早朝、藤枝からJRで、豊橋まで行き、名鉄に乗り換え、豊明に9時15分に着いた。国道1号線にでて、西に向かって歩き始める。やがて、県道が通る陸橋が見えてくる。手前で道が二股になり、左側の東海道に入る。

H.24.12.9

豊明〜鳴海

有松は、慶長13年(1608年)尾張藩により、桶狭間の有松集落を分村し、知多郡阿久比村から11戸を移住させ、間の宿にした。耕地も少なく茶屋集落としての営みも限界があったため、副業として絞り染めを工夫しました。この有松絞りが東海道の旅人に評判になり、繁栄を誇りました。 天明4年(1784)の大火により村の大半が焼失しが、その後、火災に備えて漆喰による塗篭造りとし、萱葺きを瓦葺にした。当時の面影を残す豪壮な町家が立ち並んでいる。新しい家も、「町並み保存地区」になっているため、あわせた造りになっている。

9時30分阿野一里塚がある。若いお母さん方が3人で、落ち葉を掻き集めていた。「汗がこんなにでて、水着になりたいくらい。」と冗談をいいながら作業していた。左側の歌碑には、森市節の「春風や 坂ののぼりに 馬の鈴」と言う句が書かれていた。説明板によると(阿野一里塚から前後に向かって坂を上り詰めると、名医の誉れ高い三田邸があり、春風に馬の鈴が蘇るように響き、道には山桜が点在して、旅人の心を慰めてくれる。の意味)と書かれていた。 右側の一里塚はすっかり崩れていて、切り株だけが残っていた。

名物有松絞りを吊るした店が並ぶ。東海道五十三次 鳴海

桶狭間古戦場がどこであったか異説があるが、今川軍2万5千、織田軍3万が戦ったので、かなり広範囲にわたっていたと考えられる。義元の本陣が、義元がどこで戦死したかということが問題である。桶狭間七石表によって戦死場所を知ることが出来る。1号碑は義元が戦死した場所であり、2号碑は松井宗信の戦死の場所で、3号以下は義元の武将5人の戦死場所であるが、氏名不詳である。

東西18間(約1.6km)本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠268軒のかなり大きな規模の宿場町だった。古い家が多少残っている。しばらく行くと、「飛脚と旅女」のレリーフが置かれていた。

有松山車会館では、三台の山車を交代で展示している。今は、「神宮皇后車」が飾られていた。ほかに「布袋車」と「唐子車」があり、山車の上で、繰り広げられるからくり人形の演技が見所が見所だそうです。山車は一階に、お囃子が乗り、2階に人形を操る人が乗り、総勢30人ほどが乗るそうです。祭りノビデオを10分くらい見せてもらい後にした。

祭りで着る絞りの浴衣

服部家住宅  会館の前にある。(東海道に面し、有松における絞り問屋としての代表的な建物である。主屋は塗籠造りで、卯建をもうけ、蔵は土蔵造りで、腰に海鼠壁を設け防火対策を行なっている。服部家は屋号を井桁屋という。県の有形文化財に指定されている。

知立宿

鳴海宿続き

鳴海宿

東海道五十三次二代目松

しばらく行くと、国道1号線に合流する。三叉路の交差点に、サラブレッドのレリーフが建つ。名鉄の高架をくぐると「中央競馬場前駅」があり「土日には中京競馬が開催されるので、競馬場前止まります。」というアナウンスが名鉄電車に乗っている時、流れていた。

少し歩くと、前後駅交差点にでる。名前の由来は、桶狭間の戦いの後、織田方の雑兵が、褒賞を貰うため、敵方の首を前と後に振り分け荷物のように肩に担いだという話からきている。 神明社の石柱と常夜燈を右に見て進むと、落合公会堂の前に、寂応庵跡の石碑がある。寂応庵は、北尾村出身の浜島明道尼が建立した小庵の跡で、街道を行く旅人に茶を提供したので「お茶所」と呼ばれていた。その後無住となり、廃寺になった。碑には「初祖明道尼首座百回忌」とあり昭和62年に、明道尼の子孫が建立したものである。

今川治部大輔義元墓

七石表1号碑

史跡桶狭間古戦場

その隣に、「鳴海絞り製造卸」の店がある。鳴海は、有松とともに、絞りで知られた所で、有松の方が、生産や販売力が向上したので、鳴海と有松の間で、絞りの販売権をめぐって紛争が起きた。と言われている。

電柱に「猩々発祥の地」と書かれている。鳴海では「猩々祭り」がある。猩々人形が子供を追いかけ、大きな赤い手で、お尻を叩こうとする。叩かれた子は夏病にかからないという。最近はお尻を叩かず、頭をなでる。人形は赤い顔の面と上半身分の竹組みで出来ており、その上から衣装で覆う。大人がこれを被ると、身長2mの巨人となる。

5分ほどで、平部町交差点に出る。渡った左側に、平部常夜燈がある。説明板によると、(東海道品川宿から数えて40番目の宿場、鳴海宿の東の入り口平部町に建てられた。1806年に建てられたもので、旅人の目印や宿場内及び宿の安全と火災厄除などを秋葉社に祈願した。 道の入り口に「此処より、鳴海宿」と書かれていた。

10分ほど歩くと、両側に大きな松の木がある。松並木の名残だろうか?

卯建(うだつ)

唐子車山車庫   乗せている三体のからくり人形がすべて唐子で出来ているところから「唐子車」と呼ばれる。知多の豪商が20年の歳月をかけて製作し、明治8年にここ有松に譲られた。

岡家住宅は、江戸時代末期の重厚な有松の絞り問屋の建築様式である。二階の窓は、優美な縦格子をもち、塗篭造りの建物である。また、お勝手の釜場の壁は、防火上塗篭で、このような形式では、現存する唯一の例で、意匠的にも優れている。と書かれていた。

竹田庄九郎の碑 そばにきんさんぎんさん来館記念の「ウコン桜」が2本植えられていた。

絞り会館

その先の左側に、有松鳴海絞会館がある。絞り商品の展示販売、絞り技術の実演を行なっている。 有松は、江戸時代のはじめ、絞開祖竹田庄九郎らによって誕生した。有松絞り400年の歴史は、尾張藩が藩の特産品として保護し、庄九郎を御用商人として取り立てたことからはじまった。旅人が、故郷への土産にと絞りの手ぬぐいや、浴衣などを買い求め、これが街道市の名産品となった。絞り技法は100種類のも及び、日本の絞り生産の約90%を占めている。

有松山車会館の右側に石の道標が立ち、右 大府縣道と書かれていた。

一里塚をでると、緩やかな上り坂となる。豊明小学校の前に一本の松の木がある。遠めにも枯れてしまって見えたが、松食虫にやられてしまったのだろうか?説明板によると、(徳川家康が東海道を開いて植えた松並木の一本で、市内では数少ない名残の一本である。)と書かれていた。残念である。

街道に戻り、直ぐ左に入るが、直ぐ国道にでて、しばらく国道を歩く。大将ヶ根の交差点を渡り、右側の細い道にはいる。入り口に東海道のイラストがあり、直ぐの民家は「絞里堂」という看板が出ていて、「絞り製品販売いたします」と書かれていた。此処からは、有松である。 

古戦場の向かいには、高徳院があり、境内には「義元公本陣跡」の石碑や、「松井宗信の墓」がある。松井宗信は遠州二俣城の城主で、この地で戦死したと書かれていた。

その先の三田皮膚科クリニックの隣に立派なお屋敷がある。門が閉まっていて、中を覗いたが、「明治天皇東阿野御小休憩所跡」という石碑が建っている。その横に説明板が立っている。(明治天皇は、明治元年から弐年にかけて、東京と京都の間を行き来した。その際、三田邸で休息をおとりになった。叉明治11年の北陸、東海御巡幸の際に休憩した。文部省)

右側に、「桶狭間古戦場跡100m」の看板がある。

立ちならぶ 花にしきと家ごとに かけ渡したる くくり染めかな   

休日切符  2600円
豊橋〜豊明  840円
鳴海〜豊橋  900円
バス       160円
計     4500円

橋を渡ると、浄泉寺がある。2時近くになったので、鳴海駅から名鉄に乗り、豊橋でJRに乗り換え藤枝に帰った。

文章嶺天満宮の灯篭の立つ横に、二代目松と書かれた松がある。そこを過ぎて、右側の祇園寺を過ぎると、有松はおわる。道路が交差した所に、有松一里塚があった。新しく造ったような一里塚だった。(2012年12月に完成したようです。)名鉄の踏切を渡り、手越川に架かる鎌研橋を渡ると、四本木で、この辺りに一里塚はあったようです。

中舛竹田家は、竹田庄九郎ゆかりの江戸時代の建物であったと伝えられている。老朽化が進み、[有松まちなみ保存ファンド募金」を活用し、梁などの材料を生かし、外観は江戸期の様式を再現しました。と書かれていた。

小塚家住宅は、重厚広壮な有松の絞り問屋の形態をとくとどめている。主屋の一階は格子窓、二階は塗篭壁、隣家との境には、卯建があり、塗篭造りの最も古い物の一つと考えられる。屋号を山形屋として明治期まで絞問屋を営んでいた。

有松や 家の中なる ふじのは那  淡々

松井宗信の墓

高徳院

ボランティアガイドさんが、案内する予定がキャンセルになったので、良かったら案内してくれると言うことで、案内してもらった。桶狭間古戦場は、二ヶ所ありそれぞれが主張しているようだが、ガイドの方は、此処には、このように残っているものがあるので、此処に違いないと言っていた。

お化け地蔵

桶狭間弔古碑

徳本の名号

今川義元仏式の墓碑

今川義元公本陣跡