大磯〜茅ヶ崎

H.24.06.10

早朝、家を出て、JRで8時35分に大磯駅に着いた。先日街道歩きを中止し、駅に向かって歩いた場所まで戻った。途中駅のそばに、「澤田美喜記念館」の看板がある。直ぐ隣には、「エリザベスサンダスーホーム」の看板のかかった門があった。1948年、岩崎弥太郎の孫娘 澤田美喜が、混血孤児のため、岩崎家大磯別邸を買い戻して始めた孤児院で、2010年現在1400人の出身者がいる。また孤児たちのため、聖ステパノ学園を設立し、今は一般の生徒も受け入れている。エリザベスサンダースホームのことは知っていたが、ここにあることは知らなかった。

その先に、平塚宿西組問屋場跡の石柱が有る。ここを左折すると、「平塚の塚」が有ると書いてあったので、曲がってみる。突き当たりに要法寺というお寺があり、寺の方に塚の場所を聞くと、「元はここの寺の中にあったのに、市に取られて、お金も払ったのよ。」「親鸞聖人が、お経を唱えると、松に紫雲がたなびいたので、此のお寺は、松雲山というの。」と色々教えてくれた。松雲山の扁額は河野一郎と書いてあった。

小田原宿へ

藤沢宿へ

ここからは、何も無い国道をひたすら歩く。1.5kmほど歩き、茅ヶ崎駅前に出る。日本橋まであと55kmになった。今日は茅ヶ崎から家に帰った。

車の通る国道を歩き、BPを過ぎ、しばらく行くと、「鶴嶺神社の鳥居」があり、ここから参道が続き、神社はずっと奥にあるという。

相模川にかかる馬入橋を渡る手前に、「陸軍架橋記念碑」が有る。説明板によると(大正12年9月1日の関東大震災により、馬入橋が倒壊した。9月16日、陸軍第15師団が茅ヶ崎側、16師団が馬入側を担当し、10月3日に完成した。この記念碑は、馬入側を担当した16師団の事績を讃えたものである。)渡るのに10分以上かかる大きな川だった。

此の辺りが、宿場として一番賑わっていたところだが、何度も空襲にあい、多くの建物が焼失した。市民センターの東に、「江戸見付け跡」が復元されている。見付けは東海道に直角に位置し、土台部は石垣で固め、土盛りされ、頂部は竹矢来で組まれていた。

市民センターの中庭に「江戸城の井戸枠」が有るというので、見たかった。通りがかりの人に中庭は何処か?と聞いた。昭和32年に東京都から貰い受けたものだと言う。「平塚の里歌碑」もあった。

5分ほど行ったところに公園があり、大きな木が目に付いた。「平塚小学校跡の樟」と書かれていた。(明治28年に種を蒔いて育てた樟だそうです。)その後ろ側に白い建物があって、今は公民館になっているが、旧平塚小学校である。 (明治13年 嵩善館を移築し平塚小学校とした。)

道をへだてて、郵便局手前には「高札場跡」向かい側には、「東組問屋場跡」がある。平塚には、問屋場が2ヶ所あり、西仲町に有る西組問屋場、二十四軒町に有るのを東組問屋場と言いった。 

街道に戻り、しばらく行くと、「平塚宿本陣旧跡」があり、(東仲町北側のこの地にありました。)と書かれていた。本陣は代々加藤七郎兵衛が勤めていた。今は、神奈川相互銀行になっている。

平塚の塚」は、寺の西隣にあり、公園になっている。老人会の人たちがお掃除をしていた。平塚の塚の由来(桓武天皇の三代孫高見王の娘政子が東国へ向かう旅をした時、天安元年此の地で、逝去した。柩はここで埋葬され、墓として塚が築かれた。)

古花水橋交差点には、「平塚宿の碑」があり、ここが京方見付け跡になる。宿場町として栄えた平塚の町並みは、空襲やその後の区画整理により、往時を偲ぶ面影が残っていません。宿場の西方の入り口であった京方見付けの場所も定かではなく、先人達の言い伝えや、歴史資料により、此の辺りにあったものと思われる。と書いてあった。 此の分岐を左方向に入り、100mほど行って歯科医院の前を右折し、西中交番の前で先ほどの見付け跡からの道に合流する。

本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠54軒。

平塚宿

橋を渡った左側に、「平成の一里塚」の看板があり、小さな公園にベンチが置いてあって休めるようになっていた。高麗山をバックに東海道と花水川が描かれた広重の東海道53次の絵があった。

化粧坂交差点で国道に合流し、金目川にかかる花水橋を渡る。此の橋の手前に萱葺きの民家が有る。橋の上から、高麗山を振り返る。広重の東海道53次 平塚で描かれている場所である。昔、高句麗からの渡来人が住んでいたことから此の名前が付いたとされている。

鴫立庵は、江戸初期に、西行の歌にちなんで小田原の嵩雪と言う人が庵を結び、京都の「落柿舎」滋賀の「無名庵」と共に日本三大俳諧道場の一つになっている。円位堂内には、等身大の西行法師の坐像が安置され、西行祭がこのお堂の前で行なわれる。沢を背に法虎堂が建っている。堂内には、有髪僧体の虎御前19歳の木像が安置されている。鴫立庵は歴代庵主の住まいとして使われていた。

少し先には、左側に「脇本陣跡」があり、二十四軒町の北側で、山本安兵衛が営んでいたと書いてあった。

大磯宿の史跡  虚空蔵堂の標識が有る。虚空蔵と熊野権現を祀ったお堂があり、ここに下馬標が立っていた。大名行列もここで下馬し、東照権現の併祀された高麗寺に最敬礼し、静かに寺領を通った。高麗寺村と大磯宿との境を示す寺領傍示杭もあり、高さは3mほどであった。

右側には、虎御前の「化粧井戸」が有る。虎御前は、鎌倉時代初期の大磯の遊女で、曽我祐成の妾。曽我兄弟の兄十郎の妾で、此の近くに住み、朝晩此の井戸の水で化粧したと言われている。此の辺りを化粧(けわい)坂と言う。

JRの地下道をくぐると、左側に「大磯八景の一 化粧坂の夜雨」の石碑が建つ。また、しばらく行くと「大磯の史跡 化粧坂の一里塚」の標識が有る。日本橋より16里のところで、高さ3mほどの上に海側に榎を、山側にせんだんを植えた。

大磯駅駅前を過ぎ、「三沢橋交差点」から左に入ると、雰囲気が一変する。松並木が続き、大磯宿の史跡江戸見付けの標識が有る。宿場の出入り口に立てられたもので、簡易な防御施設として造られた。宿場の京側にある物を上方見付け、江戸側にある物を江戸見付け砥行った。なお、宿場境には、傍示杭とよばれる木製の標柱が立てられていた。

此辺 大磯宿 北組問屋場の史跡 小田原 大磯間お定賃金が書かれている。全国各地からの書状や荷物の継ぎ立てを行い、新しい人足や馬が用意されていた。

お蕎麦屋さんの前に、大磯本陣跡と大磯の絵図が有る。大磯には、小嶋、尾上、石井の三軒の本陣があった。その隣には、小嶋本陣旧蹟の石碑が建っている。

此鴫立庵先のY字になった道を右方向に入り、突き当りを左折して、直ぐ右折し国道に合流する。の辺り 大磯宿の史跡 南組問屋場の標識が有る。大磯宿には、北組と南組の二ヶ所に問屋場が置かれていた。参勤交代の大名行列の際に、周辺の助郷村々から動員された人足や馬の差配を取り仕切る重要な施設であった。

法虎堂

円位堂

俳諧道場

鴫立庵

千ノ川にかかる「鳥居戸橋」手前右側に、「南の左富士碑」がある。東海道を西に向かって歩く時、富士山が左に見えるのは、ここと、吉原だけである。今日は、雲が多く、富士山は姿を見せなかった。

橋を渡ると、「旧相模川橋脚」がある。関東大震災で水田が隆起し、鎌倉時代の旧橋脚が発見された。「吾妻鏡には、橋の開通式に頼朝が落馬し、それが元で翌年なくなった。と書かれている。」 右側に、「でかまん」と言うお店があり、おおきなお饅頭が売っている。一番小さなものをお土産に買った。

街道に戻り、繁華街を歩く。平塚駅前交差点を過ぎると、人通りが少なくなり、馬入交差点で国道と合流する。合流する手前に、「馬入(ばにゅう)一里塚」がある。 江戸から数えて15番目の一里塚で、街道を挟んで南北に一つづつあった。北側の一里塚の前には井戸が、馬入川の渡しに向かう東側には、川会所や川高札があった。

江戸見付けを過ぎ、交差点を渡り、右折し、しばらく行き左に入っていくと、(聞きながら行ったので)紅谷公園に「番町皿屋敷」の「お菊塚」がある。平塚宿役人の娘お菊が、旗本青木主膳邸に行儀見習いにはいり、主人愛用の皿を割ってしまい、手打ちになったと言う悲しい話であるが、主人になびかなかったので、家宝の皿を割ったと言う冤罪だったと言う話もある。

鴫立庵の前に、「湘南発祥の地 大磯」の石碑が建っている。鴫立沢の標石の裏に「著盡湘南 清絶地」と刻まれている。小田原の嵩雪と言う人が西行の歌にちなんで「鴫立沢」の標石を建てたと伝えられ、この標石が湘南の始まりと言われている。

鴫立庵室

鴫立沢