木曽福島~大桑
H.28.03.20~21
街道に戻り、伊奈川橋を渡り、川に沿って歩く。この辺りは「旧橋場村」で伊奈川橋の築造保存を行う職人衆が居住していた。「中北道標」を左折し、大桑村消防団第二分団と水場を左に入る。この辺りで迷ったが、「左野尻宿へ」の須原宿石標があった。ここを直進する道は江戸初期の中山道で、大桑駅の近くまで続き、途中に大桑の一里塚がある。
15分ほど歩き、看板を見て左折し中央本線の高架をくぐると、「神明神社」がある。ここには大杉が二本あり、一本は二股に別れ今まで見た杉の中でも巨樹である。説明柱の字が消えていて樹齢などは分からなかった。
鳥居峠が雪で通行止めになっていると聞いて、先に木曽福島から歩くことにした。6時12分の電車で藤枝を出発し、掛川、名古屋と乗り継ぎ、ワイドビューしなので木曽福島に9時24分に着いた。駅前の観光案内書で「中山道を歩く信州木曽路」の小冊子を貰い歩き始める。
この辺りには水場が多く、上田沢が流れている。のどかな風景の中を歩くと、長野宿橋があり、渡るとJR大桑駅がある。16時04分に、駅に着いた。時間によっては無人駅ではないようだが、本日は無人駅だった。駅で電車を待っていると、おじさんが来て「昨日、木曽福島駅で団体客が降り切れなくて、発車してしまった。と新聞に出ていた。」と教えてくれた。中津川まで快速に乗り、名古屋で新幹線に乗り換え、掛川から東海道線で藤枝に20時15分に着きました。
のどかな田園風景を眺めながら13分ほど歩くと、「水害記念碑」が立っている。(大正12年の土石流で26名が犠牲になった。)
その向かいには、「旧旅籠柏屋徳次郎」がある。「三都講」「御嶽講」の看板が2階の軒下に掲げられている。
先本陣の隣に「清水医院跡」がある。(島崎藤村の「ある女の生涯」の舞台となった所。建物は明治村に移築保存されている。」 「須原ばねそ」発祥の地とかかれていてボタンを押すとメロディが流れてくるはずが壊れていた。
JR中央本線の「須原駅」があり、そこに「幸田露伴と須原宿」の文学碑がある。(幸田露伴は明治22年に木曽路を旅して須原宿に宿泊した。これを縁に小説「風流仏」を執筆した。旅の仏師が須原宿で出会った桜花漬売りに恋してしまい、仏師は娘の姿を彫る。像は娘になり、互いに手を携えて天にのぼった。)
須原宿は正徳5年(1715)木曽川の氾濫で流失してしまい、享保2年(1717)一段高い現在地に移転した。水に恵まれた宿内には丸太をくり抜いた水舟が随所に置かれ「水舟の里」ともいわれている。慶応2年(1866)の大火で宿並は焼失。桜花漬やとろろ汁が名物。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠24軒であった。
その先に「糸瀬山登山口」の標識がある。ここから行くと大桑村天然記念物のエドヒガン桜が見られるというが往復1時間かかるというのであきらめた。あとでネットで見たが立派な桜だった。
古い民家が残る倉本集落の栃ノ木坂を上ると、右側の斜面に「天王様の石仏群」がある。「牛頭天王」と刻まれた文化6年(1727)建立の常夜燈、その後方には享保12年(1727)建立の庚申塔があり、「除三尸罪(のぞくさんしのつみ)」と刻まれている。(暦のうえで60日に一度巡って来る庚申の日に、夜を寝ずに過ごして長寿を願う信仰を庚申待ちという。人間の身中には、三尸九の虫が宿っていて、この虫が庚申の日に人が眠った時に、天へ上って天帝に人間の罪過を告げて、人の生命を縮めるという。この虫の報告が500条になると人は死ぬという。そこで、庚申の日は虫が天に上らぬように起きているのです。)庚申の意味を初めて知りました。
臨川寺の山門をくぐる。臨川寺は宝永元年(1704)の開山。浦島太郎が龍宮から持ち帰った弁財天像や遺品を納めた祠が寺の起源である。
「旅館 田政」は江戸時代から続く旅籠で、今日は私達2人しか泊まり客がいなくて、おかみさんとお手伝いの女性が世話をしてくれた。たくさんの有名人の色紙が飾られていた。
その先には「玉林院」がある。木曽義元の次男玉林和尚が創建。正面の山門は、明和3年に建てられた三間一戸、入母屋造り、銅版葺、上層が鐘突き堂になる鐘楼門である。境内の4本の黒松は樹齢約約270年の立派なものである。(本堂左裏手は木曽氏館跡で19代木曽義昌の弟義豊が「上松蔵人」と称して居城を構えた。)道があるので斜面を登っていくと広場があり、「天満宮」が祀られているだけだった。
直ぐに、「御嶽神社」がある。中に入ると、御神水があり、人が近づくと水が出るという仕掛けで、近づいたら水が出たので驚いた。 神社は新しく建て替えられたようで、そばには「白河大神」の像が立っていた。(白河大神とは、四国88ケ所霊場の第38番札所・覚明に御嶽山開山を命じたとされる。御嶽教木曽大教殿の境内に衣冠姿の神像がある)
明治天皇寝覚御小休所碑
向こうの方に「天長院」が見える。(木曽家の祈願所であったが、武田軍の兵火で焼失、寛文年間(1661~73)地蔵堂のあった間の宿平沢の地に移転する。電車の時間もあったのでここはパスして通り過ぎた。)旧弓矢村には、間の宿で茶屋本陣があった。
その先には、中北道標と「右 野尻宿」の石標がある。
水場を左折し後ろを振り返ると、山の中腹にお堂が見える。行けそうなので行って見ることにした。「岩出観音堂」で京の清水寺と同じ崖屋造り、本尊は馬頭観音で木曽三観音のひとつ。(別名を伊奈川観音、橋場観音といい、口伝によると、300余年前に須原の一老父が馬の沓を作り商いをしていた。ある日馬上の侍が馬の沓を求めたが、片足分しかなかった。不足分を作り追いかけて現在の橋場の入り口で渡した。代金を辞退したところ、木片に「馬頭観音」と書いて渡した。光を放ったので、岩出山の岩間に祀った。)立派な御堂だった。
水神碑があり、その先の角を左折して県道265号に合流する。「須原宿標石」があり、「左野尻宿」と刻まれている。坂を上がる。眼下の木曽川の向こうに「須原水力発電所」が見える。福沢諭吉の娘婿・福沢桃助が大同電力時代に造った。
水舟のそばに歌碑がある。「水舟の水 のきをめぐりて いのち つねにあたらし 須原小学校の校歌の一節」
須原ばねとの里碑、後ろは枝垂れ桜
定勝寺は、永享2年(1430)の創建で木曽三大寺(福島の興善寺、長福寺)の最古刹。木曽川の氾濫で3度流されたが、慶長3年(1598)現在地に再建された。本堂、山門、庫裡は国の重要文化財である。
向かいには、水舟があり、「正岡子規歌碑」がある。子規は明治24年に須原宿に一泊している。「寝ぬ夜半を いかにあかさん山里は 月出つるほとの 空たにもなし」
左側に「本陣跡」がある。代々木村平左衛門を襲名していた。皇女和宮は須原宿木村本陣で昼食をとっている。
猿沢橋を渡り中山道標石を左に入る。左側に水神が祀られている。須原宿標石を見て、国道に出る。
19号を20分ほど歩くと左側の擁壁上に枝垂れ桜の巨樹がそびえている。今は花も葉もつけていないが、咲いたら豪華だろうと残念です。
草道を上がり国道にでて境の沢橋を渡る。標高588mの標識がある。ここは「上松町と大桑町の境」である。木曽川の「桃山発電所」が見える。ここは日本最初の東西サイクル発祥の地である。
うどん屋さんから少し戻って、中山道道標を右に入る。古い家があり「池の尻」「池の尻の大家」と書かれた表札が掲げられていた。「池の尻立場」がこの辺りにあった。
坂をくだり、道標を右折して、草道の坂を下ると舗装路にでる。右折して国道19号にでると「木曽殿をへて空木岳へ」の道標があった。左折して19号を歩く。右側に「倉本の一里塚跡碑」がある。(本来は200m程南にあった。ここにある民家は今でも屋号が「一里塚」と言う。江戸日本橋より数えて74里目である。)
また19号に出て倉本信号機を左折し、中央本線の高架をくぐり、細い坂道を上る。JR倉本駅がぽつんとある。その先に「登山道 空木岳、木曽殿越」の標識がある。空木岳は標高2864mで中央アルプスでは一番高い山である。前に挑戦したことがあるが雪で上ることができなかった山である。
この辺りでまた迷ったが、道を聞いて右の道に入る。この辺りは水が豊富で、水場があちこちにある。(大田南畝の壬戌紀行には「人家数十戸にぎわし立場なり」と書いている。)さっき道を聞いた方が教えてくれた木造吊り橋があり、そこで休憩した。
荻原信号機でまた19号に出る。串ヶ下でまた左に入る道があったようだが、見過ごして、神明神社まで来てしまった。上松五社のひとつで立町、倉本の鎮守である。その先の右側に「明治天皇立町御小休所碑」が立っている。
左の小路に入ると、石塔が2基並んでいる。その奥に風越山の湧水「和水(なごみ)」がある。湧き出た水は冷たく美味しかったが、夏には旅人ののどを潤したと思われる。
国道をひたすら歩いていくと、「荻原の一里塚」がある。(集落の入り口であるこの一里塚には、左右に榎が植えられていた。南の入り口には高札場があったと言われている。江戸日本橋より72里目の一里塚である。)
「木曽古道」の標識がある。老人ホームを左に見てJR中央本線のガードをくぐり、「小野の滝」の交差点に出る。国道19号を左折し、しばらく行くと「小野の滝」が現れる。 広重・英泉の合作である中山道69次の浮世絵に描かれる上松はこの小野の滝の絵である。この季節は雪解け水なのか、勢いよく流れ落ちていた。
寝覚簡易郵便局の前を右に入る。石仏石塔群を過ぎると、上松中学校がある。中学校の先に石畳の坂があり、そこを下る。その先に滑川が流れ、滑川橋をわたる。(往時は刎懸造りの長さ15間、南北より刎木にて中橋杭なし、この辺り特に急流なりと言われ、桟、伊奈川橋と共に「木曽三大橋」と言われた。)今は普通の橋である。渡ったところに「文化・文政の滑川橋改修記念暦銘文」が刻まれているが、ほとんど読めない。前に馬頭観音が祀られている。
寝覚の床は木曽川の浸食による花崗岩の渓谷で中山道随一の名勝。木曽八景「寝覚の夜雨」に描かれ、国名勝史跡記念物である。寺の境内から下におりる道があり、名前の付いた岩を巡ることができる。相棒は下におりたことがあるということで、私は電車が徐行してくれて窓から眺めたことがある。
浦島太郎伝説(浦島太郎は龍宮から帰ったあと、.知っている人が一人もいなくなり、山の中に迷い込んできた。この木曽路の風景に慰められ、好きな釣りをしたりして、龍宮の話を村人にしたりして暮らしていた。ある日、玉手箱を開けたところいっぺんに300歳のおじいさんになってしまい、村人は驚き、ここに住んでいられなくなった。跡には弁財天像や遺品があったので、寺に納めその菩提を弔ったという。)
おべんたうを食べて洗って寝覚めの床 山頭火
昼顔に昼寝せふもの 床の山 芭蕉
越前屋と多瀬屋の間の坂を降りると、「寝覚めの床」がある。手前の角には創業300年「長命そば」と書かれた「越前屋」がある。蕎麦屋はこちらに移ったようだ。
越前屋
女将さんとお手伝いの女性に見送られて、7時30分に旅館を出る。昨日の道標まで歩き、中沢橋を渡り、旧三帰村をあるく。所々に古い民家が残っている。右側に「多瀬屋」と「越前屋」が並んでいる。「多瀬屋」は寝覚立場の茶屋本陣を勤め、「上段の間」を残している。現在は民宿を営んでいる。「越前屋」は創業寛永元年(1624)名物そば(蕎麦きり)の老舗、芭蕉や十返舎一九、島崎藤村も賞味している。
2日目
右側に「庚申塔」がある。ここを左に曲がってしまったがこれは間違いで、ここまで戻り「中山道道標」「寝覚めの床1.2km、JR上松駅0.9km」まで行き、16時になったので旅館に戻ることにした。
その先の諏訪神社の鳥居をくぐると、小学校の校庭になっていて、サッカーをしていた。その奥に社殿がある。上松の鎮守で材木役所内に祀られていた「五社神社」が移設されている。五社神社は、材木奉行の日比野源八が木曽山川の安全と働く杣や日雇に怪我や事故が無い事を願って建立した。
上松小学校の校庭ののり面に「尾張藩直轄材木役所陣屋跡」がある。(寛文3年(1663)から4年にかけて尾張藩は木曽総山の検見を実施し、その大半が伐られていることに驚き、山村代官から山に関する一切の業務を取り上げ、直轄の材木役所を設けた。)
上松小学校の前に齊藤茂吉歌碑、島崎藤村文学碑がある。
駒ヶ岳みてそめけるを 背後にし 小さき汽車は 峡に入りゆく 茂吉
山はしつかにして 性をやしない 水は動いて情をなぐさむ 酒落堂之記より 島崎藤村
その先の左側に「本町の一里塚跡」がある。本来は30m下方の仲町にあった。江戸日本橋より72里目である。 道は右に曲がり突き当たり、左折する。その先に今日の宿である「田政旅館」あったが、まだ15時過ぎなので、そのまま街道を歩く。上松歩道橋手前の寺坂を上る。斜面に「大乗妙典」と刻まれた石碑がある。(大乗妙典とは、私達衆生を迷いから悟りに導いてくれる経典で、一般的には法華経、すなわち、妙法蓮華経をさすといわれている。)
その前には、「男女双体道祖神、」水の神「水速女命」が祀られている。
その隣の塚本歯科医院は、「本陣跡」で藤田九郎左衛門が勤めた。玉林院の山門再建に尽力した一人である。11月2日、皇女和宮は上松宿藤田本陣に宿泊する。
左手の奥に「八幡神社」がある。正徳4年(1714)建立の本殿は江戸時代中期の代表的な社殿建築で上松町最古。みえているのは覆い堂で、中に立派な社殿がある。
上松宿は、木曽五木の集散地で尾張藩はこの地に材木役所を設置し、「木1本首ひとつ」と言われるほど厳しい管理、取り締まりをした。宿場江戸口の十王橋から上町、本町、仲町、下町で構成されていた。宿並は度重なる大火で焼失し、火災を免れた上町だけが江戸の面影を残している。 上松の名は、昔、見事な松がありこれを見上げたところを由来としている。
JR中央本線のガードをくぐり、トンネル手前を斜め右に入る。十王橋交差点の向こう側に「高札場跡」がある。かってここは十王堂があったが、慶応2年(1866)の洪水で流失し、下流で発見された石仏石塔を祀っている。真ん中のお地蔵さんが造花の花をもって微笑んでいた。 ここは、「中山道上松宿北入口」である。
国道19号の高架橋の下を歩き、しばらく行くと、赤い橋が2本かかっている。さびた方は通行できず、新しい方の橋を渡って向こう側に行く。その先が休憩所になっていて、「木曽森林鉄道と鬼渕鉄橋」の案内板が立っている。(大正時代になって、日本の鉄橋は、鋼材や制作がすべて日本の技術で作ることができるようになった。木曽森林鉄道の鬼渕鉄橋は現存する日本最古のトラス橋だといわれている。全長93m、完成から昭和50年まで使われてきた。各地で森林鉄道の廃止が相次いだが、日本で最後まで運行された。)鉄橋を渡るボールドウイン蒸気機関車の写真が飾られていた。
「木のかけはし 木造車道橋」の看板があり、下におりて見上げると、車道も木でできていた。
ガイドブックは、19号を歩いているが、観光協会の冊子は、橋を渡り、温泉の上の道を歩くようになっている。さっきのおばあさんはゆっくり歩いてきて「秘湯 桟温泉」に入っていった。ちょうどお昼時なので、ここで昼食をとることにした。「おそば」を頂いた。窓からは木曽川が良く見えた。おばあさんは温泉に浸かっているだろうか。
19号に戻ると、「磨崖碑文」がある。(壁面に慶安元年(1648)石積桟竣工記録を記した碑文が刻まれている。
これらの碑は、対岸の「磨崖碑文」のあたりにあったが、上部の崩落によりここに移された。
昔の中山道はこの先で途切れているため、19号に出る。坂の下に「沓掛の一里塚碑」がある。観音堂が南塚で江戸より数えて71里目の一里塚である。旧沓掛村は立場で、上松宿の塚本本陣の一族が茶屋本陣を勤めた。一里塚を見ていると、おばあさんが話しかけてきた。そこの温泉に行くということで、少し話をして別れた。
一度、国道19号に出るが、中北道標の所で、右に入り、JR中央線に沿って歩く。線路わきの細い草道を進むと「沓掛馬頭観音堂」がある。(木曽義仲が木曽の桟を通りかかった時、愛馬に「73間飛べ」と号令したところ、馬は正確に73間飛んだ。ところが実際は74間あったので、人馬共に木曽川に転落し、義仲は九死に一生を得たが、馬は死んでしまった。愛馬を弔うために一宇を建て、馬頭観音像を祀った。)
薄暗い林を行くと石の鳥居が現れる。「御嶽遥拝所」で、中山道で御嶽山を遥拝できるのは鳥居峠とここだけである。鳥居は寛永9年(1632)の建立。今は樹木に覆われて眺望できない。 (御嶽信仰は、宝亀5年(774)悪病を鎮めるために神を祀ったことに始まる。寛政4年(1792)普寛上人が王滝口の登山道を開き、頂を極楽浄土に見立てた「浄土信仰」と結びついた。行者は講を組み、精進潔斎をして「六根清浄」を唱えながら登った。)
本橋信号機で右に曲って元橋を渡ると御嶽山方面に行く。元橋交差点先を左折し「神戸(こうど)」に入る。JR中央線神戸架道橋をくくりぬけて右折する
ガードレールに沿って国道の陸橋の下に進む。この辺りで迷ったが、中央線廃止トンネルは今は通行できなくなっているので階段を上り国道19号に出る。しばらく行くと「木曽町」の看板があり、木の鳥居がある。その先の標識を右に入ると「ようこそ木曽福島へ」と書かれていた。
左側の坂道に入ると「ここは中平です」の看板がある。(木曽巡行記には、「中平は木櫛挽き売る」とあり、立場茶屋が置かれ木櫛を売っていた。)などと書かれていた。
旧国道に出ると、向こう側には県立木曽病院があり、ダムと変電所がある。この辺りはフクジュソウが沢山咲いている。
右側に「塩渕一里塚」がある。(江戸日本橋より70里、京へ67里)と刻まれた石碑がある。 その向こうの斜面にはたくさんの石碑が立っている。(十三夜様、勢至大菩薩、堤防記念、塩渕開発記念の石碑があります。と書かれていた。)
「ここは塩渕です。」の看板がある。(天正12年の木曽義昌朱印状には「上塩渕」「塩渕中屋」「塩渕彦三郎」の名が出てくる。シオと言う地名は川の曲流部に付けられることが多く、塩渕も木曽川の曲流部にできた渕とすると地形的にあっている。昔、塩を積んだ馬が木曽川の渕に転落し、塩をまいてしまった所からこの名がついたと言う説もある。)
神社裏の板かべ沿いの細道に入り木曽町役場の門前を右に進む。坂を下りていくと、フクジュソウが咲いている。
今回もいろいろな人に道を聞きました。道を間違えて「だいたい中山道」になってしまったり、また、寝覚めの床では、私がガイドブックを置き忘れ、取りに戻ったりしたが、フクジュソウが咲いているのを見ることができて、良かった。
先ほどの鍵屋の枡形に戻り、「鍵屋の坂」を下る。古い家の間を水が流れ、江戸時代の宿場の風景ではあまり見られない。
その向かいには西尾脇本陣跡」がある。西尾家は問屋、庄屋を兼ねた。木曽義元の家臣で、後に木曽代官山村家に仕え、尾張藩の山林取り締まりを勤めた。酒造業を営み銘酒「木曽の桟」の蔵元でもある。
須原宿に入ると「須原の一里塚跡碑」がある。江戸日本橋から75里目の一里塚である。その横には名物の桜花漬を商う「大和屋」がある。買い求めました。
弁財天堂 現存する上松最古の建築物
多瀬屋
先ほど見た「大乗妙典」のさきにある「石塔群」を見る。「駒ヶ岳大神宮碑」「駒嶽開山神明霊神」などの石碑が立っている。 寄り道をして上松駅に行く。観光案内所で一休み。この辺りは相撲の「御嶽海」の出身地で、どこに行っても「御嶽海」の幟があり、店には手形が飾られている。
街道に戻るとその先の右側に「脇本陣跡」がある。(原家が勤め、問屋、総庄屋を兼ねていた。)門扉の中に木札が掲げられている。門には「といや」の札が掛かっていた。
馬頭観音
明治天皇聖蹟
芭蕉句碑「桟や 命をからむ 蔦かつら」
木曽の桟
赤色鉄橋「かけはし」を渡ると「木曽の桟」が対岸に見える。(国道の下に石積が保存されている。当初は岸壁に沿って丸太を組み、板を並べた桟であった。正保4年(1647)旅人の松明の不始末で焼失した。翌年尾張藩が石積の桟を完成させた。この桟は中山道三大難所のひとつだった。
交差点を左折して街道にはいると古い家並みが残っている。
高札場跡