鳥居峠が雪で通行止めになっていて、先に木曽福島から大桑まで歩いたので、昨日は藪原から木曽福島を歩き、今日は福島駅からJR中央本線に乗り、大桑駅まで来た。昨日中に福島を歩くつもりが遅く市内に入ったので、色々なところが閉まっていて、今日午前中かかって福島宿をまわり、電車の本数も少なく、11時47分の電車で大桑駅に着いたのは12時20分だった。早速歩き始める。
大桑~十二兼
H.28.06.05
大桑駅から木曽川方面に下ると古中山道の南塚を残す「大桑の一里塚」がある。江戸より76里目。下りる道も分からず、探すことはできなかった。
「森本陣跡」問屋を兼ねていた。明治127年の大火で焼失。跡地に「明治天皇御小休所碑」がある。その向かいには「木戸脇本陣跡碑」がある。問屋、庄屋を兼ねた。明治27年の大火で焼失。
ジギタリス
国道19号を歩いて行くと、「関山関所跡」の碑がある。中世に設置された片欄干が架設された難所であった。「ニガ溝橋」「橋側歩道橋」を渡り、「馬場沢溝橋」「橋側歩道橋」を過ぎると、「明治天皇古田原御野立所碑」がある。明治13年巡幸の際に、ここで野立を行った。
第12中仙道踏切ののり面に「ササ百合」発見。徳音寺で咲いているのを見たが、野生のササユリを見たのは初めてです。ピンクのかわいらしい花を咲かせてました。
突き当りを左折すると、「天照大神大神宮常夜燈」天保13年(1842)建立。この辺りは旧十二兼村で、立場があり、牛方が多く住んでいた。 Y字路を右の下り坂にはいると、「熊野神社」がある。牛方が奉納した「牛の絵馬」を残している。
祖に先の左側に「御大典記念碑」がある。碑の後ろには大石に乗った祠がある。その先には、「旅館庭田屋」がある。梁だし造りの立派な家である。野尻郵便局を右に入ると「野尻駅」である。
左側の木曽川に「大桑発電所」が見える。
「のぞきど森林公園標識」を右の下り坂に入る。「中山道」の石標が立っている。暫く線路沿いを歩き、第11中仙道踏切を渡る。中北道標のY字路を左に進む。
十二兼駅跨線橋で向こう側の国道に出る。信号十二兼南に「十二兼の一里塚碑」がある。南塚榎2本、北塚松1本であった。江戸より78里目。時間まで、ワラビを摘んだり、着替えたりして過ごし、各停に乗って南木曽に着いた。「しなの」で名古屋に出て新幹線、東海道線と乗り継ぎ藤枝に帰った。、
信号十二兼脇からトンネルに入り、国道、JR中央本線をくぐる。左折して5分ほど歩くと、JR十二兼の駅に15時20分に着いた。今日は南木曽まで行きたかったが、これから歩いても予定の電車に乗れそうもないので、ここまでにする。中央線の確定の本数が少なく16時26分まで電車が無い。
八人岩沢の坂を上りヘアピンカーブを右に上がっていくと、「石仏石塔群」がある。宝暦10年(1760)建立の観音菩薩像、弘化3年(1846)建立の廿三夜塔、文化2年(1819)建立の馬頭観音等が祀られている。
阿寺渓谷入口で、国道19号に合流せず、木曽川沿いを進む。第13中仙道踏切を横断する。その先の第14中仙道踏切を渡り返し、勝井坂を上る。この辺りは立場であったようで、「新茶屋跡」があるが、見つけられなかった。小沢沢を新茶屋橋で渡り、国道に出る。
「西のはずれ」西村家は屋号を「はずれ」という。この辺りが野尻宿の京(西)口に当たる。
野尻宿の宿長は六町三尺(約655m)あり、奈良井宿に次ぐ長さであった。上町、中町、下町 荒田町で構成され、宿並は外敵からの防衛のため屈曲し「野尻の七曲り」と言われた。明治27年、昭和18年の大火で焼失し往時の面影はない。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠19軒であった。
右側に「道の駅・大桑(木楽舎)」がある。「朴葉祭り」の幟がたち「ホウバの葉や花」「朴葉巻き」が売られていた。 昼食がわりに「五平餅」を食べた。
今回は、変則的な旅だったが、街道沿いの家々や道端の花に疲れを感じずに歩く事ができた。名前を知らない花や、初めて見る花もあり、目を楽しませてもらいました。自生のササユリを見たのがうれしかった。
国道には「南木曽町 標高489m」の標識がある。国道を少し歩き下横橋を渡り、国道を横切る。
ホタルブクロ
二反田川を二反田橋で渡り、下在郷に入ると「下在郷の一里塚」がある。江戸より77里目。そのそばに新設の道標「左中山道野尻宿」が下在郷橋渡り詰に設置されている。
「南無妙法蓮華経」と書かれた髭題目碑の台石が「イボ石」で、イボを箸で掴み、ここに置く仕草をするとイボがとれると伝わっている。 その先に「東のはずれ」があるということだが、見付けられなかった。右に曲る角に「常夜燈」があり、後ろに祠がある。
倉坂(くらんざか)を上ると、「左野尻宿標石」があり、その先に「右野尻宿標石」がある。