H23.09.24  金谷〜掛川

藤枝からJRに乗って金谷の駅に着いた。駅前には、輪行袋を担いだ人達がいて、自転車を出して組み立てていた。  8時15分、駅前から歩き始めたが、石畳に歩いても歩いても着かない。30分ほど歩いて丘の頂上に着いてしまった。車に止まってもらって聞くと、道が違ったようだ。駅まで乗せていってくれるというので、御好意に甘えた。藤枝の青木出身の女性で、駅まで送ってもらい、助かりました。駅から300mほどの所に旧東海道石畳入り口の印があった。9時24分だった。

やっと平坦になって、久延寺に出た。11時になっていた。真言宗のお寺で、正式には、小夜中山久延寺という。本尊の聖観音は、殺された子供を育てた所から、子育て観音と言われている。掛川城主 山之内一豊が関が原に向かう家康をもてなした寺で、江戸時代ここを通る大名は、籠を降りて、お参りをしたといわれている。 境内には有名な夜泣き石がある。(小夜の中山に住むお石という女が、菊川からの帰りに男に殺され、お石の魂がこの石に乗り移り、毎夜泣いたため、この石を夜泣き石というようになった。このとき産み落とした子供は久延寺の和尚に飴で育てられ、大和国の刀研師の弟子になり、母を切った刀にめぐり合い、敵を討った。)

二の曲がりとは、旧坂口町を過ぎて、東へ向かう沓掛にいたるこの急カーブを指している。

14時14分 古い道標があり、木柵でかこってあった。「この道標は、大頭龍大権現と福天大権現の参道標である。」川崎道とは掛川宿から川崎湊(現静波)へ行く道で、昔は多くの人に利用されていたとあった。

左手に川坂屋がある。この建物は1852年の日坂の大火の後再建されたもので、萬屋よりずいぶんの大きい。国道1号やバイパス工事で削られ、随分こじんまりしてしまったが、昔は身分の高い武士や公家が宿泊した格式の高い旅籠だった。裏手にあるお茶室を見学していると、おじさんが来て色々説明をしてくれた。床の間の柱は、水戸の偕楽園から来たもので、「川坂屋お茶室(掛川城主太田侯 掛川偕楽園お茶室)」となっていた。こちらも土日だけ開けているようで、見学できてよかった。

安藤広重の絵碑 小夜の中山峠

小夜の中山から日坂宿までは、坂を下って行くが、おばさんから、尋常な坂ではないので気をつけるようにと念を押された。茶畑の中を歩いていくが、あちこちの小夜の中山を読んだ歌碑や句碑が建っている。

石柱のところを左折して、階段を登り、右の方の坂を登っていく。10時36分、茶畑の間の急な坂を登り始めた。途中、左 菊川の里、右 日坂の宿の標識があった。島田市と菊川(現掛川市)の境のようです。

10時9分菊川坂を歩き始める。金谷坂は上りだったが、菊川坂は下りだ。陽が当たって石畳は草が生え放題で、歩きにくい。江戸時代後期の石畳も踏みしめて、10時22分菊川の里に入った。 江戸時代には、西の日坂宿、東の金谷宿の間にあって、いわゆる「間の宿」として多くの旅人の便宜を図ってきた。 

歩いていくと、県道に出て、前に友人たちとお昼を食べたことのある「こもれび」に出た。そういえばそのときにこの石畳を見た覚えがある。入り口に東屋があり、しばらく休憩した。たて看板には、菊川坂のことが書かれている。(菊川坂は、平成12年の発掘調査により確認された江戸時代後期の現存する部分をふくめ約700mの石畳が完成した。)

坂道を上って行くと、石畳茶屋がある。「東海道五十三次金谷宿 大井川遠岸」がかかっていた。(金谷宿は、西に小夜の中山峠、東に大井川の二つの難所に挟まれた川越の宿場として栄え、金谷本町と河原町の二つの町で構成されていた)とあった。

しばらく行くと、赤い幟が沢山現れ、右側の六角堂の前におじいさんが座っていた。道の整備をしているが、こんなに荒れているとはと言って、「道具を持ってこなかったので、枝だけ払ってきた。」と言っていた。この長寿すべらず地蔵尊は、珍しい双子のお地蔵さんで、おじさんは夫婦地蔵だ。と言っていた。そして、看板にあったことを話してくれた。左側には、以前にお堂にあったお地蔵さんが祀られていた。

掛川続き

金谷へ

14時31分七曲の所まで、たどり着いた。疲れて注意散漫になっていたのか、七曲せずに駅の通りの道に出てしまった。七曲は次回歩きなおせばいいやと思い、駅にむかった。14時50分駅に着いた。掛川駅は木造の駅で、「木造の駅舎を残そう。」という運動をしているらしい。新幹線側は近代的な駅舎に変わってしまっている。アイスを食べながら、電車を待って、藤枝に帰った。 今日は、お天気も良く、東海道を歩く人が沢山いた。山と一緒で、「こんにちは」と挨拶をするだけだが、話しかけてくる人とは色々話をした。

逆川にかかる馬飼橋を渡ると、14時23分 葛川一里塚に着いた。江戸から五十六番目の一里塚である。傍に、面白い形の常夜燈があった。反対側には 名物 振袖餅のお店があり、 馬飼橋一里塚跡の道標があった。お店に入ってみたが、振袖餅は売り切れでなかった。

国道を歩き続けると、13時33分 東海道夢舞台 本所の道標がある。掛川宿まで1里3町(約4.4km)とあった。国道を歩くのはつまらないが、14時1分 成滝の道標に着いた。

その先に、伊達方一里塚があった。13時20分だった。掛川市内には、佐代鹿 伊達方、葛川、大池の四箇所にあり、ここは、江戸から57番目の一里塚で、明治33年に取り壊された。ここから、150mほど歩くとまた、国道1号に合流した。工事をしているおじさんに掛川駅にはこの道でいいのかと聞くと「駅まで随分あるよ。」と心配してくれた。 国道1号を歩き、伊達方幼稚園の前で、また左に入る。多分東海道に違いないと思い、左に曲がった。諏訪神社を通りすぎ、白子観音を通り過ぎると、また、国道1号に合流する。

しばらく国道1号を歩くと、バイパスが見えてくる。バイパスを超えると、二又の道になり、左側の県道250号が旧東海道で、左側に夢舞台東海道 塩井川原の道標が建っていた。その先に塩井神社の鳥居がある。鳥居は道に面しているが、社殿は川の反対側にあり、先日の台風で流されたのか、橋が壊れていて、向こう側には渡れなかった。

12時45分、右側に、若宮神社の鳥居と秋葉山常夜燈があった。傍に、夢舞台東海道、日坂宿宿場口の道標があり、日坂宿はここで終わる。

古宮橋をわたると直ぐに、「賜硯堂成瀬大域出生の地」という石碑が建っていた。成瀬大域は、文政十年の生まれで、明治天皇に書を献上し、楠正成の愛用した硯を賜ったことから、賜硯堂と称した。書のことはわからないので、この方も知らない。

幕府や藩の定めた法令や禁令を板札に墨書したものを高札、それを掲げるものを高札場という。相伝寺観音堂の境内にあり、下木戸高札場といわれた。

 江戸時代、治安のために宿場の東西の入り口に木戸が設けられた。日坂宿は小規模であったため、川が木戸の役目を果たしていた。古宮橋のかかる逆川が下木戸となっていて、橋をはずすことにより外部からの進入を防いだ。

ボランティアのガイドさん

安藤広重 東海道日坂宿 小夜の中山
日坂宿は、江戸から数えて25番目の宿場である。

旅籠や古い町並みを復元して、なかなか見ごたえのある宿場である。 かえでやの建物は明治初期の建物で、日坂最後の問屋役を勤めた伊藤文七郎の家で、屋号は藤文で、1862年には、藤文とかえでやに分かれていた。と書いてあった。
旅籠を営んでいた萬屋、1852年の大火で焼失後、安政年間(1854〜59)に再建された建物で、ここは商人とか庶民が泊まった宿で、食事などは出さなかったようだ。開いていて中も見学できた。

本陣脇に秋葉常夜燈が建っている。火災が多かったため、火伏せ(火防)の秋葉信仰が盛んだった。日坂には、ここと、相伝寺境内、古宮公会堂跡の三基が建っていた。 扇屋(片岡家)が本陣を営んでいた。本陣の傍には、夢舞台東海道 日坂宿本陣跡が建っていた。

日坂宿

いよいよ、おばさんの言っていた急坂がはじまった。このあたりは沓掛と言うが、沓掛とは峠の急な坂道に差し掛かったところで、草履や馬の沓を山の神に手向け、旅の安全を祈願する古い慣習に因ると言われてる。

右手の奥に夜泣き石跡がある。夜泣き石は明治元年まで、この場所の道の真ん中にあった。明治天皇行幸の際に、道の脇に寄せられ、その後、東京の博覧会に出品され、焼津の港に放置されていたのを国道一号沿いの小泉屋脇に置かれた。いろいろな説があるらしいが、本当はどうなんだろう。石そのものが伝説なんだから。

直ぐ傍に 「馬に寝て 残夢月遠し 茶のけぶり」という 芭蕉の句碑もあった。この句は金谷の石畳を出た所にも建っていた。

右手に涼み松広場があり、芭蕉の句碑があった。 「命なり わずかの笠の 下涼み」芭蕉がこの松の木の下で、この句を読んだので、この松を涼み松という。  広場には石のベンチやイスがあって、さっき少し前を歩いていたおじさんが涼んでいた。小田原から来たといって、今日は私と同じ金谷から歩き始めて、磐田まで行きたいと言っていた。さっき扇屋であった方は下関から来ていて、今日は藤枝に泊まると言って、「名物は何?」と聞かれたが、藤枝名物って何だろう?今日は東海道を歩いている人にたくさんであった。

左手の石垣の上に、丸い石に馬頭観音が刻まれている。この馬頭観音は、蛇身鳥を退治に京の都から下向してきた三位良政卿の馬を葬った所とされている。  よく見たが、馬頭観音は分からなかった。佐夜の中山峠には多くの伝説が残されているそうです。  さらに、200m行った所に、妊婦の墓があると地図には載っていたが、見落としてしまった。良政卿の娘、小石姫がいやな結婚を前に、松の根元で自殺した後、葬られた場所だそうです。

右手に、白山神社があり、傍に、東海道夢舞台 掛川市小夜の中山 山神社の道標があった。

左手に鎧塚と書いてあったので、入って見たが、鎧塚と書かれた石碑があるだけだった。少し行くと、小夜鹿の一里塚があった。江戸から54番目の一里塚だ。一里塚は街道の両側に五間四方の塚を築き、その上に松や榎が植えられていた。旅人のおおよその道程の目安となっていた。

集落を過ぎて、しばらくすると、小さな川にかかる四群橋がある。ここは、榛原郡、山名郡、城東郡、佐野郡の四つの郡の境になっていると言う石柱が立っていた。

2,3分歩くと、法音寺入り口の看板があった。中納言宗行卿の塚と書いてあって、ここから450mとあった。今日は朝から道を間違えて時間をとっているので、ここはパスすることにした。中納言 藤原宗行は、承久3年(1221)後鳥羽上皇が兵を挙げた、承久の変で敗れて、鎌倉幕府に捕らえられ、鎌倉へ護送中、菊川の駅に泊まり、宿の柱に漢詩を残した。その後、藍沢原(現御殿場)で処刑された。

9時42分、諏訪原城跡に着いた。このお城は、天正元年(1573)武田勝頼が、家臣の馬場美濃守氏勝に命じて築城されたもので、9割の遺構ほぼ完全な形で残されている。15分かかって、一周してきた。

茶屋で、冷茶セットを頼み一休みして、9時18分石畳を歩き始めた。先日の台風で折れた枝が散乱し、倒れた木を乗り越え、くぐり、歩いていった。 看板に、「江戸時代に坂道を歩きやすいように山石を敷き並べたもので、近年は30mを残してコンクリートで舗装されてしまった。平成3年、平成の道普請で、430mが復元された。今残る石畳は、金谷坂、箱根峠、中山道十曲峠の三箇所だけとなった」 鶏頭塚とその奥に庚申堂があった。

間の宿、菊川の里会館にでた。このようなところに似つかわしくない建物だった。前の石碑は、宗行の詩碑と日野俊基の歌碑だった。石が置かれ、菊川由来の石の看板が建っていた。この付近の川で、菊花紋の石が多く出土され、菊石といわれ、川の名を菊川と名づけたとあった。白菊姫伝説の菊石は小夜鹿公民館の傍にあるとあった。

5分ほど歩くと、古い塀のある屋敷の前に「嵐牛蔵美術館」と書かれていた。伊藤嵐牛は、幕末、遠州で活躍した芭蕉の流れを汲む俳人で、鶴田卓池に入門して、三百余人を養成した俳人である。 鍵が閉まっていて、中に入ることはできなかった。

急坂を下り、国道一号バイパスが見えてくるところに、安藤広重の狂歌入東海道 日坂の浮世絵が建っている。道路の脇に写真のような板が並んでいた。旧国道一号を渡って、向こう側に行くと日坂宿に入る。両側に並んだ民家には、殆どの家に屋号の書いた板がたっている。

お店の前は小夜の中山公園になっている。入り口に西行の歌碑があるが、大きな歌碑だった。「年たけて また超ゆべしと 思いきや 命なりけり 小夜の中山」 

隣に扇屋というお店がある。随分昔、おばあさんがお店を守っている頃、来て飴を買ったことがある。 その頃はもっと、古くて、窓なども昔のあげてつっかい棒で上げておく様だったと記憶している。 子育て飴もあって、100円でいただいた。袴姿の人がやってきて、応援を始めた、毎年来ている人たちで、何処かの大学の応援部(おばさんもはっきり知らないのか、秘密なのかわからないが)が、大きな声で「鈴木家の繁栄を祈念して」と大声で始めて、去って行った。土日しか営業していないようで、他の方のHPでは、閉まっていた。もう止めたようだと言う噂もあるようだ。と書いてあったが、ちゃんとやっていますよ。

9時35分、金谷石畳終点にさっき見た、金谷の石畳の看板が建っていた。前に明治天皇駐レン跡の石碑と芭蕉の句碑があった。このあたりには、両側一面茶畑が広がっていた。

藤枝〜金谷  480円
掛川〜藤枝  230円
バス      320円
      1030円

東海道はここで、国道1号線に出た。歩道橋があり、反対側に、事任(ことのまま)八幡宮の鳥居が見えた。先日、この八幡さんは、最近パワースポットと言われているという話を聞いていたが、別段変わったこともなく、普通のお宮さんでした。境内には、御神木の樹齢千年とも言われる杉の大木や、クスノキの大木、めおと杉などあり、鬱蒼としていた。

萬屋

かえでや