瀬田~三条大橋

H.26.05.17

その先の和田神社は、(白鳳4年に祭神の高麗神を勧進して創建された神社で、古来から、八大龍王社とか、正霊天王社とも称され、明治に和田神社となった。透かし塀に囲まれた本殿は、一間社流造、軒唐破風をつけるのが特徴で、国の重要文化財に指定されている。檜皮葺の屋根は、安土桃山時代に改修されているが、側面の蟇股は鎌倉期の遺構と考えられている。) また、境内の大銀杏は、樹齢650年といわれ多数の気根が垂れている。、関ヶ原の戦いで敗れた石田光成が、京へ移送される際、休息の時、縛られていたという話が残っている。 

早朝家をでて、JR、新幹線、草津線と乗り継いで、瀬田の駅に着いた。前回の四つ角まで戻る。「三条大橋まで五里あまり」の道標があり、歩き始める。

横木1丁目で旧道は終わり、横断歩道で反対側に渡る。橋の上から来た方角を振り返ると、京都東ICへの道や北国街道への道が交錯していた。50mほど歩き、竹内医院を右折し、旧道に入る。すぐに、「三井寺観音道」と刻まれた道標があり、側面には、「小関越」と刻まれている。逢坂山を越えるには、逢坂越えと小関越えがあるようです。

名神高速の高架下をくぐり、藤尾交番前を斜め左の入る。道の北側が大津市追分町で、南が京都山科区髭茶屋屋敷町で、滋賀県と京都府の境である。少し歩くと三叉路があり、伏見道の追分に出た。札ノ辻に道標があるはずだったが、「京都。・奈良街道の追分道標が、車で破損。現在、行政と復興交渉中です。」の張り紙がしてあった。

鉄道のガードをくぐり左側の細い道に入る。、旧道を歩いているはずだったが、しばらく歩くと、大きな道に出てしまった。角に「天智天皇山科陵」の石碑が建っていた。この右手の山のほうに御陵がある。向こうから歩いてきた方に三条大橋を聞くと、「この道を左に左に行くとある。1時間くらいかな。」ということだった。あと一時間頑張ろう。

その先には、「明治天皇御遺跡」の石碑があり、説明板によると(明治元年9月の、明治天皇御東幸の際、2年3月の御遷幸、11年10月の御遷幸の三回にわたって奴茶屋で休憩された。奴茶屋は戦国時代より東海道の茶店、宿場及び本陣として洛東山科洛東の名刹・毘沙門堂の御料地内にあった。)

坂は下り坂になり、歩きやすくなった。このあたりは、旧寺一里町で、江戸時代には、両側に一里塚があったところであるが、今は何も残っていない。その先に、月心寺がある。門が閉まっていたが、案内が置いてあった。「京と近江を繋ぐ東海道 逢坂に今も湧く名泉・走井」の寺と書かれていた。明治天皇聖蹟、芭蕉の歌碑、篠原薬師如来像など、史跡文化財が存在するということだが、入れなかった。

右側に赤い鳥居の蝉丸神社上社が見えた。横断歩道を渡り、神社に行く。蝉丸は、天皇の皇子だったという謡曲「蝉丸」がある。蝉丸の生い立ちははっきりしないが、盲目の琵琶の名手だったことは間違いないようである。見上げるような石段をあがると、先ほどの下社の社殿より立派な神社があった。

ここから、逢坂山の登りになる。(逢坂の地名は、日本書紀の神功皇后の将軍・竹内宿禰が、この地で忍熊王に会ったという故事に由来する。平安時代、平安京防衛のため、逢坂の関がつくられ、関を守る鎮守として、関蝉丸神社と関寺が建立された。)と書かれた逢坂の碑があるので、安養寺が関寺だったのだろう。

京阪電車の踏切を渡ると、右側の小高い所に「安養寺」がある。蓮如上人の旧跡の寺で、上人身代わりの名号石があり、重要文化財指定の、行基上人作と言われる、「阿弥陀如来坐像」が安置されている。

この東海道は、大江三丁目と六丁目の境を行くが、道筋に市が設置した案内板がある。市立瀬田小学校前の道標にでた。瀬田小学校の近くに「西行屋敷跡」がある。西行法師は、佐藤義清という北面の武士であったが、23歳で出家し、諸国行脚で、多くの歌を残した。この大江の地に一時住んだと言い伝えられている。

その先に、「東海道」の道標があり、その裏に「車石」の説明があり車石が置いてあった。説明は前に見たのと同じでした。

右側に、徳林庵がある。南無地蔵尊と書かれた石柱は、京都六地蔵の一つ山科地蔵のことで、地蔵は六角堂に安置されている。小野篁によりつくられた六体の地蔵尊のひとつで、最初は伏見六地蔵にあったが、西行法師により、ここに移され、東海道の守り神になった。琵琶法師の祖と言われる人康親王・蝉丸ゆかりの寺でもある。寺の脇を行くと、十禅寺があり、人康親王の墓がある。ということだったが、行かなかった。

追分を東海道のほうに進むと、右側の「閑栖院」の門前に東海道の道標と「車石」があり、説明板がある。中に入ると、復元した車石を並べた道ができていた。(逢坂山は、大量の荷物の輸送があったので、牛馬車が使用されたが、急なので難儀した。脇坂義堂が、車石を並べて荷車が通行することを発案。近江商人・中井源左衛門が一万両の財を投じて、大津から三条まで、花崗岩に轍を刻んだ敷石を並べ、荷車が通れるようにした。)工事で取り外された石を保護しているようです。

高札場跡

三条大橋手前に高山彦九郎像が京都御所を遥拝しています。尊王攘夷を旗印に挙兵した薩長は欧米と交戦、敗北を機にいち早く軍備の欧米化を図った。しかし、融通の利かない志士たちは、各地で不平分子となり、反乱を起こして、政府軍に鎮圧された。

街道は蹴上交差点を左折する。右側は、蹴上浄水場である。

坂道をあがっていくと広場になっているところがあり、車石があり、記念碑が建っている。それによると、(京都市営地下鉄東西線の開業に伴い、廃線になった京阪電鉄京津線の軌道跡を利用し、三条通りの4車線化と歩道の整備を記念して、三条通りの敷石として敷設されていた車石を利用し、往年の牛車道を模した広場を設置する。)先ほど歩いた旧道は本当は、ここに出たようです。

旧三条通りを進み、安祥寺川を大津畑橋で渡り、當麻寺を過ぎると、「五条分かれ道」道標がある。五条橋と三条通りとの追分道標である。

虫籠窓の旧家

民家の前に石柱があり、「大津算盤の始祖 月岡庄兵衛住宅跡」とあった。庄兵衛は、慶長17年、明国から長崎に渡来した算盤を参考にして、当地で製造を開始した。最近まで、子孫の方が住んでいたと書かれていた。その後ろには、車石と車輪が飾られていた。

逢坂の頂上付近の右側に「逢坂山弘法大師堂」の木柱が立っていて、小さな祠がいくつかあり、石仏が祀られていた。またそのそばには、「逢坂常夜灯」がたっていた。交通量が多く、横断歩道もないので、こちら側から拝んで、先に進んだ。

線路の向こう側に「蝉丸神社下社」の常夜灯と、石碑がある。踏切を渡って、境内に入る。蝉丸は、音曲の神様ということで、枇杷法師は、蝉丸神社の免許がないと、地方興行ができないほど権力を持っていた。半分壊れかかった神社で、管理する者がいないのではと危ぶんだ。

この角を左折し、国道161号を歩く。左側に、「大津本陣跡」の案内がある。(江戸時代この八丁通りの両側には、旅館が軒を連ねており、大津宿本陣・大塚嘉右衛門宅があった。また、明治元年、明治天皇の行幸にも使われたことから、「明治天皇聖蹟」の碑も建てられている。

街道を進むと、国道161号の通りに出た。ここは、札の辻といい、高札場が置かれたことからその名がついた。市の案内板によると、(ここは、江戸時代、幕府の法令を記した高札が建てられた四辻であり、大津宿の人馬会所もこの角にあった。ここは、東海道と北国街道との分岐でもあった。)

その先の角に「此付近露国皇太子遭難の地」と書かれた石碑が建っている。そばの説明板によると(明治24年、帝国ロシアのニコライ皇太子に津田三蔵巡査がサーベルで切り付けた「大津事件」の発端となった場所。大国ロシアを恐れた松方内閣は、皇室に対する大逆罪を適用し、死刑を画策する。大津地裁で開かれた大審院法廷で、謀殺未遂罪を適用し、無期徒刑の判決を下し、「司法権の独立」を貫いた。)

京都に向かう道ということで、「京町通り」と言われた道沿いに、「森野すだれ店」があった。珍しいので中に入った。竹製品が並んでいて、私は、簀巻きを買い求めた。向かいには、古い和菓子屋さんもあった。いつもなら買い求めるのだが、今日は暑くて甘いものより冷たい飲み物のほうがよかった。

翁堂の天井絵は、伊藤若冲の四季花卉の図

芭蕉が最初に訪れたのは、貞享2年でその後4回滞在している。元禄7年、大阪で亡くなると、芭蕉の遺言により、門人の手で寺に運ばれ、義仲の墓のそばに埋葬された。ほかに、巴塚、山吹塚(側室山吹の塚で、元は大津駅前にあった。)巴地蔵堂、翁堂がある。

馬場一丁目に入ると、義仲寺がある。寺の由来書によると、寿永3年、源義仲は、範頼、義経の軍勢と戦い、討ち死にした。側室の巴御前が尼になって当地を訪れ、草庵を結び、義仲の供養をした。

法応寺を過ぎると、膳所城北総門跡の石碑が建っている。このあたりが、膳所城の北のはずれで、膳所藩大津陣屋の境である。

石坐神社は、天智天皇が琵琶湖の神様を祭祀したことに始まる。八大龍王神社とか、高木宮といわれたこともあったが、延喜式にも近江国滋賀郡の八社のひとつと記される古い神社で、本殿は文永3年で、鎌倉期のもので、檜皮葺の立派なものだった。

200mほど行って、.右折し、道なりに行くと、西の庄に入る。加藤酒店と響忍寺の角を右折し、その次の角を左折するのだが、この角を見落とし、しばらくこの辺りをぐるぐるし、加藤商店まで戻り、道を発見する。橋を渡り、石坐(いわい)神社がある。

街道の左側にある縁心寺は、膳所藩主本多家の菩提寺である。

(当寺の門は、高禄、または由緒ある武家屋敷の膳所の六門「長屋門」の一つである。)と書かれていた。

神社の先を右折し、膳所商店街に入る。京阪電車瓦ケ浜踏切を越し、突き当りを左折し、音羽軒を右折する。

その先に「若宮八幡神社」がある。そばの案内板によると(この表門は、膳所城の犬走り門で、明治3年の城取り壊しの際に移築された。大棟の背面に切妻造りの両袖の屋根を突き出した高麗門で、屋根は本瓦葺きで、大棟の両端に鯱と鬼瓦を上げ、軒丸瓦には、旧城主本田氏の立葵紋が見られる。)

その先の左にカーブする道の脇に「膳所城勢多口総門跡」の石碑がある。家康は、西国に備え、瀬田の唐橋を守護する為に、膳所に城を築く。藤堂高虎が縄張りを行い、歴代の譜代大名が城主となった。このあたりは、城下町特有の鈎型になっていて、道は右に左に曲がっている。格子の古い家には、ばったん床几がついている。この後も何軒も見かけたが、前に倒すと縁台になるものである。

京阪電車の松原踏切を越え、JR西日本のガードを越えると、晴嵐商店街に入る。NECの前にある案内板によると(江戸時代 この辺りは膳所城下町の南総門から鳥居川のあたりは、美しい松並木が続いており、近江八景のひとつ「粟津の晴嵐」として知られた名勝であった。)現在は数本の松しかなく、名残の松もどれかわからなかった。

橋を渡った先の交差点は石山商店街で、古い家も並んでいる。京阪唐橋前駅手前に、「地主之守大神 方位之守大神 逆縁之縁切大菩薩 蓮如上人御影休息所」と書かれた石碑が建っている。

交差点を渡った先に「常夜灯」と「句碑」があり、河原に降りていくと、「勢多橋龍宮秀郷社」がある。祭神は、瀬田川の龍宮様と俵藤太秀郷である。俵藤太が龍神様の頼みにより、大ムカデを退治したという伝説による神様であろう。瀬田の唐橋は、琵琶湖の南端から流れ出る瀬田川にかかる。大小34本の擬宝珠があり、川中の島で二つの橋になっている。カヤックやボートが出ていて、水面を滑るように走っていた。

古い家がところどころに残っている。説明板によると(この場所は、江戸時代の膳所藩の瀬田代官屋敷があったとこrです。明治以降新たに民家として建築され現在に至っていますが、代官屋敷と繋がりがあると伝えられて、1770年代の狩野派の絵師の襖絵も残っていて、地域の歴史を後世に継承する貴重な建物です。大津市の宝として保存、活用していく取り組みを行っています。)と書かれていた。

Y字になった真ん中に石善さんの看板があり、「左旧東海道 右瀬田の唐橋」と書いてある。少しばかりの旧道を通り、突き当りを右折して、瀬田唐橋を渡る。振り返ると、「建部神社」の大きな鳥居があった。(建部大社は、もとは神崎郡建部郷にあったが、天平勝宝7年、現在地に移された。主神は、日本武尊命。)

初田仏壇店先を右折し、浄光寺の前を通過する。大村クリニックの先でT字路に突き当たる。ここを左折し、高橋川を和田1号橋で渡ると「建部大社末社・檜山神社」がある。長い石段を登っていくと、かわいい社が二社並んでいた、。

広い敷地に復元の建物があり、何組もの人たちが、グランドゴルフをしていた。ここに、「近江国衙跡」の石碑が建っている。(天皇を中心とする国家を作ろうとしたころ、全国に68ケ国に作られた。近江国庁は奈良時代前半に設置され、平安時代後半まで存続した。都から派遣された国司が、徴税、裁判。軍事など近江国の統治と都との連絡を行っていた。近江国庁が、日本で最初に、古代の地方政治の中心地である国庁の全容が明らかになった遺跡である。)家のすぐそばに、「志太郡衙」の遺跡があり、復元されている。

しばらく道なりに歩くと、「近江国府跡」直進という電柱の矢印があったので、寄っていくことにする。しばらく歩いていくと、右手に「御霊神社」がある。そばの方に聞いてみると、国府はその神社の裏のほうにあるようだ。神社をお参りして、道を戻り、裏手にまわる。

その先に「膳所城中大手門」の新しい石碑が建っている。

5時35分三条大橋に到着しました。人でごった返しています。東海道を完歩しました。最初のうちは、一人で、途中からは、友人が一緒に歩いてくれて、楽しく歩くことができました。ところどころ、道を間違えたり、聞いて戻ったり、間違えたままあるいてしまったりで、「だいたい東海道」というところですが、本やネットで調べたりして何とか歩くことができました。藤枝から日本橋、藤枝から三条大橋と変則的でした。一回だけ泊まりましたが、あとはすべて日帰りです。藤枝というほぼ東海道の真ん中に位置するところに住んでいるという条件があったので、できたことだと思います。また、ほかの街道も歩きたいです。

「三条白川橋道標」

しばらく通りを歩くと、「坂本龍馬・お龍の結婚式城跡」がある。(当地は青蓮院の旧境内で、その塔頭金蔵寺跡である。

道の向こう側に、「逢坂山関址」の石碑と「逢坂常夜灯」があった。江戸時代には、この辺りに立場茶屋があり、山から流れ出した清水を使った走井餅が評判だった。

境内に、時雨灯篭「蝉丸形」があり、鎌倉時代の特徴をもつ灯篭で、需要文化財に指定されている。

札ノ辻から国道163号を歩き、国1号と合流する。山科までは、東海道の古い道はなく、国道を歩くことになる。

平野集落を出ると、大津宿に入る。第二次世界大戦で大津の町は空襲にあい、中心部はほぼ全滅したとのことで、古いものは残っていない。大きな通りを横切ると、左の奥には、滋賀県庁がある。

芭蕉直筆の句碑「行春を あふミの人と おしみける

義仲公の墓所

芭蕉の墓所

朝日堂

徳川家康は、慶長7年、大津城を廃城にして、その資材で膳所城を造らせ、大津を直轄地にして、大津奉行が支配する大津陣屋を置いた。大津の町は、宿場町として栄え、近江商人の町として発展した。大津宿は、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠71軒を数え、近江上布を扱う店、大津算盤、大津絵など近江商人が商う店が増え、東海道最大の宿場町となった。

大津宿

広重の大津

電車の踏み切を越えると、打出浜で、石場という。江戸時代には、湖を船で渡ってきた旅人が利用する港があった。大きな常夜灯が建っていて、船の安全を守っていた。その先の坂の上に平野神社がある。蹴鞠の祖神である精大明神が祭神である。境内には、「蹴鞠ノ神社」の石碑がある。

堀立柱建物

信楽焼きのたぬき