早朝家を出て、9時過ぎに保土ヶ谷駅に着いた。先日歩いた所まで行き、9時11分に歩き始める。
H.24.07.22
保土ヶ谷〜新子安
12時57分、その先の公園に、長延寺跡・オランダ領事館跡、土居(枡形)の説明板が立っている。(ここ神奈川東公園は神奈川宿歴史の道の起点である。長延寺はオランダの領事館に当てられた。当時の狂歌に「沖の黒船歴史を変えて、オランダ領事は長延寺」昭和44年の国道拡幅工事に伴いここは公園になった。)公園にはオランダ領事館跡の石碑だけが建っている。(江戸時代の宿場の入り口には、しばしば枡形が作られた。街道の両側から土居を互い違いに突き出すだけの場合もあった。街道両側から高さ2.5mほどの土居が築かれその上に75cmほどの矢来を設けている。)
川沿いを左折し小さな橋を渡る。この辺りで迷い、成仏寺を見失った。付近を歩いていた方に聞いたが、「この辺りは、寺が多くて、分からない。浦島寺ならガードを抜けたところにあるよ。」と教えてくれた。
12時41分、京急の線路の向こうに大きな字で「かさのぎ稲荷神社」の看板が見える。良泉寺を探していたが、行って見ることにした。(笠のぎ神社は社伝によると稲荷山の中腹に創祀され、元寇にあたっては、北条時宗に神宝を奉納されている。元禄2年山麓に移られて、霊験あらたかとなり、社前を通る旅人の笠が自然に脱げおちることから笠脱稲荷大明神と称された。) また境内には、板碑がある。板碑は、中世仏教で使われた供養塔で、板状に加工した石材に梵字や被供養者や供養内容を刻んだもの。最上部は三角の山形に造られ、その下に二条線や切れ込みをいれ、主体部と区別する。鎌倉時代に始まり、江戸時代になると姿を消す。
9時29分、旧帷子橋跡の公園があり、帷子橋の複製がある。大橋や新町橋と呼ばれた帷子橋は、東海道五十三次・保土ヶ谷宿にも描かれた。帷子川の流れが相鉄線駅南側から北側に付け替えられたのに伴い、橋の位置も変わりました。
ネットで参考にさせてもらっている方が歩いたように今日は東海道の裏通りを歩いた。何もないところを歩くより少しは外れてもいいと思う。神奈川は「神奈川宿歴史の道}が充実していて、歩きやすかった。また、歴史の道を旗を持った講師の方と歩いているグループも名何組かすれ違った。今日はいろいろな方に道を聞きながら歩いたが、聞かれたこともあり、面白かった。浦島寺などは、本来なら行かなかった場所である。どうもありがとうございました。午後1時30分をまわったので、最寄の駅を探し、JR新子安駅から横浜に出て藤枝に帰った。今日は、初めて「青春18切符}を買って電車に乗りました。5回分で11500円でした。あと4回を9月10日までに使いたいです。
来た道を戻り、電柱に地図がある。12時16分、角を曲がったところに成仏寺があった。(鎌倉時代の創建と伝えられる。三代将軍家光の上洛に際し、宿泊所の神奈川御殿造営のため、寺地が現在地に移された。開港当時はアメリカ人宣教師の宿舎に使われヘボンは本堂に、ブラウンは庫裏に住んだ。ヘボンはヘボン式ローマ字や和英辞典を完成させ、ブラウンは聖書や賛美歌の邦訳に尽力した。)
12時50分 良泉寺に出る。(開港当時、諸外国の領事館にあてられるのを快しとしないしない住職は、本堂の屋根をはがし、修理中であるとの理由を口実にして、幕府の命を断った。)
12時26分 立派な門構えの金蔵院がある。(京都醍醐寺三宝院の開祖勝覚僧正により平安末期に立てられた古刹である。「金川砂子」の図には、江戸後期の様子が描かれている。参道は街道まで伸び、金蔵院、熊野神社が並び立っている。本堂前には家康御手折梅と称された梅の古木が描かれている。かっては、毎年1月、当院の住職が梅の一枝を携えて登城するのが慣わしだった。)
12時23分、熊野神社がある。(平安末期に紀伊の熊野権現を祀り、「権現様」として親しまれている。現社殿は戦後の再建だが、境内には公孫樹の古木がある。樹齢400年で、慶応4年の神奈川大火、昭和20年の戦災で焼失したが、見事に再生し、「防火ノイチョウ」として親しまれている。)
親子の亀
浦島父子塔
宗興寺をでて、小河川「滝の川」にでる。川を挟んで2軒の本陣があった。江戸側には、神奈川本陣、反対側に青木本陣があった。滝の川の傍には高札場が見える。この高札場は地区センター内に復元されている。
この井戸は神奈川の大井戸といい、東海道の名井戸であり、宗興寺は「大井戸寺」ともよばれた。井戸の増減により、翌日のお天気を知ることも出来るため「お天気井戸」とも呼ばれた。
東海道は15号線になっているらしいが、参考にしている方は、地元の方の案内で裏道を歩いたようです。その道は「神奈川宿歴史の道」の道標で案内されていた。
須崎大神は、源頼朝が、安房の国一ノ宮の安房神社の霊を移して祀ったことに始まる。神社前から参道が船着場に向かって延びていた。横浜が開港されると、この船着場は、開港場と神奈川宿を結ぶ渡船場となり、宮下河岸渡船場と呼ばれる海陸の警備にあたる陣屋も造られた。
国道1号線にでて、青木橋交差点を右折し、青木橋を渡る。渡る手前左には、アメリカ領事館の置かれた本覚寺がある。京急神奈川駅前を通り、宮前商店街にはいり、左に源頼朝ゆかりの須崎神社を見て国道15号線に出る。
11時9分 台の茶屋跡。(ここ台町あたりは、かって神奈川の台とよばれ、神奈川湊を見下ろす景勝の地であった。上図の櫻屋が現在の田中家といわれている。田中家には、高杉晋作やハリスも訪れた。龍馬の妻おりょうも勝海舟の紹介で働いていた。
10時51分 上土橋手前に「神奈川宿歴史の道」の道標があった。そういえば途中で何組かのウオーカーにあったが、この歴史の道を歩いている人たちかもしれない。10時57分 神奈川台の関門跡、袖ヶ浦見張り所がある。(開港後、外国人が何人も殺傷され、イギリス総領事オールコットをはじめ各国の総領事たちが幕府を激しく非難した。横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化した。神奈川宿にも東西に作られたが、西の関門がここである。
本陣2軒、脇本陣0 旅籠58軒
更に進むと、新横浜通りの広い道に突き当たる。ここを左折し、宮谷小学校入り口交差点を右折する。住宅街を4〜500mほど歩き、高速道路下を通過する。この辺りは軽井沢という地名だ。この先にあった「西区歴史街道」の道標を見ると今来た道は東海道ではないようだ。旧東海道は環状1号線になっていて、ここから入ってくるようになっている。神奈川宿から来たという方にここであったが、彼等は私が来た道に入っていったので、どうなっているのか?
10時31分、人穴伝説の浅間神社前を通る。創建は富士浅間神社の分霊を祀ったもので、旧芝生村(しぼうむら)の鎮守。本殿のある丘は袖すり山と呼ばれ、昔は山の下が直ぐ波打ち際であった。境内西側の崖には、富士山に通じている伝えられる「富士の人穴」と呼ばれる古代の横穴墓があり、名物となっていたが、開発により、見ることが出来なくなった。
10時20分、追分は道路の分岐点を意味しますが、ここ芝生の追分は東海道と八王子道が分かれる場所です。八王子道は、帷子川に沿って伸び、町田・八王子へと続く道で、安政6年の横浜開港以降は、八王子方面から横浜へと絹が運ばれるようになり、「絹の道」とも呼ばれている。
9時48分、橘樹(たちばな)神社に入る。源頼朝公が天下の平和を賀し、国中の大小の神祇に奉幣し祭祇の典を行なった時の創建と伝えられる。
18切符 2300円
バス 160円
計 2460円
12時18分、復元された高札場がある。(かっての神奈川宿高札場は、現在の神奈川警察署西側付近にあった。その規模は間口5m、高さ3.5m、奥行き1.5mと大きなものでした。これは、資料をもとに復現したものです。)
中央市場入り口交差点の次の小路を左折し、右折する。11時51分 アメリカ人宣教師・医師のへボン博士が開いた施療院跡・宗興寺に出る。ヘボン博士は「ヘボン式ローマ字」をつくり、和英辞典を完成させ、聖書の翻訳、明治学院の創設など、我が国の教育に尽くした人である。境内を一周し見つからないので、玄関にいた方に聞くと、玄関の脇に施療院跡の石碑があり、塀の向こうには、井戸があると教えてくれた。
しばらく行くと、ホテルの塀に「神奈川宿・袖ヶ浦」の絵がかかっている。
料亭田中家
9時14分、旧中野橋跡の説明板がある。(かって今井川はここで宿場を横切って、中橋が架けられていた。その川筋は、保土ヶ谷宿が建設された際に人工的に作られた川であった。大雨のたびに水が滞り、下流域が浸水した。1852年現在の川筋に改修された。改修で発生した大量の残土を品川台場・外国の侵入に備えた砲台・の埋め立て用土として幕府に献上し、船で品川に運んだ。)
12時37分 神明宮に出る。(かって境内を流れていた上無川に牛頭天王のご神体が現れ、須崎神社及びこの神社に牛頭天王を祀ったとの伝承がある。)また隣には能満寺がある。(この地の漁師が海中より霊像を拾い上げ、この霊像の言葉にしたがって立てたものがこの寺である。本尊は高さ5寸の木造坐像の虚空蔵菩薩で、海中より出現したと伝えられる。かっては、神明宮の別当寺で同一境内に当社もあったが神仏分離令で別れ今日に至っている。)
12時6分、浦島寺(慶運寺)に来た。(室町時代に、増上寺の第三世音誉聖観によって開かれた。開港当初はフランス領事館として使われた。まあ、浦島太郎が竜宮城より持ち帰った観音像など浦島伝説にちなんだ遺品が伝わっている。)
11時12分 金比羅宮・一里塚跡がある。(この神社は平安末期の創建で、元々飯綱社といわれ、今の境内の後方、山の上にあった。その後今の地に移り、琴平宮を合祀し、大綱金比羅神社となった。眼下に広がる神奈川湊に出入りする船乗り達から深く崇められ、大天狗の伝説でも知られている。江戸時代には、神社前の街道両脇に一里塚が置かれていた。江戸から7番目の一里塚であった。)
江戸方見付け跡、ここから、京方の見付けまでは、家屋敷が街道に沿って並び、「宿内」と呼ばれ、保土ヶ谷宿では、外川神社付近の上方見付けまで19町「約2km」になる。大名行列が来ると、宿役人が出迎え、威儀を正して進みました。ここで、宿は終わります。
保土ヶ谷宿周辺散策案内図によると、保土ヶ谷宿は宿駅・伝馬制度が定められると同時に設置された。1648年に大改修され、道筋が変わった。帷子橋もこの時に架けられたが、現在、古道の正確な道筋は諸説があり、特定されていません。
9時56分、松原商店街入り口にでる。商店街はすごい人出で、賑わっていた。練り製品の店で、揚げ物を買い、追分の傍の店で、餡の入った御餅を買った。江戸見付けを見なかったと思い、商店街を戻り、広い道路の向こう側にあるのを見つけた。
かっての帷子橋の跡が、天王町公園の一部に当たると書いてあったので、左に曲がって、探してみた。9時40分、旧古町橋跡の説明板が公園の角にあった。(この場所には江戸初期の東海道が帷子川を渡る古町橋があった。新道の開通に伴って架けられた旧帷子橋は新町橋と呼ばれていた。氾濫を繰り返していた帷子川の改修が昭和38年に決定され、現在の古町橋は昭和41年にここから約120m北に架設されました。)相模鉄道高架下をくぐり、街道を歩く。
12時36分、「東海道分間延絵図・神奈川宿部分」の絵図が広がっている。