新町~群馬八幡
H.27.6.6~7
早朝家をでて、東海道線、新幹線、高崎線と乗り継いで、新町駅に着いた。駅前から街道に向かう。9時45分に歩き始める。新町駅交差点を少し行くと、左側の「旅籠高瀬屋跡」に「一茶文学碑」がある。「一茶七番日記より」と書かれた文章が刻まれている。文化七年(1810)小林一茶が投宿したところ、神流川見透燈籠建立の浄財を強要され12文を寄付している。 「手枕や 小言いふても 来る蛍」
達磨寺縁起によると(昔、碓氷川のほとりに観音様のお堂があった。大洪水の後、川の中に光るものがあり、村人が拾って見ると、香気のある古木だった。霊木としてお堂に納めておくと、延宝年間、一了居士という行者が、一刀三礼、達磨大師の坐像を彫刻してお堂にお祀りした。達磨大師の霊地少林山として知られると、領主酒井雅楽頭は、水戸光圀公の帰依された中国の帰化僧心越禅師を開山と仰ぎ、弟子の天湫和尚を水戸から請じ少林山達磨寺を開創した。)とあるが、諸説があって確かではないようです。
その先に「中山道 板鼻宿2.5km、高崎宿3.6km」の道標がある。
10分程歩道を歩くと、「藤塚の一里塚」がある。(塚木は樹齢200年以上の榎、群馬県下の現存する唯一の一里塚で、江戸日本橋から28里目である。また、国道を挟んで向こう側には、「浅間神社」がある。これは、北の一里塚跡で、道路の拡幅工事に伴い現在地に移されたもの。一里塚は、藤塚と言われ、地名の藤塚の由来となっている。) 草がぼうぼうで、もう少し整備してほしいと思った。
その先の右側に石仏石塔群があり、その先の左側には、金ヶ崎不動尊が街道を背にして建っているため見落とし、戻ってお参りをした。不動明王を祀っているというが暗くて分からない。境内には道祖神や庚申塔がある。
庚申塔のすぐ先には、「飯野茶屋本陣」がある。大名の参勤交代や上級武士、公卿の喫茶や休憩、昼食のために用いられた休憩施設。日光例幣使であった五条宰相菅原為成が、また文久元年には、皇女和宮が立ち寄った。
畳屋の前を左折し、突き当りを斜め右の国道406号線に入る。しばらく歩くと、右側に赤い鳥居に石神社がある。 下豊岡バス停の所のY字路、「信州道分去れ道標」がある。自然石の道標で、「右はるなみち、くさつみち」と刻まれている。
往時、烏川河畔には筏場があり、信州で切り出した材木をここで筏に組み、江戸に送ったといいます。烏川は舟渡しだったが、明和七年(1770)木橋が架橋され、通行料五文が徴収された。
その先に「岡醤油醸造」の煙突が立っている(。天明七年(1787)初代岡忠右衛門が足尾銅山から江戸え銅を運ぶ街道の要衝として栄えた群馬県に河内屋の屋号を掲げ醤油醸造業を営んだのがはじまり。明治30年に旧中山道沿いに支店を開設した。)今日は日曜日で店は閉まっていて残念でした。宿場歩きの、ここが難しいところで、土日しかやっていない所もあるし、土日はお休みの所もある。
その先の右手に、「長松寺」がある。(書院は高碕城に幽閉された徳川忠長が自刃した部屋を移築したもの。当寺は、加賀藩の茶屋本陣も勤めた。) 天井絵と涅槃画像が残されていて、これは、向拝天井絵で、天女が描かれている。
高崎城址を濠に沿って歩いていくと「玉田寺」がある。(永正元年(1504)和田信輝が和田城の鬼門除けの寺として薬師如来を安置し開山した。)
街道に戻り、あら町交差点を左折すると「諏訪神社」がある。(慶長四年(1599)の勧請で、本堂は総漆喰の塗籠造りの防火様式。文化四年(1807)の火災に遭っており、その痕跡が確認される)軒下に鳥居が付けられているという変わった形をしている。重さ8kgの鶏卵形の石が、宝篋印塔の屋蓋を裏返したものを使った台座に安置されているという御宝石を探した。狛犬と灯籠の間に水盤の様なものがあったが、それがそうだというが、鶏卵型ではなかった。
街道に戻りながら「倉賀野神社」による。倉賀野宿と近郊七ヶ郷の総鎮守。境内には飯盛達の信仰が篤かった冠稲荷が祀られている。
右側には、高札場跡があり、復元されている。その後ろ側にある木に何か書いてある。(樅ノ木の由来・安政2年の大火で、倉賀野は焼野原と化した。ただ一軒焼け残った家があった。大天狗が現れ防火に努めたからだという。この家では、古峯様を信仰していたので、古峯の天狗が助けたのだという。天狗の飛び移った樅ノ木に毎年初幟を立てると、これが古峯神社に納まっているという。今の木は数年前に植え替えられた。)
街道右側にある「須賀喜太郎脇本陣跡」は遺構を残している。その向かい側には、もう一軒の「須賀庄兵衛脇本陣碑」がある。
「倉賀野まちつくりネットワーク」の看板が出ていたので、入ってみた。出てきた方が、「今は大したものは置いてないのよ。」と言っていた。「倉賀野めぐり」のパンフレットを頂いた。
「閻魔堂」は正式には阿弥陀堂で、九品寺の飛び地であったが、中には閻魔大王が鎮座している。平成27年5月に新築したばかりで、きれいだった。
楡木を経由して日光道中の今市へ至るみちである。文化十一年(1814)建立の常夜燈は、例幣使道五料宿の高橋光賢が若いころの放蕩を悔み、私財を投げ出し、不足分は寄進(雷電や団十郎他312人)によって建てたものである。常夜燈の基台には、四面にわたり名前が刻まれている。
旧道沿いには、見事な龍の彫刻が施された「北向子育て観音」がある。御堂の中には如意輪観音が安置されている。境内のイチョウの木から銀杏が落ちていた。
街道上に関越自動車道の高架があり、本庄46トンネルでくぐる。その先はY字路になって斜め左に入る。右手は土手に上がるスロープになっている。旧道には、舗装路の中央に用水堀の痕跡を残している。電柱の所から土手に上がりサイクリングロード(高崎伊勢崎自転車道)に合流する。これが立石旧道。
その先の中山道道標には、「倉賀野宿4.4km、新町宿0.8km」と書かれていた。
君が代橋東橋詰まで行かず、手前の歩行者自転車専用レーンに入り、地下道を通って君が代橋左側歩道を通行し、渡り切ったら、階段を降り、地下道に入り、西橋詰を横断する。地下道を出ると、「萬日堂」の前に出る。(お堂には、みかえり阿弥陀尊が安置されている。その昔、永観禅師が不断念仏を思い立ち、本尊を巡って行動念仏中、眠くなって立ち止まったところ、本尊が「永観遅いぞ。」と後ろを振り返ったといいます。京都禅林寺にある「みかえり阿弥陀尊」は重要文化財になっているが、ここのものは室町時代のものと推定される。)
連雀交差点を右折した奥に「大信寺」がある。(三代将軍家光の弟忠長の墓がある。兄家光に疎まれ、秀忠が亡くなると乱行を理由に高崎城内に幽閉され、寛永十年(1633)自刃させられた。享年28歳であった。)
日光例幣使・家康の命日4月18日に行われる日光東照宮例祭に朝廷から派遣される勅使を例幣使という。毎年例幣帛を捧げたところを意味する。この慣例は朝廷にとって屈辱的であったため、例幣使の一行は横暴な振る舞いが多く、特に日光例幣使道にはいると一層顕著になったという。
その先には、「信仰庵」がある。宝暦十三年(1763)建立の橋建立供養塔がある。烏川の洪水で亡くなった人びとを供養した。
その先に、久保本陣があったが、遺構はない。天保13年の大火で全焼後再建され、皇女和宮の御休憩所になった。久保という医院があったがここであろうか。
街道に戻り、連雀交差点をそのまま直進すると「高崎城址」がある。(かっては三重の天守閣と四基の隅櫓を誇っていたが、今は三の丸外囲の土塁と濠、昭和に復元された乾櫓と東門があるだけ。)
天気予報に反して、朝から良いお天気で、暑くなりそうです。7時過ぎにホテルを出て、昨日の続きを歩きます。新田町交差点を右に入ったところに「延養院」がある。(上野国真言宗の三名刹のひとつ。開祖は慶覚。円空作神像があり、像の底面に梅が描かれていることから、菅原道真の像と言われている。円空は延宝九年(1681)上野国に滞在していた。
「むすぶより はや歯にひびく 泉かな」
安中まで行きたかったが、もう14時30分をまわったので、今回はここまでとします。そのまま北上して、JR群馬八幡駅に着いた。売店もない小さな駅で、15時20分まで待って、信越本線、高崎線、東海道新幹線、東海道線と乗り継いで、藤枝に帰りました。信越本線に乗ったのは初めてかもしれません。 今回は、途中で中山道歩きのツアーに会った。ツアーなら道を間違えることなく、見どころを見逃さず、歩けるが、反対に行きたい、見たい所に行けない場合もある。個人で行く醍醐味は、人に道を聞いたり、ガイドブックや地図を見て探しながら歩くということです。今回も高崎で、「頼政神社」に行きたいと思っていたが、見落としてしまった。 源氏の武将で歌人でもあった人物で以仁王を奉じて平氏の追討を図り、敗れ宇治平等院で自刃した。確か、平等院に頼政公の墓と宝篋印塔があったと思う。
上段の間
神明宮を過ぎると、庚申塔がある。
常盤町交差点を右折し、並榎町坂下公民館までてくてく歩く。その先に「君が代橋親柱」がある。(明治11年9月、明治天皇が北陸東海御行幸の時、馬車で木橋を渡られたことを記念して命名された。この親柱は明治6年に木橋から鋼橋に掛け替えられた時のもので、昭和62年に三層構造のインターチェンジが建設され、君が代橋も新しくなったので、ここに移設された。)
余談だが、家光を元服させると、秀吉の一字を付けなければならないので、元服を遅らせたという説がある。秀忠は秀吉の秀を貰い、忠長は秀忠の秀を貰い、家光は家康の家を貰っている。
街道に戻り、少し先に「恵徳寺」がある。行って見ると、高碕神社の裏手で、行けるようになっていた。(天正年間、井伊長政が創建した。開山した禅師に長政が「和田の名称を松崎と変えたい。」との問いに「松は枯れるが、高さには限りがない、高崎はいかが。」と進言し「高崎」の地名が生まれた。)
街道に戻り、本町三丁目交差点を左折すると、「蔵造りの商家」がある。現在は山田家で、明治十五年の建築。燕が巣をつくっていた。その先に「氷室」のある古い建物がある。
土塁・高崎城には石垣は殆んど無かった。乾櫓には、土囲上に1m足らずの高石台があったにすぎなかった。
その先には、興禅寺がある。朝早いからか、門が開いていなかった。(治承元年(1177)新田義重によって開基され、和田城主和田右兵衛大丈信輝が再興し菩提寺とした高碕一の古刹。)
街道に戻り、反対側の道の奥に行くと「向雲寺」がある。(慶長五年(1600)高崎城初代城主・井伊直政は近江佐和山に移封となり、代わって酒井家次が入城し向雲寺を開基した。)大きなサンゴジュが2本あり、きれいに刈り込まれ見事だった。
南町交差点の奥に「愛宕神社」がある。和田城(後の高崎城)の鎮護神として創建され、火防の神として篤く崇敬されている。境内には厳島弁財天が祀られている。
栗本精肉店の角を右折し、最初の角を左折しその先で県道に合流する。県道121号線を歩き、上越新幹線のガードをくぐり、上信電鉄の踏切を跨いだ辺りが高碕宿の東口(江戸口)です。
寺を出て、上町西交差点あたりに倉賀野一里塚があったが、位置不明。江戸日本橋から25里目。
その先を進むと「倉賀野河岸」の説明板がある。(嘉永五年(1852)には舟数百三十三艘、舟持十数軒、川岸問屋十数軒あった。明治17年、高崎~上野間の鉄道の開通に伴い、河岸は急速にさびれた。)
そこにいた方に聞いて、「倉賀野河岸」を目指す。途中に「井戸八幡宮」がある。倉賀野城三の廓跡の古井戸から水と共に八幡大神が現れたのが起源と伝えられている。井戸は今も残りその上に神輿が保管されている。井戸は10年に一度御開帳されてる。そこで、お孫さんと遊んでいたおじいさんが、「うちの嫁はスケートの選手で、中山道を歩いた。」という。もしかして「勅使河原郁恵さん」帰ってきて調べると2011年に高碕出身の方と結婚してる。勅使河原さんって倉賀野では名家だが、関係があるのでは?といろいろ考えてしまいます。
すぐ先の交差点を左折し進むと、奥の方に「倉賀野城址」がある。烏川沿いの雁(かりがね)公園の中にある。住人の憩いの場所になっているようです。(治承年間に武蔵児玉等党の支流である秩父高俊が烏川を要害とする河岸丘上に館を構え、倉賀野氏と称したことに始まる。戦国時代になると、武田、上杉、北条の争奪戦に遭い、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際に陥落し廃城となった。)
その先の「倉賀野仲町山車倉」の前には、「御人馬継立立場跡」がある。
倉賀野宿は、日光例幣使道や烏川と利根川の舟運上流の倉賀野河岸を控えた。川岸は信州、上州の廻米や産物を江戸に送り、行徳の塩や干鰯を持ち帰った。本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠32軒であった。
倉賀野下町バス停を過ぎると、下町交差点になる。このY字路が「日光例幣使道追分」です。閻魔堂、「左日光道 右江戸道」と刻まれた道標と常夜燈がある。
「八栄鮨」の所からY字路を左に入る。その前に陣屋に行きたくて、手前の道を左に入った。しばらく歩き右側の会社の敷地を突っ切って右の方に行くと広場があり、「岩鼻陣屋跡」の案内板が建っている。案内板によると(寛政五年(1793)に上野、下野、武蔵の幕府直轄領五十万石を支配する為に岩鼻陣屋・代官所が設置された。初代の代官に吉川栄左衛門、近藤和四朗が任命された。明治4年、岩鼻県は廃止され、第一次群馬県が成立し、県庁は高碕城内に移された。)
自転車道を歩き、柳瀬橋を渡る。広い歩道がついているので、歩きやすい。渡り詰めから土手道を歩き、岩鼻樋菅の所から土手を下りると中山道道標がある。
この後、「中島旧道トレース」を歩くのだが、道を間違えたようです。中島村には立場があり、村内には一里塚があったようだが位置は不明で、江戸日本橋より24里目の一里塚であった。中島旧道から土手に上がった先には「柳瀬の舟渡場跡」がある。(宝暦九年(1759)新町宿と倉賀野宿で馬舟五艘、平田舟二艘を用意して、渡賃1人につき十文、荷駄一駄十四文、武士は無賃と決めた。烏川は柳瀬川とも呼ばれた。)
その先には、養蚕で財を成した川端家がある。豪壮な建物は登録有形文化財に指定されている。江戸時代の豪農で、明治になると生糸の貿易で財を成した。
道路の向こう側には、「中山道道標」が建っているここは、新町宿の京口(西)。そのそばに「日本スリーデーマーチ発祥の地」の石碑が建っている。オランダで開かれる「歩け歩け運動」に参加し、その後歩け歩けの祭典を東松山市で開催している。
その先の左側の公園に、「弁財天」が祀られている。天明三年(1783)の建立。往時は温井川の中の島にあった。境内には安政二年(1855)建立の芭蕉句碑や道祖神がある。この島には、清水が湧いていて旅人ののどを潤したいう句である。
天気予報は、雨模様だったのに、今日は快晴で、日差しが強い。右側の奥まったところに「寶勝寺」がある。本陣を勤めた小林家の墓があるそうだが、見つけられなかった。その先の右側の民家の前に「小林本陣跡」の標柱がある。建坪は135坪であったという。
本堂(霊符堂)
少し街道から外れるが、「達磨寺」に寄ることにする。少林寺入口交差点の先の「鼻高橋」を渡り、左折して、「達磨寺」の駐車場の方から入ってしまった。
この地方は養蚕が盛んであったので、屋根の上に養蚕用の小屋根を二つ持つ「上州造りの旧家」が残っている。この旧家を過ぎると街道は高碕環状線に出る。ここを横断すると、草原の中に「馬頭観音」がある。旧道はカーブして小野整形外科の前を通り、鈴木宅を左折して国道18号に出る。横断できないので、上豊岡交差点まで戻って、国道を横断する。
庚申塔の向かいには、「松本だるま工房」があり、作りかけの達磨が干してあった。今日は日曜日で工房はお休みの様です。豊岡は「ダルマの里」でダルマつくりの家が多い。達磨寺の住職が農民に製作を指導した。
エネルギーを充電して、また歩き始める。豊岡小学校の前に「若宮八幡宮」がある。(平安時代末期、源頼義、義家父子が奥州安倍氏反乱を鎮圧する途次、戦勝を祈願して建立し、寛文二年(1662)幕府代官が社殿の大改修を行った。江戸末期には、火消し・新門辰五郎、明治期には乃木大将のなどの参拝があり、常時参拝者が絶えなかった。)
その横に、「八坂神社」がある。安山岩製尖塔角柱道標があり「榛名山草津温泉」と刻まれている。 街道を歩いていると、「達磨製造販売」の看板が出ている。
常盤町交差点の右側に「山田文庫」がある。(実業家で学者でもあった山田夫妻が私設の図書館を創設して、私邸を一般開放している。)中に入り、説明を聞いて、お茶やお菓子をいただいた。来てくれる人たち皆にふるまっているらしい。現代の小説、児童書、奥には、昔の全集や写真集などがあった。明治以前の建物の母屋、土蔵二棟、茶室、煉瓦塀が高崎市景観重要建造物に指定されている。
この辺りで道を間違えて、早めに曲がってしまったが、本当は、本町2丁目交差点まで行き、少し行くと「高碕神社」がある。(慶長三年(1598)井伊直政が高崎城改築の際に建立した。歴代藩主の崇敬が高かった高崎の総鎮守。)立派な建物だったが、下が駐車場になっているので、最近立て直したものではないかと思う。
飛龍松
16時をまわったので、今日はここで終わりにして、駅前のホテルに入った。
高崎宿は、三国街道、信州街道の分岐点に当たり、大いに賑わい「お江戸見たけりゃ高碕田町」とうたわれた。宿内の旅籠は15軒で、城下町であったため、諸大名の宿泊は敬遠され、本陣、脇本陣はなかった。
松並木を過ぎて上正六に入ると左側に「浅間山古墳」がある。前方後円墳で、4~5世紀の豪族の墳墓。向こうに見える小高い丘がそうかなと思ったが、行く道が分からず通り過ぎた。
異形板碑二基は、将棋の駒の形をしていて、通常の板碑より厚い。鎌倉時代末から南北朝時代前半の造立と推定される。
その先には、安楽寺がある。異形板碑、本堂の裏には、古墳がある。この辺りが倉賀野宿の京口(西口)であった。(古墳は、7世紀末ごろ築造されたと推測され、円墳で横穴式石室に七仏薬師を刻み寺の本尊としている。本尊は秘仏で、12年に一度開帳する。)
左側に、男女双体道祖神、中山道倉賀野宿碑、石灯籠がある。その先のベイシアマートの駐車場に、「勅使河原本陣跡」の碑がある。皇女和宮は勅使河原本陣で昼食を摂っている。
「倉賀野古商家改修工事」と書かれていて、発注者は高碕市長になっていた。古い家を改装して、街並みを保存しようとしている。古い民家があばら家になっているのをたくさん見ているので、保存しようとしているのはよいことだと思います。
大山邸・2001年たかさき都市景観賞。黒塀に門構えの旧家。
卯建を上げた旧家
明治38年創業の「丁字堂 房右衛門」でおまんじゅうを買う。
しばらく121号を歩き、「関東ロックウール」の所を左に入る。すぐに旧道はY字路になり、右に入る。その先に、石碑や山灯籠、石塔などが残されている。その先で、元の県道に合流する。
「八栄鮨」の所を斜めに左に入り、また松屋商事さんのところで、元の道に合流する。街道は新柳瀬橋北交差点から県道121号和田多中倉賀野線になる。街道は、JR高崎線を跨線橋で跨ぐ。橋上には「中山道・倉賀野宿1.0km、新町宿4.2km」と書かれた道標がある。
敷地内の天神山にある神社
弁天橋を渡り、Y字路を右に入ると、新町から立石新田に入る。この辺りには桑畑が広がり、.養蚕が盛んであった。というが、現在は桑の木は見当たらない。右側に「伊勢島神社」がある。元は稲荷神社であったために、狛犬ではなく、狐になっている。参道口の常夜燈は天保五年(1834)の建立、境内には道祖神、庚申塔が集められている。
総門
高崎宿1.5km、倉賀野宿1.8km
高崎宿2.0km、倉賀野宿1.3km
鼻高橋を渡り、国道を歩道橋で渡ると、「だるまの里」があり、たくさんの達磨が飾られていた。ダイアナさんも立ち寄ったようで、写真が飾られていた。
毎年1月6~7日の「だるま市」は、北関東最大の規模を誇る。
東門
乾櫓
橋のたもとにある「倉賀野河岸」碑
観音堂
忠長自刃の部屋
街道に戻る途中に「埋蔵文化財発掘調査中」の看板がある場所があった。
2日目