早朝、藤枝からJRで金山まで行き、名鉄に乗り換えて9時30分鳴海駅に着いた。先日見落とした中島砦跡を見たかったので、中島橋まで戻った。探してもない。(後で調べた所、東海道沿いではなく、手越川沿いにあったらしい。)橋を渡り、瑞泉寺がある。説明板によると(鳴海根古屋城主、安原宗範が1396年に創建したと伝えられる。山門は、宇治市の万福寺総門を模した中国風の形式の門で、県の有形文化財に指定されている。)とあった。

少し進むと、三皿交差点で、県道36号線を渡り、向こう側の道に進む。11時4分、右側に、村社式内成海神社の石柱がある。成海神社は根古屋城を築城した神社で、この東方にある。高札場の坂を上って行くと成海神社があった。11時6分丹下町常夜燈が建っている。説明板によると、(鳴海宿の西の入り口丹下町に建てられた常夜燈である。旅人の目印や、宿内の人々や、伝馬の馬方衆の安全祈願と、火災厄除けなど火防神として大切な存在だった。ここで、鳴海宿はおわる。

善照寺砦は、今川義元との戦いの際に織田信長が鳴海城を囲むように築いた三砦のひとつである。1559年山口教継、教吉親子の切腹により、鳴海城は大高城とともに、今川義元の支配下になった。信長は、城を囲むように丹下砦、善照寺砦、中島砦を築き、さらに、大高城との連絡を絶つべく、丸根砦、鷲津砦を築いた。

天神社の右の坂を上ると、円龍寺というお寺がある。塀に「円龍寺の由来」が書かれている。(今から700年前には、奈良の法隆寺に匹敵する伽藍が建つ善照寺というお寺だった。現在の善照寺砦の墓地はその時の寺の墓地である。元の本堂は二百数十年前に伊勢から移築され、損傷がひどくなり、昭和59年に立て替えられた。その時、古代遺跡の発掘出土し、古き伝統をうかがい知ることが出来ます。)

境内には、弁財天が祀られた弁天堂がある。(弁財天は、インドの女神サラスヴァーティの漢訳である。学問・芸術の女神として広く民衆の信仰を集めた。湖水の内に多く祀られる。頭に白蛇を飾り、宝冠をいただき、右手に剣を左手に宝珠を捧げている。)

街道の反対側には、「桜神明社 塩付街道」の道標がある。細い道をはいり、左に曲がって行くと、踏み切り手前にある。(五世紀に築かれたという古墳の上に社殿が建てられている。桜神明社古墳といい、姫塚とも言われている。直径36m、高さ4.5mの円墳で、墳丘裾西から北にかけて周濠が残っている。五世紀頃の須恵器が発掘されている。)

左側に「富部神社 塩付街道」の道標がある。(富部神社は、笠寺台地に鎮座している。古代、台地の周辺は海で、「年魚市潟(あゆちがた)と呼ばれていた。慶長年間に、清洲城主松平忠吉公はこの地に富部神社を創建した。桃山建築の姿を残す本殿は国の重要文化財になっている。)巫女さんが白菜、人参などの野菜を本殿の前にお供えしているので、聞いてみると、今から車のお祓いがあるので、その準備をしているとのことだった。

街道はその先で、右にカーブし、その先の三叉路に、笠寺一里塚がある。直径10m、高さ3mの土を盛った上に、大きな榎が枝を広げて立っている。反対側は大正時代に消滅したようである。(ここは、江戸から88里の所にあり、名古屋市内を通る旧東海道に残る唯一の一里塚で、東側だけが、残っている。)と書かれていた。

右側の路地の奥に、如意寺がある。説明板によると、(1059年、鳴海町上の山で、地蔵尊を本尊として、青鬼山地蔵堂として開山した。1398年に、無住国師が、如意輪観音を本堂に祀った際に、当地に移転し、現在の寺名になった。)本堂の隣には、蛤地蔵堂があり、尾張国六地蔵の第四番目である。すりガラスでおおわれていたが、一マスだけ開いていて、金ぴかの大きなお地蔵さんを拝むことが出来た。蛤地蔵は、定朝の作といわれ、何か不吉なことが起きる前に、地蔵尊の首ががっくりと前に倒れ、体中に汗をかくと言われている。

さらに上ると、鳴海小学校があり、右側には、「須佐ノ命」を祀る小さな神社がある。

随分古く広大な敷地をもつ住宅がある。右手に曲がると「100m東福院」と書いてあったので、行ってみたが、寺に着く手前まで、その住宅の敷地だった。東福院は、(古くは鎌倉街道に存在したが、寛永年間にこの地に再建される。現在残る山門は、根古屋城の廃材を用いている。)

本町交差点を右折すると、いくつかの寺がある。誓願寺は、天正元年の創建で、本尊は阿弥陀如来であるが、境内に、芭蕉供養塔芭蕉堂がある。芭蕉の門下の下里知足は、鳴海宿で千代倉という屋号で、造り酒屋を営んでいた。芭蕉のスポンサーの一人だった。笈の小文の旅の途中、ここで休息している。供養塔は、芭蕉が没した1ヵ月後に追悼句会が営まれた際に、鳴海の門下達により、如意寺に建てられた、最古の芭蕉碑である。その後此処に移された。

これは、成海神社の御神木だったが、造成のためやむなきことになった。

塩付街道  山崎、戸部、笠寺、本地、南野、荒井、牛毛はかって星崎7力村といわれ、塩の生産が盛んだった。各村で作られた塩は、いったん村の塩倉に集められ、富部神社辺りから、桜、新屋敷をへて遠く信州塩尻まで運ばれた。この道のことを言います。

此処からは、呼継で、東海道の新しい道標が建っている。呼継という地名は、宮の宿より渡し舟の出港を呼びついたことからといわれるが、江戸時代は四方を川と海に囲まれ、陸の浮島のようなところだった。巨松があったところから、松の巨嶋と呼ばれた。

商店街は色々な催し物で賑わっていた。中でもこの3体の人形が目を引く。傍の「猩々保存会」の法被を着た人に聞くと、是が猩々祭りで使われる、この地区の猩々だそうだ。実際に被った所を見たかったが、残念ながら先を急いだ。商店街は直ぐ終わり、名鉄の踏切を渡り、直ぐ右に曲がる。

寺の西門をでると、大力餅の看板があり、大きなお餅が売られていた。通りを抜けると、広い道に出る。向こう側に、「笠寺商店街」と大きく書かれている。こちら側には、笠寺の由来が書かれていて、向こう側には、蛙の置物がおいてあり、「笠寺と戸部の蛙」と書かれていた。(笠寺の節分には、露天が並び、郷土玩具として売り出されたものに戸部の蛙がある。文化文政の頃、笠寺の瓦職人が、瓦粘土で手慰みに作ったことに始まる。)と書かれていた。

笠寺の横には、玉照姫と書かれた泉増院がある。笠寺にも「玉照姫・兼公」を祀ったお堂があった。(旅の途中で通りかかった藤原兼平が雨の日にこの観音像を笠で覆った娘を見初めて、都に連れて帰り、玉照姫と名づけ妻にした。この縁で、現在の場所に観音像を祀る寺が建立され、笠覆寺と名づけられた。

高射砲の砲台跡と弾薬庫(太平洋戦争中、此処には、高射砲陣地があった。)

三叉路の右の道に入っていくと、見晴台遺跡があり、今も発掘が続けられている。説明板によると、(見晴台は笠寺台地の東南端にあり、かっては海に面していた。台地上には、弥生時代から古墳時代の集落跡であるほか、鎌倉・室町時代は隣接する笠寺観音の寺地として、僧坊は寺関係者の住居群があった。

街道に戻り、三王山交差点で、県道59号線を渡り、直進すると、山下西交差点で、広い道に合流し、天白川に架かる天白橋を渡ると南区に入る。11時40分橋を渡り終え、天白橋西交差点を渡り、赤坪交差点をわたる。歩道に消えそうな東海道のイラストが描かれていた。

50mほど行った先の右側に、「正一位緒畑稲荷神社」の石柱と千鳥塚の道標がある。坂を上ると、「千句塚公園」と書かれたレリーフがあり、「星崎の 闇を見よとや 啼く千鳥 」という芭蕉の句が刻まれている。(千鳥塚は、芭蕉が貞享4年冬、寺島安信宅での歌仙の巻きが満尾した記念に建てたもので、小さな青い自然石で出来ている。芭蕉存命中に建てられた唯一の翁塚であり、俳文学史上稀有の遺跡といってよい。)と説明板に書かれていた。

三王山の上は広場になっていて、眺めも良く、しばらく休憩した。その北側に、緒畑稲荷神社がある。

街道にもどり、進むと、三叉路になり、交差点には、作町とあるが、桶狭間の戦いの後、鳴海城主を務めた、佐久間重盛、信栄親子から付いたとされている。ここを右折する。街道には、古い家がまだ残っているが、修復の跡もあり、住んでるらしい家もあり、もう誰も住んでいないのではという家もあった。

街道に戻り、本町交差点で、右折する。右側に「大名茶屋 飲み食い問屋場」と書かれた店がある。それに見とれて、本陣跡を見逃し、しばらく歩いて引き返し、この店の反対側にある本陣跡を見つけた。説明板によると、(鳴海は、東海道五十三次の宿駅の一つとして栄えた。一般の旅人の旅籠とは別に、身分の高い人が泊まる本陣が置かれた。予備の脇本陣が2軒あった。)

鳴海城跡 根古屋城ともいい、安原宗範の築城といわれる。桶狭間の戦いでは、今川方の猛将岡部元信がこの城に配され義元が討たれたあとも最後まで立てこもって奮戦した。その後、佐久間信盛、正勝らが城主となったが、天承18年廃城になった。

誓願寺の隣は、曹洞宗の尼寺、庚申山円道寺で、400年以上前に創建され、本尊は、青面金剛尊(庚申様)である。本堂の屋根には、三猿像がすえられている。

鳴海〜桜

H.24.12.16

万福寺からの下郷家

11時16分、右側の草原に、鉾ノ木貝塚の案内板が立っている。左側の坂を上るが、上から来た方に「何もないのよ。」と言われ、戻った。案内板によると、(縄文時代初期から前期にかけての貝塚で、貝層はハイガイを主としている。下部貝層からは、縄文のあるやや厚い土器や、薄手の細線紋土器が、上部貝層からは、前期中ごろの羽状縄文、爪形紋を施した平底の深鉢型土器を主体として出土しており、上部土器の形式をとらえ「鉾ノ木式」と呼ばれる。野村三郎氏により発見された。

本陣跡

集落を守るを再現している。

UFJ銀行の前の、復元された高札場

JR青春18  2300円
金山〜鳴海  290円
桜       200円
計     2790円

塩付小学校を過ぎた辺りで、13時30分になったので、最寄の駅を付近にいた方に聞くと、桜駅が右に入った所にあるということで、桜駅から金山にでて、JRで藤枝に帰った。今日も、行きつ戻りつしながら、何とか街道を歩くことが出来た。

徳川家康公幼少の砌、人質交換の地

六道救世 六地蔵 (お釈迦様が入滅されてから、遠い未来に弥勒菩薩が仏陀となって世の現れるまでの間、現在において衆生を救うのが、地蔵菩薩といわれている。)

左が、芭蕉の千鳥塚、右は宮本武蔵の碑

時々古い家があり、500mほど行くと、天林山笠覆寺がある。本尊は十一面観音で、笠を被っているので、笠覆寺とか笠寺と呼ばれている。今日は、16日で、6がつく6,16,26は青空市が開かれると言うことで、賑わっていた。本尊は秘仏で、8年後とのご開帳がある。

11時47分、東海道の道標が建っている。「知多郡道 この先50m南へ」と書かれている。その先には、「東海道分間延絵図」の大きな地図があり、鳴海宿から熱田宿への道が描かれてる。

院を出ると、お堂があり、沢山の仏像が祀られていた。

赤い幟のはためく庚申坂を上ると、右に天神社 成海神社旧蹟の石柱がある。日本武尊が、東征の折り、鳴海浦に立ち寄り、 対岸の火高丘陵の尾張館を望見して 遠い火高地 この夕浦に 渡らへむかも と叫んだ。

くくり猿塚と庚申明王

街道に戻り、歩き始める。その先は鉤型のように右に曲がり、左に曲がり、学習センタ−がある。「鳴海町役場跡」の石碑があるが、ここは、問屋場跡でもあるようだが、何の標識も立っていない。

右手の奥に、万福寺がある。(永享年間に、三井右近太夫高行により、創建され、永禄3年の兵火で焼失したが、再建され、江戸末期に再々建された。明治6年、鳴海小学校の仮校舎となり、校名を広道学校とした。)と書かれていた。本堂は大きく立派で、大きなイチョウの木があった。山門からは、下の下郷家が良く見えた。右手には、浄泉寺がある。

宮宿

知立宿

徳本上人は、江戸時代後期、浄土集の僧で、徳本上人、徳本行者とも呼ばれた。27歳の時に出家し、木食行を行なった。各地を巡り、念仏聖として知られていた。行者独特の筆跡による「南無阿弥陀仏」の名号碑

猩々発祥の地」の看板

街道沿いには、「下郷」の表札の家が何軒かある。下郷家とは、街道屈指の名家といわれた「千代蔵家」のことで、右に入った所には、大きなお屋敷が残っている。千代蔵という蕎麦屋があったが、前回も、今日も閉まっていた。中には、大きな柱があり、槍がすえられていたそうで、かっては、下郷家の門(玄関)であったという。

街道の戻り、左側に清水稲荷神社がある。境内には、石仏がいたるところに置かれている。神社の前には、東海道の大きな石碑が建っている。(江戸時代、東海道が通っていた呼継浜は、潮騒が磯を洗い、大磯の名を残す。ここらで作られた塩は、星崎辺りから北に伸びて飯田街道に接続する塩付街道を通って、小牧や信州に運ばれた。)と宿駅400年記念碑に書かれていた。

山門