興津~蒲原 H.24.01.14
野次さん喜多さんが迎えてくれる、「おもしろ宿場館」で桜海老丼を食べた。前もここで昼食をとった覚えがある。今日は土曜日のお昼時なのに、空いていた。海を見ながら桜海老を食べた。
朝 早くおきたのに、土日はバスの本数が少ないので、自転車で駅まで行って、自転車預かりに預けて、JRに乗った。興津には7時40分に着いた。 駅前に、興津宿の看板が出ていて、清見寺と富士山が描かれていた。
駅前に清見潟公園があるというので、行って見た。湾の向こうに港が見えた。公園はなんと言うことのない公園だった。
興津宿へ
JR 1470円
自転車 150円
1620円
しばらく歩くと、県道396号に合流し、東名高速の下をくぐり、八幡神社、津島神社、淡島神社を過ぎると、JR蒲原駅に着いた。まだ、1時にならないが、今日はここで、終わり、JRで藤枝まで帰った。
神沢川の手前の左手に「神沢川酒造がある。杉玉が吊るされ、煙突には「清酒正雪神沢川酒造場」と書かれていた。神沢川を渡ると、神沢塩つくりの会の看板があり、奥に塩造りの装置があった。このあたりは、江戸時代、塩を造っていた。
左側に、江戸から39番目の一里塚址がある。12時4分 夢舞台 東海道 由比の道標がある。
由比宿東枡型 宿の入り口は、枡型(かぎの手)に折れ曲がり、木戸が作られ、万一の時に備え治安維持と共に、宿の出入り口の道標になっていた。その右側には、昔の商家(志田氏邸)がある。志田氏邸は、家柄も古く、「こめや」を名乗り、入り口を入ると、帳場、箱階段など、が残っている。頼めば、見せてくれるのだろうか?
御七里役所址 江戸時代、西国の大名は江戸屋敷と領国の居城の間に七里飛脚という直属の通信機関を持っていた。ここは、紀州徳川家の御役所跡である。この裏手に、大正末期まで、御七里衆の長屋があった。
御幸亭と松ヒ園
本陣井戸 水は現在、物見塔に引き込まれ、徒渉池の流れの水になっている。
物見櫓
由比本陣
馬の水飲場
由比川にかかる由比川橋を渡る。渡る手前に右に入る細い道があり、こちらから見ると、道が川のところで、途切れ、松が1本立っていた。この橋が出来る前の東海道だろうか。
結いの常夜燈と書かれていた。
寺尾(昔の街道をみる)という看板が立ってる。(昔の家並みは、海沿いにあったが、たびたび、津波の被害を受け、天和3年(1682年)高台に新道を改め、東海道とした。現在の街道は当時のままの道幅、所々に格子戸、蔀戸の古い家々を見ることが出来る。)
間の宿 本陣跡 (川島家は江戸時代慶長から、230年間代々川島勘兵衛を名乗り、間の宿の貫目改所の中心をなし、大名も此処で、休憩したので、村では本陣と呼ばれ、西倉沢村の名主も勤めた名家である。
間の宿 脇本陣 柏屋 で明治天皇御小休所跡と書かれた看板がかかっていた。 このあたりは、峠を控えて「間の宿」が置かれていたところで、古い町並みが残っている。明治15,6年頃、柏屋に静岡県令の大迫貞清が療養のため、逗留された際、此処の気候風土が郷里の九州に似ていることから、田中枇杷の枇杷を取り寄せ栽培を薦め、当地に田中枇杷が普及することとなった。
その傍には、山岡鉄舟縁の「望嶽亭」があり、海に面した奥座敷には、山岡の置いていったピストルや、官軍から逃れるため漁師に変装して脱出した狭い旧階段が保存されているそうです。
9時19分 峠の駐車場に着いた。駐車場から右下の坂を下りていく。9時23分 夢舞台 東海道の道標がある。古い石柱が2本建っている。
刻々と変わる風景を見ながら、歩いていく。周りは、みかんや枇杷の樹が多い。このあたりは枇杷の産地で、昔、枇杷がなっている頃、来たことがある。ひとつひとつ袋をかけて、大切に生産している。
展望台があり、富士山が見えれば絶景なのだが、今日はうす曇で、見えない。案内板によると、歌川広重の「東海道五十三次」の中で、当時と同じ風景が望める唯一の場所である。と書かれていた。
牛蒡坂とかかれた石柱が建っている。そのむこうに、休憩所があり、峠の由来が書かれていた。
案内板がある休憩所に8時45分に着いた。ぱらぱらと小雨が降ってきた。薩埵峠は万葉の時代には岩城山と呼ばれていた。1185年、近くの海から地蔵菩薩の石像が引き揚げられ、山に祀った。峠へはお墓の中を突っ切って歩いていく。
地図のように、ガソリンスタンドの手前の細い道を入る。道なりに歩き、興津川にかかる浦安橋を渡り、踏切を渡ると「薩埵峠官道中道」の古い標識が立っていた。
しばらく歩いていくと、十字路に出る。峠は右折する。途中に往還坂という石柱があった。このあたりから、雨がパラパラしだした。
その先の興津中町東交差点は国道52号の起点で、「身延まで46km、甲府まで88km」と書いてあった。長野に山登りに行くとき良く通った道です。その横に薩埵峠への地図が書かれた看板がある。
坂をもっと上って行くと、3人のおじさんが旗を取り付けていた。白髭神社の小正月の支度をしている。と言っていた。階段を上って行くと、海が見えた。
山しず丸という小さな魚屋さんの前を通った時、おじさんが魚を「食べて」と差し出した。えなごと言って、小魚をフライパンで炒って、塩をまぶしたもので美味しかったので、1箱買い求めた。
8時50分に休憩所を出発し、8時54分に 夢舞台 東海道 に着いた。峠からは、下の道路がよく見える。富士山が見えるはずだが、今日は見えない。
しばらく、坂道を上ると、左側にお地蔵さんが祀られているお堂がある。海岸寺と書かれていて、傍の説明板によると(百体観世音は、観音山海岸寺に祀られ、かっては、海岸庵として阿弥陀如来を御祀りしていたが、火災によって焼失。昭和17年海岸庵を海岸寺にした。大正4年、5年の台風でこの部落は全滅したが、犠牲者が一人も出なかったことは、波除け如来、百体観世音のご利益ではないかと言い伝えられている。)
その先の左側に、宗像神社がある。参道を入っていくと、小学校があり、「津波の時は校舎の3階に避難してください。」と書いてあったが、このあたりは海に近く、海抜2~3mで、大きな津波が来たら防げない。「女体の森」と書いてあった。神社の周りの森のことをいう。祀られている神様が女神様だったため、このように言われた。その女神の名前から興津となった。宗像三神の一人が「興津比売命」だ。
由比本陣跡で、屋敷の広さは、1300坪もあった。大名が宿泊休憩した母屋は明治初年に解体された。奥には、現在「広重美術館」がある。以前見ているので、今日はパスした。
その横に脇本陣 饂飩屋がある。交替で脇本陣を勤めた家のひとつ。江戸時代後期から幕末まで勤めた。
右側に、明治の郵便局舎(平野邸)がある。江戸時代、由比宿では、今の由比薬局の位置で、朝日麟一氏によって、飛脚屋が営まれていた。明治4年の郵便制度により、由比郵便取り扱い役所になった。明治39年平野義命が局長になり、自宅に洋風の局舎を新築し、郵便局を移転した。昭和2年まで使用され、今は平野氏の私邸になっている。
その隣に 加宿問屋場跡がある。空き地になっている。此処は、加宿11ヶ村が共同で問屋場を設営した所。由比宿の場合は本宿と加宿は1ヶ月交替で負担を勤めた。
左側に脇本陣 羽根ノ屋がある。脇本陣を交替で務めた家が3軒あり、これはそのうちの1軒です。江尻宿 脇本陣羽根ノ屋の分家で、寛政5年に沸き本陣を願い出た。
橋を渡った所に、常夜燈があり、右に曲がると、入上(ゆりあげ)地蔵があり、そこから川岸に向かって道がある。この川岸は昔「仮板橋」があったところで、増水時にははずした簡易橋があった。此処は、今日から来ると由比宿西の入り口である。 細い道を行くと、直ぐに橋からの道と合流する。そこの右側の壁に由比宿西木戸の説明板がある。(由比宿の町並みは東西600m、宿場の西木戸がこの先の枡型(曲がり角)あたりだった。旧東海道はその枡型を左折して、坂道を下り、由比川の河原に出ると、仮の橋がかけられていて、それを渡った。雨で増水すると、取り外された。このように、徒歩でわたったので、徒歩(かち)渡りといった。
由比宿は、本陣 1軒 脇本陣 1軒 旅籠32軒あった。
若瀬川にかかる共進橋を渡り、右にせがい造りとくだり懸魚のある稲葉家がある。せがい造りとは、軒先を長く出した屋根を支えるため、平軒桁に腕木を付け足して、出軒とし垂木をおいたもの。 下り懸魚とは、平軒桁の両端が風雨による腐食を防ぐ装置で、雲版型の板に若菜、花鳥などを彫りこみ装飾もかねている。懸魚は掛川城の屋敷にも見られたことを思い出した。逆光でうまく撮れなかった。
豊積神社の手前の川にかかる橋の欄干に「お太鼓祭り」の絵が描かれていた。その先の神社の前に「お太鼓祭り」の由来が書かれた看板が立っていた。(桓武天皇が征夷大将軍 坂上田村麻呂に蝦夷征伐を命じた。将軍はその折、この神社に立ち寄り、戦勝を祈願した。帰途再び、社参し、戦勝祝いに奏上した神楽がお太鼓祭りの起源とされる。
由比太郎左衛門屋敷跡 今宿の加宿問屋場を握っていたのは、由比家で、由比一族が由比郷を支配していた。加宿問屋場は、由比宿の規模が小さく、伝馬制の馬と人足の困難だとして、今宿など11力村が人馬の負担を由比宿と交替で行なうという制度で、問屋場が二つあった得意な宿場であった。油井家は、塩を敵方の武田家にも売ることにできる「半手商売」で繁栄した。油井の海岸は田子の浦と呼ばれ、塩の生産地であった。
此処からは、東海道は、今宿六地蔵はどがある道に行くほうが本当の東海道なのだそうだが、駅の隣の公園の前に 夢舞台 東海道 今宿の道標を見てこっちでもいいかなと歩き始めた。
10分ほど歩くと、歩道橋に突き当たり、その橋を渡って、向こう側に下りると、由比の駅に着いた。駅の前の通りは、由比桜えび通りの看板と桜海老が描かれていた。まだ10時30分だったので、もう少し歩けそうだ。
右側に東海道あかりの博物館があり、そのむかいに小池邸がある。博物館は明治、大正時代からのあかりの歴史が展示してあるそうだ。小池家は代々名主の名家で、建物は明治時代の建立で、大戸、くぐり戸、ナマコ壁、石垣等に江戸時代の名主宅の面影を残している。
9時42分、坂道を下りてくると、右側に、夢舞台 東海道 倉沢の道標が、左側に、一里塚跡の石柱が建っている。倉沢は戦国時代、足利尊氏が、弟義直と合戦せ古戦場として知られ、また、東海道随一に難所 「親知らず、子知らず」の秘話が伝えられている。途中、散歩のおじさんに「富士山が見えなくて、残念だったね。」と言われたが、肉眼ではうっすら見えました。
明治33年竣工の清水銀行由比支店が右側にある。
街道に戻り、歩いていくと、左側に一里塚址があった。その先に、身延山道と刻まれた石碑が立っていた。裏のほうに、身延山入り口の道標があった。髭題目の石塔やら、常夜燈が並び立つ。ここから身延街道が分岐していた。今は、52号で行ける。