新子安〜川崎

H.24.07.25

早朝家を出て、JRで横浜で乗り換えて、新子安駅に9時30分に着いた。早速街道沿いに歩き始める。しばらく歩くと、才兵衛稲荷の矢印がある。由来記によると、(常陸の国に信心深い村があり、稲荷神社を祀り、正一位を求めて、5両の浄財をつくり、通りかかりの僧に頼んだ。僧は、茶店に立ち寄った際、お金を置き忘れ、出てこないのを苦にして、身投げをしてしまう。不憫に思った村人がこの浜に稲荷神社を建てて祀った。このあたりでは、神前に線香を立ててお参りするそうです。)

鶴居堂(かっきょどう)跡がある。(せきの特効薬「苦楽丸」で知られた黒川四左衛門の屋敷があった。鶴居堂は明治の中ごろ姿を消したが、「苦楽丸」の看板を掲げた黒川薬局の建物が昭和20年頃まで現在の鶴見銀座商店街にあった。) 反対側には、名主・佐久間家がある。(ここには、江戸時代、代々名主を務めた佐久間家の屋敷があった。代官用の玄関・敷台を持つ当時の建物が平成13年まで残っていた。)

9時56分、街道を左にはいった所に、神社がある。「無形民族文化財・蛇も蚊も」説明板があった。(300年前、悪疫が流行した時に、茅で作った蛇体に悪霊を封じ込めて海に流したことから始まったとされる。茅で作った長大な蛇体を若者・子供がかつぎ、「蛇も蚊も出たけ、日和の雨け、出たけ、出たけ」と大声で唱えながら町内を回ります。)

11時9分鶴見橋に着いた。橋の右手前には、鶴見橋関門旧蹟がある。(安政6年の横浜開港と共に、神奈川奉行所は外国人に危害を加えることを防ぐため、横浜への主要道路筋に関門や番所を設け、横浜へはいる人を厳しく取り締まった。生麦事件発生のあと、保土ヶ谷宿から川崎宿までの間に20箇所の見張り番所が設けられた。)

いさご通りの看板には、江戸の商人が描かれている。時計師、かみ結い醤油売り、魚屋、八百屋、看板書き、下駄売りなど。川崎信用金庫の前には佐藤惣之助生誕の地の碑がある。佐藤惣之助は詩人で、「赤木の子守唄」や「人生劇場」などの作詞をしたでもある。

11時55分川崎宿京入り口に出た。説明板によると、(宿場の入り口には、切石を積んだ土居があり、これを出ると八丁畷の一本道になる。土居内は、832間、小土呂、砂子、新宿、久根崎の四つの町があった。川崎は正式に宿場として認定されたのは、1623年で、品川宿から神奈川宿まで5里(20km)あり、宿間距離が長すぎたからです。開宿当時は小さな宿場町だった。川崎宿も戦災や関東大震災の被害で、当時の景観を残すものはほとんどない。しかも宝暦の大火で宝暦以前の文献も見当たらない様です。

11時47分、右側に芭蕉ポケットパークがある。平成17年にできたもので、芭蕉との別れを惜しんだ江戸の門人達の句や絵図(東海道分間延絵図)などが紹介されている。ベンチもあり、数人の方が涼んでいた。これによると、この辺りはまだ川崎宿に入っていない。先ほどの説明板にも、人家はなく、一面の田畑で、よしず張りの掛け茶屋ができ、酒や一膳飯を売っていた。とあった。

左に熊野神社を見て、少し行くと酒屋さんの平に何かが書かれている。(熊谷酒店を挟むようにして二本の川が流れていた。川には二本の橋が架かっていて夫婦橋と呼ばれていた。幅2間の川が潮田村・渡田村に流れ、鶴見よりには1間の川が菅沢村・市場村に流れていた。大きな流れが川崎市との境になった。)川を探したがなかった。

鶴見川を渡り、11時21分市場一里塚がある。(ここは、江戸から5番目の塚で、右側の塚が現存している。昭和初期まで、榎の大木が茂っていた。昭和8年「武州橘樹郡市場村一里塚」の碑が建立された。)

街道を歩いていくと、大師通りにでる、資料館の方に川崎大師に寄っていくようにと勧められていたが、往復1時間はかかるので、今日はここまでと、川崎駅まで戻った、途中閻魔様で有名な一行寺による。また、紅燈巷女萬霊塔(宿場で旅人の給仕をし、遊女もかねた女性の供養塔)がある宗三寺に寄るが、土日以外は閉めているようだった。JR川崎駅から帰った。

10時51分、道がカーブした先に鶴見神社がある。鶴見神社境内貝塚、鶴見七福神などがあり、寺尾稲荷道道標がある。この道標は旧東海道の鶴見橋付近から、寺尾・小杉方面への分岐点にあった三家稲荷に建てられていたもので、一村一社の神社合祀令により、大正年間に三家稲荷が鶴見神社境内に移された時に移された。)

12j時30分 田中本陣跡がある。説明板によると(本陣は参勤交代などで栄えたが、江戸末期になると大名の財政難や参勤交代の緩和などで衰えも目立った。アメリカ総領事ハリスが、田中本陣の荒廃振りを見て、万年やに宿を変えたのは有名である。)

12時16分 砂子の里資料館がある。中にはいると二代目歌川広重の浮世絵、錦絵などが飾られていた。館の方にいろいろ資料や地図をいただいて、涼しい館内で休憩することが出来た。

上の本陣跡

中の本陣跡

12時12分  佐藤本陣がある。佐藤の碑を見て通り過ぎてしまい、叉戻って見つけた。佐藤の生家でもあったようだ。説明板によると(川崎宿が最も栄えた頃には、京都に近いほうから上(佐藤本陣)、中(惣兵衛本陣) 、下(田中本陣)があった。佐藤本陣は、14代将軍 家茂が京に上がる旅中に宿泊したと言われている。)

12時1分 小土呂交差点を直進する。手前の左角に、小土呂橋擬宝珠が残っている。説明板によると、(この通りには幅5mほどの流れがあり、新川堀と呼ばれていた。渡田大島をへて海に注ぐ用水だった。この堀が東海道を交わる所に架けられたのが小土呂橋です。橋の名残はバス亭や交差点の名に見られ流場仮です。

11時55分 川崎宿の京都川の出入り口に当たる京口の棒鼻がこの辺りにあった。棒鼻には、切石の石垣があり、土居とか見付けと呼ばれていた。石垣の上は平らになっていて、その日の宿場に宿泊する大名の高札がかかるようになっていた。本陣の前にも掲げられたこの関札は、立派な檜の板が使われ、毛筆で書かれ、非常に大切にしました。これは、実際の関札の複製で、「加藤遠江守宿」と書かれています。

川崎宿

本陣 2軒、脇本陣 0、旅籠72軒

寺尾稲荷道がある。(江戸時代、ここは寺尾神社・現馬場稲荷社へ向かう道の分岐点だった。寺尾稲荷は馬上安全の奇岩で知られた。当時の道標は鶴見神社境内にあり、これは複製である。

鶴見橋の様子が描かれた案内板が建っている。

商店街を進み、高架下をくぐり、信号を渡り、横浜銀行鶴見支店のほうに進む。角に旧東海道の標柱があるというが、探したがない。10時40分、代わりに「旧東海道・鶴見駅東口通り」の看板が立っていた。(海に面していた生麦や鶴見は、川崎宿と神奈川宿の間の宿として栄え、名物よねまんじゅうを商う店や茶店が繁盛していたといいます。)

キリンビールの工場前を通り、生麦河岸通りにはいる。魚屋さんや貝屋さんがあるが、水曜日なので休みなのか、殆どの店が閉まってる。こんなにいっせいに休んだのでは、買い物客が困るのにと思った。国道下野谷入口交差点を直進し、京急鶴見駅手前の商店街に、サボテン茶屋跡碑がある。今はイタリアンレストランになっている。

10時11分、左側に道念稲荷神社がある。神社の脇には、蛇も蚊も発祥の地の石碑が建っている。道には「生麦旧道]の標識もみえる。

10時7分、見逃したのではと思う頃、住宅の塀に「生麦事件発生現場」の看板が現れた。

生麦1丁目交差点手前のガードをくぐり、右方向へ入り国道と分かれる。道路工事をしていて、「生麦事件碑移転のお知らせ」があった。28年末まで150m先に移転したようだ。150mほど先にその碑はあった。1862年(文久2年)薩摩藩主・島津久光の行列前を騎乗のイギリス人が横切ったところ、薩摩藩士に殺傷された。この事件は翌年薩英戦争を引き起こした。明治16年、鶴見の黒川荘三は、イギリス商人リチャードソンが落命した場所に、遭難碑を建てた。

資料館を出ると、右側に問屋場跡の歴史ガイドが立っていて、川崎宿では約30人の宿役人が昼夜交代で勤務し、その職務は繁忙を極めたと書いてあった。

11時41分、京急八丁畷駅手前に「八丁畷の由来と人骨」の説明板と沢山の供養塔が並んでいる。(江戸を出発点とする東海道は、川崎宿を過ぎてから隣の市場村に至ります。この区間は八丁あり(約870m)畷と言って道が田畑の間をまっすぐに伸びていたので、この辺りを八丁畷と呼ぶようになった。江戸時代の記録によると川崎宿では、震災や、大火・洪水・飢饉・疫病などの災害にたびたび見舞われた。こうしてなくなった身元不明の人々を、並木の下に埋葬したのではないか。昭和9年、ここに供養塔を建てました。

品川 川崎 神奈川を描いた絵図とその説明が書いてある。

11時44分、八丁畷の踏み切りを越え、線路沿いに左折する。直ぐ左に、芭蕉句碑がある。傍に立つ「麦の別れ」と書かれた説明板によると、(元禄7年、芭蕉が江戸深川の庵をたって、郷里伊賀の国柘植荘に帰るとき、門人達と、八丁畷の腰掛け茶屋で団子を食しながら休息しました。弟子達の句に対し、麦の穂をたよりにつかむ別れかなと返歌し、麦の穂を波たてて渡る浦風の中、出立しました。芭蕉は、この年の10月に大坂でなくなったので、これが関東での最後の別れとなりました。)

18切符  2300円

川崎宿続き

神奈川宿へ