三河八橋駅方面に戻ると、無量寿寺がある。奈良時代の創建と伝えられる。5月には、カキツバタの名勝地としても有名である。八橋を有名にしたのは、「伊勢物語」の東下りの話である。(ある男(業平)が、都から道に迷いつつこの地にたどり着いた。川が幾筋も流れ、水ゆく川の蜘蛛手なれば、橋を八つにわたせるによりてなむ、八橋といひける。カキツバタが、水辺に美しく咲いていたので、連れのものとかきつばたという五文字を句の上において歌を詠もう、と言うことになった。その男は、次のような歌を詠んだ。「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもう」)
知立〜豊明
H.24.12.01
先日は、牛田駅まで進んだが、カキツバタで有名な無量寿寺を見たいので、名鉄知立駅まで行き、三河線に乗り換え、9時20分、三河八橋駅で降りた。 八橋駅は、最近出来たばかりなのか、とても綺麗な駅だった。駅前の案内図を見て「根上がりの松」を目指して歩き始めた。早く曲がりすぎ、団地の中に入ってしまった。中学生くらいの女子に道を聞くと、途中まで一緒にと案内してくれた。分かれる時、丁寧に道を教えてくれた。ありがとうございました。
すっかり古くなり字が読めない。右がめったい悔しいの墓 左が中津藩士の墓
街道に戻り、歩いていくと、先ほど出てきた「総持寺」がある。1616年に創建された玉泉坊が前身で、1686年に総持寺に改称された。明治5年の神仏混合禁止令により、廃寺となり大正13年に天台宗門宗としてこの地に再興された。前の植え込みの中に「お万の方の生誕地」の」石碑がある。お万の方は、知立神社の神官を務めた氷見氏の家系の出で、徳川家康の二男である結城秀康を生んだ方である。
細い道を入ると、呉服屋さんの前に「池鯉鮒」の道標があった。その先の右側に、「池鯉鮒問屋場の跡」の石碑が建っている。石碑の裏に「昭和45年取り壊し」とあった。歴史的なものが取り壊されてしまいうのは、残念なことである。この辺りは再開発が進んでいるようで、高いビルが立ち並んである。
遊歩道の脇には、このような池が沢山在り、左右からパイプが出ている。今は水が抜いてあり、空になっているが、夏には、水が張られるのだろうか。
寺の奥には、かきつばた庭園があり、お茶の水を汲んだという井戸や、石の上に茶道具を載せて、青空の下で、煎茶を楽しんだという玉川卓、紀州大納言治宝公から贈られた灯篭、心字池に水を入れるために掘った方巖井戸などがある。5月ではないので、かきつばたはすっかり枯れて、泥の池だけになっていた。
街道を目指して歩いていく。来迎寺交差点に出た。その先に、先日見た来迎寺一里塚がある。先日は、疲れていたので、目に入らなかった一里塚野説明板があった。(普通一里塚には、榎が植えられるが、此処は、代々、松が植えられた。)と書かれている。両方完全に遺るのは珍しく、立派な一里塚であった。
「根上がりの松」は、安藤広重の浮世絵「東海道名所図会」に描かれている松と思われ、少なくとも江戸時代後期には、この地に存在していた。この松は黒松で、赤松の雌松に対し、雄松と呼ばれている。一説には、鎌倉街道の並木の一部であったともいわれている。と説明板に書かれていた。
また、外苑にある花菖蒲園は、明治神宮からいただいた約60種の花ショウブで、花の季節には大いに賑わう。今は、枯れた池だけがある、寂しい公園だった。
藤枝〜豊橋 2600円
豊橋〜三河八橋 770円
豊明〜豊橋 780円
バス 160円
計 4310円
山城屋
小林一茶の句碑
街道に戻り、今川歩道橋を渡る。少し歩くと下り坂になり、国道1号が見えてくる。国道を少し歩き、左側に下に降りる道があり、国道の下を川と一緒にくぐる。国道の右の道を進み、シキシマパンの前を通り、川を渡る。三河と尾張の境に流れる境川である。境橋を渡ると尾張国東阿野村(現豊明市)に入る。境橋は説明板によると(東海道に伝馬制度が設けられると、尾張と三河の立会いで、橋が架けられた。中ほどより西は板橋、東は土橋で、度々の洪水により流された。やがて継ぎ橋は一つの土橋になり、明治になって欄干付きとなった。)
この辺りには、連子格子の立派な家があり、その向こうには、屋敷門のある屋敷があり、門を覗くと二ノ宮金次郎の像があった。 その先、交差点手前に蔵のある屋敷門の家があるが、工事の車がと止まっていて良い写真が撮れなかった。この先は、今川町に入る..。 その先の右側に乗蓮寺があり、境内には樹齢850年のシイがあった。
信号機のない交差点を過ぎ、左にカーブする手前に、古い家が多く残る。 その先に乗願寺がある。天正15年の創建で、水野忠重の位牌を祀る。境内のイチョウの黄葉が綺麗だった。イチョウは火に強いということで、神社仏閣に多く植えられるようだ。忠重は刈谷藩の初代藩主で、知立で暗殺された。
寺から少し歩いていくと、右側に小さな社と常夜燈がある。江戸時代の東海道名所記に「いも川、うどん・そば切りあり、道中第一の塩梅よき所也」と、あったところで、ひもかわうどんの源流といえる所だが、現在そうした名物の店があるわけではない。傍の説明板には、「江戸時代の紀行文に、いもかわうどんの記事が多く出てくる。名物のいもかわうどんは、平打ちうどんで、これが東に伝わり、ひもかわうどんとして現代に残り、今でも東京ではひもかわと呼ぶ。」と書かれていた。
1742年、豊前中津藩の家臣が帰国途中、今岡村付近で突然、渡邊友五郎が牟礼清五郎に斬りかかった。二人とも亡くなった為、遺骸は洞隣寺に埋葬された。二人の生前の恨みからか、何度直しても反対側に傾いてしまう。村人は怨念の恐ろしさに驚き、墓地を整理して改めて手厚く葬ったところ傾かなくなった。 めったい悔しいの墓は、昔、寺に器量は良くないが気立ての優しい、よく働く娘がいた。ある時、高津波村の医王寺に移ったところ住職に一目ぼれした。しかし僧は修行の身で、娘を寄せ付けなかった。娘は食も進まず、憤死してしまった。洞隣寺の和尚が亡骸を引き取って、弔ったが、墓石から火の玉が浮かび、油の燃えるような音がしたり、「めったいくやしい」などの声がしたりして医王寺のほうに飛んで行ったとか・・・
しばらく行くと、右側に子安観音霊場の石碑と常夜燈がたっている。1796年、刈谷城主、水野忠重の開祖と伝えられる相同集の寺院、洞隣寺である。本堂、地蔵堂、行者堂、秋葉堂が建っている。お堂裏の墓地には、豊前国、中津藩士の墓とめったいくやしいの墓が並んでいた。
しばらく国道を歩き、1時6分に、今岡町歩道橋のところで、左の細い道に入る。直ぐの所に十王堂の印があったが、このお堂がそうだろうか。名前は出ていないが、前においてあるポリバケツに十王堂と書いてあった。 この先には、連子格子の古い家が点在し、交差点の左側には、屋敷門のある家があった。
5,6分国道を歩くと、刈谷市にはいる。5分ほどで一里山交差点にでる。左側の歩道橋の下に、「一里塚」の石碑が建っている。説明によると(国道1号線の開通により、当時の主面影はないが、明治18年の地籍図をみると、東海道の両脇に塚と記載されている。)
寺をでて、街道を歩いていくと、川に出る。逢妻川で、川の手前で左にカーブして、逢妻橋に出る。逢妻川は、伊勢物語の八橋に登場する逢妻男川が逢妻女川に合流した後の名前である。橋を渡ると池鯉鮒宿は終わる。
小松屋を過ぎ、右折すると、総持寺跡の大銀杏の看板があり、細い道を入っていくと、黄葉した大銀杏がそびえていた。説明板によると、(総持寺は明治5年に廃寺となり、境内は民間の手に移った。その後大正15年に、新川町に再建され現在に至る。この大銀杏は樹齢200年を経ているが樹勢は未だに衰えていない。)とあった。
突き当たりに了運寺があり、左折すると、三叉路に、大あんまきの「小松屋」がある。小松屋本家の焼印が押された大あんまきを2個買い求める。東海道の茶屋として営業をはじめ、あんまきを作り始めたのは、明治22年頃だそうです。今は、小豆餡のほかに、白あんやカスタードクリームなどが入ったものもある。
左側に、知立古城跡がある。看板には「江戸時代前期の様子を伝える屏風に描かれた御殿と知立神社」と書かれていた。知立古城は桶狭間の戦いで落城し、江戸時代のはじめには、将軍休泊用の御殿となっていた。公園になっていて、立派な「明治天皇駐駅址」の碑が立っていた。
その先に、「本町山車蔵」があり、知立祭りで使われる山車がしまわれているらしい。写真が飾ってあった。知立祭りは、知立神社のお祭りで本祭りと間祭りがあり、5の町から5台の山車が繰り出される。また山車の上では、からくりと文楽が奉納上演される。 その先の突き当りを右に曲がる。
その先の通りを渡ると「知立宿のマップ」があった。それによると、国道419号線の知立駅北口交差点近くに本陣跡があるという。行ってみた。「明治天皇行在所聖跡」と「本陣跡」の石碑が立っていた。説明板によると(池鯉鮒宿には本陣は1軒だった。当初峯家(杉屋本陣)が務めていたが、没落したため、永田家(永田本陣)によって引き継がれた。敷地3000坪、建坪300坪と広大な面積を有していたが、明治8年に取り壊され、200年近く続いた永田本陣もその役目を終えた。)
馬市の跡の石碑と万葉の歌碑がある。(松並木の西の地名を引馬野というが、このことから、天皇が駿河の興津とともに此処に立ち寄られたのは、明らか)と書かれていた。知立松並木の説明版には(この松並木は幅7m、約500mに渡り、約170本の松が植えられている。側道を持つのが特徴的で、この地で行なわれた馬市の馬をつなぐためと考えられる。
(在原寺縁起によると、寛平年間に業平の骨を分骨して、八橋川辺りの地に塚を築いた、と伝えられる墓所がある。供養塔は、鎌倉末期頃、業平を偲んで建立されたもので、塔身に「金剛界四仏」と梵語で刻まれた、関西式の宝篋印塔である。)と書かれている。
街道はくだりになり、200mほどで、国道1号の下にあるトンネルをくぐり、左側の道に出る。国道1号に合流し、名鉄豊明駅に着いた。2時10分になったので、此処から豊橋にでて、JRで藤枝に帰った。
御林交差点で、国道に出る。「池鯉鮒宿」の道標がある。池鯉鮒宿は、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠35件の小さな宿場町である。 また、東海道の細い道に入る。20分ほど歩き、中町交差点の六差路をやや右に入る細い道が街道である。最初間違えて、まっすぐに行くと、「ゑびすや」という古い呉服屋さんや、「山城屋」という古いお茶屋さんがあった。
11時2分、知立松並木が始まる。よく整備され、松には弧がかけられていた。明治用水の説明板によると、(この遊歩道の下には、明治用水西井筋が流れている。埋められているパイプは直径150cm、農地の灌漑に必要な水を下に送っている。)しばらく行くと、小林一茶の句碑がある。「初雪や ちるふの 銭叺(かます)」かますとは、わらむしろを二つに折り、袋状に縫った物をいい、穀物、塩、石炭などを入れた。
方巖井戸
玉川卓と辻灯篭
業平の井
業平竹
ひともとすすき
名鉄三河線の踏切を渡ると、公園があり、「八橋伝説地」の石碑がある。(此処三河八橋は、古くは東海道に沿っていて、景勝の地として知られていた。特に「古今集」と「伊勢物語」の在原業平東下りの故事「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもう」と詠われた「かきつばた」の歌により、名声を高めた。)
来た道を戻り、さらに先に歩くと、右側に在原寺がある。寺の前に「萩刈って 松籟ばかり 在原寺 経四楼」と刻まれた常夜燈が建っている。この寺は、臨済宗妙心寺派の寺で、業平の像が祀られている。寛平年間に、在原塚を守る人の御堂として創建されたと伝えられる。本堂の前に、業平ゆかりの竹、ひとむらススキが植えられている。また、境内には、義玄、山頭火の句碑がある。左側の塔は「一石五輪塔」で、八橋古城跡から出土した。次ぎの塔は、宝篋印塔で、八橋伝説の師孝尼の供養塔である。いづれも室町時代の様式を伝えている。境内は紅葉が綺麗で、しばらく休憩した。
八橋伝説地の碑
「鎌倉街道之跡」石碑
八橋町交差点に浄教寺がある。大きなお寺で、山門は市指定の文化財になっている。説明板によると、(1757年、大工、瓦工など延べ1300人で造られた。総欅材で造られた、丈六(約5m)建ちで、間口三間、奥ゆき2間の六脚門であり、東面している。上層は入母屋造り、桟瓦葺きで、回廊を巡らし、勾欄で囲まれている。)
細い道を歩いていくと、「落田中の一松」の看板があり、右折する。かきつ公園と書かれていて、子供達が遊んでいた。説明板によると、(伊勢物語の記述から、かきつばた〜の歌を詠んだ場所と伝えられる。「落田中」とは、落田(田んぼが崩れて下に落ちる境=逢妻男川のたびたびの氾濫により田が崩れる所)の中という意味で、以前は湿地の畦畔の上に位置していたが、宅地造成の埋め立てにより、現在地に移された。)
在原業平朝臣墓所
業平供養塔
39番目 池鯉鮒
東海道松並木
知立松並木
明治用水
地下道をくぐり、向こう側に出て、右折ししばらく行くと、「知立神社」がある。池鯉鮒大明神といい、大和武尊ゆかりの神社である。12月になっていたが、まだ七五三の祝詞を上げてもらっている数組の親子がいた。 参道にかかる石橋は、享保17年の建設である。境内には慈覚大師によって創建された多宝塔があり、国の重要文化財に指定されている。