東岡崎〜牛田

早朝家を出て、JRで豊橋まで、名鉄に乗り換えて、東岡崎まで行く。8時50分に着いた。岡崎は、徳川家康公が生誕した岡崎城の城下町として発展し、当時は旅籠102軒、本陣3軒、脇本陣3軒の規模で、直角に曲がりくねった「二十七曲がり」が特徴的である。城の防備等のために作られたもので、迷路のような道が続く。宿場西側の矢作橋は、当時東海道で最長の大橋で、広重の浮世絵にも登場するほど美しかった。 駅の左方向に行くと、家康の手形がある。

芭蕉の句碑 木のもとに汁も膾も左久良哉

大手門(復元)

徳川家康の像

お茶壷道中 宇治茶を将軍に献上することに始まった。宿場では、100人の人足を出さなければならないことから、負担も大きく恐れられていた。岡崎宿では、ご馳走屋敷で丁寧にもてなした。

籠田総門碑まで170m

田中吉政 秀吉の甥秀次の家老として岡崎に入城する。城下町全体を土塁と堀で囲み、「二十七曲がり」という屈折の多い道を造った。矢作川に橋を架け、東海道を城下町に導くことで、商工業の発展を計った。現在の岡崎の基となる都市開発を行なった。

人馬継立 旅人は各宿場の人足会所・馬会所で馬や人足を雇いながら旅をした。東海道では五十三の宿駅で継ぎ立てをしたので「東海道五十三次」と呼ばれたのである。

少し先に、赤い煉瓦造りの岡崎信用金庫資料館がある。赤レンガと地元産の御影石を使用し、ルネッサンス様式の建物は、大正6年、旧岡崎銀行本店として建てられた。この辺りには、岡崎宿の問屋(人馬会所)があった。左側の伝馬公設市場が、御馳走屋敷跡である。

江戸時代には、備前屋の道の反対側には、高札場と自身番があった。備前屋の数軒先に、糸惣の建物がある。文化9年の伝馬町家順間口書には、小間物屋、糸屋惣兵衛とあり、現在は松阪牛を扱っている。 また、道の反対側には、漢方薬の大黒屋がある。元禄年間には、庄屋をつとめた家柄で、世襲名を小野権右衛門という。東海道は、この先で、左折し、また右折して、突き当たり右折する所に、西本陣跡の石碑が建っている。西本陣は、中根甚太郎が勤めていた。江戸時代、この角には旅籠があり、その手前に大津本陣があった。50mほど歩き、交差点で右折する。明治二巳巳年十二月建之と書かれた道標が建っている。

飯盛女  旅籠で旅人の給仕や雑用をする女性であったが、三味線を弾き、歌や踊りを披露する遊女でもあった。岡崎宿の飯盛女はその繁盛振りが全国にとどろいていた。

H.24.10.24

10分ほど歩いて、前回の備前屋に出た。壁には、当時の宿場の地図が書かれていて、「淡雪豆腐」の絵が描かれていた。現在では、銘菓「淡雪」が販売されている。 店の傍には、道標が立っている。案内板によると、この道標は、伝馬の脇本陣であった杉山家所有のものを複製したもので、素材も岡崎産の良質な「花崗岩」を使用しており、立っていた場所も此処より北と推測され、東海道より足助街道に行く道を示していた。

伊賀川に架かる柿田橋の手前を左折する。河原は散歩できるような道が出来ていて、散歩をする人、ジョギングを楽しむ人の姿があった。川に沿って歩くと赤い幟がはためいている。左手に上がる道があるので、上ってみた。白山神社であった。拝殿前の常夜燈には、大坂弦問屋と刻まれていた。

岡崎は、三河木綿の特産地で、戦前には、木綿の職人や商店が沢山あった。柿田橋手前の右側に、古い家が残っている。唐弓弦という道具を製造販売していた店である。唐弓弦(とうゆみずる)とは、綿を打って柔らかくする道具である。

朝鮮通信使  李氏朝鮮は将軍に向けて全12回の使節を派遣した。一行は瀬戸内海を抜け大阪から京にはいり、陸路岡崎宿に入った。宿の対応は一大事業であった。

塩座 塩を専売する権利のことで、岡崎では伝馬町と田町が権利を有し、伝馬町では国分家が商いをしていた。矢作川を上がってきた塩は足助街道を北上する塩の道へも運ばれた。 商いを知り物は、座銭を収め、町の発展や宿の助成に使われた。

ご馳走屋敷 現在の岡崎信用金庫資料館辺りにあった。この屋敷は公用の役人などをもてなす迎賓館的な役割を果たしていた。勅使や宮様、朝鮮通信使、御茶壷道中、などの高位高官が岡崎宿を利用する時に、家老がでむいて挨拶をした。

直ぐ先には、両口屋本舗がある。遅くなったので、寄らなかったが、業平にちなんだお菓子を売っているそうです。14時20分になったので、今日はこの辺りまでにしよう。新田北の交差点で左折し、牛田駅から豊橋駅に向かい、JRで帰った。岡崎二十七曲は、新しい道標が出来たので、それにしたがって歩けば、間違えずに歩けると思います。

少し先に、来迎寺一里塚が街道の左右にある。ここの住民は大切にしていないようで、塚の前には、粗大ゴミやら、ゴミの集積所になっていて、看板が立てられ、その看板を入れないように写真を撮るのに苦労した。

来迎寺町交差点に出る。角に道標があり、説明板が立っている。元禄の道標と書かれている。「八橋業平作観音従四丁半北  有 」これは、在原業平ゆかりの八橋無量寿寺への道標である。

しばらく歩くと、道の両側に松並木が現れた。その後消えたり、現れたりを繰り返す。20分ほど歩いた右側に、石碑が立ち並んでいるところがある。その中にお相撲さんの像があった。鳥居には、木元奥州青麻神社とあり、お相撲さんは「濱碇」と書かれた化粧回しをつけている。この地ゆかりの清見潟又市の像である。

反対側には、明治川神社がある。入ってみると、数人の人たちが廃材や古くなった竹を燃やしていた。正月の準備だろうか。 神社は、用水が完成後、明治17年に創建された。功績のあった都築弥厚、岡本兵松、伊豫田与八郎等が祀られている。造られた明治用水は、現在暗渠になっている。

浜屋バス停を過ぎると,右手に松の木が見える。明治川神社交差点の向こう側に、明治用水の記念碑が建っている。その中に、明治13年4月の新用水竣工式に出席した松方正義が揮亳した石碑もある。 明治用水は、江戸の末期、碧南郡和泉村(安城市和泉町)の豪農・都築弥厚が、碧海台地に矢作川の水を引き、開墾を行うと言う計画で始まる。幕府の許可は得たが、弥厚は病死する。その後、苦労の末明治13年に完成する。その後、安城市は「日本のデンマーク」称されるようになった。

叉少し行くと、江戸時代の大浜村にでる。その先の右側に、大浜茶屋の庄屋、柴田助太夫の霊を祀る永安寺がある。助太夫は、村民の窮乏を見かねて、助郷の免除を願い出て、刑死された人物である。寺の境内には、樹高4m50cm、枝張り東西17m、南北24m、樹齢300年以上の老木が地を這うように伸びている。その形から「雲龍の松」という。

少し歩くと、宇頭茶屋交差点にでる。旧宇頭村は立場茶屋があったところである。宇頭茶屋説教所と書かれたバス停の隣に、「明治天皇御駐蹕之碑」がある。 説教所とは、寺院というにはと言う規模のお寺さんに使うそうです。

神社の横に一里塚跡の石碑がある。傍の説明板は、「鎌倉街道」の説明板だった。(1192年、鎌倉に幕府が開かれると、京都と鎌倉の間に鎌倉街道が定められ、宿駅63ヶ所が設置された。尾崎町では、森神社から、証文山の東を通り、熊野神社に達していた。街道はここで右に曲がり、南東に下っていったので、この神社の森を踏分の森と呼ぶ。是より街道は西別所町を通り、山崎町にでて、岡崎市新堀町に向かい大和町桑子へ通じていた。)目印の松が残されている。

12,3分歩くと、熊野神社ある。鳥居の横に、予科練の碑があった。このあたりは、昭和19年に土浦海軍航空隊分遣隊として創設された第一岡崎海軍航空隊の跡地であった。 熊野神社は、境内が広く、イチョウの黄葉が綺麗だった。此処でしばらく休憩した。

この先で、旧道に入る道があり、浄瑠璃姫を弔う十王堂があるはずだったが、工事していて、どこから入るのか分からず、少し先から入ったが、探すことが出来ずに、国道に出てしまった。 これから2kmくらい国道をひたすら歩く。鹿乗橋を渡り、宇頭町を過ぎると、12時27分安城市に入った。尾崎東交差点で道は二手に分かれ、右側の松並木にあるほうが東海道である。

国道を左折すると、矢作川で、現在は、立派な橋が完成し、古い橋を取り壊す工事をしていた。渡り終わるところで、右に「日吉丸と蜂須賀小六」の像があるということだったが、とても渡ることは出来ないので、諦めた。これは、カクキューの味噌の図柄にもなっている。

突き当りには、昭和61年に建てられた、左江戸、右西京と書かれた道標が立ってる。此処を右折し八帖往還道路を歩く。

カクキューの裏側は、八丁蔵通りになっていて、蔵が並んでいる。説明板によると、(大豆そのものを麹化して塩と水だけを加えて、熟成する豆味噌は、三河・尾張地方独特のものであり、岡崎を代表する名産です。江戸時代以来、早川家と大田家が製造する八丁味噌は特に有名で、現在も「まるや」「カクキュー」の商号で製造を続けています。)工場の見学も出来るが、時間が30分後ということで、諦めた。

国道1号を歩き、板屋町入り口の石碑を入る。板屋町は、文化年間頃、茶屋女をおいて大繁盛した所で、天保13年には、茶屋が34軒を数える色街になった。その先の板屋町角の石碑があるところを右折し、細い道を入っていく。中岡交差点をこえて国道248号を渡る。愛知環状鉄道の高架をくぐると、「岡崎城下二十七曲り八帖村」の道標と、石碑があった。この辺りは、もっと曲がっていた様だが、今は残っていない。

岡崎公園をでて、国道沿いに浄瑠璃姫の供養塔がある。説明板によると、(薬師如来の申し子である浄瑠璃姫は、源氏の御曹司義経と別れた後、恋慕のあまり、管生川に身を沈めてしまう。姫の墓は平泉の方に向けて建てられている。その姫の庵があった所が岡崎城の浄瑠璃曲輪といわれ、瑠璃光山安西寺である。後に光明院と改められる、通称「浄瑠璃寺」である。)

龍城神社と本丸天主

10時8分、街道を離れ岡崎城に立ち寄る。 岡崎城は、松平清康(家康の祖父)が享保3年、現在の場所に城を移したもので、家康は岡崎城で生まれた。その後、織田信秀、今川義元の人質となり、十九歳の時、ここに戻り、自領の拡大に努めた。元亀元年、本拠を遠州浜松城に移し、岡崎城は嫡男信康に譲ったが、信康が自刃させられたので、重臣の石川数正、ついで、本多重次を城代とした。家康の関東移封に伴い、秀吉の家臣、田中吉政が城主となる。その後、家康による江戸幕府開設により、岡崎藩が誕生する。現在の建物は、昭和34年に復元されたものである。

志貴小児科醫院の古い家

三清橋を渡り、2本目の道を左折し、最初の道を右へ。突き当たったら左へ。次に突き当たったら右に、次に突き当たったら左へ進むと、国道1号にでる。街道はまっすぐ向こう側に進むが、渡れないので、右手にある八帖交差点の横断歩道を使い向こう側に渡る。

柿田橋角まで350m

江戸時代には、材木町の問屋場が、材木町3丁目の交差点を越えた右側にあり、伝馬町と交代で、5日毎に伝馬継ぎ立てを行なっていた。

岡崎城対面所跡角の標石がある。対面所とは、外来使節の応対、領民の公事、評定を行なった所である。街道は、標石の先の細い道に入り、北に向かう。

助郷  大名行列のように多くの人馬を必要とする場合、宿内だけでは不足するので、付近の村々から雇いいれる制度。困窮する宿の負担を転嫁されることとなった。

一里塚跡

下肴町より田町角

田町北角

田町北角まで45m

「二十七曲がり」の説明と葛飾北斎の岡崎宿の図

岡崎宿へ

池鯉鮒宿へ

目印の松

岡崎 矢作橋(安藤 広重)

三清橋角まで190m

JR休日切符   2600円
豊橋〜東岡崎  540円
牛田〜豊橋   710円
バス        160円
計       4010円

通りに面して、左に、「まるや八丁味噌」、右に「カクキュー八丁味噌」がある。旧八帖村は、岡崎城から八丁(約1000m)の距離にあることからこの名が付いた。八丁蔵通りの表示があり、八丁味噌の郷である。カクキューに行ってみた。

材木町口角まで80m

岡崎城対面所跡角

江戸時代には、この先に岡崎城の籠田総門があった。天正18年、家康が江戸に移ると、田中吉政が岡崎城主になり、総堀を築き、城下町を構築した。総門のある籠田公園のある中央緑地を北上する。

竹千代の産湯井戸

西本陣前跡

材木町より下肴町

田町角

廃業した銭湯

天主と礎石

最上階からの岡崎公園の紅葉