小田原〜大磯   H1.24.05.05

早朝、バスもないので、歩いて駅にいき、5時59分の電車に乗り、熱海で乗り継ぎ、小田原まで行きました。8時20分に小田原駅に着いた。駅前に「小田原高等学校発祥の地」と書かれた石碑が建っている。法被を着た人がいるが、「北条五代まつり」は確か5月3日で、もう終わっているはずと思い、歩き出す。(小田原市最大のお祭りで、総勢1500人の武者隊、音楽隊、町衆隊のパレードが市を練り歩くそうですが、今年は雨だったので、規模を縮小して行なわれたそうです。)

市街には、このような石柱があり、町名といわれが書かれている。ここは、「下幸田」で、(北条氏の家臣幸田氏が居住していた。この地は小田原城にはいる門の一つ幸田門の近くで、隣の上幸田と共に武町にふさわしいたたずまいだった。)

宮ノ前町の石柱には、(江戸時代には、上町、下町と分かれていた。町の中央に城主専用の入り口、浜手門口札場があった。江戸時代末期、町内には、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠が23軒あって宿場の中心地であった。) その前に、旧脇本陣 古清水屋があり、2階が資料館になっているようだ。(終戦の日の8月15日、小田原空襲があり、この付近400軒あまりが被災し、古清水屋も焼け落ち、その写真が残っている。)

松並木をすぎ国道を歩くと、上方見付けの説明板が立っている。宿場の出入り口に宿場を守る防御施設として造られた。街道を挟んで両側に台形状に石垣を積み上げ、高さは1.6mほどで、その上に竹矢来が組まれた。上方見付けは東小磯村加宿のはずれにあり、現在の統監道バス停付近にあった。そこには宿場の出入り口である御料傍示杭が立っていた。

本陣3軒、脇本陣0 旅籠66軒の宿場町である。

大磯宿

城山公園交差点を左折する。大磯の松並木が見えてくる。その手前には、初代総理大臣伊藤博文旧邸跡「浪漫閣」がある。大磯プリンスホテルとして営業していたが、今は休業している。2006年大磯市が購入を表明したとある。

中央青果市場付近も松並木が残っている。国府新宿交差点から国道左沿いの道に入る。ここにも松があるが、他の木が目立つ。しばらく旧道を歩くと、右に国府本郷一里塚跡がある。説明板によると、(国府本郷村内に17番目の一里塚があった。実際にはここより200m江戸よりにありました。)

12時36分、JR二宮駅に寄る。ガラスのうさぎ像を見るためだ。高木敏子さんのノンフィクションの小説にちなんで建てられた。少女が手に持っているものは、父の形見のガラスのうさぎです。

しばらく国道を歩き、山西交差点で左方向に入る。分岐点には、道祖神、天神と刻まれた石碑や、3体の道祖神が祀られている。「金目の煮付け」の赤いのぼりが気になった。たぶん、この辺りに道路を整備拡張した時に道路わきにあったものを集めたものだろう。静かな旧道を歩き、吾妻神社入り口交差点で国道に合流する。

押切橋を渡り、三叉路になっている。まんなかの坂を上がるようだ。上がりきったところに松谷本陣跡がある。説明板によると(この辺りは小田原宿と大磯宿の中間に位置し、間の宿が設けられた。大友屋、蔦屋、釜成屋などの茶屋が軒を連ね、梅沢の立場と言われていた。その中心が松屋本陣で、松屋であった和田家には、本陣を利用した人々の記録「御休帳」が保存されている。その先に二ノ宮の一里塚があり、国道と合流する。

この坂は、車阪というようで、坂の途中に史跡の木碑と説明板がある。太田道灌、源実朝、阿仏尼が詠んだ和歌が記されていたが、古くなっていてよく読めなかった。

だらだらした坂をも上ったり下ったりしながら国府津駅を過ぎ、この辺りには、道祖神があちこちで祀られている。二人寄りそった中の良い神様です。緩い上り坂の手前左側に、大山道道標を兼ねた庚申塔がある。ここから大山詣での大山道があったようだ。

この寺から20分ほど歩くと、久しぶりに松並木が見えてくる。その先0分ほどで、小八幡一里塚の説明板がある。これは江戸から数えて18番目の一里塚で、相模国風土記稿によると「東海道中東にあり、左右相対せり、高二間、舗六十七間、塚上に松樹あり。上は小田原宿入り口一里塚、下は淘綾郡山西村小名梅沢一里塚に続けり」とある。

15分ほど歩き、左側にあるお寺に、小嶋家の法キョウ印塔・五輪塔の案内を見て、中に入った。説明板によると(小嶋家は、鎌倉時代から家名が現れた、酒匂の旧家で、北条時代には酒匂郷の小代官を務め、江戸時代に入ってからも、名主、組頭役を務めた。ここにある三つの墓石は、年代を記した最も古いものです。)

右手に上杉龍若丸の墓と書かれた矢印があるので、行ってみる。関東管領上杉憲政の嫡男・龍若丸(11歳または12歳)1551年平井城落城前、北条氏康(三代)の攻撃を止めさせ、所領を安堵するため、降伏の使いとして、従臣6人と共に、小田原に出向いてきた。氏康は家臣に命じ、一色の松原で磔にかけられた。小田原町民は五輪塔を建て、供養した。

2〜3分で、左側に 星月夜の社 山王神社がある。境内に星月夜井戸も再現されている。裏手には、小田原城攻防戦で一番の激戦であった篠曲輪跡がある。曲輪とは、城郭内にあり、防御陣・建造物を建てる敷地・兵の駐屯施設として、城郭の最重要施設である。

説明板によると、小田原城下に入る東海道の東の出入り口として、西の板橋口甲州道の井細田口とあわせて、城下を警護する重要な門としての役割をになっていた。 見付けとは、城の枡形門に設けられた見張り番所であって、武器を用意し、昼夜番士が警戒に当たっていた場所で、本城より外壕城門を示す場合が多い。小田原城は、秀吉との小田原合戦の際には、街ぐるみ、堀や土塁で囲まれていたが、江戸初期に東海道を通す際に、枡形が作られた。

新宿町の屋台が通る。この街道沿いには、かまぼこ屋さんが軒を連ねている。「籠清」と「鈴広」くらいしか知らないが、いろいろな名前のかまぼこやがあった。T字路に突き当たり、左折し、新宿交差点を右折し国道1号線を歩く。10分ほどで、曲がりくねった松が見える。宿の東入り口、江戸見付けのあったところである。向かい側の道沿いに、小田原一里塚がある。江戸から数えて20番目の一里塚で、日本橋まで83kmの標識があった。

万町はふるくからよろっちょうと呼ばれ、七里役所という紀州藩の飛脚継所があった。江戸末期には旅籠が5軒あり、小田原提灯創りの家もあった。

高梨町の石柱には(東海道から北に向かう甲州街道の起点にあたり、古くから商家や旅籠が並んでいた。町の中央寄りには、下の問屋場があり、中宿町の上の問屋場と10日交代で務めていた。)

関東一円を支配した北条氏は、1590年 秀吉との小田原合戦に敗れ、戦国期最大規模の城郭として発展した小田原城も徳川家康の支配下におかれた。江戸時代にはいると、普代の大久保氏、稲葉氏によって、石垣と水堀を中心とした近代的な城に姿を変えた。 小田原宿は江戸日本橋から数えて80kmあり、品川宿からかぞえて9番目の宿場になる。東は徒歩渡りの酒匂川、西には難所箱根峠をひかえ、小田原で宿泊する人が多かった。宿の中心は、宮前町と本町で、本陣、脇本陣、旅籠が集中していた。

しばらく行くと、御殿屋台が、置かれている。町にはしめ縄が張られて、お祭りムードが漂っている。少し行ったところに法被を着たお兄さんが座っていたので、聞いてみると、「この裏にある松原神社のお祭りで、寄っていって。」と言われた。裏にまわってみると神社があったが、境内は閑散としていた。(松原神社は小田原宿の総鎮守社。地区により浜下りが行われ、本社神輿は持ち回りで渡御される。以前は別々だったが、今は、五代祭り開催に合わせて行なわれ、5社{松原、大稲荷、山王、居神、下府中)が統合開催されるようになった。

大磯宿続きへ

だるま料理店という立派な建物がある。有形文化財に認定されている。だるま料理店は明治26年創業で、関東大震災で壊れ、大正15年に二代目が造ったもので、唐破風入母屋造りの建物です。正面玄関の脇に だるまさん おかめさん が飾られている。

乗り放題   2600円
熱海〜小田原 400円
大磯〜熱海   650円
計       3650円

大磯駅こちらの矢印を見て、今日はここから帰ることにした。2時30分頃、駅に着いた。電車が遅れていて、小田原、熱海、と乗り継いで藤枝に着いたのは、5時30分位でした。今日はお天気も良く、歩いている人が沢山いて、どの人が東海道ウオーカーなのか分からないほどでした。平塚くらいまで行く予定が、暑くて疲れてしまって大磯で終わりでした。

親木橋歩道橋を渡る。右には相模湾の海が見え、左には富士山が良く見える。

萬町の屋台が通った。なかでは、子供がお囃子を演奏している。

鍋町は、古くから鍋物屋、鋳掛屋、釜屋、屋根屋で賑わった職人に町であると書いてあった。

東海道にでた。本町交差点の南側に、「なりわい交流館」があるが、今日はお祭りだから開いていないのか、まだ開館前なのか閉まっていた。その先には、「明治天皇小田原行在所址の石碑が建っている。近衛文麿書となっていた。説明板によると、(明治天皇宮ノ前行在所址は、明治天皇が宿泊した清水金左衛門本陣があった場所である。明治天皇は明治元年から5回宿泊している。)

箱根宿へ

その先のフャミリーレストランの前にはひときわ立派な松がそびえていた。

山王川にかかる山王橋を渡り、国道を10分くらい歩く。この辺りはお寺が多く、鎌倉より数は多い。十字路を右折すると、新田義貞公首塚がある。説明板によると(建武中興の柱石であった新田義貞は、北陸を転戦中、1338年、越前国藤島で討ち死にし、足利尊氏によってその首級を晒された。小田原城主・大久保氏の祖先宇都宮泰藤は、主君の晒し首を奪い返し、領国三河に行き、妻子に別れを告げ、主君義貞の本国。上野国(群馬県)に首級を葬るため東海道を下った。酒匂川のほとり、ここ網一色村に来た時、病にたおれ、やむなくここに埋葬し、自身もここで没したと伝えられる。なお北方八幡神社に新田義貞の祠がある。)街道に戻り、左折し、国1の城東高校前交差点を直進するが、(高校の名前が変わっていた。)その先の酒匂川には橋がないので、交差点を右折し国1を歩き10分ほどで、酒匂川にかかる酒匂橋を渡る。なお、昔は十字路を直進し、酒匂川にいたり、徒歩渡りをしていたようだ。

橋の上から、相模湾を臨む。向こうには、バイパスが走っている。この橋の上で、カラスが車に向かってくるみのようなものを放り投げ、車に轢かせて、割らせているのを目撃した。成功するまで、何回も場所を変え、粘りつよく試し、成功していた。カラスの頭が良いのをみて驚きました。

次々とお神輿が通る。御祝儀を出した家の前で、謡い練り歩く。子供神輿も通ったが、子供の数が減っているのか、担ぎ手が少なく寂しかった。

本陣 4軒、脇本陣 4軒 旅籠 95軒

小田原宿

おだわら みちしるべ  山王口の道標が立っている。