東静岡〜興津    H.24.01.10

早朝6時8分のバスに乗り、JRで東静岡まで行き、静鉄長沼駅付近まで戻り、7時25分歩き始める。
応院というお寺の前に庚申塚とお地蔵さん祀られている。一里塚を見つけることが出来ず、居合わせたおばさんに聞くと、「公民館の所に何か建っているよ。」と教えてくれた。公民館と住宅に挟まれた電柱の影に長沼一里塚が立っていた。

地下道を出ると、右側に、旧東海道記念碑が建っている。傍の由来碑によると(東海道は、昔この辺りを通り、西は古庄へ、東は国吉田に通じていた。国道1号線が整備され、旧東海道と呼ばれるようになった。昭和37年、国鉄操車場の建設により、栗原の西側が分断され、栗原地区の東海道も姿を消すことになった。東海道と共に発展してきた栗原の歴史を後世に伝えたいとの願いをこめて、この記念碑を建設することにした。)

一里塚を過ぎると、長沼交差点で国道に合流する。左に古庄交番があり、その先の交差点を右に入る。曲がった直ぐのところに「兎餅跡地」の看板がある。(江戸時代 文化・文政の狂歌師 太田蜀山人の歌に詠まれた東海道名物)と書かれていた。駿河の三大うまいものの一つで、(安倍川餅、追分羊羹)こしあんの大福に焼印が押してあり、兎に見える。

明治維新により、参勤交代の恩恵を受けていた本陣、脇本陣は、制度崩壊により、多大な影響をこうむった。各宿場で、廃業が相次ぐ中、水口屋の主人 望月半十郎は古い暖簾に未練を残さず、街道を行き交う庶民を顧客相手に商売を切り替えた。やがて東海道線が開通し、興津駅ができると、風光明媚な海岸を愛でる海水浴客で賑わい、避暑地の名声を得る。水口屋に逗留した後藤象二郎をきっかけに、元老井上馨は別荘 長者荘を建て、井上を訪問する伊藤博文や山県有朋が宿泊した。

右側の門の中に、興津宿 脇本陣 水口屋跡 一碧楼水口屋址の二本の石柱が立っている。

左側に興津宿西本陣跡の石柱と、この写真のような常夜燈の模型が建っている。宿では、趣向を凝らした置物を置いたり、屋号の書いた板、暖簾などがあり、この宿では、あちこちにこの常夜燈が置いてあった。

12時 夢舞台 東海道 興津宿 の立派な石碑が建っている。興津宿は、東海道の難所を薩た峠を越えて、ほっとする宿場だった。

魚座荘から僅かに東の道の反対側に、東海屈指の清見寺がある。JRで分断されているが、こちら側には山門がる。白鳳時代創建の古い寺である。

興津宿は、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠34軒であった。東海道17番目の宿場で、親知らず子知らずの難所、薩た峠があり、西に向かう旅人は峠を越して、ほっとし、東に向かう旅人は、ここで旅支度を整え、峠の難所を越え、由比宿に入った。

清見寺の手前に石柱がある。(高山樗牛は清見潟の風景をこよなく愛し、明治33年秋、この地の三清館に仮遇して、清見寺の鐘声を聞いた。と刻まれていた。

5分ほどで、興津座魚荘に着く。この日は、連休の次の日ということで、お休みでした。明治の元老 西園寺公望(きんもち)が、風光明媚な清見潟に臨むこの地に別荘として建てたもので、当時の建物は明治村に移築され、国の登録文化財として公開されている。この建物は出来るだけ忠実に復元したもの。と書いてあった。入ったことないので、また来てみたいものです。

東光寺を過ぎ、旧東海道は延命地蔵尊の所を右方向にはいり、JR横砂踏切を渡る。2〜3分で、細い道を左折し、高架橋をくぐり、波多打橋を渡る。波多打橋を右に見て、直ぐ、次の分岐を直進する。

10時56分 右側の国道に合流する。その角に、細井の松原跡夢舞台 東海道 細井の松原の道標があった。細井の松原は(元禄16年には、全長360m、206本の松並木が両側にあった。太平洋戦争の時、松根油をとる為に、伐採された。現在の1本は平成4年に植えたもの。)と書かれていた。

旧街道は稚児橋を渡り、印章店の角を右折する。商店街が続き、10時28分 夢舞台 東海道 江尻宿の道標がある。右に鞄屋、左に注文服のお店がある交差点を左折する。その角に写真のような標識がある。江尻宿には、このような標識が立っていて、参考になった。

江尻宿

その先に追分道標があり、清水湊、久能山方面の分岐点で、「是より志ミづ道」と書かれている。ここを右折すれば清水湊に行く。また、道標横には「追分羊羹」の店がある。入ってお土産に一本買った。蒸羊羹で、普通の羊羹とは味が違う。包装に書いてあった由来によると(三代将軍家光の頃、府川の主が箱根の山中に旅に病める明の僧に出会い、介抱した。病いえた僧は小豆のあつものづくりの秘法を伝授したのが始まりである。)駿河三大うまいものの一つである。

その先に、遠州都田の吉兵衛の供養塔がある。清水次郎長が子分の森の石松のあだ討ちをしたところ。吉兵衛(都鳥一家)の供養をする人がいなく、哀れんだ土地の人が供養し、侠客の霊を慰めた。

金谷橋を渡る。橋に「追分と金谷橋の今昔」の案内板がはめ込まれていた。(昔から、このあたりは東海道と清水湊{志ミづ道}との分岐点であることから「追分」と呼ばれていた。往来の旅人は、土橋であった金谷橋を渡り、重い荷物を運搬する牛馬は、橋横の土手を下りて、渡川して土手に上がり街道に合流した。古来、牛道といわれた名残を今にとどめている東海道の史跡である)と書かれていた。9時31分 直ぐ傍に夢舞台 東海道 元追分 の道標があった。

この分岐を左方向に進み、JRと静鉄が並走する踏切を渡ると、右に追分の道標がある。この道標は今まで見てきた夢舞台の道標と違い、古かった。9時25分

しばらく歩くと、角に東海道の由来を書いた看板が立っている。(東海道と言う言葉は、崇神天皇10年、四道将軍として武淳川別を東海に派遣した日本書紀の記事に始まる。)と今までの東海道の歴史が書いてあった。その道の向こう側には、「久能寺観音堂道標」の石柱がある。(久能観音道は、ここ平川地から有度坂、今泉、船越、矢部、妙音寺、鉄舟寺{久能寺}にいたる有度山麓を通る道のことである。)

8時58分 左側に大きな狸と草薙一里塚の石柱があった。(草薙は江戸より43里番目の一里塚である。道を挟んで南塚があり、一対になっていた。塚の脇には、高札場があり、街道往来の旅人の休息場になっていた。このあたりは、一里山というが、一里塚が築かれたことによりこの地名になった。)と書かれていた。その先には8時59分 夢舞台 東海道 有度の道標がある。有度交差点を左方向に進む。

地下道を出て、左折し、県総合運動場駅を通過し、突き当りを右折する。信号機のある交差点を直進し、右にマンション、左書店角の三叉路を左折する。国道の裏にあたる静かな住宅街を歩く。空き地に「閻魔堂と閻魔坂」の案内板があった。(閻魔大王を御本尊とする閻魔寺があった。閻魔寺はその後廃寺になり、大王像は近くの鳳林寺に遷座され、その後、熊野神社の境内にある薬師堂に遷座された。閻魔堂の門前の坂を閻魔坂といい、傾斜が急であったため、落馬する人が絶えず、東海道の難所と言われた。参勤交代の大名であっても馬から下りて、通行した。)今では、緩やかな坂ではあるが、転がるほどではない。

叉、10分ほど歩くと、左に高札場跡、右に一里塚跡があった。高札場跡の看板には、(辻村の高札場は、西に向かって、右の一里塚前にあった。)とあり、一里塚跡の看板には、(辻の一里塚は江戸から42番目にあたり、道の両側に向かいあって存在した。)とあったが、紙に書いて画鋲で止めた、随分簡単なものであった。

10分ほど歩き、商店街の信号のある三叉路を左方向に行くと、巴川にかかる稚児橋がある。橋の四方にカッパの姿がある。由来によると、(慶応3年家康の命により、巴川に橋を架け、江尻橋と命名し、渡り初めの日に、老夫婦が渡ろうとすると、川の中から童子が現れて橋脚を登り、入り江方面に消えていった。このことから、橋名を稚児橋と名づけた。)

造園・園芸業の多い道を進み、東光寺を過ぎ、大きな道に出て、左折する。信号機のある草薙交差点を右折し、国道を歩く。右に草薙神社の大鳥居がある。横に「従是草薙大明神参道」の石柱がある。その前に立っていた交通整理のおじさんに、写真を撮りたいのでどいてもらった。「草薙神社の祭りにはリュウセイが上がるよ。」と教えてもらった。昔は1000mも参道がある大きな神社だったのだ。

ここから、5分ほど歩くと、8時1分 夢舞台 東海道 古庄の道標がある。その道を更に進み、線路沿いの側道に合流し、北村地下道に入る。細い道なのに車も通る道で、在来線と新幹線をくぐるので結構長い。

JR   1050円
バス   320円
計  1370円

由比宿

府中宿へ

しばらく公園で休憩し、歩き始めると「興津鯛」の看板がある。有名な興津の鯛かと思ったら、興津 鯛焼きだった。予約が入っていて跡15分くらい待たないと買えないといわれたので、諦めて歩き始めた。左折すると、興津の駅で、駅前の魚屋さんで鰯の干物を干していた。「まだ乾いていない。」とのことで諦めた。このあたりは、まだ、小さな魚屋さんが営業していて、今日は、ゴマのかかったアジ、サバの干物をゲットした。大変美味しかったです。12時30分だったが、JRで藤枝に帰った。

左に 興津宿 東本陣跡の石柱が建っている。少し歩くと、右側に興津宿公園があった。興津宿名前の由来は、宗像神社の祭神(興津島姫命)がここに住居を定めたことからと言われている。また、平安末期から興津家一族が住んでいたので、その名前からとも言われる。古代からの呼び名は、奥津、沖津とも言われていた。

本堂と五重石塔

傍示杭跡 清見関跡

興津宿

しばらく国道を歩くと、11時6分 夢舞台 東海道 袖師ヶ浦の道標がある。 また10分ほど行くと、一本の松が立っている。近づいてみると、幹に「東海道の松並木の松」と書かれていた。この先にもう1本残っているはずだが、見当たらなかった。

ここから10分ほど歩くと、「町の由来 鍛治町」の看板がある。{このあたりは、武田信玄が江尻城を築き、城下町として発展した。その後、大火により、鍛冶職、鋳物職を海岸近のこの地に移した。江尻宿には27戸の鍛冶職があり、その大半は鍛治町にあった。城や宿のある町には多くの鍛治町の名前が残されている。}

商店街に魚屋さんがあり、店先でアジの干物が干してあった。大きな扇風機で乾かしていた。醤油につけてゴマをまぶしてあり、おいしそうだったので、買い求めた。

10時11分 江尻宿木戸跡の石柱があった。町内にあった地図には吉兵衛の供養塔から江尻宿と書いてあったが。江尻宿は、本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠50軒だった。

上原(うわはら)子安観音の敷地に、保存樹木のまきの木がある。樹齢230年、樹高10m70cm、周囲(目どおり)2m20cmの立派な木だった。

山門