手原~瀬田
H.26.05.18
ホテルで頼んでおいた朝食をとり、草津駅にむかい、一駅電車に乗り手原に戻る。駅前に「東経136度の通り駅」の石碑が建っていた。前日の行者堂まで戻って、街道を歩き始めた。8時15分です。
弁天池のところに、「東海道立場跡」の石碑があった。弁天池は干上がっていて、地図によると、この池の向こうには、「山の神池」がある。
交差点の右側に、瓢箪を扱っている「瓢泉堂」がある。矢倉の瓢箪は、250年ほらつくられていたが、現在はこの店だけ残っている。しかし、今日は閉まっていた。この場所は、東海道と矢橋街道の追分で、江戸時代には、「瀬田へまわろか、矢橋へ下ろかここが思案のうばがもち」とうたわれた「姥ケ餅屋」があったところである。店の角には、「右 やはせ道 これより廿五丁」と刻まれた道標が建っている。この道標は、姥ケ餅屋の軒下に寛政10年に建てられた。店の壁には、広重の「矢倉立場」の絵がかかっていた。旅人は、この先の矢橋湊から大津行の船に乗り、時間を短縮したようである。
左側に「手原稲荷神社」がある。傘松の宮とか里中稲荷大明神と称された神社である。明治天皇が立ち寄られたようで、鳥居の脇には、「明治天皇手原小休止碑」が建って、境内には、「明治天皇聖蹟」の石碑が建っていた。
茶屋の先の交差点を渡ると、左側が「上鈎(まがり)池」の堤防で、堤防の中ごろに「鈎の陣碑」と多数の歌碑がある。六角氏討伐のため近江に出陣した将軍足利義尚は、鈎の安養寺に陣を構えたが、25歳で没し、六角氏は危うく命拾いをしたということです。
「東海道手原村 手原傘 傘岩」の屋号をの木札が下がった立派な家がある。その先の右側に大きな屋敷があり、昔は呉服屋だったようで、「里内呉服店」の木札が下がっている。家を眺めていると、家の人が出ていた。今は裂織の作品を売っているようで、相棒が裂織のバッグを買った。
もう2時30分になるので、瀬田駅から米原に出て、新幹線で、掛川へ、JRを乗り継いで、藤枝に帰った。初めての泊りがけの旅だったが、無事に歩くことができました。今回は、旅行者主催のツアーに3組(一組30人位)出会いました。連れて行ってもらうので、間違うこともなく、楽ですが、間違えながら、聞きながら歩くのも楽しいです。
一里山一丁目交差点で、瀬田駅に行く道と旧東海道が交差している。角に「一里塚跡」の碑が建っている。説明板によると(この地点には、一里塚があって、松が植えられていたが、明治になって取り除かれた。一里山という地名はここからきている。)
「月輪大池 南一籵」と書かれた道標があり、その先に「月輪寺」と「明治天皇駐車ノ碑」がある。月輪は江戸時代、立場茶屋があったところでもある。
何もない街道を歩いていくと、「ここから 大津」と書かれた木製の常夜灯がある。その先に古い立派なお屋敷があった。
その先に、弁天池がある。小さな島があり、そこに弁天様が祀られているようだが、今は行けないようにしてあった。子供たちが、柵につかまって虫取り網を伸ばしてカエルを捕まえるといっていたが、危なっかしくて、注意したが聞いてくれない。落ちなければいいがと思いながら、池を後にした。
43号線を地下道で横断する。すぐに、「野地萩の玉川」がある。ここは、十禅寺川の伏流水が湧き水になり、一面に咲く萩とともに、近江の名水・名勝として有名であったところで、源俊朝が「あさもこむ 野路の玉川 萩こえて 色なる波に 月やとりけり」と詠まれた。 現在のものは、昭和51年に復元をしたものである。
この後、東海道がどこを通っているかわからなくなって、国道に戻った。向こうから東海道ウオーカーのようなおじさんが来るので、道を聞いてみた。道は教えてくれたが、一里塚のほうに行ってないようなので、聞いてみたが、一里塚には興味がないようだった。しっかり寄り道する方、ただ歩くだけの方といろいろです。 国道を渡り、ののみち保育園の道に入ると、東海道の案内板がある。少し先の右側に遠藤家の前に、「清宗塚」の案内板がある。矢印板があるので、はいて行って、呼び鈴を押し、見せてもらえるか聞いてみた。「どうぞ」ということで、中に入っていくと、奥のほうに清宗塚があった。(清宗とは、平家の総大将・平宗盛の長男で、壇ノ浦の戦いで敗れ、捕虜になっていた父・宗盛が野洲の篠原で断首されたことを知り、西方浄土に手を合わせ、堀弥太郎景光の一刀で首をはねられた。その清宗の亡骸を葬ったのがこの五輪塔である。)遠藤家は個人でこの塚を守ってきたようです。また気持ちよく見せていただき、ありがとうございました。
対面の標識に旧東海道の案内表示があるので、国道を斜めに渡る。上北池公園に「野路一里塚」の石碑が建っている。そばの説明板によると(一里塚は、これより北西30mと道を挟んだ北東20mにあったが、明治14年、国有地払い下げで消滅した。両方とも松であった。)
左側に、.赤い鳥居がたくさん並んだ稲荷神社があるので、中に進んでみた。ずっと先に「朝日大明神」「伊吹大明神」が祀られていた。ここで、国道に出る。角に「サイゼリア」があったので、昼食をとる。街道を歩いていると、何時昼食がとれるか分からない。とれないときもあるので、ファミレスがあると、ほっとする。
橋を渡ったところにある、「立木神社」は、旧草津宿と旧矢倉村の氏神様だった。その名前は、常陸鹿島明神からこの地に1本の柿の木を植えたことに由来する。神社には、ふつう狛犬が鎮座しているが、獅子の狛犬のほかに、神鹿が鎮座していた。
太田酒造は、戦国時代の関東の英傑・太田道灌の末裔が江戸時代から営む造り酒屋で、「道灌」という酒をつくっている。草津宿で、この付近は政治的な中心地として、宿場の管理を行う問屋場があった。東海道筋では、三か所しか置かれていなかった荷物などの重量検査をする貫目改所が置かれていたので、太田家を中心とするこの付近は、草津の政所と言われてきた。
脇本陣跡の石碑が建つ。今は脇本陣という名前のベーカリーになっていた。その先に、「街道交流館」がありはいって見学した。旅体験コーナーや版画体験コーナーなどもあり、楽しめました。貫目改所の様子のお芝居をCGにしてみせていて、よく分かった。
吉川芳樹園店舗兼主屋 平入正面上部の虫籠窓や漆喰で塗り込められた出桁など町屋らしい。脇本陣藤屋与左衛門家にあたります。
草津本陣は、田中七左衛門が材木屋をしていたため、木屋本陣とも呼ばれた。現存する本陣の中では最大級で、国の指定史跡である。田中家が個人でこの古い由緒ある建物を守ってきたものを、草津本陣として公開している。本陣の子孫の方に案内していただいた。昔は、税金を納めるだけでも大変だったらしく、また家を保存するということで、煙突もなく、生活するには大変だったようです。
草津宿は、十一町五十三間半(約1,3km)。東海道と中山道の追分の宿場だったので、本陣が二軒、脇本陣が二軒、旅籠が74軒あった。角の草津公民館は、脇本陣・大黒屋弥助だったところである。
道が突き当たったところには、小さな薬師堂と、ミニチュア高札場があり、京から来た人の道標を居てしまったため、トンネルを抜けて中山道をしばらく歩いてしまった。道行く人に聞くと、東海道はあちらということで、トンネルをまたくぐって追分まで戻る。
ここは、草津宿の江戸側の入り口にあたり、右手の土手には、地蔵堂があり、下に降りる道の左側には、常夜灯があった。常夜灯は火袋を含めた高さが4mもあり、日野の豪商・中井氏が寄進したもので、文化13年に建てられた。道標をかねていて横道道標とよばれ、「右 金勝寺志がらき道 左 東海道、伊勢道」と刻まれている。
少し歩くと、左手に土手が見えてきて、草津市に入った。左手の坂に入ると「草津宿」の入り口である。草津川にかかる橋を渡り、向こう側に行く。草津川は上流をせき止め、新たな川を作りそちらに水を流すようにしたので、この川は干からびていた。
さらに進むと、小柿1丁目の右側に、「史跡老牛馬養生所」の碑がある。(湖西和称村の庄屋・岸岡長右エ門は、年老いた牛馬を打ちはぎにする様子を見て、息のあるうちは打はぎをやめるように呼びかけた。天保12年、老牛馬が、静かに余生を過ごせるように、養生所をこの地に設立した。)
しばらく歩くと、現代の田楽茶屋「ほっこり庵}があったが、まだ開いていなかった。新幹線の下をくぐるとホース格納庫の横には、「従是東膳ノ領」と書かれた領界碑が建っている。
その先の西岡家の前には、「京伊勢屋跡」の石碑がある。案内板によると、(田楽茶屋は、立場であった元伊勢屋{岡野屋}と京伊勢屋{西岡家}古志ま屋{寺田屋}の三軒をいい、すべてが岡の地に店を構えた。
数軒先の寺田家の前には、「名代田楽茶屋古志まや跡」の石柱が建っている。家の玄関には「古志ま屋徳兵衛」の木札がかかっていた。
200mほど歩くと、専光寺があり、その先の右側に、「田楽発祥の地」の碑と「領界碑」が建っていて、「目川立場茶屋伊勢屋跡」の案内板がある。(東海道を往来する旅人の休憩所として、立場茶屋が置かれた。ここで供された菜飯と田楽は東海道の名物となった。店名時代の当家の主人岡野五左衛門は「岡笠山」と号した文人画家であった。与謝蕪村に師事し、幕府の命に応じて揮毫し、将軍の覧に供す。」と記録されている。)
道を左折し少し行くと、右側に民家の前に「一里塚跡」の石碑があった。(目川村の一里塚は、現在の鎌田屋敷の東隅とその向かいの旧北野家屋敷の西隅にあり、椋の大木があった。当時の一里塚は西は草津の野路、東は六地蔵にあったといわれている。)
ここを右折すると右側に「地蔵院」という寺があり、境内に「皇神宮の碑」があり、説明板によると(ここ目川地蔵院の境内には、天照大神宮、八幡大菩薩、春日大明神という銘のある碑があり、側面には、元禄年間 亥年」の刻印がある。神仏混合時代の名残であろう。)
しばらくすると、T字路に突き当たる。正面がまた堤防になっているが、堤防の下に、「東海道 やせうま坂」と刻まれた道標がある。 東海道と中郡街道の分岐でもある。
その裏には「しんびょうしの霊水」があり、竹垣に囲まれた井戸があった。(しんびょうしの霊水は、金勝川の伏流水で、井筒が二つくらいしかないので、水面が浅く、非常に汲みやすく、夏は冷たく、冬は暖かいので、飲料水として重宝されてきた。この往来を行き来する旅人も憩いの場に足を止め、疲れを癒した。) 今も水はきれいで、流れは少しだったが、湧き出ているようだった。
その先に左側に「稲荷神社」の標石が建っている。行って見ると、土地の人が神社の掃除をしていた。説明が書かれていて(往時、お社を囲むように松の木が生い茂っていた。昔川辺村の東海道の交通量は通行人一日2000人、馬400頭の往来があり、商店も15軒あった。商売繁盛を祈願して伏見稲荷神社を勧進して建立。三吉、笠松、枇杷の三大明神を祀る。)
川にかかる葉山川橋を渡ると、一面の畑が広がる。その先の左側に、「善性寺」がある。文政9年に、シーボルトがこの寺の住職を訪ねている。その時のことを「かねてより、植物学者の川辺村善性寺の僧・恵教のもとを訪ね、スイレン、ウド、モクタチバナ、カエデなどの珍しい植物を見学セリ。」と綴っている。
その先には、「すずめ茶屋」跡地の石碑が建っている。昔、ここに、菜飯や豆腐田楽を売る茶屋があったそうで、茶屋幟にすずめの絵が描かれていたそうです。
その先に「東経136度 子午線」の石碑がある。
昔は、撮影できたようだが、今は撮影禁止。宿帳も公開されていて、新撰組32名などの記述もあり、和宮様も休憩したり、吉良上野介なども宿泊している。、
街道には立派な屋敷が残る。