H.28.11.12~13

栄泉の「馬籠」は手前に馬籠峠、中間に馬籠宿、遠景に恵那山を描いている。そして馬籠峠上から注ぐ男滝、女滝を描き、滝の先には牛方を描く。牛方は木曽谷を中心に荷を運び駄賃稼ぎをした。峠村には牛方が多く住み、牛方を讃えた碑もある。実際にはこういう風景はないので、名所を一つの画面に納めたかった。

十二兼~馬籠

街道に戻り、先を進むと、軒下に山駕籠を吊った民宿「こうしんづか」があり、外国人が集まっている。昨日妻籠で会ったガイドさんと添乗員だったので、昨日のグループだと思ったが、昨日とは違うグループということだった。左手に大きな庚申塚があり「庚申碑」がある。これが「大妻籠の一里塚」ならば、江戸より81里目の塚である。

上嵯峨屋の土間に入って見学していると、向かいのお店の御主人が入ってきて、折角開けた「」を閉め、開け方を実演してくれた。また、囲炉裏の上の自在鍵は片方を梁に掛け、もう一方を縄で縛って、火事の時にはこの縄を切り、自在鍵と位牌を持って逃げる。と教えてくれた。また、狭い家を広く使うために、鍋、釜は上から吊るすのだそうです。上嵯峨屋は 板葺石置き屋根の木賃宿を復元したものである。木賃とは薪代のことと言うのも教えてもらった。

大妻籠の旅籠「まるや」「つたむらや」の前を通る。つたむらやの前には外国人が沢山いて、出発するところらしい。大妻籠とは奥妻籠が転化したもの。雄大な信州型卯建を持つ民家が並ぶ。

街道の坂を上ると「旧旅籠金剛屋」があり、家の前には「南無弘法大師之記念碑」がある。(昔、二階に弘法大師を祀ったところ、近郷のお参りの人で賑わった。現在も身内や近在の人で祭礼を行っている。)

下嵯峨屋の向かいには「延命地蔵堂」がある。文化10年(1813)光徳寺住職中外和尚が蘭(あららぎ)川で地蔵尊の寝姿が浮き出た自然石を発見しこれを安置した。4月の祭礼が近づくと昼夜の気温差で像が夜露で濡れるため「汗かき地蔵」ともいわれる。また、「寒山拾得」の石像がある。

早朝家を出て、東海道線、新幹線、中央本線「ワイドビューしなの」で中津川まで、中央本線で十二兼に10時25分に着いた。無人の駅を出て歩き始める。

木造橋を渡り、自然石中山道道標を過ぎると、「倉科祖霊社」がある。(天正14年(1586)松本城主小笠原貞慶より秀吉の関白就任祝いの品を託された重臣倉科七郎左衛門と従者30名が地元の土豪に襲われ全滅した。当時木曽氏と小笠原氏は何度も兵戦を交えており、そうした因縁からこの争いも起きたと思われる。)

落合宿へ

県道を進むと斜め右に入る下り坂がある。旧峠村旧道で、民間の荷を運ぶ牛方の集落である旧峠村に入る。宝暦12年(1762)の大火で灰塵に帰したが、その後は大火に遭わず、当時の面影を残している。

杉林を抜け、木橋を渡ると、「一石栃白木改番所跡」がある。木曽五木をはじめとする伐採禁止木の出荷統制が行われた。番所は当初下り谷にあったが、蛇抜けにより寛永2年(1749)ここに移された。

石畳の旧道を行くと「神居木」がある。樹齢300年のサワラの大樹で、樹高41m、胴回り5.5mあり、これを風呂桶にすると、300個はできるという。下枝が立ちあがって、特異が枝ぶりとなっている。この様な枝を持った木を神居木(かもいぎ)といい山の神が腰かけて休むところで、傷を付けたり、切ったりすると祟ると言われている。この木のように両方に枝が出ている木を両神居という。

滝の横の階段を上り、県道にでる。県道を左の方にき、一石沢を滝上橋で渡ると、現在の中山道と合流する。「男埵(おたる)の国有林」の説明板がある。

Y字路に中北道標があり、左の坂が旧中山道であるが、滝を見に行く道を選んだ。(洪水や蛇抜けで高さや深さが変わっているが、左の大きな滝が「男滝」右の小ぶりの滝が「女滝」で、吉川栄治の宮本武蔵の舞台ともなった。幕末頃までは滝の下を中山道が通っていたが、今は滝の上を通っている。)

左の斜面に「牛頭観音」が祀られている。(石の多い急な坂道を重い荷物を運ぶため、黒牛が使用された。その黒牛の供養塔である。中山道に祀られた唯一の石仏。多くは馬の供養塔である。)

右折して坂を上り「藤原家住宅」を見学する。17世紀後期築の長野県最古の農家建物。昭和60年、61年に解体復元工事を行った。

蘭(あららぎ)川に沿って歩くと、「妻籠宿入口標識」がある。蘭川は木曽山脈の床浪高原に源を発し、男垂川を吸収し、木曽川に落ち合う。道を横切ると、「妻籠宿」の看板と、「中山道さんま碑」がある。「右まごめ旧道左志ん道いいだ」と刻まれている。

観光案内所の手前の坂を左に上っていくと「妻籠の大銀木犀」の木がある。代々和智野神社の神官を勤めた矢崎家の庭木として愛育された巨木である。今は花の季節ではないので、花は無かった。

Y字路を右の旧道に入ると廃屋を残す「しろやま茶屋跡」がある。三叉路に出ると、右の上り坂は「妻籠城址」への道である。木曽氏中興の祖である義昌が整備し、天正12年(1584)小牧長久手の戦いの折徳川勢の攻撃を退けた。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際も軍勢が入ってここを固めたが、元和2年(1616)には廃城になった。

蜂谷脇本陣跡は資料館になり、上段の間を復元している。蜂谷家は酒造や金貸しを営んだ資産家であった。

石畳の梨子の木坂を下りると、沢の向こうに石置き屋根の水車小屋がある。明治37年、蛇抜けにより蜂谷家の四人が犠牲になった。残された蜂谷儀一は島崎藤村と親交があり、水車塚には島崎藤村の碑文が刻まれている。

旧旅籠「ききょうや」、牛方組頭今井仁兵衛住居跡「今井家住宅」がある。

正岡子規の句碑「白鷺や 青菜若奈の三十里」の前に外国人が群れて、ガイドさんの話を聞いていた。

県道を進むと、右側に木製の橋があり、ここが一石沢旧道口で、曲がりくねりながら一石沢二沿って進む。 県道7号線を横断して、向かいの一石栃旧道に入る。

日目

変則5差路の正面の急坂を下ると「源臣光照院塚大明神」碑がある。もみじやイチョウの紅葉、黄葉がきれい。

馬籠宿は馬籠峠と十曲峠に挟まれた、狭隘の地に位置する。水利が悪く、度々大火に見舞われた。明治28年と大正4年の大火で石畳以外は灰塵に帰した。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠18軒であった。

陣馬坂の石畳の道を上ると広場に出る。「馬籠上人馬跡」である。(小牧長久手の合戦の際に、徳川方が馬籠城攻撃の陣を敷いた所。広場には藤村の父、「島崎正樹の」歌碑があり、恵那山が眺望できる。)今日はよいお天気なので行楽客であふれていた。

おばあさんがさつまいもを蒸かして切干芋を作っていた。一袋100円で買い求めた。

坂を下りていくと、右側に十返舎一九の歌碑がある。「渋皮のむけし女は見えねども 栗のこわめし ここの名物」休憩所とトイレがある。この辺りの山の紅葉がきれいです。

番所の横を奥に行くと「一石栃子安観音堂」がある。(昔からこの地の者は難産しないといわれた。境内の枝垂桜は二度の蛇抜けにも耐え抜いた古木)御堂の前でおやつを食べて長めの休憩をした。番所の向こうには「一石栃立場茶屋跡」がある。昔は茶屋が7軒あったが、今は牧野家住宅が残っているだけである。江戸後期の建物で、当時は間口10間あったが、現在は8間に縮小された。「いちこく御休み処」の看板が掲げられている。

熊除けの鐘があちこちにある。

木立の旧道を抜けると旧神明村に入る。急坂を下ると、車道に突き当たる。右折すると、「中山道大妻籠」と書かれた「軒行灯」が立っている。男垂川を神明橋で渡る。男垂川は流末で蘭川に落ち合う。

すぐ先で大妻橋を渡り、右の大島旧道の石畳道に入る。この旧道入口に自然石の「中山道大島道標」がある。

突き当りの車道を右折すると「走りしば邑道標」がある。自然石道標で、「左旧道つまごへ右志ん道」と刻まれている。左側の民家の庭の中に「石柱道標」がある。明治25年(1892)新道が開通するまでここが中山道と飯田街道の分岐点で、「橋場追分」と呼ばれ、賑わった。通りからは見えず、家の方に聞いて分かった。

左側に土俗信仰の神様である「御左口(みさぐち)神」を祀った「おしやこじさま」がある。妻籠発電所を過ぎると「藁馬実演販売 いんきょ」と書かれた看板があり、大きな藁馬が置いてあった。

午後5時を回り、辺りは暗くなって、家々の軒下の灯がともり始めた。予約した下嵯峨屋さんに入る。宿泊客は8人で、私達二人をのぞいて全て外国人だった。隣の御夫婦は「ニューヨークから来た。」そうです。山菜中心の食事をいただく。イナゴの佃煮は初めて食べた。

本陣は代々島崎家が勤めていたが、明治20年代に最後の当主広助(藤村の兄)が東京へ出て、建物も取り壊された。本陣跡地はその後、御料局や営林署に使用されていたが、町に払い下げられたのを機に、平成7年に、江戸時代後期の間取図をもとに忠実に復元された。馬籠の島崎家と同族。

奥谷脇本陣跡」問屋を兼ね、現在の建物は明治10年に木曽五木の禁制が解かれ総ヒノキ造り(国の重要文化財)で建て替えられた。明治天皇御小休所碑があり、南木曽町博物館を併設している。代々林氏が勤めてきました。島崎藤村の初恋の人、ふゆさんの嫁ぎ先でもある。 

柿を藁で包み「つとっこ 柿を熟させています」と書かれていた。

左手に「鯉岩」がある。中山道三名石(烏帽子岩 兜岩)の一つで、明治24年の濃尾地震で頭部が落ちてしまった。絵があったが、なければただの岩でしかない。その向かいには「熊谷家住宅」がある。江戸時代後期建築の長屋の一部で南木曽町有形文化財に指定されている。

城山を下り、三叉路の真ん中の道を行く。10分ほど歩くと「是より妻籠の街並み」の標識がある。すぐ先には満室と断られた民宿「大吉」があった。

枡形をでて車坂を下りると県道7号線に出る。バスに乗るため右折してバス停に向かった。午後2時55分の中津川行のバスに乗り中津川から中央本線で名古屋へ、新幹線、東海道線と乗り継いで、家に帰った。

宿並が左に曲がる手前に階段があり、ここが枡形で、石段を下りると水車があり、突き当りの阿弥陀堂を右折すると枡形は終わる。阿弥陀堂は「京都大原三千院ゆかり」と石碑に刻まれていたが、何もなかった。水車は現在は発電に利用されていて、宿内の電気をまかなっていると書かれていた。

但馬屋資料館の隣には「清水屋資料館」がある。清水屋は島崎藤村の嵐に登場する森さん(原一平)の家です。原家は宿役人を勤めた。子文書や書簡などが展示されている。

(坪庭を構成する石垣を玄武石垣という。北の方角の守護神である玄武神は亀の甲羅に似た六角形であることから「玄武石垣」と言っている。宝暦3年(1753)の築造で250年を経ても寸分の狂いも無く江戸の美を伝えている。)

広場の馬籠上陣屋東屋脇から陣馬坂を下ると復元された「高札場」がある。

馬籠宿

県道7号を横断して、向かいの岩田旧道に入る。階段や沢を渡る木橋を渡り、右の石階段を上る。

県道7号を横断して、清水旧道に入る。先で回り込んできた7号線を再び横断して、ガードレールの切れ目から井戸沢旧道に入る。井戸沢を渡り、先のY字路を右の石畳の道に入る。旧道脇には男女双体道祖神が祀られている。

村はずれに「峠之御頭頌徳碑」がある。安政3年(1856)牛方と中津川の問屋の間に運賃の配分を巡って争いが起こり、牛方に有利に解決した牛奉行今井仁兵衛を讃えたものである。

立場を過ぎると峠道はつづらおりの急坂になる。石畳の道になり、県道7号の広場に出る。ここが馬籠峠の頂上で、標高801mの標識がある。峠の茶屋で「御幣餅」はないとのことで「団子」をいただく。ゴマ味噌のかかった大きな団子だった。

少し、車道歩き、道路を渡って石の道標「とうがめ澤、下り谷を経て馬籠峠へ」を入り、石畳の道を歩く。

午前8時に宿を出発する。まだ人通りのないお店も開いていない街道を歩く。

やじさんきたさんのお話が残る黒又屋(上丁字屋)

西の枡形碑

枡形を抜けると、寺町の街並みが続く。馬籠宿の保存事業はこの寺町から始まった。26戸の解体復元工事が実施された。現業の松代屋、隣は「下嵯峨屋」で当初長屋だったものを解体復元したもの。私達が泊まった「下嵯峨屋」はこの裏手にあります。

西の枡形の上には「光徳寺」がある。本堂は享保10年(1725)奥谷脇本陣林家が建立したもの。庫裡には「車付き駕籠が保存されている。午後4時30分をまわっていたので、寺の門が閉じていた。寺は砦としての役割を担っていた。上から宿の様子を見下ろせる。

妻籠郵便局

三留野にある等覚寺の弁財天 天神、韋駄天の写真が飾られていた。

御門(侍門)

島崎藤村の手紙

左側の地蔵沢の江戸よりに「口止留番所跡」がある。中山道を行く人々を監視した。後に福島関所に統合された。前後が東の枡形跡。向かいには復元された「高札場跡」がある。番所の隣には水車小屋がある。

妻籠宿は伊那街道との追分を控えて賑わったが、明治になると主要通路から外れたために寂れてしまった。そのために宿並は残り、昭和51年に重要伝統的建造物群保存地区に指定された。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠31軒であった。

妻籠宿

広重の描いた「妻籠」から写生地を特定するのは難しい。恵那山と峠に向かう旅人が描かれている。右手の山は妻籠城のあった城山かもしれません。

坂道を上りきると、T字路につきあたり、右折する。この合流地点には「中山道蛇石(へんぴいし)道標」がある。「下り道旧道 左志ん道 右妻籠」と刻まれている。その先に「中世の中山道はここから沢沿いに上っていた。元禄16年に道の付け替え工事が行われ、妻籠城総堀を通る現在の道となった。」と書かれた案内板が立っている。

旧道は古阿知の中の石畳の上り坂になる。その先で石畳はY字路になる。この分岐に「左なぎそ駅 下り国道へ 右妻籠へ」と刻まれた「せん澤」道標がある。

旧柿其橋のなごり

島崎本陣跡(問屋 庄屋を兼ねた。藤村は最後の当主島崎正樹の末っ子で、9歳までここで過ごした。) 冠木門の脇には「馬籠宿明治天皇亭駅碑」がある。明治13年御巡幸の際に本陣に宿泊されている。庭で、太鼓の演奏が披露されていた。

大黒屋跡、元大黒屋茶房は問屋を勤め、造り酒屋を兼ねた。十代目当主が40年間書き続けた「大黒屋日記」が島崎藤村の「夜明け前」の原点になったいる。)藤村の初恋の人おふゆさんは大黒屋の娘でした。

右手にはそば処「上但馬屋」があり、その前に「中山道馬籠宿碑」がある。「江戸江八十里半 京江五十二里半」と刻まれている。目の前の県道7号中津川南木曽線を横断すると、馬籠の宿に入る。お蕎麦をいただき、馬籠宿に入った。

あちこちの置かれた「火の要鎮」と書かれた消火桶

明治天皇小休止のために造られたテーブルと雪隠。30分しか滞在しなかったのでトイレは使われなかったようです。

旧道を下ると、左側の傾斜地に「良寛歌碑」がある。「この暮れの もの悲しきにわかくさの 妻呼び立てて 小牡鹿鳴くも」 (てまり上人といわれた良寛が木曽路を通った折に詠まれた2首の内の1首」

上久保の一里塚」が両塚を残している。江戸より80里目の一里塚である。(町内には、十二兼、金知屋、上久保、下り谷の4か所に一里塚があったが、原型をとどめているのはここだけである。)

戦沢を戦沢橋で渡ると「重要伝統的建造物群保存地区 南木曽町妻籠宿保存地区」の案内板があり、ガイドさんが英語で説明をし、10人くらいの外国人が聞いていた。

石段を下りると、「かぶと観音」がある。(木曽義仲が兜の中に納めていた十一面観音を安置している。)社の表には「十一面観音」の写真が貼ってあった。境内には伐採された袖振りの松が通常の2倍の長さ7mの水舟に姿を変えて設置されていた。

神戸(こうど)坂を上ると、立場茶屋のあった旧神戸村に入る。「あん餅」が名物であった。その先の左側には、「袖振りの松」がある。(木曽義仲が弓を射るのに邪魔になった松を、巴御前が袖を振って枝を薙ぎ払ったという。)平成21年に立ち枯れ、伐採した。その向かいには神明神社がある。

左側に「園原先生碑」「園原家住宅」がある。園原旧富は三留野村和合の東山神社の神官の子で、京で神学を学び、多くの門人を擁した。碑は門下生が江戸中期に建てた。住宅は17世紀後半から18世紀前半の建築と推察される。江戸時代中期の神官屋敷の様子を知ることのできる建物である。神殿も同時期のものと思われる。

大沢田川を大沢田橋でわたり、蛇抜沢を蛇抜橋で渡ると、左側に貯木場が見え、その向こうに「桃介橋」が見える。大正11年の架橋で、全長247mの吊り橋である。木曽川の水力発電開発に力を注いだ大同電力(福沢桃介社長)が読書発電所建設の資材運搬路として架けたものである。(国重要文化財)

梨子沢を梨子沢橋で渡ると、正面に南木曽小学校への石段がある。この石段を5段ほど登り、右手の民家の手前に入る。ここは他人の地所であるが、「中山道」の道標があるので、通らせていただいた。

その先の右側に「鮎沢本陣跡」があり、「明治天皇行在所記念碑」がある。明治天皇は大火の前年の明治13年に中川原で休息をした後、ここを宿泊所とした。鮎沢家の庭木であった枝垂れ梅の古木が残っている。皇女和宮が11月1日(10日目)の本陣に宿泊している。

左側に「宮川脇本陣跡」がある。宮川家は代々庄屋も勤め、本陣の鮎沢家、問屋の勝野家とともに指導的役割をになった。明治14年の大火で全焼し、現在の建物はそれ以降のものである。

街道の右側に「中川原明治天皇御小休憩所跡」、「明治天皇中川原御膳水碑」があり、池では金魚が泳いでいた。

木曽川に沿ってしばらく歩くと「柿其橋」があり、「南寝覚」と呼ばれる柿其峡(かきぞれ)「中川原峡」の景観が広がる。花崗岩の方状節理が見られる。柿其橋を渡ると「八剣神社」があり樹齢570年の大杉がそびえている。四杉と呼ばれ一株から4本出ていたが今は2本になっている。柿其川にそって柿其渓谷があり、木曽川の渓谷の中で一番美しいと言われている。駅で会った方は上の方に歩いて行ったので、今日は渓谷を楽しむのだろう。私達は街道歩きなので先を急いだ。

今回は、馬籠、妻籠の中山道のハイライトともいうべき街道歩きだった。馬籠宿の観光客の多さに驚き、宿並の写真があまり無かった。次回行ったときはもう少し馬籠宿を歩いてみたいと思う。

山の上からは妻籠の街並みが見えた。

坂の下に「南木曽駅」が見え、その向こうに跨線橋がある。このあたりは旧和合村で村内には銘酒諸白(もろはし)を醸造したと遠山家跡があり、枝垂れ梅の木がある。(見落とした)しばらく進むと、T字路に突き当り、この左折ポイントにはSL公園があり、蒸気機関車D51が展示されている。、その先で、車道を斜めに横断する。

本陣跡から県道264号を進み、ガードレールの切れ目から下り階段を下りる。たぶんこの階段を下りなければ円空仏のある等覚寺に行く道があったのではないかと思う。階段を下りると下の道に合流する。

三留野(みどの)この地に木曽氏の館があり、御殿と呼ばれたことが地名の由来である。宿並は度々火災に見舞われ、宿長は当初より25間も短くなった。明治14年にも火災に遭っている。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠32軒であった。

牛方の集落であった旧金知屋村を抜け、県道264号線の標識を左折する。三味坂を上り、中央本線のガードをくぐり、牧が沢川を牧が沢橋で渡る。

三留野宿

与川入口を左折すると、発電所の裏に「与川渡の石地蔵」が祀られている。天保15年(1844)の蛇抜け(土石流)により、尾張藩の御用伐採飯場にいた99名が犠牲になり、石地蔵開眼供養が営まれた。 この与川道は木曽川が蛇抜けや出水などでが通行止めになると迂回路となった。

羅天橋が羅天沢に架かっている。この場所は柿其入口から与川入口まで木曽路屈指の難所といわれた「羅天の桟道」跡である。今はコンクリートの橋になっている。羅天沢からワル沢までの間は「羅天岩窟」と言われているらしい。対岸の山の紅葉がきれいです。

「沓掛」には左側の線路わきに「推河脇碑」が立っている。沓掛は羅天の難所越えに際して一休みした場所であった。 その先の大石の向こうに鳥居が見える。「津島神社」だろうか?