苧ヶ瀬~美江寺
H.29.6.10~11
早朝家を出て、東海道線で豊橋まで行き、名鉄犬山線で犬山へ、各務原線に乗り換え苧ヶ瀬駅に午前8時34分に着いた。新幹線を使わなくても、名鉄は快速が走っていて、3時間余りで目的地に着いた。先日の続きの街道に出て歩き始める。 山の前交差点で国道21号は高架になるが、街道は高架下の側道を歩く。左手に大きな「播隆上人碑」がある。濃尾震災で半分に折れ上半分が後ろの岩の上に固定されていた。この碑の所に「山の前の一里塚」があった。「旅人道中安全」と刻まれた碑は立っている。
播竜上人の名号碑
街道は斜めT字路になり左に進む。清水町2丁目交差点を右折しJR東海道本線ガードをくぐる。変則五差路を志門塾の筋に進む。清水町10丁目交差点を横断し、右に入っていくと「医王寺」がある。三面六臂の「馬頭観音」が安置されている。
左手に「中山道町並」の標柱がある。白壁の旧家を残している。旧本田村は東町,仲町、西町で構成され、河渡宿と美江寺宿の中間にあたり、間の宿的な立場だった。標柱の向かいには本田仲町の秋葉神社がある。
街道はT字路になり、右に進む。一本目の道を左に曲がると「神明神社」がある。今日も昼食を食べるところが無く、先ほどの大きな通りにあった「ホットモット」で買ったお弁当を境内で食べた。林に囲まれ涼しい風が吹いて気持ちよかった。生津の鎮守である。 街道に戻り、生津小学校を過ぎるとY字路になり左に進むと「馬場地蔵堂」がある。ここは「馬場の追分」で境内には昭和8年建立の道標がある。「右 合渡 加納ヲ経テ名古屋ニ至ル 左 本田 美江寺ヲ経テ京都ニ至ル」「右 高屋 北方ヲ経テ谷汲二至ル」墨俣との追分であった。
河渡2丁目交差点手前の右手に「河渡宿モニュメント」がある。この辺りが宿の西(京)口である。交差点を出ると枡形があり、旧柚木川(現天王川)を慶応橋で渡る。往時は徒歩渡しだった。橋を過ぎると、街道は真っ直ぐになり「生津縄手」と言われる。平安時代に「生津荘園」があった。現在は工場団地になっている。
河渡宿は長良川西岸の船着き場で、米、塩、木材の物資集積地として栄えたが、川止め以外は通過の旅人が多く鄙びた宿であった。本陣1軒(水谷治兵衛)脇本陣なし、問屋2軒(水谷久右衛門と八兵衛 )旅籠24軒であった。皇女和宮は本陣で休息している。
街道に戻り、鏡島小学校を過ぎると右手に鏡島村の神明神社がある。拝殿は寛政6年(1794)の建立で、昭和34年の伊勢湾台風で被害を受けている。祭神は天照大御神である。その隣には「善政院」があり、弘法大師霊場と書かれていた。
広重は旧領家村あたりから見えた加納城を右奥に、参勤交代の行列を手前に、松並木と宿場口の茶屋を中間に描いている。旅人が座って行列に頭を下げている姿も描かれている。
名鉄名古屋本線茶所踏切手前に「森邸」がある。この辺りに高札場があった。森邸は岐阜指定都市景観重要建物に指定されている。観光課にいたと言う方が私達を見ていろいろ説明をしてくれた。森家はこの辺りの地主であった。裏には大正天皇が岐阜連隊を視察したお立ち台が残っているというので見せてもらう。その付近にはそのおじさんの家があり飼育しているという「カナリヤ」を見せていただいた。赤い鳥は餌を工夫して赤くしているとのことで、良い声で鳴いていました。
街道に戻り、進むと右側に「浄慶寺」がある。天台宗であった文明18年(1486)親鸞聖人に帰依し、浄土真宗に改宗した。ウオーカーの叔父さん二人が休んでいた。その隣に「切通陣屋跡解説」がある。(切通村は境川北岸に位置し、岩戸南方一帯の滞溜水を境川に切り通した。切通は古来交通の要衝で、中山道が開通されるや手力雄神社前から浄慶寺付近まで立場として、茶屋、菓子屋、履物屋が設けられ、旅人の交通で賑わった。)
今尾医院はこの地を納めていた旗本坪内氏の御殿医であった。後ろに回りこむと立派な屋敷が残っていて、まだ住んでいるようだった。道を挟んで反対側には、今尾医院が改修下と書かれた「薬師如来堂」がある。現在まで医院として続いてきたということは、その子供たちのプレッシャーは大変なものだったろうと思う。
「新加納立場解説」があり、旧道を直進すると「今尾医院」の所に「高札場跡」碑がある。
境内には「ねずみ小僧治郎吉の碑」がある。(旅の若い娘が一夜の宿を求めたが、そこは悪人の家だった。居合わせた六十六部の僧がこれを懲らしめ、娘は難を逃れた。この僧が義賊の治郎吉であった。)また、「播竜上人お名号碑」もある。 (播竜上人は天明6年(1786)に富山県で生まれた。信仰心が篤く、浄土宗の僧となり、笠ヶ岳再興、槍ヶ岳開山と言う業績を残した。庶民の間に入って念仏を広めた。各務原市内には3基の名号碑が残っている。この名号碑が中山道沿いから移された。)
三柿野町交差点のY字路を右に進む。篠原六軒町に入ると、右側に「竹林寺」があり、その向かいに「六軒の一里塚」碑がある。江戸日本橋から103里目。この辺りが六軒茶屋の立場跡である。 その先の六軒公民館脇に「秋葉神社」が祀られている。サツキの花がきれいでした。その横には「地蔵祠」があり、花が供えられている。
川崎町次いで、三柿野町に入る。三柿野の地名は、往時の三滝新田、柿沢村、野村の各一字をとって明治7年に命名された。三柿野駅前交差点を過ぎると、国道は高架になり、街道は側道を進む。名鉄各務原線を高架橋で跨ぐ。右手は「川崎重工業」工場」の広い敷地で、新しい「川崎神社」も祀られていた。左手には「航空自衛隊岐阜基地」が広がっている。
碑の前を進み、跨線橋でJR高山本線を跨ぐ。国道に合流してひたすら国道を歩く。往時は鵜沼を出ると加納は一面の野原(各務原)であった。現在は交通量の多い国道が走っている。美濃の由来は各務、揖斐川上流の大野、大垣市の青野の三野をみのと言い、これが美濃に転じたといわれる。ニトリの前に二十軒バス停があり、この辺りに二十軒立場があった。「パスタデココ」というレストランがあり、有名な「あんかけスパゲッティ」の幟が立っている。
切通4丁目に入るとゑ比寿神社がある。家内安全、商売繁盛の神様です。すぐ右手には真宗寺がある。寺標には「親鸞聖人御𦾔跡」と刻まれている。
隣には長楽寺があり、境内の祠には「三面六臂の馬頭観音」が安置されている。寺の正面には「みなさんの長楽寺」と書かれていて、数人の人が掃除をしていた。 しばらく歩くと、右側に「地蔵祠」があり、地蔵像二体が安置されている。
土手下に階段で下りると、「馬頭観音堂」にでる。観音堂は荷駄賃人足が天保13年(1842)に銭100文づつ出し合って道中安全、五穀豊穣を祈願し愛染明王を祀るため六間四面のお堂を建立した。安置されている「愛染明王」は三面六臂で、地元では馬頭観音と呼ばれている。明治9年大洪水で本堂は流失し、明治24年の濃尾地震で倒壊した。現在のお堂は昭和59年の再建である。境内には地蔵堂もある。
多羅野(だらり)は名物だらり餅(あんころ餅)が評判の立場であった。すぐ先で県道77号岐阜環状線を鏡島(かがしま)大橋南交差点で横断する。
昔、松並木があった西坂を進み東海北陸自動車道の大門高架橋をくぐる。各務原市から岐阜市に入る。旧高田村にはいり、境川を高田橋で渡る。くねくねした道を歩いて行くとT字路の左側に「手力雄神社」の鳥居が現れる。先ほどの道に入るところがあったはずだが、分からなかった。
本庄小学校を過ぎ一本目を左に入ると八幡神社がある。祭神は応神天皇で、加賀の殿様の家臣であった氏子が加納藩に転勤した際に八幡社を勧進した。本庄町交差点を右折し一本目を左に入ると本庄町の神明神社がある。祭神は伊勢神宮内宮に祀られる天照大御神である。
樽見鉄道美江寺駅に着いた。15時52分に電車で帰ることにした。時間があるので、駅近くの瑞光寺に行く。美江寺宿本陣を勤めた山本家の菩提寺。芭蕉句碑がある。
この辺りは松並木跡で、戦時中松根油採取のため伐採されてしまった。今は広大な面積にビニールハウスが立ち並び「サボテン」の苗を作っている。
本田松原交差点の所に「大ケヤキ」がそびえている。五六川の手前に「春日神社」がある。春日大社から勧請した春日神を祀っている。昔の面影なく小さなお社がぽつんと立っている。五六川を五六橋で渡る。美江寺が56番目の宿場ということに由来する名前である。
その先の右手には「代官所跡」がある。(寛文10年(1670)野田三郎左衛門が初代幕府直轄代官に任ぜられ、この地に代官所(陣屋)を設けた。)後に川崎平右衛門定孝という名代官を迎えている。明和7年(1770)この地が大垣藩に預けられるまで続いた。本田西町には高札場があった。
観音堂前には「いこまい中山道河渡宿」と書かれた大燈籠モニュメントがある。街道はここを左に回りこみ道なりに進むが、勘違いで土手に出てしまい暫く土手道を歩いた。「グランドゴルフ場」や「ローラースケート場」が河原にある。しばらく歩いて間違いに気付き元に戻った。
土手道を歩き、河渡橋を渡る。長良川は大日ヶ岳に源を発し、流末は伊勢湾に注ぐ。往時は舟渡で、川幅は冠水時五十間(約90m)出水時には百五十間(約270m)、180mで川止めになった。 先ほどの「小紅の渡し」を探したが分からなかった。水上バイクで遊んでいる人たちがいた。
街道は直進し長良川の土手に突き当たる。旧道はここまでで、この先は道が消滅している。右にまわりこむと「鏡島湊跡」がある。(鏡島湊は長良川を利用し秀吉の政権以前から栄えていた。位置は岐阜町近くで分流した長良川が再び合流する地点のすぐ下流にあった。長良川と伊勢湾を結ぶ重要な要となっていた。)
鏡島バス停を右に入ると「北野神社」がある。学問の神様・菅原道真を祀っている。すぐ先で長良川の土手が見え、右に「南無地蔵尊」がある。前に屋根ができてしまっていた。壁に「鏡島湊」についての張り紙がしてある。
この寺に来る途中「小紅の渡し」の看板があり矢印が書いてあったので行って見た。土手を上るとすぐあると思ったが、その先にも河原が広がり、随分遠くのようなのであきらめた。(古くから乙津寺への経路として約1km下流の河渡の渡しと共に栄えていた。現在では県道文殊茶屋新田線の一部となっている。)今でも交通位手段として運航しているようで、張り紙には「向こう岸に船がある時は手を挙げて呼んで下さい。観光船ではありません。」と書かれていた。
天平10年(738)海に浮かぶ乙津島であったこの地に行基が十一面千手観音像を彫り草庵に安置したのが始まり。弘仁4年(813)弘法大師がこの地で三十七日間の祈祷を行い、宝鏡を龍神に向けると、海はたちまち桑畑になり、以来この地は鏡島(かがしま)と呼ばれた。翌年七堂伽藍を建立し、乙津寺が創建された。伽藍は空襲で焼失した。境内には「弘法大師の枝」がある。弘法大師がここに差し立てた梅の錫杖が芽吹きながら聖なる力を持つ霊梅となった。梅寺の由来である。乙津寺は京都の東寺、川崎大師と並び日本三躰厄除弘法大師のひとつである。
すぐ先に「瑞甲山乙津寺」「鏡島弘法梅寺」と刻まれた寺標がある。右に入ると正面に「倉稲魂稲荷神社がある。乙津寺の鬼門鎮守の神として鎮座している。稲荷神社の手前を右折すると鏡島弘法乙津寺(おっしんじ)別名梅寺ともいわれている。
鏡島前川南交差点を過ぎると、街道右手に論田(ろんた)川が並走する。木曽川水系長良川支流の一級河川である。T字路に突き当たる。鏡島追分で、中仙道と岐阜道の追分で、これを左折する。
街道に戻り、先の斜めT字路を左に進む。県道92号線を鹿島町8西交差点で渡る。右側に天満神社がある。境内には秋葉神社、八幡神社、天満神社が祀られている。夫婦イチョウが植えられている。大正11年三社合祀記念に植えられ推定樹齢は80年である。
岐阜本庄郵便局の筋向いには黒板塀に囲まれた「秋葉神社」が祀られている。その先の少しは行ったところに「加納の一里塚」跡がある。江戸日本橋より106里目。大正元年の暴風雨で崩壊してしまった。その先にシャッターの下りた薬局があり、張り紙が(大正12年からご愛顧を賜り有難うございました。)
加納本町9丁目交差点を横断すると南本庄一条通りに入る。一本目を左に入ると西厳寺がある。本堂は寺とは思えない近代的な建物である。境内には親鸞聖人御𦾔跡碑がある。高くそびえる外階段は五重塔のつもりですかねと想像しながら参拝した。 その先には阿賀多神社がある。祭神は仁徳天皇で応仁年中(1467~69)の勧進である。幼童の守護神として近郷の信仰が篤かった。
左側に「西番所跡」がある。加納口宿の京(西)口である。街道を少し入ったところに「黒木神明神社」がある。後ろに公民館がありそこに三浦さんと言う方が書いた覚書がある。(この黒木神明神社は加納の旧家の持ち物で、約400年前からここに鎮座していた。そのころは境内も広かったが区画整理が進み狭くなった。区画整理の際にたくさんの蛇が命を失い、工事の監督をした方が病でなくなり、白竜稲荷大神を祀った。)
そこから右に折れてしばらく歩くと「妙泉寺」がある。鏡岩のぶたれ坊が鬼子母神堂に安置されているというが、朝早かったため、まだ門が開いていなかった。
左手に西方寺がある。川端康成の「篝火」に登場する寺。康成の初恋の女性が当寺の養女であった。右側に加納本町七丁目の秋葉神社が祀られている。
JR岐阜駅前の加納栄町通りに出る。ここが加納宿の起点である。通りの反対側には加納本町の「秋葉神社」が祀られている。門がしっかりしまっている。
大場小児科の手前を右に入ると、信浄寺がある。境内には芭蕉句碑がある。新撰組隊士加々爪勝太郎の墓がある。元美濃加納藩士で、鳥羽伏見の戦いに参戦し、江戸帰還後公用鎮撫隊として出陣し、勝沼の戦いで討ち死にしている。。
街道に戻ると、「脇本陣跡碑」がある。小林家が勤めた。碑の脇にはヤマボウシが白い花を咲かせていた。
午前7時にホテルを出発する。JR岐阜駅前を通って加納天満宮の隣にある「久運寺」に行く。城主より「お茶壺道中」の本陣を命じられたが、権威の横暴に反抗し拒否した住職は追放されてしまった。「ずいずいずころばし」の歌は茶壺道中のことを歌った歌で道中を恐れた歌であると前に聞いたことがある。「お茶壺道中ゆかりの寺」と書かれていた。
午後5時になったので、今日の宿に電話し場所を聞いた。名鉄岐阜駅を柳瀬方面に5分程ということで、ホテルに着いた。10階のレストランで「ひつまぶし」をいただいた。
その隣には加納脇本陣跡」がある。延享2年(1745)より森孫作が勤めた。脇本陣の角を右に曲がると「加納天満宮」がある。祭神は菅原道真。文安2年(1445)沓井城(旧加納城 1536廃城)の守護神として勧請された古社である。慶長5年(1600)に現在地に移された。戦災で唯一焼け残った拝殿は文化7年(1810)の創建である。名産の加納傘は加納城主となった松平丹波の守が播州明石から連れて来た傘職人が始まりという。
右手に「当分本陣跡」がある。幕末になると、参勤交代が大幅に緩和され、江戸詰めの大名の妻子が一斉に国元に帰ったため、本陣がひっ迫して当分の間臨時に本陣が設置された。加納宿では、宮田五左衛門、三宅佐兵衛が当分本陣を勤めた。「明治天皇小休所」でもあった。
左手に鰻の「二文字屋」さんがある。元和6年(1620)創業の旧旅籠跡である。宿賃代わりに彫刻したという左甚五郎作「月夜に河原で餅を搗くウサギ」の欄間があるという。火事の際に欄間の河原から水が噴き出したという話が残っている。
六つ目の枡形を右折する。十字路に架かる歩道橋の所に「加納城大手門跡碑」がある。直進すれば加納城に至る。歩道橋の手前を右折すると「旧加納町役場跡」がある筈だったが空き地になっている。大正15年に造られた歴史的建造物ということだったがどうやら取り壊されたようです。説明板だけが残っていました。
清水川に架かる広橋を渡る手前を右に入ると、「延命地蔵菩薩」の幟がはためき、次いで、「南無薬師瑠璃光如来」の幟がはためく「水薬師」がある。慶長17年(1612)清水川で泳いでいた伊三郎と言う若者が黄金の薬師像を拾い光国寺に奉納した。藩主奥平忠政は浮見堂を建て薬師像を安置した。 広橋を渡ると加納天神町に入る。渡詰めに「高札場」があった。
次いで右側に「岐阜問屋跡」がある。これは宿場の問屋とは違い、岐阜の名産である尾張藩が幕府に献上する鮎鮨の継立をしており、御用提燈を許されていた。太田薬局の前を左折する。五つ目の枡形である。ここには道標がある。「左中仙道右ぎふ道」と刻まれていたが、明治初年に「左西京道 右東京道」が追加された。 鮎鮨は岐阜の御鮨所を出発し、岐阜問屋を経て、ぶたれ坊から鮎鮨街道に入り笠松問屋まで継立された。
加納新町にはいると左手に専福寺がある。山門脇には「親鸞聖人御𦾔趾碑」がある。当寺には戦国時代の文書が多く残され、信長や秀吉の朱印状、池田輝政制礼状の三通は岐阜市重要文化財に指定されている。 その反対側には加納新町の秋葉神社があり、ここも厳重に門が閉められている。
「中山道加納宿」の案内標柱がある。(この辺りは加納宿の中でも最も鈎型に曲がりくねった所である。河渡宿方面は大通りを横切り、鵜沼宿方面は善徳寺前を直進し、安良町をへて加納宿東口の八幡町に続きます。)と書かれていた。 右手の奥に柳町秋葉三尺坊がある。
県道1号岐阜南濃線を横断し加納町に入る。突き当り手前を左折する。三つ目の枡形である。枡形の右手に「中山道加納宿東番所跡碑」がある。加納宿に入りました。善徳寺の前を右折する。四つ目の枡形である。鎌倉時代前期に親鸞聖人の教化を受けた寺院である。
橋を渡り、左折する角に「谷汲道標」がある。明治18年の建立で、「右岐阜谷汲 左西京」と刻まれている。谷汲は西国三十三か所観音霊場の満願寺の谷汲山である。その横には加納新町の「秋葉神社」がある。ここもしっかりと戸締りをしてあった。
だんごやを右折して加納大橋を渡ったが、戻って「加納八幡神社」に向かう。加納城の鬼門除けと守護神として遷座したもの。付近の下水の蓋には「中山道 御鮨街道」と書かれていた。
茶屋薬局横には「鏡岩の碑」がある。力士鏡岩は素行の悪さを改心しここに妙寿寺を建立し等身大の木造像(ぶたれ坊)を造り旅人に叩いてもらって罪滅ぼしをした。現在は廃寺になり、ぶたれ坊は伏見町の妙泉寺に移設された。薬局の横の道は御鮨街道で、長良川でとれた鮎のなれ鮨を将軍家に献上するための主要路であった。
加納宿の宿長は二十一町半(約2,4km)と長く、美濃16宿中最大の宿場で、長良川の湊町、城下町として栄えた。熱田(名古屋)への御鮨街道追分を控え大いに賑った。本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠35軒であった。宿並は戦災により焼失し、道幅のみが往時のまま残った。
踏切を渡ると、「中山道加納宿碑」が立っている。
長屋門のある旧家があり、しばらく進むと右手に「秋葉神社」がある。鵜沼宿から加納宿までの間にはこの規模に秋葉神社が沢山ありました。街道沿いの村々は火事に悩まされたのではないでしょうか。
旧領家村に入ると、Y字路があり伊勢道追分で、街道は右に進む。延命地蔵堂と明治9年建立の道標「左伊勢名護屋ちかみち 右西京加納」がある。その先には八幡宮があり、拝殿の工事中だった。境内には標石{御日陰の松」がある。大正天皇が行幸の際に松の日陰で休息をしたという。
その先に「細畑の一里塚」がある。両塚が復元されている。江戸日本橋より105里目。南塚の後ろには秋葉神社と稲荷神社が祀られている。
「明治水」と書かれた庵看板を掲げた旧家もある。調べたが、何を商っていた店か分からなかった。
右側に誓賢寺があり、その先の左側の細畑バス停の所に秋葉神社があり、傍らに火の見櫓がある。国道156号バイパスを横断すると長森細野に入る。旧家の家並みを残している。
切通3丁目に入ると、伊豆神社がある。道に面して「三面六臂の馬頭観音」が祀られている。傍らの道標には「右江戸ミチ 左京ミチ」と刻まれている。伊豆神社の由緒によると(祭神は大山祇神(おおやまずみのかみ)の娘・石長姫命(いしながひめのみこと)で、生命は岩のようにゆるぎないようにと健康長寿を司る神である。手力雄神社の祭神天手力雄命(おおあまのてじからおのみこと)が男の神であり、この神をいさめるために往時の長森細畑字長石あたりに鎮座していたのを当地に遷したという。)
その先の→に沿って細道に入ると「切通陣屋跡」「切通観音」がある。加納藩主安藤信成が移封後もこの地を領し、陣屋を設け、幕末までこの地を治めた。
手力雄神社は、貞観2年(860)の創建で天の岩戸を開いた手力雄命を祀っている。信長の崇敬篤く、ゆかりの「弓掛桜」「的場桜」がある。雨乞い神社の火祭りで知られている。拝殿は新しくきれいだった。
旧家が残る
その奥には「少林寺」がある。この地を治めた坪内利定が再建し菩提寺とした。屋根には逆立ちをした獅子が乗っている。
隣には「玉春稲荷大明神」が祀られている。稲荷堂は各務原市指定重要文化財に指定されている。
奥には「善休院」があり、尾張藩徳川家が各務原の狩りの際に、宿所とした。「葵の紋」が許されていて、あちこちに紋がついていた。
街道正面が枡形になっている。新加納立場(間の宿)跡である。宿内には尾張屋、美濃谷、梅村屋があり、梅原屋は茶屋本陣であった。枡形手前が茶屋本陣跡で、皇女和宮がここで休息した。疝気の妙薬が評判であった。その先に「新加納の1里塚」がある。江戸日本橋より104里目。
狛蛙
左手に「中山道標石」があり、右手の奥に「日吉神社」がある。狛犬ならぬ「狛蛙」があり、往時は境内に瓢箪池があり多数のガマ蛙が生息していた。4月には「かえろ祭り」が行われる。現在は神社の森に多数の鳥が住み着き、大声で鳴き、フンを落とし、羽毛が舞っているというありさまになっている。拝殿脇で休んで持ってきたパンやお菓子を食べ、昼食とした。
新加納交差点を右に入る。「中山道間の宿新加納」の道標が立っている。鵜沼から加納までは四里十町(約17km)と長いため、新加納村に立場が設けられた。
右手に「栄町秋葉神社」がある。石積の上に小社が祀られている。これからも何回も見るが、どんな小さな社にも必ず門がついていて、がっちり守られてる。その先には「西那加稲荷神社」があり、ここの社もしっかり守られている。
街道に戻り、新境川を那加橋でわたる。ここは美濃、尾張の国境であった。両岸が桜の名所となっている。歌舞伎役者・市川団十郎が寄進したもの。
ねずみ小僧治郎吉の碑
那加信長町、那加桜町に入るとと立派な「各務原市役所」がある。その先に「各務原市民公園」がある。旧岐阜大学の敷地跡で、園内には立派な古木が保存されている。公園を突っ切って、名鉄市民公園前駅を渡り、細い側道を歩いて行くと、「神明神社」がある。
名鉄六軒駅入り口に村社「神明神社」がある。参道入り口には「三面六臂の馬頭観音」が祀られ、幟がはためいている。四方が厳重に囲われ中に入るのに苦労した。
三ツ池町交差点を地下道でくぐり、反対側に出ると、「神明神社」がある。境内には「拝殿基石」が残されている。明治35年に再建された舞台形式の拝殿は、昭和34年の伊勢湾台風で境内の樹木が倒れ倒壊してしまった。
樽見鉄道は大垣から樽見まで34.5kmを走っている。駅数は19駅で、美江寺から大垣まで310円だった。整理券をとらなかったが、何も言われなかった。予想よりたくさんの乗客が乗っていた。
糸貫川を糸貫橋で渡ると左手に「本田(ほんでん)地蔵堂がある。文化6年(1809)建立の南無延命地蔵尊が安置されている。その先の右手には秋葉神社がある。門がしっかり閉まっている。
川を渡り、階段を下りて、橋に下を通り左側の土手に出る。暫く土手道を歩くと「小社」が祀られてる。ここが「河渡の渡し跡」である。(渡しの権利は河渡側にあり、二艘の渡し舟が常備され、渡し賃は1人6文、荷が18文、武士は無賃であった。)
(松杉を ほめてや風の かほる音)
久しぶりに「双体道祖神」を見た。