戸塚〜保土ヶ谷
H.24.07.08
坂を下った所に見付けがあるということだったが、見逃したらしい。通りがかりの方に聞くとやはり来過ぎたようだ。100mほど戻ると両側に戸塚宿上方見付け跡があった。(江戸見付けから2.2kmの距離にある京方の見附で、昔と同じように京に向かって左に松の木、右に楓の木が植えられている。)
13:17 明治2年に建てられたという旅籠 本金子家跡がある。江戸時代に旅籠として栄え、明治2年に建て替えられた。国道1号が7mほど拡張される前は、大名門と前庭があった。当時の大名門は建物の外壁として使われている。残念ながら、公開されていないようです。
9:07 「お軽・勘平戸塚山中道行之場碑」は、仮名手本忠臣蔵の一幕であり、創作であるが、戸塚を有名にしてくれた場面と言うことで碑が造られた。「碑石の由緒」が書かれた石碑も立っていた。
安藤広重の戸塚宿
品濃坂を登り、Y字路の分岐を左に進む。住宅と果物畑の間を進み、左に稲荷神社がある。そこを直進し、細い道を横切り、坂を下る途中に12:07品濃一里塚がある。神奈川県下で、唯一両側に現存する一里塚で,左側の奥には「品濃一里塚公園」があった。説明板によると、(東の塚は平戸村内、西の塚は品濃村内に位置し、西にはエノキが植えられていた。)とあった。
芭蕉の句碑
保土ヶ谷社会保健事務所前から、バスに乗ろうと待っていた。地図を見ると保土ヶ谷駅が近そうなので、道行く人に聞くと、保土ヶ谷駅は直ぐ近くだった。13:39 保土ヶ谷駅からJR横須賀線で戸塚駅へ。東海道線に乗り換えて藤枝まで帰った。今日も、色々間違えたり、、見逃したりしたが、何とか保土ヶ谷まで歩いてこれた。
左高札場、右に問屋場跡がある。
13:27保土ヶ谷1丁目交差点を左折し、JRの踏み切りを渡ると、右側に金沢横町道標が建っている。昔はここから、金沢・浦賀往還へと続いていた。
直ぐ先の保土ヶ谷1丁目交差点を左折する。右角には、保土ヶ谷宿本陣苅部家があり、塀の中に当時の門が残っている。現在は、塀の修復中で、工事の囲いがしてあった。本陣が混雑した際には、脇本陣が使われた。保土ヶ谷には、藤屋、水屋、大金子の三間の脇本陣があった。
保土ヶ谷宿の宿泊・休憩施設のパネルがある。(茶屋本陣・・正式な本陣に匹敵する規模と格式を持つ茶屋が上方見付け付近にあり、茶屋本陣と呼ばれていた。苅部本陣を利用しない大名が利用した。旅籠・・・はじめは食事を出さない木賃旅籠だったが、元禄の頃から食事や酒を提供するようになった。茶屋・・・保土ヶ谷宿には33軒の茶屋があり、金沢横町の茶屋七左衛門が茶屋総代でした。) 消防団のシャッターには、保土ヶ谷宿の絵が描かれていた。
坂を下り、左折し、しばらく行くと、12:54今井川に架かる元町橋の前に「元町の由来」を書いた説明板がある。(保土ヶ谷宿は江戸時代本陣を中心に幕府の命により整備された。現在残っている旧東海道の道筋は慶応元年に整備されたもので、それ以前の宿場は、元町(現在の元町橋あたり)と古町(天王町から峰岡町辺り)にあった。)元町ガード交差点を右折し 暫くいくと、旧元町橋跡の道標がある。(明治時代の東海道線工事以前の今井川はここで街道を横切っていた。かっての字名は、ここから東側を元保土ヶ谷、西側を元保土ヶ谷向となっていた。)
権太坂の由来
@ 老人の返事説・・・旅人が坂の近くにいた老人に坂の名前を聞いた所、自分の名前を聞かれたと思い「権太です。」と答えた。A 本当は権左坂・・・昔、藤田権左衛門と言う人が代官の指図により開いてきた坂道を、その名前をとって「権左坂」となずけ、いつの間にか「権太坂」になった。権太坂は今より勾配もきつい相当な坂で、江戸から上方に向かうt旅人にとって難所であった。権太坂には昔人家も少なかったので、昭和30年代に道が改修され宅地化が進むまで、当時の面影を残していた。
12:19坂を登りきると、境木地蔵交差点に出る。ここは「武蔵国」と「相模国」の国境であった。また、立場でもあり、名物は「ぼた餅」であった。と書かれていた。境木立場跡の説明板によると(ここは、権太坂、品濃坂、焼餅坂と難所が続くなか、見晴らしの良い高台で、西に富士、東に江戸湾を望む景観がすばらしく、旅人は必ず足を止める名所であった。こうした立場茶屋のなかで、特に若林家には、明治中期まで黒塗りの馬乗門や本陣差ながらの構えの建物があった。参勤交代の大名も利用していた。)
下り坂が終わり、緩い上り坂になる。この坂は焼餅坂という。(焼餅坂は品濃村と平戸村の境にあり、一丁半(約160m)の坂で、坂の傍の茶店で「焼餅」を売っていたのでこの名が付いた。戸塚を描いた浮世絵には、この長坂や焼餅の絵がしばしば登場する。)
11:55 歩道橋を渡り、 品濃坂上の標識があり、品濃坂の石碑も立っていた。今は階段と歩道橋になってしまったが、道標の写真を見ると、明治初期の品濃坂の街道が写っている。(品濃坂は、朝早く江戸を発ち、日暮れまでには戸塚宿へ向かう旅人には、宿場までもう一歩のところです。一方江戸に向かう人達には、最後の急な坂道である。この難所を越えれば境木の立場まであと一息でした。)
分岐を右方向に入る。上り坂の突き当りを右折し、急な坂道を上ると環状2号線に出る。品濃坂歩道橋の所に、「品濃坂」の道標がある。11:52だった。欄干には、東海道ルネサンスの道案内が貼ってあった。
向かい側に左に入る道がある。(江戸時代の大山詣での、大山道入り口で、御堂には、1793年建立の不動明王像が祀られている。お堂の前には「従是大山道」と刻まれた道標や庚申塔があります。)
10:59 不動坂に出る。不動坂交差点で国道に合流する。右側に益田家・モチノ木がある。説明板によると、樹皮で鳥もちを作ることから親しまれた木で、高さ18mと19mの2本が75cmの間隔で並び、これほど成長した木はまれで、「相模モチ」の名で、親しまれている。
そこには、「四つ杭跡」の石碑が立っていた。草に覆われ、つぶれた社の跡があるところが目指す所だった。近所の方は、「ここは全然管理されていない。ほったらかし。」と教えてくれた。 石碑の裏に由来が書いてあった。(柏尾の里は、古来より北から南に鎌倉道が通じ、譲良親王を偲ぶ伝説を秘めた里なり・・・・・。) 足利高氏の家来に殺された譲良親王の首を奪い返し、ここ柏尾の里まで来て、清水で清め四本の杭を打って祭壇として供養した。
10:41五太橋を渡り、舞岡交差点を右折し、川沿いに歩き、 元舞橋の所を左折する。レンガ造りの家や、立派な土塀、土蔵のある家がある。
橋を渡ると吉田の一里塚跡がある。江戸から数えて10番目の一里塚で、日本橋までは40kmである。
戸塚駅前を通り、道なりに歩く。「工事のため車両通行止め」と書いてあった。開かずの踏切で有名だった、戸塚駅北の踏み切りは、工事中だったが歩く人は通れた。でも、渡り始めた瞬間にもうカンカンと警報がなって、遮断気が降りはじめた。故吉田茂首相が大磯の自宅から国会に行く時に遅刻したと言う話もあるらしい。0:21 柏尾川にかかる吉田大橋を渡る。橋げたに東海道53次の絵が描かれていた。
9:59 左側に、澤邊本陣跡がある。戸塚宿に2軒あった本陣の一つで、明治天皇の東下の際には、行在所になった。敷地の一画には羽黒神社がある。この家の門には澤邊の表札が出ていたのでまだ住んでいるらしい。 歩きはじめて1時間あまりたって、朝下り立った戸塚駅前を通る。先日頑張ってここまで歩けば良かったと思った。
9:50 左側に八坂神社がある。通称「お天王さま」と親しまれている戸塚宿の鎮守です。毎年7月14日に開かれる「お札まき」は市の無形文化財になっている。お祭りの準備で、お神輿を組み立てていた。神社脇の東海道と鎌倉道が交差する辺りにはかって高札場があった。
元舞橋
緩い坂も県立光陵高校を過ぎた辺りからかなりの勾配になる。12:47権太坂陸橋を越え、麓までかなりの勾配が続く。ここを一番坂と読んでいた。直ぐ先には、「旧東海道権太坂改修記念碑」が建っている箱根駅伝の権太坂は国道1号線でこの坂ではない。
五太夫橋
10:32 江戸方見付け跡が、左側のファミレスの前にある。見付けとは宿場の出入り口のことで、ここは戸塚宿の江戸側の出入り口である。宿場を見渡せるような施設になっていることが多く、参勤交代の大名を宿役人がここで出迎えた。戸塚宿はこの辺りまでだった。
9:23 東海道の大坂の説明がある。(かっては、二つの坂があった「新編相模国風土記稿」に寄れば、一番坂登り一丁余り(110m)二番坂登り三十間(54m)。大坂では、1853年に仇討ちがあったという記録がある。)この辺りのバス停は、大坂上とか、大坂下とかいう名前になっている。少し行った道路の反対側には、石仏群がある。八基の石仏や石碑が立っていた。
藤枝〜戸塚 3250円
戸塚〜熱海 1280円
バス 170円
バス 160円
計 4860円
保土ヶ谷宿続き
保土ヶ谷 新町入り口
本陣1軒、脇本陣3軒 旅籠67軒
旧道は、この先の境木小学校・中学校の前を左折する。12:27 権太坂にくる。神奈川県の消防団の施設には、東海道五十三次名所図会が描かれている。ここは、「保土ヶ谷、境木立場 鎌倉山遠望」だった。
富塚幼児園の碑
問屋場跡の説明板
問屋場・・・幕府の公用旅行者や大名の荷物運搬(人馬継立)幕府公用の書状の通信(継飛脚)大名の宿泊の手配をになっていた。問屋場には、問屋を筆頭に、年寄り、帳付け、馬指しなどの宿役人が詰めていた。 助郷・・・宿場でまかないきれない人馬を指定された周辺の村々から動員することを助郷村という。保土ヶ谷宿では、全部で40ヶ村あり、問屋場の近くに助郷会所という事務所を設けた。 高札場・・・幕府や領主の最も基本的な法令を書き記した木の札を提示した施設。宿場の高札場には、人馬の駄賃や宿代などを帰した高札が提示されていた。
早朝家をでて、JRで戸塚駅まで行きました。先日のバス停まで、バスで行くのだが、駅の反対側に降りてしまい、うろうろしたが、無事藤沢駅行きに乗り、少し戻ったバス停に「お軽・勘平」の碑を見つけてあわてて降りた。 駅前には、戸塚宿の案内が書かれていた。(戸塚宿は、品川、川崎、神奈川、保土ヶ谷に次ぐ5番目の宿場で、神奈川・保土ヶ谷に3年遅れて1604年に成立した。戸塚宿付近は大山道や鎌倉道への分岐点でもあり、大山詣や鎌倉寺社産詣の人々で賑わった。)
13:11岩崎交差点先の右側に、保土ヶ谷一里塚、上方見付けの案内パネルがある。(保土ヶ谷の松並木は境木まで3kmほど続いていた。現在では権太坂付近に僅かに残るだけになった。上方の松原と呼ばれていた今井川沿いに300mほど松などを植える松並木復元事業を行なった。また、一里塚も5間四方(約9m)の大きさのものを築くことは出来なかったが、昔のようにエノキを植え再現に務めた。)とあった。保土ヶ谷一里塚は江戸から数えて8番目で、古くから南側の一基しか伝わっていなかったようです。
上柏尾交差点先で、国道から高架沿いの道に入る。赤関橋交差点手前の赤関橋を渡り、右手平戸永谷川沿いに右に入る。国道「東戸塚駅入り口交差点」を直進し、左を流れる川沿いに進む。(赤関橋を渡った後、行き過ぎてしまい、人に聞きながら東戸塚駅入り口交差点まで戻った。)交差点を渡ると「海道橋」の道標が建っている。11:38だった。
ゆるい上り坂の途中に「御醍醐天皇皇子・譲良親王首洗井戸」があるというが、もう坂も終わりに近づいている。近くのお店の前にいるおじさんに聞くと、少し下がったところ(眼科医院の右に標識があるそうです。)を入っていくとあるが、ここからでも行けると教えてくれた。路地を右折し、最初の角を右折ししばらく行くと、人々が木を切ったり、掃除をしているところがあった。
本陣2軒、脇本陣3軒 旅籠75軒
9:33 道路左側に冨塚神社がある。御由緒によると、前九年の役を平定するために源頼義・義家が奥州に下る途中この地で応神天皇の御神託を賜り、戦功をたてることが出来たのを社殿を造りお祀りした。周囲は冨塚という古墳になっていて「戸塚」の名前の起こりとも言われる。全国の戸塚・富塚姓の方々の守護神でもある。 境内で草取りをしていた方から、ここに昭和24年から平成12年まで幼児園があったという話を聞いた。
大山は江戸時代末期まで不動尊と石尊大権現を一体とする信仰の山「大山寺」の山であった。明治元年の廃仏毀釈によって衰退したが、「阿夫利神社」として大山信仰が継続され今日に至っている。大山街道はここだけでなく四方八方からの道があるそうです。
柏尾の大山道道標・大山不動尊
境木地蔵尊