茅ヶ崎〜戸塚

H.24.06.24

弁慶の力石

早朝一番のJRで、茅ヶ崎に8時20分に着いた。駅から茅ヶ崎駅前交差点から歩き始める。

力石の起源は、石占(いしうら)と言われている。神社に置かれた特定の石を老若男女かかわらず、願い事を唱えて持ち上げ、その重い、軽いの感触によって願い事の成否・吉凶を占った。神石ともいわれ、触れると健康になり病気をしないといわれている。

直ぐ先に辻堂一里塚跡標識が建っている。羽鳥交番前で国道から右方向44号線に入る。その前に大山道道標が立っていたのだが見つけられずに、うろうろして行きつ戻りつしてしまった。国道を曲がる前の左側に、四谷不動・大山道標があった。(東海道と大山道が交差する四谷辻に建てられた道標で、大山不動尊の下、正面に「大山道」 両側面に「これより大山道」と書かれている。四谷辻には多くの茶屋が立ち並び、参詣客を誘った。)と書かれていた。

5分ほど行き、藤沢交差点手前を左折する。赤い欄干の遊行寺橋を渡る。下を境川が流れている。ここを首はさかのぼったんだろうか。右にこの辺りの絵図があり、「日本三大広小路」と書かれていた。上野広小路 名古屋広小路、藤沢広小路が三大広小路である。

5〜6分歩き、街道を左に入ると、八王子神社が有る。八王子神社は、神仏混合の時代に各地に生まれた。仏教の守護神である牛頭天王には8人の子(八王子)がいるとされており、これを祀ったのが八王子神社である。現在の社殿は、関東大震災のあと再建されたもので、境内にはその時壊れた鳥居があった。

門脇の傍示石柱

門を入りいろは坂を上がる。

本堂

一里塚前の分岐を右方向へ進む。この辺りには、松並木が残っている。

影取町交差点付近に、馬頭観音が有るというが、見つけられない。原宿交差点からは緩い上り坂になる。13時21分向こう側、国道の右手に「原宿一里塚」と見つけたが、歩道のガードレールが途切れず、車の交通量も多く渡れない。望遠で写真だけ撮った。 戸塚駅バスターミナル行きのバスが数分おきに走っている。道を歩いている人に駅までどのくらいか聞いたが、「4kmくらいある。」と言うことで、大坂上交差点の次のバス停でバスに乗り、戸塚駅に着いた。今日は、いろいろ見つけられなかったり、戻ったりし、コンビニに寄ったら道を戻ったりして、随分時間のロスがあった。

12時34分、横浜市戸塚区に入った。国道1号線に合流する。広い国道脇をひたすら歩く。影取町付近では古い萱葺きの屋根の門の家があった。ここまで来る途中の町名に、新宿、四谷、などがあった。この先には原宿もある。

坂を30分ほど歩き、「旧東海道松並木跡」の石碑が建っている。この辺りには松は殆ど残っていない。(1960年ころからの松食虫の猛威によって松が枯れてしまった。)と書かれていた。

旧街道は、寺を右折し、突き当りを寺に沿って左折する。この坂は道場坂と言うが、遊行寺坂ともいい、箱根駅伝で、8区後半の難所になる坂である。右側に「見付け跡」の標柱が有る。ここで藤沢宿は終わる。

板割浅太郎の墓、赤木山騒動の後、親分忠治と別れ、仏門に入った。遊行上人の手引きにより、この地に移り、遊行寺の堂司を務めた。念仏三昧の日を送り、自分が手を書けた中島父子の菩提を弔った。 ほかに、小栗判官と照手姫の「長生院」は分かったが、墓や堂の裏手にあるという「敵味方供養塔」は見つけられなかった。

一遍上人

5分くらい歩くと右側に「藤沢宿坂戸町問屋場跡」の標柱があった。(問屋場では、公用書状の宿送り、人馬手配、助郷村への賃金支払いを行なった。問屋役は、有力町民がにない、幕末、西隣の杉山弥兵衛が勤めた。)と書いてあった。その向かいには、「蒔田本陣跡」の標柱がある。(藤沢宿の本陣は、江戸中期から、蒔田忠衛門が勤めた。大名や公家の専用宿舎で、江戸時代に来日した朝鮮通信使も利用しました。)と書かれていた。

斉義経公鎮霊碑

藤沢宿は、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠45軒の宿場町である。

藤沢宿

その先の引地橋を渡り左折してすぐ43号線に合流する。10分ほどで、藤沢宿上方見付け跡の道標が有るというが、見つけられなかった。小田急江ノ島線の高架を越えて藤沢宿に入った。

44号線にはいり道なりに歩く。左のメルシャン工場を過ぎ、しばらくいくと、右に「おしゃれ地蔵」があり、顔をみるとお化粧している。(女性の願い事をかなえてくれるそうで、かなったらお礼にお化粧をする。と伝えられている。形態的には双体道祖神である。)と書かれていた。写真をとっていると、通りがかりのおじさんが、「願い事はしたかね?」と聞いてきた。「まだです。」と言うと、「男は願い事できないんだって。」

5分ほどで、二ツ家稲荷があり、稲荷大明神が祀られている。道に面して、庚申供養塔が有る。正面に三猿像がある。

25分くらい、街道を歩くと、藤沢市にはいる。細い道に「大山街道入り口」の道路標識が出ている。その角に石碑が建っている。漢字とひらがなが書いてあるが、よく分からない。

街道に戻り10分くらい歩くと、「東海道の松並木」の説明と安東広重の「南湖の左富士」の絵があった。茅ヶ崎には結構松並木が残っていて、茅ヶ崎高校付近、赤松町に松並木が立派である。

樹齢650年〜700年の大イチョウ

遊行寺は、正式名は「清浄光寺」で、踊り念仏で有名な一遍上人を開祖とする時宗の総本山である。

休日切符   2600円
熱海〜茅ヶ崎 820円
戸塚〜熱海  1110円
計        4530円

戸塚宿へ

平塚宿へ

義経の首は、腰越の浦の首実験のあと、捨てられたが、潮の逆流により、白旗神社近くまで流れ着き、藤沢の里人によって洗い清められ葬られたと伝えられる。

8時33分に、一里塚通りと書かれた交差点に出る。左手に茅ヶ崎一里塚があり、江戸から14番目の塚で、昔は西側にあった。と書かれていた。交差点の反対側には、「平成の一里塚」があった。ポケット・パークとして平成22年に造られた。本来の一里塚のように、エノキが植えられている。

街道に戻り、交番とマンションの間の細い道を入ると、「義経首塚」がある。首を洗ったとされる井戸もあった。そこに集団の東海道ウオーカーが来て、川を首がさかのぼるか?とか、首を捨てるか?とか喧々諤々はじまった。そこに地元の方がいて。「首は亀に乗って来たんだよ。」と言った。今まで一人で歩くほうが気楽でいいと思っていたが、皆で歩くと話が広がるなー。と感心した。「だから伝と書いてあるんだよ。」なるほど説明版にはと書いてあった。

もう少し行くと、「一里塚跡」の標識が建っている。(江戸時代には、この崖上高さまであった東海道を掘削回収して現在のなった。一里塚も崖上にあった。東海道分限絵図には、当時の藤沢が描かれている。)

広小路とは、元々火除け地を意味する。藤沢広小路(大鋸広小路)は、遊行寺門前で、三曲がりとして有名だった。

小田急の高架を過ぎ、白旗交差点を右折すると、白旗神社がある。祭神は源義経で、奥州平泉で敗死した義経の首が鎌倉に送られ、この地に葬られたと伝えられろところから祀られるようになった。

10分ほど歩くと、「牡丹餅立場(牡丹餅茶屋)」の看板がある。宿場と宿場の間には、旅人が休んだりする立場という施設があった。藤沢宿と平塚宿の間には、四谷、牡丹餅、南湖、八幡の四つの立場があった。ここには、紀州家専用の飛脚中継所である御七里役場も設けられていた。 菱川師宣が描いた「東海道図」もあり当時のこの辺りの様子が描かれている。