四丁河原歩道橋の所を左折し細い道に入る。護所神社を探したが、左手に堤が見えたので、曲がってみた。堤の上に通じる坂道があったので、上る。広大な堤と、堤に囲まれた公園(広場)が現れた。雁堤だった。堤を歩いていくと、お年寄りが数人日向ぼっこをしていた。「これが、雁堤ですか?」と聞くと、「昔は、この右の方を川が流れていて、私の家の庭を掘ると、河原の砂利が出てくるよ。」「何回もこわれ、やっと今の流れになったそうだ。」と教えてくれた。
A札の辻
@渡船場
堤を下りる途中に、護所神社と人柱供養塔がある。繰り返す富士川の洪水でしばしば欠潰流失の惨状を蒙るため、人柱を立てることにした。千人目の旅の僧が人柱になることになった。i以後、300余年の今日まで、護岸の欠潰がなく、神社を建て、その霊を祭った。
街道に戻って、歩き始める。問屋場跡がある。問屋場は幕府の荷物の取次ぎ、大名の参勤交代の際の馬や人足の世話、旅人の宿泊や荷物の運搬をしたところで、宿のほぼ中央にあたるこの場所に設置された。
美しい格子戸のある家(増田家)と言う看板がかかった家がある。まだ住んでいるようです。案内板によると、「格子戸は古くは平安時代に現れた建具で、伝統的な、日本建築工法です。かっては、街道沿いに格子戸の家並みが続き、主婦によって毎日磨かれた美しい木目がこの町独特の情緒ある風景でした。」
AM.9.15 蒲原駅に着いた。駅前には、蒲原の地図があった。駅前から、歩き始める。しばらく歩いていくと、左側に「秋葉山入り口」の石柱が立っていた。
シャッターに書かれた広重の蒲原
志田邸(志田家住宅主屋)は安政大地震後に建てられたこの町最古の建物で、元は醤油、味噌の醸造元であった。中には、その当時のものが展示されていて、ボランティアのおじさんが丁寧に解説してくれた。裏には、安政の大地震でも壊れなかったという味噌、醤油工場があり、そこは300円だった。「東海道町民生活歴史館」として、子供達の体験学習も行なわれているようです。
東海道「蒲原宿」の会と書かれた布の看板がかかった家がある。蒲原は、宿を保存し、復元し、守ろうとしている姿勢が、町並みから伝わってきます。
古郡氏三代の偉業を讃える碑がある。雁堤築造と加島神殿開発に尽くした古郡氏を讃える碑である。休憩所の壁に堤の出来る経緯や人柱のことが書かれていた。
富士川橋を渡る。遠くに東名高速の橋が見える。今日は水量が多かったが、いつもこんなに流れているのだろうか。これで、静岡県の安倍川、天竜川、富士川を渡ったことになる。水面を眺めながら、向こう岸に着いた。
道標をあとに、次の分岐を左に曲がる。その先の十字路を左折する。その先に秋葉常夜燈があった。この常夜燈は、火袋が金属でできている。その先に、富士川町役場があり、やがて左にカーブすると、岩淵一里塚があった。塚は左右に現存し、特に左の榎は江戸期のもので大きく立派だった。案内板によると、「江戸から37番目の一里塚で、この地は、岩淵村と中之郷村の村境で、岩淵名物の栗の粉餅を売る茶店が立ち並んでいた。東側の榎は昭和42年に枯死して、45年に二代目を植えた。」 今は冬で葉を落としているが、葉が茂ったらさぞ立派に見えることだろうと思った。夢舞台 東海道 岩淵 一里塚跡の道標があった。
跨橋を渡り終えると、左に歩き、坂を下っていく。しばらくすると、左に馬頭観音、そこから5分ほど歩くと、明治天皇御駐輦跡がある。 さらに、坂を下る。右に「秋葉常夜燈」のあるY字路を左に曲がり、新幹線のガードをくぐる。 左に宇多利神社の入り口、常夜燈を見て、分岐を右方向に行く。高速道路沿いを進み、野田山不動明王の大きな石碑のあるT字路を右折して、東名高速をくぐる。その先に 夢舞台 東海道 中之郷の道標がある。ベンチもあったので、ここで、先ほど買った「栗の粉餅」を食べた。(岩淵あたりの昔話に、孝行娘が親父に栗の粉をまぶした餅をたべさせたという話が残っている。。岩淵一里塚周辺に数軒あった茶店も大正時代には姿を消した。数年前にツル屋が復活させた。アンに栗を刻んだものを混ぜ、上に栗の粉がかかっている。
5分ほど歩くと、右に三階建て土蔵があり、敷地内に木屋神社があった。説明板によると、「渡邊家は江戸時代末期に、問屋職を務めた旧家で、材木を商っていたことから「木屋」という屋号で呼ばれていた。渡邊家土蔵(三階文庫)は四隅の柱が上に行くに連れて少しづつ狭まる四方具(四方転び)という耐震性に優れた技法で建築されている。棟札から、1838年に上棟したことが分かり、町内最古の土蔵である。」隣に「問屋 名主 利座衛門」の表札が出ていた。
9時46分、西木戸跡に来た。説明板によると、「元々、宿場は西木戸より南側の古屋敷と言う所に広がっていた。1699年の大津波により、壊滅的な被害をうけ、蒲原御殿があったとされるこの地に移動しました。この木戸のちかくに、青木の茶屋(茄子屋)があり、茄子屋の辻で乱闘が起こった。1652年、高松藩士大久保甚太夫らが、薩摩藩の大名行列と出会い、槍の穂先が相手の槍に触れたと口論になり、乱闘が始まった。70人あまりを倒したが、最後に追っ手に捕まり殺された。竜雲寺住職が墓地に埋葬し供養した。甚太夫の槍は、寺宝として保存されている。」
藤枝〜蒲原 820円
富士〜藤枝 950円
バス 320円
志田邸 300円
計 2390円
右側に道祖神の石があり、富士駅に続く商店街のアーケードに出た。今日は富士駅からJRで、藤枝に帰った。富士駅には2時に着いた。
金正寺、栄立寺付近をうろうろしていると、おじさんが、「この堀を撮ったか?」と聞いてきた。「このあたりは松永さんの家があった場所で、あそこもあそこも皆松永さんの地所で、この堀はお屋敷のあった場所の堀で、立派だろう。」聞いてもいないのにどんどんしゃべる。「あそこの寺の場所も寄付したんだ。あの石垣も屋敷の跡だよ。」帰ってきて調べると、松永家は平垣村の豪農で、大地主だった。金正寺に色々あるようなので、次回ここまで戻ってみてこようと思いました。
医院を出ると、高札場跡の前に人がいて、アンケートをとらせてください。といわれた。街道を歩いている人に声をかけているようです。良かったところとか、こうして欲しいとかの要望を聞かれました。蒲原については、まだ歩き始めたばかりなのであまり言えなかったが、古いものを保存していこうとする気持ちが伝わってきました。高札とは、徳川幕府の禁令や、定めなどを記した立て札のことで、辻札とも言われた。
堤を下りて、県道396号線に出る。(このあたりは、東海道を歩いているかどうか定かでない。)身延線のガードを通り、左にある天白神社の先にある分岐を右方向に入る。そこに渡船場と書かれた地図がある道標が立っている。@ここから加島の旧東海道にはいる。10分ほど歩くと札の辻に出る。Aここで旧東海道が富士川からの用水路にかかる橋を札の辻橋という。このあたりにかって平垣村の高札場があった。
(余談ですが、近所に「宇多利屋」という肉屋さんがあるが、どうしてこういう名前なんだろうと思っていた。この宇多利という神社に縁があるのかもしれません。)
坂の途中の民家の塀にかかっていた。「この峠道は、天保14年9月から212月にかけて普請し、同月7日から運行を開始した。旧往還はここより東南の崖上(七難坂)を辿った。」大きく新坂と書かれていた。
少し進むと、右側に蒲原一里塚がある。江戸から数えて38番目の一里塚だ。一里塚から程なく小さな橋を渡り、左折すると旧東海道に入る。これが、志田邸のおじさんが言っていた岩淵への道だった。結構な坂を上っていく。途中階段の上に馬頭観音が祀られていた。
諏訪神社を過ぎて、少し行くと「北条新三郎の墓」の案内があった。階段を上って行くと、墓があったが、質素な墓だった。この地に侵略してきた武田信玄との戦い敗れた蒲原城主である。新三郎は北条早雲の孫に当たる人。
軽金属の巨大な発電用水管を超えると、夢舞台 東海道 蒲原宿 東木戸の道標と常夜燈があるポケットパークがある。「江戸時代、宿場の入り口には、見付けや木戸と呼ばれるものがあった。木戸と木戸の間は、木戸内といい、東木戸は、わずかだが、枡形になっている。」
右側に、「商家の面影を残す塗り家作造り(吉田家)」がある。案内板によると「当家は、昭和まで続いた,僊菓堂と呼ばれた和菓子屋だった。玄関はナマコ壁の塗り家造りで、中に入ると柱がなく広々とした店の間造りになっている。」 左側には「なまこ壁と塗り家造りの家(佐藤家)」がある。「塗り家造りは土蔵壁に比べて壁の厚みは少ないが、防火効果が大きく、昔から贅沢普請と言われている。」
新蒲原駅右折のある十字路を右折し、「夜の雪碑」がある公園に行く。「蒲原夜之雪は」、「庄野の白雨」「亀山の雪晴」と共に役者(やくもの)と称され、中でも最高傑作をいわれている。
旅籠 和泉屋跡 当家は江戸時代和泉屋という上旅籠だった。天保年間の建物で、安政の大地震の時も倒壊を免れた。2階のくし型の手すりや、看板掛け、柱から突き出た腕木に上旅籠の面影を見ることが出来ます。今は、鈴木家とお休みどころの2軒に仕切られている。
本陣跡 本陣は、原則として、門、玄関、上段の間があるのが、一般の旅籠と違っていた。ここは、西本陣(平岡本陣)で、かってはここより200mほど東に東本陣(多芸本陣)があった。本陣の当主は名主、宿役人を兼務し、苗字帯刀を許されていた。
ふとお店を覗くと、(草谷家、脇本陣、木瓜屋)と書かれた常夜燈が店の中にあった。脇本陣のあったところだろうか?
手作りガラスと総欅の家(磯部家) 明治42年に建築された。欅を材とし、すべての柱,梁、一枚板の戸袋に至るまで、すべて欅造りです。2階のガラスはすべて手作りで、日本におけるガラスの生産開始は明治40年なので、国産か、輸入品か分からないが、当時最先端の建築用材だった。(このあたりには磯部さんという家が多い。)
御殿屋敷跡 かってこの辺りにあった御殿の跡です。織田信長を慰労するために、家康が建てた小規模なものだったが、秀忠、家光が東海道を往来するたびに拡張された。背後の山を「御殿山」、ここから下る道を「御殿道」と呼んでいます。1634年家光上洛以降は、蒲原御殿は使用されなくなった。
ガイドのおじさん
一里塚を過ぎ、「間の宿 岩淵」にはいった。5分ほどで、岩淵小休本陣がある。ここは、常盤家住宅主屋で、たいそう立派な屋敷で、安政東海地震にも倒れなかったと言い伝えられていたが、所蔵の文書から、地震で倒壊したため、安政3年以降に建造された江戸末期の建物だそうだ。 小休本陣とは、宿と宿の間にある宿で、主として通行の諸侯や身分のある諸家の休憩のみを目的にした施設。原則として宿泊は許可されませんでした。「立場本陣」とも呼ばれていた。
蒲原宿は本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠42軒だった。
筋向いには、旧五十嵐歯科医院の建物がある。外観は洋風だが、内部は和風で、すばらしい欄間や襖絵が残されている、擬洋風建築といわれる建物。今日は七草粥を作るそうで、かゆを煮ている香りが漂っていた。山に七草を摘みに行っているそうで、私が帰るとき摘み終わって帰ってきていた。 1階は住居、2階は診察室、技巧室、待合室などがあり、大きな窓から、陽の光が注いでいた。
金正寺の石垣
しばらく県道を道なりに歩く。左側に、明治天皇御小休所址の石柱があった。どこに行っても明治天皇の足跡がある。
渡り終えると、左側に、水神の森と、渡船場跡がある。境内には、富士山道の石碑も立っていた。案内板によると、「渡船は岩本村と岩淵村の間で、行なわれていた。東岸の渡船場は松岡地区の一番出しから上船居、中船居、下船居の三ヶ所があり、川瀬の状態により使い分け、そこから上、中、下の往環が通じていた。水神の森には、安全を祈願し水神社を祀った。古郡氏親子の巨大な雁堤は、ここから岩木山々裾にかけて構築されている。」
枡形を右、左と曲がり、急坂を下ると富士川の西岸に出た。道の反対側に 夢舞台 東海道 岩淵 渡船場跡の道標があった。他の方のHPには、渡船場跡の常夜燈があったが、下りていく道が違ったのかもしれない。このあたりは道が色々あって、旧東海道を歩いていないことも考えられるが、仕方がない。
坂を上りきった所で、東名高速の「新坂跨道橋」を渡る。天気の良い時は、ここから富士山が良く見えるらしいが、今日は、天気は良かったが、富士山付近に雲が多く見えなかった。私は藤枝なので、富士山は、毎日見ようと思えば見られるが、そうではない人たちは、見られないとがっかりするだろうな。と思った。
西木戸跡には、夢舞台 東海道 蒲原宿 西木戸の道標があった。木戸跡を左折し、突き当りを右折すれば、蒲原宿の中心部へ入っていく。蒲原宿は、東に富士川の渡河を控え、かなり繁盛していた。現在では、古い家並みもかなり残っていて、風情のあるところである。