二川〜豊橋  H.23.12.10

朝、藤枝からJRで9時06分に二川駅に着いた。前回は、本陣あたりで、電車の時間になってしまったので、今日は、本陣まで戻って歩き始めることにした。駅前に二川宿の説明板があった。 「二川宿は、慶長6年(1601)徳川家康により、街道整備に伴って、宿駅として整備された。開設当時は、二川村と大岩村の二か村で、一宿分の業務を行なっていた。1644年、両村は現在地に移転して、二川村と加宿大岩村となり、33番目の宿場としての業務を行なうこととなった。1643年には、本陣、脇本陣がそれぞれ1軒ずつ、旅籠屋が38軒、家数は328軒だった。」

JR  2600円
バス  160円 
 2960円

まだ、1時23分だったが、豊橋駅に行き、藤枝に戻った。今日は、歩いた距離は長くなかったが、二川を歩きなおしたり、岩屋観音に寄ったりしていたので、充実した一日だった。

吉田宿続きへ

二川宿へ

松葉公園を右折し、直進すると、上伝馬交差点にでる。交差点を超えた右側に、西惣門のミニチュアが置かれて板。これは吉田城の西門であると同時に吉田宿の京方の入り口で、吉田宿はここで終わる。

これから東海道の標識とナビにしている書いたものを頼りに角を何回も曲がる。くすのき通りの交差点北側の分離帯に、曲尺手(かねんて)門跡の石碑が建っている。吉田宿の石碑も建っていた。

吉田は、豊川の流れに近接して築城された吉田城を有する城下町で、東海道の中では、大きな宿場のひとつだった。

吉田宿

しばらく歩いていくと、左からの道と合流する。この道は国道1号線と平行して走っている。飯村(いむれ)町東川の交差点を過ぎる。 そのまま進むと、柳生川にかかる殿田橋を渡る。ここは、江戸時代に一里塚があったところとかいてあったので、今はマクドナルドになっている敷地をクルリと回ってみたが、見つけることは出来なかった。ここで、国道1号に合流し、しばらくは、単調な国道を歩く。

左に曲がって、歩いていくと、岩屋緑地があり、岩屋観音への入り口で、「東海道岩屋山古道 吉田宿に至る」と書かれた標識が立っていた。坂を登り、しばらく緑地を歩き、傾斜がきつくなると、岩山が見えてきた。赤い幟がはためく先に、弘法大師を祀る大師堂があり、そのむこうに鐘楼があった。大師堂の周りには沢山の石仏が置かれていた。左手の奥に観音堂があった。 岩屋観音堂は、僧行基が天平弐年(730)の諸国巡行の際に、十一面観音を刻んで、岩屋に安置して開いたと伝えられる。

東海道は、城下の入り口の東新町のところで、鉤型になっていた。旧東海道はここで左折して、一本目の角を右折し、突き当りを右折し、西新町の交差点に出る。その先が東新町だが、大きな歩道橋がかかっている。その交差点の北東角に秋葉山常夜燈が建っている。歩道橋の欄干にまたあのステッカーが貼ってあった。その矢印どおりに下りていくと、東惣門のミニチュアがあった。案内板によると「東惣門は鍛治町の東川に位置する下モ町の吉田城惣堀西で、東海道にまたがって南向きに建てられていた。惣門は朝四つから夜四つまで(午前6時から午後10時)開けられていた。」 豊橋にはまだ路面電車が走っていて、ちょうど歩道橋の上にいるとき走って来た。

道が細くなったり、整備された道になったりして続く。黒松の街路樹の道が続く。ヤマハ音楽教室の前に大きな黒松があったが、木の切り株が残されていて、石碑が立っていた。それによると「この地区には、昭和40年代には、100本を越える松が残っていた。松くい虫や道路の拡幅などにより、減少し、最後に残った松も松くい虫のため、平成19年2月28日に伐採された。年輪から、江戸時代末期の安政年間(1854〜60)に植えられたことが分かった。」高師口の旧東海道の黒松と言われていた。高さ11m50cm 幹周り2m34cm、樹齢200年以上と書いてあった。

札木交差点の右側に、豊橋鉄道の札木駅があった。交差点を渡ると、右に丸よという鰻屋さんがあり、店の前に本陣跡の石碑が立っていた。 案内板によると「江戸時代の清須屋与右衛門本陣跡で、東隣の江戸屋新右衛門の本陣は並んで建っていた。」

曲がりくねって進んでいくと、(あっているかどうか分からないが)東海道の右折矢印の標識があり、右折すると呉服町で、江戸時代の宿場に入っていく。吉田宿は、本陣は二軒、脇本陣は一軒、旅籠は65軒だった。本陣に向かう途中に吉田城大手門跡の標柱があった。 

国道を歩いていると、筆工房、豊橋筆と書かれた看板が目立つ。調べてみると、豊橋筆は有名で、豊橋近郊(田原市、豊川市)で作られていて、広島県の熊野町の熊野筆についで全国第2位だそうだ。瓦町交差点角に寿泉禅寺の大きな寺があり、新しい三重の塔がそびえていた。

東海道に戻り、火打坂を上ると、大きな園芸店があり、その角に写真のようなステッカーが貼ってあった。「東海道ネットワークの会21 歴史の道」と書いてあり、矢印がついていた。矢印どおり、左に曲がり、しばらく道なりに歩く。左側に岩屋緑地と書かれた柱が見えた。ぐるっとまわってきたが、向こう側の緑地と繋がっていたのだ。

観音堂の横に、祠があり、そこにも石仏が何体か置かれていた。「岩屋観音 登山口」と書かれた標識があり、進むと、両側に鎖のついた杭が、岩の道に上まで続いていた。落ち葉で滑るので、慎重に上っていく。さっき、下で会ったおばあさんが、ペットボトルを2本持って上がってきた。上で、おじいさんが観音様の周りの木を切っていた。

本陣を出ると、左側に高札場跡と秋葉山常夜燈があった。この場所がへこんでいるのは、鉤型のなごりである。ここから、加宿大岩町にはいる。 少し行くと、右側の連子格子の家の隣に西問屋場跡の石碑が立っていた。 その先の交差点の交番の前に、郷倉跡の石碑があった。郷倉とは、年貢米などを蓄えておいた村の共同の倉で、二川村と大岩村の二箇所にあった。

本陣の少し先に、東駒屋がある。江戸時代から、味噌醤油を造って来た商家で、現在でも赤味噌を製造販売している。東駒屋のまえの道は、曲尺手(かねんて)と呼ばれ、街道が折れ曲がっている。

頂上は狭いので、観音様の正面に立って、写真をとることは出来ない。一段下がったところに、小さな社があり、おばあさんが掃除をしていた。 時々来て掃除をしていると言っていた。足元が危ない所だった。 豊橋の町が一望できた。登山の格好をした夫婦が来て、あそこの展望台までいけるか?と聞いていた。「鎖を伝って下りると、階段があるから、道なりに行くと行ける。」とおばあさんが教えていた。 下りてきて上を見上げると、観音様が見えた。ここは足腰の弱った方の遥拝所なんだろう。もみじが綺麗だった。

岩屋観音堂

駅に戻る。駅の前の広場に石碑が建っていた。「是より、岩屋へ八丁」と書いてあった。駅の前の道を左へ歩いていく。左側大きな石碑が建っている。正面には「伊良湖阿志両神社」、右側には、右東海道豊橋一里半 と書いてある。 伊良湖阿会志両神社とは、渥美半島にある伊良湖神社と、田原市芦町にある式内社の阿志神社のことである。道は上り坂で、火打坂交差点に出る。直進し火打坂を上っていくのが東海道で、左折すると岩屋観音に行く道になる。

街道に戻ると、左側に立場茶屋跡の石碑があった。

右側の突き当たりに、大岩神明宮がある。 二川駅に着いて、本陣が9:30に開くということで、こちらにはじめに寄って、お参りをした。神明宮は、文武天皇弐年(698)に、岩屋山南に勧進したのが、始まりといわれ、保延元年(1135)大岩村が本郷に遷座し、その後も大岩村の移転と共に、正保元年(1644)に現在地に来た。 境内には、秋葉山常夜燈、や燈籠がある。イチョウの黄葉が綺麗だった。

二川宿本陣は、旧東海道筋の宿場に、2箇所しか現存していない本陣のひとつで、もうひとつは、草津宿本陣である。1807年より明治3年(1870年)の本陣廃止まで本陣職を勤めた馬場家の建物で、何度も増改築が行なわれ、安政2年(1855)には総建坪233坪となり、本陣として最も整備された状態になった。平成3年資料館が開園され、また、平成17年には旅籠 清明屋も資料館として見学できるようになった。

本陣前には、西駒屋があり、東駒屋の分家で、醤油 溜 西駒屋のブリキの看板がかかっていた。

その先の民家に脇本陣跡の案内板がかかっていた。脇本陣の建物は、間口が7間(約13m)奥行きが19間(約35m)で、畳数は93畳であった。脇本陣は松阪家が勤めていた。1807年以前には、後藤家、紅林家の本陣があった。文化4年本陣が紅林家から馬場家に移った際に、本陣建築のため、街道の南にあった脇本陣はこの地に移った。とあった。

清明屋 文化14年(1817)に建てられた。平成14年より改修復元工事を行い、間取り図が残る江戸代末期の姿に復元した。

大甕 明治時代以降、馬場家が味噌醤油の製造業を行っていた時に使用した甕

本陣の玄関

高札場 復元

旅の様子 資料館

整備される前の本陣

本陣板の間