関〜坂下

H.25.09.21

早朝家を出て、JRを乗り継ぎ、関駅に10時20分に着いた。今までは、一人旅だったが、今回は、友人が一緒に行ってくれることになり、心強い。 駅前の地蔵院口から歩き始める。

江戸時代後半には、本陣3軒脇本陣1軒、旅籠18軒を数える東海道有数の宿となった。

(鶴屋は、「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」とうたわれた旅籠で、江戸時代の終わりには、脇本陣も務めた。座敷の前に付いた千鳥破風が其の格式を示している。)

15分くらい歩くと、左側に、坂下宿の説明板がある。(東海道を近江から鈴鹿峠を越えて伊勢にはいった最初の宿である。慶安3年の大洪水で、宿が壊滅し、翌年現在地に移転し、復興された。なお、かっての宿は、片山神社下の谷間にあり、「古町」と呼ばれている。明治23年、関西鉄道開通により、通行者が激減したため、宿場としての役割を終えた。)

(広重の坂下宿・上り・下りの旅人で賑わっていた。江戸時代には大きな旅籠が軒を並べ、本陣、脇本陣の規模は街道一とも言われた。往時戸数300余りと栄えた。)

出格子(座敷の前の出格子窓は明治以降に取り付けられた。)

岩屋観音の先を更に左に入る。其の先に「荒井谷一里塚」があるとかいてあったが、見つけられなかった。15分くらいで、片山神社の石碑に出る。左の参道に入っていくと、「坂下宿〜鈴鹿峠」の説明板があった。(この辺りは、「古町」と呼ばれ、慶安3年の洪水で宿が壊滅するまで、宿の中心であった。洪水後、宿は、約10km東に移転し、宿場集落として繁栄した。今も所々に石垣が残る。 片山神社・元は、三子山にあったが、火災で焼失し、現在の場所に移された。明治以降は、「鈴鹿明神」「鈴鹿大権現」と呼ばれた。鈴鹿峠はこの辺りから「鈴鹿8丁27曲がり」の急坂がはじまり、鈴鹿峠へと続く.。

(江戸時代後期には、大竹屋、松屋、梅屋の本陣、小竹屋脇本陣があった。特に、大竹屋は、間口13間半、奥行き25間、もあり、鈴鹿馬子唄に「坂下では、大竹、小竹、宿がとりたや、小竹屋に」と詠われたように、大名家も宿泊する東海道随一の大店として知られていた。明治以降にすべて取り壊され、現在は、跡地に石碑を残すののみとなった。)

坂下宿

自然の家は「旧坂下尋常高等小学校」だったもので、昭和13年に建てられた。昭和54年に廃校となり、その後は坂下公民館として坂下地区の人々に活用され、現在は青少年のための宿泊施設になっている。先日TVで、ドラマ化された「24の瞳」のロケをしたとおじさんが教えてくれた。垣根になっていたアケビが昔を偲せる風景だった。

突然「歴史おじさん」が現れて「東海道を勉強してください。」と東海道のクイズを書いたものを渡された。向こうの山は、「三子山」と教えてもらった。三つのいただきがあり、名前のとおりの山です。

鈴鹿川にそって街道を歩いていくと、鈴鹿馬子唄会館がある。この地区の敬老会の準備をしていて、中には、イスが並べられ、職員の人が、草刈をしていた。其の上には、鈴鹿峠自然の家があり、道には、東海道53次の宿場の名前を書いた木柱が立っていた。

7,8分歩くと、沓掛集落に入る。其の手前の田んぼの中に、不思議な像が座っている。旅人の格好をした木像が杖を持って座っていた。説明は何もなく、旅人が休んでいる姿を造ったのだろうと想像した。沓掛集落は、往時を偲ばせる街道が続き、昔の町屋がそのまま残っている。

20分ほど歩くと、右に入る道があり、「筆捨山」の説明板があった。正面に筆捨山が見える。説明板によると、(東海道を挟んだ鈴鹿川の対岸にある標高289mの山である。元々「岩根山」と呼ばれていたが、室町期の画家狩野法眼元信がこの山を描こうと、筆をとった。翌日書き残した部分を描こうとした所、雲や霧がたちこめ、山の姿が全く変わってしまったため、続きを書き足すことが出来なくなって、筆を投げ捨てたところから、この名前が付いた。浮世絵の坂下宿は、殆ど筆捨山を描いている。山中に書かれた滝は、実際の筆捨山にはない。

しばらく国道を歩き、坂下への標識があるところで、右折する。市瀬集落に入り、6分位歩くと、国道に出る。そこに常夜燈が地図にのっているがない。振り返ってみると、田んぼの向こうに市之瀬社常夜燈あった。国道を渡ると、西願寺があり、そこにも常夜燈があった。

西の入り口には、「従是東 東海道関宿」の道標が建っている。関宿の西の追分は、東海道と、大和・伊賀街道の分岐点である。 「法悦供養塔道標」と書かれた道標が当時の面影を残している。 広重の「関宿 本陣早立ち」の浮世絵がかかっていた。早朝、伊藤本陣を出立する大名行列の様子を描いている。

鈴鹿関跡・鈴鹿関が初めて歴史に登場するのは、天智天皇の死後、大友皇子と大海人皇子が皇位を争った壬申の乱の際、大海人皇子が鈴鹿・不破の関を固めたことによる。789年、桓武天皇によって三関は廃止されるが、その後は、天皇の崩御や政変が起こるたびに儀式としての固関が行なわれた。鈴鹿関跡の詳細な位置や規模は分かっていないが、近年の調査により、聖武天皇によって整備されたと見られる西限の城壁が確認されている。)

西の追分には、休憩施設がある。中に入って、会津屋で買い求めた山菜おこわ弁当をひろげた。まだ少し暖かく、美味しかった。内部の壁には、鈴鹿関跡の調査成果がパネルで展示されている。

新所の町並みを歩いていくと、観音院がある。由来記によると(嵯峨天皇の御代に創建された。中世には、土地の豪族関氏の祈願寺として栄えた。戦国末期兵火にあい、焼失したが、ご本尊1体は難を逃れた。東海道関宿の守り神として、また西国三十三ヶ所の霊場を開き、人々の厚い信仰によって支えられてきた。) 観音院を右に曲がると、関ロッジがある観音山公園に行く道がある。

地蔵院の前には、会津屋がある。説明板によると、(鶴屋、玉屋と共に、関宿で有数の大旅籠であった。明和から天明にかけて会津屋の前身、山田屋で育った小万が女の身で亡父の仇を討った烈女「関の小万の物語」は有名である。)店の中には、昔の看板「あいづや」がかかっていた。今は食堂になっていて、食べている旅人もいたが、「山菜おこわ」のお弁当を買い求めた。

地蔵院の前の角に「停車場道」と書かれた石標たっている。(明治23年、四日市と草津を結ぶ関西鉄道が開通した時、関停車場への道として整備された。「ステンショ道」と呼ばれていたそうな。

川音とかかれた尾崎家がある。説明板によると(尾崎家は、関の地蔵堂門前町の米屋で、鈴鹿川の水で米をつく水車の音から、屋号を川音と称した。同家は文久頃の建物と言われる。間口七間半、庭を挟んで、左手に座敷、右手に米を収蔵する土蔵がある。)

片岡鍛冶屋があり、覗いて見たが、誰もいなくて、鍛冶屋の道具が置かれていた。説明板によると、(明治末から、山林伐採用の打刃物、くわ、すきなどの農具のかじやを営む。地蔵門前の風物詩として親しまれた。)

高札場の路地を入っていくと、「大裏町山車庫」がある。「関の曳山」は元禄年間から伝わるお祭りである。

看板は、瓦屋根のついた立派なもので、庵看板という。看板の文字は京都側が漢字、江戸側はひらがなになっている。看板は「関の戸」と書いてある。旅人が方向を間違えないための工夫だといわれている。

玉屋の前には、深川屋がある。関宿の銘菓「関の戸」を販売していて、お土産に買い求めた。説明板によると(寛永年間に、初代の服部保重氏により考案された餅菓子「関の戸」は京都御所より陸奥大掾の名を賜っている。屋根看板は伝統あるもので風雪を刻んでいる。)

講札(江戸時代になると、各地に伊勢講や愛宕講などが組織され、掛け金を積み立て旅費を作り、全講員に代わって代参をするようになった。講社はそれぞれ指定旅籠を定めこれを利用したが、旅籠は軒下に講札を掲げて歓迎し、安心して泊まることができた。講の中には、旅籠の飯盛りらにより風紀が乱れたので、これを粛清の目的とした組合組織のものもあった。)

玉屋・歴史資料館 (玉屋は「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」と詠われたほどの関宿を代表する大旅籠である。江戸期に建築された貴重な旅籠建築に、当時使われた道具類や、庶民の旅に関係する歴史資料などを展示して、江戸時代の旅籠の姿を再現している。) 宝珠の玉をかたどった虫籠(むしこ)窓が二階正面にある。漆喰で塗りこめた堅格子の窓のことで、「玉屋」では、その屋号のちなんで宝珠をかたどった虫籠窓が設けられた。

その隣には、旅人宿・石垣屋の暖簾が下がった家がある。説明板によると(二代目が肥料商を始め、その後米穀の販売も手がけ、明治24年に当屋敷を建てた。五代目が、戦後ここで昭和末まで医業を営んだ。)とある。現在は「古民家ゲストハウス」として、旅人を泊めている。中にはレントゲン室などと書かれた部屋があったりしているようだ。素泊まり3500円、寝袋持参だと2500円で、旅人に好評のようです。

伊藤本陣の筋向かいには、橋爪家がある。(同家は、代々橋爪市郎兵衛を名乗り、寛文の頃から両替商を営み、江戸にも出店を持ち、大坂のこうの池と並び称せられる豪商であった。江戸末期には、芸伎の置屋として栄えた。街道に面して手すり付き二階妻入り建てで、これは明治期の改造で、もとは、平入りの屋根であった。)

その隣には、「川北本陣跡」の石柱が立っている。(江戸時代に本陣を務めた川北家の跡で、当時を偲ぶ碑が立っている。川北本陣の門は、延命寺の山門として移築されている。)

少し戻ったところにある福蔵寺には、織田信孝の墓がある。説明板によると(信孝は、憤死した信長の冥福を祈るため、神戸の住人旧臣大塚儀左衛門に命じ、此の寺の建立にかかった。その後、信孝公は秀吉との後継者争いに敗れ尾張の国野間において自害させられたので、大塚氏がこの寺に首を持参し、菩提寺とした。信孝公の墓石は不詳のため、四百年忌を迎えた時、菩提を弔うため建立した。本堂には、位牌が創建当時から祀られている。)また、関の小万の墓と碑がある。門の前には、「鈴鹿馬子唄」の歌碑がある。裏門は、玉屋の向かいの萩屋脇本陣から移築したものである。

その筋向いには、岩木屋がある。説明板によると、(明治から大正にかけ酒造業、味噌・醤油醸造を営み、酒蔵から「岩泉」と銘うった酒樽が次々と運び出された。明治17年の建造で、連子格子や表座敷は典型的な明治の商家の構えである。)

片山神社鳥居・上に上がったが、社殿は焼失し、小さな祠があった。

店の中にある菓子を作る道具

吉兆火縄(道中の旅人が煙草などに使う。) 

JR     5100円
バス    160円
タクシー   1200円
タクシー   1400円
計    7860円

10分くらい歩くと、「岩観屋音」がある。(高さ10mの巨石に穿たれた岩窟に万治元年に実参和尚が道中の安全祈願のため、阿弥陀如来十一面観音、延命地蔵の三体を安置された。堂の隣の清滝とあわせて、「清滝観音」として広く知られ、霊験あらたかな観音霊場として現在も信仰を集めている。毎月3日と18日にご開帳。今日は、21日なので、残念ながら扉は堅く閉まっていた。滝から引いた岩清水は冷たく、顔の汗を流した。

本陣のあったあたりに、法安寺がある。坂下本陣松屋の建物の一部と門が、昭和13年の学校の校舎建築にあたり使われ、昭和35年、法安寺庫裏の玄関として再移築された。庫裏の玄関がそうとは知らず、写真をとらず残念でした。

53次の木柱の道を下りていくと、したには、「鈴鹿馬子唄発祥地」の石碑が建っている。

また直ぐに、国道に出る。10分くらい歩くと、弁財天橋を渡る。そのたもとには、弁財天社があり、左側土手の上に弁天一里塚跡がある。少し先をまた右に入る。

関宿をでて、国道1号を歩いていくと、右側の駐車場の中に、転石がある。江戸時代の名所絵図にも登場する巨石で、大昔は山の中にあったが、転がり落ちてきて、夜な夜な不気味な音をたてて周囲の人々を恐れさせていた。通りかかった弘法大師様が石の供養をしたところ石は静かになったと伝えられている。

関宿は、歴史的建造物を保存・修復し、電信柱を地下に埋め、宿場の景観維持に努めている。今までの宿の中では、昔を感じられる宿でした。季節によっては、観光客で混雑するようだが、まだ残暑が厳しいので、前回も、今回もゆっくりと、宿場を見学してまわることができた。

南禅寺 井口家とかかれた家がある。(井口家は屋号を南禅寺といい、関宿西追分にあって、豆腐料理を名物とする料亭であった。当時西追分は、宿屋が建ち並び、旅人で賑わった。同家は文久の頃の建物といわれ、道路に面して、連子格子、塗り籠めの中二階があり、料亭の面影をよく残している。)

漆喰彫刻  亀

漆喰彫刻・鯉と細工瓦

漆喰彫刻 鶴

漆喰彫刻 龍

細工瓦 

虫籠窓(むしこ)

幕板

新所の町並み

其の先に、田中家がある。説明板によると、(田中家は、代々庄衛門と名乗った。五代目庄衛門は、亀甫と号し、京都に遊学し有名文化人と親交があった。同家は嘉永年間の建築と言われ、表戸はくぐり戸付き大戸で、典型的な素封家の構えである。)この日は、閉まっていましたが、ひな祭りの時などには、雛人形と共に一般公開されているようです。

少し先に、松葉屋があり、説明板によると、(松葉屋は、昔、火縄屋で、播州林田御用火縄所という看板があった。関宿では、火縄が特産物で、業者も数十軒あり、松葉屋はその主な一軒であった。火縄は主に鉄砲に用いたため、大名の御用があり、また道中の旅人が煙草などに使うため、おおいに繁盛した。)

関地蔵院は、天平13年、行基菩薩の開祖と伝えられる。現在でも多くの参拝客で賑わう。境内の本堂鐘楼、愛染堂が国の重要文化財に指定されている。本尊の地蔵様は「関の地蔵に振袖着せて、奈良の大仏婿に取ろ」と詠われた。

明治天皇行在所

本堂

愛染堂

鐘楼

関郵局には、江戸時代の目安箱に似た箱が置かれている。ちょうど自転車で来たおじさんが手紙をその箱に入れた。「郵便ポストだよ。」と教えてくれた。これは日本最古のポストを模して作られた。と書かれていた。

この桶は桶重の故服部重三氏が寄贈したもの。前回桶重さんの仕事場を覗かしてもらった。

土蔵と納戸

伊藤本陣跡(川北本陣と並んで、関宿の中心的役割を果たした。間口11間余、建坪69坪、西隣の表門は、唐破風造りの檜皮ぶきであった。現在残っている街道に面した部分は、家族の居住と大名宿泊時に道具置き場に供する建物である。)

幕板のついた町屋・庇の下に取り付けられた幕板は、風雨から店先を守る霧除けである。

其の前には、小公園「眺関亭」があり、上のベランダから宿の町並みを一望できる。裏には、「百六里庭」が整備されてる。江戸から百六里余りにあることから名づけられた。庭に点在する石は、埋蔵文化財調査において発掘された昔の町屋の礎石である。また、井戸が復元されていた。

その向かいには、山車倉(だしくら)がある。説明板によると(関の山という言葉という言葉の語源となった関宿の山車は、最盛期には16基あった。互いに華美を競い、また狭い関宿を練ったことから生まれた言葉である。現在は、4基の山車が残り、四ヶ所に山車庫があります。)また、倉に前には、問屋場跡の石柱が立っている。

鈴鹿峠、土山宿へ

関宿へ

関郵便局は江戸時代には高札場があったところである。(当時この敷地は、御茶屋御殿と呼ばれ、江戸時代初期には、本陣の役割を果たす施設でしたが、関宿に本陣が出来てからは、亀山藩の番所が置かれていた。高札場の建設、高札の付け替えは亀山藩が行なっていた。)

旅籠の店の間