の脇往還で、ここ御油から遠州見附宿にいたる約60kmの道である。

音羽川にかかる御油橋(旧五井橋)が見えてきた。8時34分その手前に、石碑が建っていて、「・・・楠之道」と書かれて注連縄がかかっている。なんて書いてあるのか見ていると、おばあさんが、寄ってきて話しかけて来た。その方の話によると、「ここは、この先の八面さんの参道で、昔楠正成の子供が3人家来ともに、戦場に行く時、末の子を家来をつけて返した所、この地で、亡くなってしまった。七人の家来とその子供の八人は切腹し、此処に打ち捨てられていたのをここに埋葬した。」この石碑のこの辺りにあったのを、建て直し、この方が毎日水を備えているそうです。ちなみにこの方90歳だそうですが、お元気で話もよく分かりました。この先に八面神社があるそうです。

千東川を大榎橋と千両橋で渡ると、関屋の交差点で国1号と合流する。ここから2kmほど国道を歩く。国道に平行して名鉄が走り、その向こうに高速道路が走っている。強い照り返しの中、30分ほど歩くと、岡崎市に入った。

昔の街道筋を思わせる家がまだ残っている。「八の倉、八平次記念館」という、倉を改造した施設のホールがあった。コンサートなどが開かれるらしい。

9時30分、左側に関川神社がある。関川神社は、三河国司、大江定基の命を受けた赤坂の長者、宮道弥太郎次長富が、クスノキの傍に、市杵島媛命を祀ったのが始まりと伝えられている。大クスノキは、樹齢800年、木の根元がえぐられているのは、慶長14年の十王堂付近の火災の火がとび、こげたもの。境内には、芭蕉の句碑がある。 夏農月(夏の月)御油よ季いてゝ(御油よりいでて)赤坂や   夏の夜の短さを16丁で隣接する赤坂と御油の距離の短さにかけて詠ったものである。

9時52分、 旅籠 大橋屋がある。(大橋屋は、旧屋号が、鯉屋といい、1716年の建築と言われている。赤坂宿の旅籠の中では、大旅籠といわれ、間口9間、奥行き23間あった。入り口の見世間、階段、二階の部屋は往時の様子をとどめている。)後に40畳ほどの大部屋があり、クラブツーリズムのお客さんが泊まると言っていた。

藤川宿へ

吉田宿へ

今日は、お天気も良く、30分の国道歩きなどもあり、藤川宿まで行けず、本宿駅から、豊橋に出て、JRで家に帰った。

此処の角を右に曲がると国1号に出て、地下道を向こう側に渡ると、名鉄本宿駅がある。駅の前に昔の駅舎の模型があった。本宿駅は、八角屋根、銅板葺きの塔楼を乗せた蒲郡ホテルの建物に似せたものだったが、平成4年の国道拡幅工事の際、取り壊された。

12時36分十王堂跡の説明板がある。(街道に沿ったこの地に、十王堂、閻魔堂があった。本尊地蔵菩薩坐像は岡崎市文化財に指定されたが、非公開になっている。)

12時26分、「本宿陣屋跡と代官屋敷」の案内がある。(元禄11年、旗本柴田出雲守勝門が知行地支配のため、ここに陣屋を設けた。以後明治に至るまで存続した。陣屋代官職は富田家世襲し、現存の居宅は1727年の建築である。) 地図の通りに行ってみた。陣屋は現在富田病院になっていて、駐車場の一画に、代官屋敷が残っている。

説明板の直ぐ先に、冠木門が建っている。その先に、「本宿の歴史と文化をたずねて」と書かれた説明板がある。まだ新しく、最近作られたものらしい。此処を左に入ると東海道になる。

11時57分本宿と書かれた石碑の前に出る。近くには、「是より西本宿村 藤川宿へ壱里」と書かれた説明板がある。本宿は、東西の三河が接する所で、奈良古道、鎌倉街道の要地として、中世以降は法蔵寺の門前町として発展した。江戸時代には赤坂宿と藤川宿の間宿になっていた。新箱根入り口の信号交差点の先を左に入る。

道は狭くなり、漆喰壁に連子格子の家がある。少し先の石垣の上に、磯丸 みほとけ 歌碑と書かれた石柱と、観世音菩薩と刻まれた石碑、三馬頭観音が祀られていた。磯丸とは、糟屋磯丸のことで、伊良湖村に生まれた漁師で、漁夫歌人と呼ばれた。一生を通じ数万首の和歌を詠じたといわれている。この碑は、観音堂の庵主が、落馬して亡くなった旅人の供養のため建てたといわれている。

5,6分歩くと、右側に誓林寺という寺がある。親鸞の弟子、誓海坊が建てた草庵がはじまりで、信海が寺にしたと伝えられている。しばらく、音羽川に沿って歩く。右に、安政10年の秋葉常夜燈と村社巌神社の石柱が建っている。神社はここから北に400mはいったところにある。

その先の長沢小学校のグランド脇に、長沢城址の説明板がある。(ここから北西一帯にあった城で、長沢松平氏の初代親則が、1548年頃より居城したといわれ、1634年家光上洛の際には、長沢御殿が建てられ、休憩に利用された。)

小川に架かる橋の手前に、「一里山庚申是ヨリ」と書かれた道標がある。八王子橋を渡り、高架をくぐり、まばらになった家々の道を行くと、11時5分長沢一里塚が左側に建っている。道標の上に、「分間絵図」が描いてあり、それによると、両側に一里塚が造られ、右の一里塚の手前には、御料傍示杭がある。

街道に戻り、長沢(旧長沢村)に入る。10時50分、道の左側に八王子神社の石柱が建っている。道の突き当りを左に入ると、洞泉寺があり、廃屋のような本堂と、石仏が祀られている。右に入ると、常夜燈と鳥居があり、苔むした石段を上がると、社殿があった。帰りは、左にある車道を下ると、途中の石室に石仏が祀られている。

赤坂宿
この辺りで、御油宿は終わり、赤坂宿の間には、国の天然記念物の松並木がある。御油を出ると、上五井である。松並木の手前に公民館があり、馬頭観音などの石仏が並んでいる。また、その隣には、十王堂が建っている。十王とは、冥界にあって、死者の罪業を裁判する十人の王のことで、仏教では、順次十人の王の裁判を受けて、次に生まれてくる場所が決まる。平安後期に日本に伝わり、鎌倉時代に全国に広まった。この建物は明治中ごろ火災にあい、再建されたものである。
倉の前に旅籠大津屋の表示があるということだが、発見できなかった。大津屋は、旅籠を経営していて、飯盛り女が5人集団自殺してしまい、主人はすっかりいやになり、味噌屋に転業した。明治時代に東大出の子孫が技術改革し、今日の発展につながっている。少し行ったところに、東林寺があり、ここに遊女5人が眠っているとのことだったが、それらしいものはなく、この写真がそうかなーと撮ってきた。が、違っていた様だ。

8時55分イチビキという味噌・醤油製造会社の前に、本陣跡がある。御油には2軒の本陣があり、「是は、鈴木半左衛門が営んでいた本陣跡です。」と書いてあった。

突き当たった所は、宿場の中心仲町で、江戸時代には、本陣や、定飛脚所があった。味噌 醤油と書かれた古い看板を掲げた店があるが、今はやっていないようだ。

御油は、徳川幕府が慶長6年に開設した東海道と同時に誕生した宿場町である。安藤広重の御油宿絵のレリーフがあり、「旅人留女」の図で、肥った招き女が小柄な男を強引に旅籠に引っ張りこもうとしている。

道を直進すると、御油保育園があり、その手前の広場に、高札場跡の表示板があった。 この辺りは、宿場特有の鉤型(曲手)になっていたようで、此処を右折すると、右側の空き地に問屋場跡の立て札がある。問屋場とは、江戸時代、公用の荷物や人の継ぎ送りに必要な人足や馬をそなえ、大名や幕府の役人に人馬を提供し、輸送に当たらせたところです。)

8時19分、右側の信用金庫の植え込みに御油一里塚跡がたっている。江戸から76里目の一里塚である。

8時14分、白い土塀と石垣が見える。大社神社といい、100mに及ぶ石垣と土塀は、寛永6年に近くにあった田沼陣屋(老中 田沼意次)の石垣を移したもので、石垣は音羽川の上流から運んだ石で築いたとされている。江戸時代には、国府大明神といわれ、明治5年に、国府村の総氏神となった。

街道を行くと、右側に音羽中学校があり、右に、開運毘沙門天王尊の石柱が建っている。このあたりは家がすくなくなり、田んぼが広がる。左側の道傍に栄善寺の道標が建っている。細い道を入っていくと10時38分、石段の右側に二つの石室があり、石仏が祀られている。草の生えた石段を上ると質素な御堂があった。栄善寺は、1272年、円空上人の創立で、弘法大師がこの地で大日仏を刻み、盲目の男を治したという伝説がある。

10時17分、右奥に、杉森八幡神社がある。境内には樹齢1000年といわれている夫婦杉がある。持統上皇が、東国御巡幸の折、勧進したとされる古い神社で、後で入り口を見ると、「赤坂の舞台」と書いてあった。境内は広く、竹がたくさん用意されて、舞台の準備なのかもしれません。街道筋の家の前には、唐辛子が沢山干してあった。

0時12分、右側に、赤坂陣屋跡の看板がある。(陣屋とは代官所ともいい、年貢の徴収や訴訟などを取り扱ったところである。三河の天領支配の中心であり、当初この奥の大藪地内に設けられたが、元禄2年神木屋敷(現赤坂保育園付近)に移された。幕末に三河県役所と改められた。明治2年また大藪地内に移されたが、廃藩置県後、明治5年に廃止となった。)

御油宿

100mほどで、赤坂紅里交差点にくる。右折すると、名鉄赤坂駅である。この辺りが宿の中心地であった。9時37分、松平彦十郎本陣跡の案内板があり、門だけが復元されていた。(赤坂宿には、4軒の本陣があり、松平家は江戸初期から、本陣を務め、人馬継ぎたてをおこなう問屋もかねていた。

休日切符   2600円
豊橋〜国府  390円
本宿〜豊橋  470円
バス      160円
計      3520円

その向こうに、古民家風の建物があり、休憩施設「よらまいかん」がある。手前に当時の旅籠の様子が描かれた 安藤広重の赤坂宿図がある。描かれているのは、鯉屋の庭のソテツである。明治20年頃の道路拡幅工事により、浄泉寺に移された。中は、休憩できるようになっていて、「赤坂宿の文化財」の写真が飾られていた。

聖徳太子が、太子堂を建てたといわれる、正法寺がある。立派な釣鐘堂や、樹齢400年のウラクツバキや樹齢500年のイヌマキがある。

その向こうには、高札場の復元と、赤坂宿の案内板がある広場があり、休憩できるようになっている。その先に右側に、古い民家があり、民芸品を売っていた。「尾崎屋」という。御主人が、「この辺りも随分このような民家が減りました。」と言っていた。その先に、浄泉寺があり、薬師堂の鰐口や大ソテツを見た。

御油松並木資料館があるというので、寄り道して行ってみたが、開館は10時ということで、まだ開いていなかった。前に樹齢380年という松の切り株が展示されていた。

音羽川にかかる御油橋を渡ると、若宮八幡宮がある。小さな社と狛犬があるだけです。

本陣 4軒 脇本陣0 旅籠64軒