群馬八幡~横川

H.27.6.20~21

今日は、ここで終わりにして、横川駅に戻る。鉄道文化村があって、親子連れで賑わっていた。今回もいろいろな方にお世話になりました。特に「宝泉館」のマスターには、迎えに来てもらったり、翌朝には、相棒の忘れ物を車で追いかけて渡してもらったりして、どうもありがとうございました。 また、街道には、丸太道標があり、正確な距離が書いてあるので、「あと少し」とか「もうこんなに歩いたんだ。」とか励みになりました。ただ、場所によっては、本陣などの位置がはっきり分からなかったりして、残念でした。 横川駅から、信越本線、上越新幹線、東海道新幹線、東海道線と乗り継いで無事藤枝まで帰りました。

直ぐに「川久保薬師堂」がある。難所碓氷峠の無事通過を願って建立された。その先には、「薬師の湧水」がある。この湧水を用いた「ところてん」を商う茶店があり「心太坂」とも呼ばれた。今でも水がちょろちょろ流れ出ていた。

ここにも「とりてつ」のおじさんがいて、「あと10分ほどで来る」と言い、カメラを備え付けていた。梅の木の畑の間を抜けて坂を下りるとちょうどSLが走って来た。9時頃会った親子もこのSLを撮れただろうかと気になった。

板鼻堰用水路」宿場の北を流れる用水、慶長年間中期~後期に開削され、鷹巣山麓の堰口から碓氷、九十九両川の水を取り入れて烏川に注ぐ延長15kmの用水路。ずいぶんと水量が多く、町のあちこちを流れていた。

早朝家を出て、東海道線、東海道新幹線、上越新幹線、信越本線と乗り継ぎ群馬八幡に着いた。高崎で、4分の待ち合わせの信越本線に乗り遅れ、1時間待って、着いたのは午前9時40分だった。今度信越本線に乗る時は乗り遅れないようにしよう。駅前には、前回気が付かなかったが、「いってらっしゃい」「おかえりなさい」の達磨が飾ってあった。

その先には、「碓氷関所の門跡」があり、右側の小高くなったところに「碓氷関所跡」の門柱がある。慶長十九年(1614)仮番所が置かれ、元和八年(1622)番所となり、翌年家光上洛に際し関所となった。安中藩が管轄し、東海道箱根関所と同様、「入り鉄砲出女」を厳しく取り締まった。これに伴って、坂本宿の嫁取りは信州方面の女がほとんどであったといわれている。 門柱、門扉は当時使用されていたもので、屋根材と台石も当時のもので復元されている。この位置は番所あとで、復元された門は東門である。 

安中宿

坂を上っていくと国道18号線に合流する。そこに「坂本宿0.9km、松井田宿7.4km」道標がある。そういえば、今日は殆んどの道が上りだった。碓氷上水道原貯水池を過ぎると、左側の奥に「白髭神社」がある。「白髭神社由来」によると(12代景行天皇の命により、日本武尊が東国を平定して武蔵、上野を経て碓氷嶺東麓川久保坂にさしかかた時、山の神は白鹿に化けて武尊の進路を妨げた。剣を持った白髪の老人が現れて白鹿を撃退した。猿田彦命の加護と思い、石祠を祀った。時に景行天皇四十年(110)、白髪の老人にちなみ「白髭神社」の創建となった。)

霧積橋を渡り、「薬師の坂」碑を左に入る。(霧積橋の上流に川久保橋が架けられ、正式には碓氷御関所橋と呼ばれ中山道筋であった。橋桁の低い土橋であったため、度々流失した。関所には大綱一筋、麻綱一筋が常備され、御用綱として書状箱を対岸に渡した。)

旧信越本線ガードをくぐると、国道18号線に合流する。そこに「碓氷馬車鉄道由来」の看板が建っている。(横川~軽井沢間の高低差、555mという難所で、馬車鉄道として世界に類を見ない難路線の開設であった。等)の解説と共に、客車を馬が曳く絵が描かれていた。

その向かい側には、「鎮魂碑」「招魂碑」がある。信越線敷設に伴う犠牲者の霊を弔うもの。

この石は、「お辞儀石」と言われ、この石に手をついて通行の許可を受けた。

その先には、諏訪神社がある。参道奥に鳥居が見えます。横川の鎮守である。お参りをすると、本殿の前の電燈がつくようになっていた。その向かい側に「雁金屋茶屋本陣跡」があるというが、見つけられなかった。武井と言う表札がある家がそうです。という説もあるが。

その先には、「武井茶屋本陣跡」がある。説明板によると(この茶屋本陣は、代々横川村名主を勤め、幕末頃には、坂本宿の助郷惣代をも兼ねた武井家の西の一部である。棟は居宅と同一であるが、居宅部分は2階があるが、本陣の方は2階を作らず天井を高くしてある。庭は風情がある。)と書いてあったが、人が住んでいるようで、裏庭を見ることはできなかった。

昼食をとり駅を出ると、街道に「坂本宿2.0km、松井田宿6.3km」道標がある。段上に祀られた「御嶽山碑」と「石仏・石塔群」が右側にある。 矢ノ沢橋を渡る。(矢ノ沢の上流約300mには「子育地蔵」が祀られている。明治43年の洪水で流失したが、頭部が欠損した状態で発見され、霊験あらたかな地蔵として信仰を集めている。)

横川と言えば「おぎのや」の「峠の釜飯」である。11時40分で、ちょうど昼食時に着いたので、、早速いただく。何回食べても中身はいつも一緒だが、今日はお腹もすいているし、格別に美味しかった。 「おぎのや」は明治18年の創業、「峠の釜めし」の老舗。往時は立場茶屋であった。

信越本線に沿って進むと横川駅に到着しました。駅では催し物があり、着物・袴姿の女性が「富岡製糸場世界遺産1周年」の記念バッジを配っていた。

旧道は国道18号線に吸収される。下横川交差点を右折し、信越本線を第十五中山道踏切で越すと「坂本宿2.5km、松井田宿5.8km」道標がある。

小山沢川を小山沢橋で渡り、すぐ先の小山沢交差点から斜め左の旧道に入る。弓状に進むと、山燈籠があり、「百合若大臣の足跡石」がある。百合若大臣なる大男が強弓を射る際に踏み出した踵の跡と言う。もう一方の足跡は向こう側の道にあるということでした。案内板によると(百合若大臣は向こうの山に向かって矢を射た。家来の1人も負けじと弁当の結びを投げた。山には二つの穴が開き、今でも二つの穴が夜空の星のように見え、この山を「星穴岳」と言うようになった。この時に使った弓と矢が妙義神社に奉納されている。)と書かれていた。天気が良いとこの穴が見えるそうです。

北条の代になると、この地は信州より関東の入口となるので、碓氷郡鎮守として崇敬され、碓氷郷一宮に定められた。神社の前には、「庚申塔」や「二十三夜塔」がある。

坂本宿5.0km、松井田宿3.3km」道標を過ぎると、馬頭観音二十三夜塔が道の両側に何体も祀られている。 「坂本宿4.5km、松井田宿3.8km」道標を過ぎると、馬頭観音や石仏石塔群があり、御所平踏切を渡り、更に国道18号線を横断するのが中山道だが、この踏切は遮断機もない踏切で、しばらく行って、高墓踏切を横断する。 その前に、碓氷神社がある。建久年間、源頼朝が信州浅間の牧狩りの際に、碓氷神社の境内に御所を置いたところからこの地を「御所平」と呼ぶようになった。

しばらく歩き、信越本線榎踏切を渡ると、道祖神がある。その先の右側には、石仏石塔群がある。

五料交差点で国道18号線を横断し、上信越道高架の下を通る。その先に「庚申塔」と「二十三夜塔」がある。ふたつとも注連縄が巻かれている。 五料本陣跡に行く手前に「高札場」跡がある。「安中藩 板倉伊予守料分五料村 高札場跡」と書かれている。その先の踏切を渡ると、本陣跡がある。

信越本線の製糸踏切は踏切先の旧道が消滅しているので、踏切手前を右折する。ここでうろうろしていると、さっきすれ違った方から「横川は真っ直ぐ」と声がかかった。お礼を言って先に進む。線路沿いに親子でカメラを三脚に据えて待っている「撮り鉄」がいる。聞いてみると「2時間後にSLが走って来る。」という。高崎駅で石炭を積んだ貨車を見たがここはSLが走るんだ。2時間は待っていられないので私たちはその先の第十中山道踏切を渡る。ちょうどその時、高崎から乗った信越本線の電車が走って来た。

寺の中には「松井田城址」の看板が建っている。(城は東と西の二つの廓からなる。東半は御殿山を中心に安中廓と呼び、安中忠政が築城した。西半は、本丸、馬だし、二の丸の三つの廓からなる。二の丸の北西部に土塁が遺存する。自然の尾根を利用し、無数の堀切や竪堀を構築している。典型的な中世の山城として名高い。)

西松井田駅前交差点を過ぎると右側に「補陀寺」がある。境内には、松井田城主大道寺政繁の墓がある。寺域は松井田城の一部を占めている。小田原攻めの際、前田利家等の攻撃の前に落城し、後に自刃する。加賀前田家が参勤交代で門前を通ると、墓は悔し汗をかいたという。

街道から右に入ったところに、「松井田八幡宮」がある。慶安元年(1648)徳川三代将軍家光朱印地13石6斗を寄進している。本殿は三間社流造銅板葺である。

かんべやさんの先の道を奥に入っていくと、「崇徳寺」がある。足利尊氏の開基。外郎の陳氏歴代の墓がある。その先の右側にある山城屋酒店は、小田原「ういらう」の分家で「外郎陳道斎」の店跡。

「松井田宿」の道標が「下木戸跡」である。松井田宿の江戸口(東口

本陣跡の道を挟んで反対側の奥に「大泉寺」がある。井伊直政の正室唐梅院の墓がある。また境内には「大泉寺のチャンコロリン石」がある。(今から二百数十年前の事、夜更けの安中宿を一抱えもある丸い石が、チャンコロリンと賑やかに囃し立てながら転がりまわった。役人が刀で切りつけても止まる様子がない。大泉寺の和尚が御念仏を唱えながら釘をうち封じ込めた。今でもその時の刀傷や鉄砲玉が当たったあとが残っている。

鷹巣(板鼻)城址

宿をでると、鷹之巣神社入口碑がある。鷹巣神社は鷹巣山の崖の上に鎮座する板鼻の総鎮守。現在は、門と石宮が現存している。往時はここから向かいの山に上がる参道があったと思われる。

前回の続きの街道まで戻り、午前10時に歩き始める。しばらく歩くと、八幡大門の交差点右に、「上野国一社八幡宮鳥居」が建っている。鳥居の扁額「八幡宮」は弁慶の書と言われる。 奥に入っていくと、山門、石段の上に本殿、幣殿、拝殿、唐銅灯篭がある。

板鼻宿

「松井田宿4.9km、安中宿4.2km」道標

松井田宿5.4km、安中宿3.7km」道標

鬱蒼とした山道を歩いていくと、左側に「夜泣き地蔵・茶釜石」がある。(馬方が左右の荷の平衡をとるため、地蔵の頭を利用し、用が済むと捨ててしまった。夜毎「五料こいしや」と泣き、憐れんだ深谷の村人が五料に届けたという話。茶釜は叩くと茶釜のような金属音を発したのでこの名がついた。)叩いてみたが、言われてみればという音でした。

信越本線を「お東踏切」で横断すると、五料茶屋本陣がある。中島家が勤め、「お西」が本家、「お東」が分家で、共に名主を兼ねた。両分家共に文化三年(1806)の大火で焼失し、同年に再建されている。

井伊の赤備(あかぞなえ)

「お東」分家

「お西」本家

佐藤工業さんの所を左折する。カーブミラーのあるT字路で右折する。ここが旧道鳥坂道です。右側に大岩の上に安置された地蔵立像がある。国道18号線に出るところに文政十年(1827)建立の二十三夜塔、明治13年建立の山燈籠がある。また、「坂本宿6.0km、松井田宿2.3km」の道標がある。

安中署松井田分庁舎の手前を左斜めに入ると、天保12年(1841)建立の道祖神と石塔が祀られている。その先の左側に「新堀の一里塚」がある。(明治20年代まで中山道を挟んで南北に一里塚があった。日本橋より33里目の一里塚であり、平塚家の庭に南塚を残している。)

歩道橋の奥にある祠と石仏、石塔

横断歩道橋の橋脚の所に「松井田宿」の道標がある。ここが上木戸跡で、松井田宿京口(西口)であった。歩道橋の奥に「本照寺」がある。親鸞は建保二年(1214)越後から京へ向かい、この地で法然の死を知らされ、落胆の余り吐血した。と書かれている。

「ういらう屋」の向かい側には、「金井本陣」があった。現在の群馬県信用組合のあたりである。下の本陣と呼ばれ、問屋を兼ね、上の本陣と一か月交代で勤めた。仲町交差点を挟んで向こう側には「松井田町道路元標」がある。 その先には、「松本本陣跡」がクリーニング・オオツキのあたりにあったというが、そのお店も無くなって空き地になっていた。上の本陣と呼ばれ問屋を兼ねていた。

木戸跡の先には「かんべや」がある。妙義登山口と記された古い看板がある。ここが妙義道追分である。この向かい辺りが、「徳右衛門脇本陣跡」であるが何の印もない。

広重は松井田宿として宿の東口を描いている。「是従松井田宿」と書かれた傍示杭と関札が描かれている。遠景は碓氷峠、左の谷は碓氷川の琵琶の久保、街道は逢坂である。祠には道祖神が祀られ、松の根方には庚申塔があり、二筋の幟が奉納されている。街道には米俵や物資を運ぶ馬を描いている。

松井田宿は、信州諸藩の年貢米が集積され、江戸廻米の中継地になっていた。廻米の半分は宿米(米商人)に払い米(換金)され、残りは倉賀野河岸に運送され、舟運で江戸に廻送された。本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠は14軒だった。

松井田宿

分岐に戻り、坂を下り、突き当りを左折し、国道18号線を地下道でくぐる。地下道を出て、右、右と歩き、石仏石塔群がある。レストランサミーの所で県道に合流する。

松井田宿1.9km、安中宿7.2km」の道標を過ぎ、国道に出る手前を右折し細い坂を下る。その前に交差点まで出て、向こう側に渡ると、「妙義道常夜燈」がある。江戸後期の大きな常夜燈で、元は中山道から分岐する妙義道入口にあった。と刻まれていた。

朝食をいただき、5分ほど歩き、昨日の続きの街道まで戻った。曇ってはいるが雨は降っていない。

2日目

原市小学校郷原分校の先に「郷原の一里塚」があったが、現在、位置は不明。日本橋より31番目の一里塚である。

その少し先の左側には、「高札場跡」がある。住宅の中に木製の標識が建っている。

その先の右側に、「松井田宿2.9km、安中宿6.2km」の道標と安永三年(1774)建立の百番供養塔道祖神がある。 百番供養塔とは、西国33ヶ所、秩父34ヵ所、坂東33ヶ所を巡礼し、その完結を祝って建立したと言われている。この辺りに磯貝雲峯の旧宅跡があるということだが、見つけられなかった。

その先には、自性寺がある。保延元年(1135)の開基。新島襄の先祖の菩提寺で、地元の磯貝雲峰の墓がある。先を急ぐので、奥には入っていかなかった。雲峯は新島襄が開いた同支社英語学校で学ぶ。明治28年に渡米し英詩を翻訳する。九十九かるたに(磯貝雲峯 郷土の偉大な文学者)とうたわれている。 群馬には「上毛かるた」というものがあるということを聞いたことがある。 雨が降ってきてしまった。まだ小降りだが、先を急ぐ。

さらに進むと「日枝神社」がある。創建不詳。かっては山王大権現と称し、大山昨神を祀っていた。村の鎮守。拝殿は明治14年に再建された。

その先の左側には、「真光寺」がある。安中藩十二代藩主板倉勝暁が「時の鐘」としたことで、戦時中の供出を免れた鐘がある。今は本堂の横にあるが、元々は、中山道からの入口の東側にあった。

その先の左側に、茶屋本陣・高札場跡がある。磯貝茶屋本陣跡で、「明治天皇原市御小休止跡碑」がある。ここには原市村の高札場があった。

その先の右側に「原市村戸長役場跡」がある。明治4年4月、太政官布告により、それまでの町村役人を廃して「戸長」と改称した。

その先の左側には、「安中原市杉並木」碑があり、立派な杉が残っていた。

並木苑の向かいには、「稲荷神社」があり、正一位稲荷大神が祀られている。神社の前に「磯部煎餅」の幟がはためいていた。近くに製造会社があるが、今日は閉まっていた。

「原市の杉並木」の案内板が「並木苑」の前にある。

安中総合学園高校交差点で、国道18号線を横断する。新たに植栽された杉並木がある。

神社を過ぎると県道125号線から県道48号線下仁田安中倉渕線に変わる。植栽の中に「天然記念物安中市杉並木」碑がある。かっては七百本余りの杉並木があり、日光の杉並木にも匹敵するほどでしたが、みな枯れて16本になってしまい、この筋には残っていない。

宿を出ると火防の神を祀る「愛宕神社」がある。この神社は前方後円墳の上に鎮座している。 その先の左側には、「新島襄先生旧住宅入口碑」と「湯浅生月詩入口碑」がある。米国から帰った新島襄は両親が住むこの家で三週間過ごしたという。湯浅半月は有田屋に生まれ、新島襄の影響を受けた詩人で「十二の石塚」を発表する。行って見たかったが、ここもパスする。

しばらく歩いていくと、安中上野尻郵便局の敷地内に「安中大木戸址」碑がある。安中宿の京口(西口)である。

その先の右側に「有田屋」がある。創業天保三年(1832)の天然醸造醤油の老舗。安中藩の御用達も勤めた。古い蔵が並んでいた。お店は新しくなっていて、いろいろな醤油が売っていて、荷物にならなければ買いたかった。その向かいには、「便覧舎跡碑」がある。便覧舎は、有田屋さんの湯浅治郎氏が明治五年に開設した日本で最初の私設図書館です。有田屋さんは明治、大正、昭和にわたって日本の教育、文化、社会に貢献した人物を多数輩出したことでも知られている。

その先の右側に「蔵造りの商家」サカウエ薬局がある。土曜日だから休みなのか、もうやめてしまったのか分からないが、閉まっていた。

街道をはずれた右側の奥には、復元された「旧安中藩武家長屋」や「旧安中藩郡奉行役宅旧猪狩家邸」などがあるようだが、パスして先を進む事にした。

ぐるっと回って街道に戻る手前に「旧碓氷郡役所跡」がある。明治11年に設置された。その道を挟んで隣には「安中教会」がある。県下初の教会。礼拝堂は新島襄召天三十周年記念の建築で大正時代の石造建築。

安中城大手門入口

東門枡形

東門番所

安中城東門跡

木戸跡の裏手に「熊野神社」がある。安中藩の守護神、総鎮守として歴代藩主に篤く崇敬された。境内のケヤキは推定樹齢千年で、ケヤキに祈願するとイボがとれるといわれている。現在は、落雷により樹身の三分の二が崩れ落ち、残る三分の一が東北に傾き鉄柱で支え補強している。

熊野神社参道口には、「非戦の先駆者 柏木義円の墓入口」の標柱がある。新島襄から教えを受けた、安中教会の柏木義円は、日露戦争の時に平和非戦論を説いたといわれる。

その先に、「下木戸跡」があり、ここが安中宿の江戸口(東口)であった。

すぐ先の下野尻歩道橋で国道18号線を横断し、斜め左の県道125号一本木平小井戸安中線に入る。コンビニの前に道標「安中宿0.5km、板鼻宿1.9km」がある。久しぶりに見たコンビニでアイスを買って歩きながら食べた。

その先のY字路を右に進み、丸石を積み上げた擁壁に突き当たる。この延長線が渡し場で、道祖神がある。先の渡し場同様、夏は徒歩渡し、冬場は仮橋でしたが、後に二ツ橋が架橋された。(中洲をへて二か所の仮橋が架けられた。) 左に迂回すると馬頭観音の石仏がある。その先の十字路を右折する。国道18号線に合流し、碓氷川を久芳橋で渡る。

その先に、「庚申塔道標」がある。享和二年(1802)の建立で、「従是一宮大日街道」と刻まれている。これは将軍家光が再建した富岡貫前神社への道筋を示したものである。

中宿歩道橋の所に「諏訪神社」がある。中宿の鎮守で、境内には「明治天皇腰かけ石」がある。 中宿交差点を右折し、突き当りのT字路を左折する。右の道筋は渡し場からの痕跡である。

 

その向かいには、「南相寺」がある。伊能忠敬と共に全国を測量した和算家小野栄重の墓がある。

角を曲がっていくと「実相寺」がある。門の前に「聖正観音像」があり、説明板によると(この石像は満願寺に建立されたが、廃寺になったため池に埋もれていたが、これを憐れみ、明治10年、村人と共にここに安置した。

旧てうちん屋は幕末の建物で、窓も土戸であった。今は花屋とガイドブックには書いてあったが、もうやめたらしく、あちこち痛んでいた。火災の際には味噌で密封する構造になっていた。 その先の右側に石仏石塔群があり「八坂神社の双体道祖神」もある。、その向かいに牛宿跡があったという空き地があり、そこが昔造り酒屋の十一屋だったようだ。牛宿とは、岡船と呼ばれる荷役の牛と牛方が宿泊したところ。

公民館の前には、海音寺潮五郎書の「中山道板鼻宿」碑がある。中には、皇女和宮が宿泊した書院「和宮資料館」や「月の宮」を残している。和宮は、11月10日に木嶋本陣に宿泊する。投宿後変調をきたし、初潮と判明し、その際の不浄物を埋めたところに塚を建て「月の宮」と呼んだ。

街道に戻り、その先の右側に「旅人歓迎」と書かれた「ところてん」のお店がある。出てきた御婦人達に強力に誘われ中に入った。古い家のようで、内部を案内してもらった。満腹だったが、ところてんをいただいた。さっぱりしていて、つるっと入ってしまった。

板鼻館の奥に「称名寺」がある。裏門は板鼻城陣屋門を移築したもの。

街道に戻り、向かい側には「板鼻館」がある。旧旅籠「角菱屋」跡、四代続く「かつ丼」の老舗。ちょうど昼時だったので、名物の「タルタルかつ丼」をいただく。店の中には、「角菱屋」の古い看板や昔の電話機などが飾ってあった。かつ丼は美味しかった。

東口の先の左側の奥に「長伝寺」がある。ここは、代用本陣を勤めた。

板鼻宿は、碓井川の渡しを控え、城下町高碕宿を避けた旅人で賑わった。上州七宿で最大の宿であった。幕末には天領として幕府の直轄領となった。本陣、1軒、脇本陣1軒、旅籠54軒、宿長は東西十町三十間(約1.15km)であった。)

板鼻川を板鼻橋で渡り、信越本線の第九中山道踏切を渡ると、板鼻宿に入る。

板鼻下町交差点で、国道18号線を横断し、直進する。その先のY字路を左の県道137号箕郷板鼻線に入る。右側に「板鼻宿0.5km、高崎宿5.6km」の道標がある。その先の右側に「双体道祖神」や石塔がある。案内板には(この双体道祖神は、寛政四年(1792)のもので、台座には、「京へ107里3丁、江戸へ21里半丁、日光へ37里、善光寺へ37里、榛名山へ5里、妙義山へ4里半里、加州金沢へ92里半と旅程が刻まれていた。)

街道に戻り、国道18号を歩いていくと、右側に、寒念仏橋供養塔が建っている。板鼻宿本陣の当主木嶋七郎左衛門が寒念仏供養によって得た報謝金を貯め、享保三年(1717)念仏供養二万日を達成した記念に石橋を改修した記念供養塔である。 その横に、「板鼻宿1.0km、高崎宿5.1km」の道標がある。

案内板によると(、三面の算額があり、そのうち、文化七年(1810)奉納の額は現存する関東最古のものである。算額とは、江戸時代、和算家が、自分の考えた数学の問題と答えなどを書いて神社に奉納したもの。和算は江戸時代に発達した数学で、関孝和がそのさきがけであった。)

並木配水池の貯水塔が右側にあり、その壁面に中山道を疾走する安中藩士の姿が描かれた「安政遠足(とおあし)之図」がある。碓氷峠の熊野権現まで7里あまりを走る「安政のとおあし」は藩士の心身鍛錬のために始めたもので日本マラソンの起源とされる。安政2年に実施された遠足には96名の藩士が参加した。

街道に戻り、伝馬町交差点の向こうの郵便局の敷地内に「須藤本陣跡」がある。

戦国時代、この地は碓氷川と九十九川に囲まれた要害の地であった為,武田と北条の争奪の地であった。永禄2年(1559)越後の安中忠政が安中城を築き、元和元年(1615)井伊直政の子井伊直勝が街並みを整備し安中宿ができた。安中宿は安中藩三万石の城下町であったが、宿場経営が困窮し、飯盛りの設置を再々願い出たが、幕末まで許されなかった。本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠17件であった。

公民館の所に蔵があり、その前にある石碑に刻まれていた。(この地は400年近い家系を有する大河原家より寄贈された。区民の総意により公民館を建設した。) この辺りに、一里塚があった。日本橋から数えて29里目である。標識を探したが見つからなかった。

鷹巣橋で碓氷川を渡る。

中山道板鼻宿渡し場跡が鷹巣橋東詰にある。 川を渡る様子が絵に描かれている。夏は徒歩渡し、冬は仮橋だったが、延享四年(1747)幕府の防衛政策の緩和により土橋が架設された。

「松井田宿5.9km、安中宿3.2km」の道標

坂本宿へ

上州櫓造りの家だが、アパートになっていた。

街道に戻り、少し行くと「安中市松井田商工会」の建物がある。昭和14年建築の旧松井田警察署跡

歩き始めるとすぐに、左側に「道祖神」がある。上州では風を防ぐための垣根をクネ・カシクネ(樫の垣根)という。北側に木を並べて風を防ぐ。

カシクネ

この辺りに予約してある今日の宿があるはずだが。ホテルに電話すると御主人が車で迎えに来てくれた。17時20分に宿に入った。

「松井田宿3.4km、安中宿2.9km}道標

松井田宿3.9km、安中宿5.2km」道標

松井田宿4.4km、安中宿4.7km」道標

道標を二つ過ぎると右側に明和五年(1772)建立の道祖神があり、傍らに石祠がある。

向かいに谷内「八本木旧立場茶屋跡」がある。御休処山田屋卯兵衛跡で、「志がらき茶漬け」が名物であった。地蔵堂を出ると、注連縄を張った道祖神がある。

道標の向こうに「八本木地蔵堂」がある。大永五年(1525)松井田小屋城主安中忠清が原市に榎下城を築いた際に、城の守護神として勧請したもの。本尊は百年に一度開帳される秘仏(木造、金箔半跏思惟像)で、参勤の諸大名は下乗下馬したという。本堂の前には、本尊と前立の写真が飾られていた。百年に一度では、一生に一度も拝めない人もあるということです。境内には、寛永二年(1625)建立の安中最古の庚申石祠があった。

秘仏     前立

その先の左側には、「安楽寺」があり、石塔に刻まれた六地蔵が安置されている。

この辺りには、「石川忠房生祠」がある。安中宿は助郷の窮乏を時の道中奉行石川忠房に訴えたところ、増助郷が許可され、これに感謝して生神として祀った。標識は見えたが、中に入れずあきらめた。

少し歩くと、右側の奥に「正龍寺」がある。上野国巡礼札所34ヶ所第25番札所。本尊は千手観音。本堂の前に大きな「馬頭観世音」の碑が建っている。

寛政十(1798)年建立の三面六臂馬頭観音

道祖神

安中宿2.0km、板鼻宿0.4kmの道標

先の公民館に本陣跡があるが、今日は土曜日で、開いていないということで、内部の写真を見せていただいた。「皇女和宮の写真

榛名道道標(はるな、くさつ、いかほなど温泉地への道を示す文政年間の碑)

板鼻宿江戸口(東口)