島田〜金谷(H.23.9.17)
日本左衛門の首塚
雨模様の日だったが、かえって涼しいかもしれないと、JRに乗って島田駅に着いた。8時25分傘をさして、前回の続きを歩き始めた。
博物館は有料(300円)で、1階に、川越に関するものが展示されていた。また、島田刀鍛冶や島田髷に関する物も展示されていた。博物館を出ると、川越場ということになるが、今は何もなく、川越の様子が描かれた東海道五十三次の絵がかかっていた。昔はここから、川を渡ったが、今は100mほど上流に架かる橋まで迂回することになる。
川越遺跡を過ぎると、左手に博物館、右手に朝顔の松公園があった。盲目の美女朝顔が、川止めの間に目が見えるようになった、という芝居にちなんだもので、朝顔目明き観音のお堂も建てられていた。初代の松の石碑の横には若い松も植えられていた。
島田信用金庫の前に芭蕉の句碑が建っている。ここから金谷方面に歩くことになる。句碑を写真に撮っていると、おばあさんが「どこから来たの?」と話しかけてきた。「毎日40分歩いてお参りに行くのよ。」と言い、90歳だと言う。しっかりした方で、とても90歳には見えませんでした。写真を撮らせていただいて、別れた。
金谷のバス亭には、民話や歴史を基にした版画が描かれている。夢づくり会館線とあった。
10時31分 水神社に着いた。金谷宿八軒屋橋の道標があり、金谷宿川越し場跡の地図がかかっていた。島田側は復元された川越遺跡があったが、金谷側は何もない。
橋の傍に「夢舞台東海道 島田宿」があった。大井川橋を10時10分に渡り始め10時25分にわたり終えた。15分かかったことになる。車道と歩道に分かれていて、他の方のHPでは、自転車が危ないとあったが、今日は土曜日だったので、女子高生が二人走って来ただけだった。橋を渡ると東海道こちらという矢印があった。橋の脇には大井川橋碑がある。碑には、昭和三年に完成したトラス橋で全長1026mあり、土木工学として意義がある、と書かれていた。 しばらく、土手を歩くと下に下りる矢印があり、その反対側は金谷側の渡しがあったはずだが、なにも残っていない。
9時6分、大井川川越遺跡、島田市博物館 0.8kmの標識に出る。寄って行こうと左の道に入ったが、これが川越街道でこちらに行くのが正解でした。東海パルプの煙突の煙を左に見ながら歩いていくと、川越遺跡の小屋が見えてきた。
土砂降りの雨の中を5分ほど歩くと、大善寺に着いた。「大善寺の梵鐘」のたて看板があった。天明2年「時の鐘」として備えつけられ、明け六つ()と暮れ六つの鐘の音は大井川川越の始まりと終わりの合図だった。昭和19年戦争で供出され、昭和48年に新しく造られた。とあった。
交差点を渡ると大井神社があった。傍に「江戸時代からの鎮護の社」と書かれてた看板が建っている。参道の石垣は、江戸時代大井川の川越人足が業をおえて帰る際、河原から石を持ち帰りこの土手石垣を築いたとあった。ここはわき道だったようで、正門はおばあさんが曲がっていった道に面していたのだ。本殿に近づくと先ほどの方がお参りをしていた。お参りってこの神社だったのですね。再会を喜び写真を撮ると、送って欲しいと言われ、記帳した住所を示し「ここにお願いね。」と言われた。「お元気で長生きしてくださいね。」と握手して別れた。 境内には、島田帯祭りの大奴や島田鹿島踊り先導の三番叟像が建っている。
740円
本通り一丁目の交差点の手前に、石柱の道標があった。東西南北しか読めなくなっているが、東 六合村まで十八町十六間 青島町に至る。西 大井川渡船場まで二十四町六間 川根に通ず。 南 島田駅まで一町 。と書かれているらしい。
JR藤枝〜島田 190円
JR金谷〜藤枝 230円 バス往復 320円
11時39分 ガードの入り口に一里塚があった。金谷宿一里塚とあり、江戸から五十三番目の一里塚である。上のほうで、SLの汽笛が聞こえ、金谷駅に着いた。今日はここまでで、JRで藤枝に帰った。
定飛脚問屋 三度屋跡 定飛脚は三都飛脚とも言われ江戸と上方の京・大阪を定期的に往復した民間の飛脚である。月三度出した所から、三度飛脚といわれ、取り扱い所を三度屋といった。また、この飛脚が被った笠を「三度笠」と言った。
お七里役所跡 紀州毛が重要書類送信のため七里ごとに置いた飛脚の継立所(飛脚小屋)民間の定飛脚に対して「大名飛脚」「七里飛脚」と言われていた。
大蛇に雨乞い
柏屋本陣(一番本陣)跡
佐塚本陣(二番本陣)跡
山田屋本陣(三番本陣)跡
10時38分、大井川鉄道の線路を越した。左に曲がると新大井川駅で、SLファンがよく集まるところだが、今日は工事をしていて、近くまで入れてくれなかった。ひっきりなしに観光バスが入ってくる。PULAZA LOGOという休憩所でお弁当を買って早いお昼をとった。「汽車べんとう」という名前が付いていたが、別に変わったものが入っているということもない普通のお弁当だった。 もと来た道に戻り、金谷に向かう。
その先に八軒屋橋がかかっていた。金谷宿は、東に大井川、西に小夜の中山峠を二つの難所に挟まれた宿場町で、本陣三軒、脇本陣1軒、宿屋は五十一軒あった。 空き地に「旧加藤家がありました。復元を目指しています。」と書いてあった。秋葉神社が祀られていた。
白いひがんばな
八重枠稲荷神社 昔ここには大井川の「出し堤防」があり、増水の時には蛇籠に石を詰めて杭で固定し幾重にも並べ、決壊から堤防を守り、「八重枠」の由来となった。礎石は建立当時のままで、天竜川の川石を亀甲形に加工して積み上げたものです。
芭蕉の句碑 馬方はしらじ時雨の大井川
川会所 川越しの料金を決めたり、川札を売ったりしたところ。中には、蓮台などがありました。
関川庵 八百屋お七の恋人吉三郎の墓
この路地を入っていくとあったらしいが見落としてしまった。
権三わらじ 川の中で石が挟まっても直ぐに取れるようになっていた。
番屋での人足の様子
番屋 川越人足がつめていたたまり場。人足は十組に分けられ各組がひとつの番屋につめました。
荷縄屋 縄を売り、荷崩れした荷物を直した所。
升形跡(宿西入口)の看板が建っていた。ここが島田宿の西の入り口と言うことになる。8時49分だった。