川崎〜品川

H.24.08.11

早朝家をでて、9時5分にJR川崎駅に着いた。駅からまっすぐに市役所通りを歩く。市役所を過ぎ、向こう側に区役所もある。9時19分旧六郷橋親柱のある広場に出る。大正14年に六郷川に架けられ60年間、工都川崎を支えてきた親柱は貴重な近代化遺産として、平成14年に稲毛公園に再現された。

11時32分磐井神社がある。その手前に「鈴石、烏石と江戸文人石碑群」がある。説明板によると、(鈴石は延暦年間、武蔵の国の国司であった石川氏が奉納した神功皇后ゆかりの石で、これを打つと鈴のような音がしたので、「鈴ヶ森」の名前の由来となった。烏石は、石に烏の模様が浮き出た自然石で、非公開。かって弁天池周辺にあったが、神社の境内整備に伴って、現在の地に移された。)

その先に、「六郷の渡しと旅籠街」の説明板がある。(家康が架けた六郷橋は洪水で流され、以後200年の間、渡し舟の時代が続いた。船を下りて川崎宿に入ると、街道筋は華やかな繁華街。幕末の流行り歌に「川崎宿で名高い家は、万年、新田屋、会津屋、藤屋、小土呂じゃ小宮・・・」中でも万年屋とその奈良茶屋は有名だった。)やじさん喜多さんも食べたという「奈良茶飯」は有名で、幕末には大名や総領事ハリスも泊まった。

隣には、稲毛神社がある。創立は古代で、鎌倉時代に佐々木高綱が社殿を造営した。江戸時代は川崎6ヶ村の総鎮守。山王さんと親しまれている。境内には、現存する宿場時代唯一の建物である子神社樹齢1000年を越える御神木大イチョウなどがある。大イチョウは昭和20年の戦火で5日間くすぶり続け幹が空洞化したため、切ってしまったが、残った樹皮から若枝がはえ葉が茂った。

雨が上がった後は、かんかん照りになり、品川駅まで行く気力がなくなり、北品川駅から京急で品川に出て、家に帰った。日本橋まであと8kmに迫ったが、また次回にすることにしよう。今日も、沢山の方に道を聞いて歩いた。

京急北品川駅から帰ろうと清水横丁を通り国道に出る所に「磯の清水」の看板が出ている。(江戸時代、北品川駅付近に、磯の清水といわれる名水の出る清水井があった。旱魃の折にも枯れることはなかった。この横丁を清水横丁と呼んでいる。)

京浜急行の踏み切り近くに東海道八ツ山口の道標が建っている。少し戻ったところの家に八ツ山(大日山)付近の説明が書かれていた。(品川宿の最北端に位置する丘陵で、大日山とも言います。八ツ山の地名は、八つの出洲があったので八ツ山といい、大日堂があったので大日山といったという説がある。崖の高さが2丈もあり、時々崩落があった為、この土は海辺の石垣普請の土木工事に利用され、一部は平坦な土地になっている。)

その先に問答川岸の碑がある。かって海岸先に波止場があり、徳川家光が東海寺に入る時、沢庵和尚が出迎えて、禅問答をしたとされる場所に建っている。将軍「海近くして(遠)東海寺とはこれいかに」和尚「大軍をひきいても(小)将軍というが如し」江戸時代、旧街道は直ぐ東は海だった。

東海道五十三次品川宿 幡隋院長兵衛 歌川広重がシャッターに描かれている。江戸の町民で、侠客の元祖と言われている。鈴が森での、白井権八との出会いが歌舞伎になっているが、二人の生きた時代が違うので、創作です。

その先には、右側に品海公園がある。「東海道品川宿」の説明版には(旅人は品川宿を経由して西を目指し、また帰路に付いたことから、「東海道の玄関口」として栄え、人口7000人規模で賑わっていた。今でも、品川宿付近は江戸時代と同じ道幅を保ち、かっての宿場町として活気が息づいている。)

少し進んだ左側の奥に法禅寺があり、その前に「品川小学校発祥の地」の石碑が建っている。

12時48分 品川宿交流館に着いた。「町歩きマップ」を50円で買い求めた。少し進んだ所に「品川本陣跡」がある。説明板によると(品川宿は江戸四宿の一つで、東海道五十三次の第一番目の宿駅として発達した。その本陣跡で、品川三宿の中央に位置していた。明治5年の宿駅制度廃止後は、警視庁病院として使用された。現在、跡地は公園となり、明治元年の明治天皇行幸の際に行在所になったことにちなみ、聖跡公園と命名された。門の前に滋賀県土山宿から贈られた松が植わっている。

ほかに保土ヶ谷宿の松、大磯宿の松、土山宿の松があり、何れも品川宿に贈られた街道の松で、街道を彩っていた。

12時23分、海雲寺がある。千躰荒神が祀られている。直ぐ傍には、品川寺がある。洋行帰りの鐘、大銀杏、江戸六地蔵などがある。このお地蔵様は江戸の出入り口6ヶ所にあり、旅の安全を祈願して建立された。大きくて大仏様のようだった。大イチョウは樹齢600年で、枝や幹から乳根が出ている。

品川宿

本陣 1軒、脇本陣2軒、旅籠93軒

鮫洲八幡神社のお祭りで、各町内のお神輿や御殿屋台があり、巡行の予定時刻が張ってあった。

刑場跡から7分ほど歩いた所に立会川にかかる浜川橋別名なみだ橋がある。刑場に向かう罪人が家族と別れ涙を流した所といわれている。

再び、道路を横断して、国道右側を歩く。11時43分 品川水族館前を通過する。少し先の分岐を車両進入禁止標識のある道に入る。左側に、鈴が森刑場跡がある。罪人を処刑した基礎石や火あぶりの刑の丸い穴、磔の刑の四角い穴など柱を立てた後の穴が残っている。八百屋お七、丸橋忠弥(由井小雪と幕府転覆を図った)、白井権八(鳥取藩士平井権八は、辻斬りを重ねた。目黒に権八、小紫の比翼塚がある。)、天一坊(将軍吉宗の御落胤を名乗った)などがここで処刑された。遠州にも鈴が森刑場跡があるが、何も残っていなかった。

神社の前の歩道には、磐井の井戸がある。(当社の名前の由来となった磐井といわれる古井戸がある。東海道往来の旅人に利用され、雲水、薬水と称された。元は社内にあったが、国道の拡張工事により境域が狭められ、歩道上に遺存されるようになった。この井戸水を飲むと、心正しければ清水、心邪ならば塩水という伝説を伝えている。)

六郷神社をでて、国道15号をひたすら歩く。この頃から怪しかった空が掻き曇り雨が降ってきた。このあと降ったりやんだりを繰り返す。2km先には、夫婦橋がある。10時49分、橋を渡り太田区体育館の前には、「聖蹟蒲田梅屋敷公園」がある。和中散を商って繁盛した店が、庭園に梅の銘木を集めて、休み茶屋を開いた。家康や家茂、明治天皇も赴かれている。

公園をでて右折し、国道下を通り、六郷土手交差点を左折し国道沿いを直進する。旧東海道の石柱が建っている。しばらく行くと、右手に六郷神社がある。1057年、源頼義、義家親子が奥州に向かう途中、この地の老杉に白旗をたて軍勢を募り勝利を祈願したところ、前9年の役に勝利したので、凱旋後、創立したと伝えられている。

橋を渡り終えたが、右側を渡ってしまったので、左側に渡りなおし、9時55分六郷の渡場跡があり、公園になっていた。説明板がある。(当時六郷川と呼ばれた川には、江戸時代初期には架橋されたが、大水のたびに被害を受け、舟渡しとなった。明治になって木造橋が架けられたが、大正14年に鉄橋が完成。昭和60年に現在の新六郷橋に架け替えられた。)旧橋の橋門と親柱が保存されている。

多摩川にかかる新六郷橋に出る。橋の手前の土手には「明治天皇六郷御渡碑」がある。明治天皇が初めて江戸に入る時は、船を並べ、その上に板を並べ臨時の橋をつくった。碑には、その時の様子が描かれている。また、ベトナムから象が来た時も船で渡ったと書いてあった。橋の途中で大田区に入った。渡し場跡は説明板が立っているだけで何もない。休んでいたおじさんに聞いてみたが、「何もないよ。〜の渡し場では渡し舟を復元しようとしている。」と教えてくれた。

左に曲がって、旧東海道に入る。9時35分先日来た交差点に出る。「新宿という町」の説明板がある。(東海道の他の宿場より遅れて作られた川崎宿はいわば新宿。この辺りが新宿だった。)

しばらく国道15号を進むと、9時29分、右側に真福寺がある。入り口にある庚申塔は江戸時代の作。阿弥陀如来像の台座部分には、「言わざる、聞かざる、見ざる」の猿3匹が彫られている。

川崎宿へ

日本橋へ

18切符  2300円
京急     130円
バス      160円
計      2590円  

浜松宿の松

三島宿の松

袋井宿の松

11時9分、大森警察署交差点のビルの谷間の細い道を直進し、国道から分かれて、三原商店街(三原とは、字名の南原、中原、北原のことで、第一京浜国道が完成し、往時の幅員を残しているのはこの三原通りと六郷地区の一部だけとなった)を通る。旧街道の雰囲気を出そうといろいろ趣向を凝らしているが、日曜だからなのか、シャッターが目に付き、人通りが少ない。またお盆休みに入っている店もあった。大森スポーツセンターの前で国道に合流する。道路の反対側に渡る。