H.29.5.27~28

御嵩~苧ヶ瀬

早朝家を出て、東海道線で浜松まで、新幹線に乗り換え名古屋に着いた。名鉄で犬山に行くつもりが、名古屋本線に乗ってしまい、岐阜に着いた。(駅員に聞いたのに)犬山方面行の電車に乗り、犬山で乗り換え、新可児で広見線に乗り30分遅れで、御嵩駅に着いた。先日は月曜日で、「みたけ館」がお休みだったので、改めて見学する。発見された多数のキリシタン遺物が展示されているのを見たかった。

その先の住宅の前に「旧太田代官屋敷跡地」と書かれた石碑が置かれている。

右手に「勝山神明神社御跡地之碑」がある。この辺りはかって三角強飯が名物の立場があった。現在はあったと思われるコンビニや食べ物屋さんが廃業していた。岩屋観音駐車場に参道口がある。巖屋坂を上ると、木曽川の景観が望める。坂を上りつめると、岩屋の中に岩屋観世音菩薩が安置されている。この観音様は推古天皇の時代に勧請されたものと言われている。

その先の右側に「福田本陣跡」がある。その規模は間口21間(約37.8m)奥行き22間(約39.6m)建坪227坪で、庄屋も兼務していた。現在残されている本陣門(藥医門)は文久3年(1861)皇女和宮降嫁のさいに新築された。3年後天狗党の竹田耕雲斎はここ本陣で饗応を受けている。

その先に、鵜沼西交流館があり、その先の右側に「丹羽家住宅」がある。旅籠を営み、大坂屋を名乗っていた。現在の建物は昭和25年の建築で、二階の天井が高い。大工は当時の当主であり、梅田家離れや宇留摩庵を手掛けている。平成に入り、屋根を直しているが、構造や内装は当時のまゝ残している。

ガイドさんが屋敷の中を案内してくれた。上段の間、襖絵、庭園、土間、風呂、雪隠など。建物の外観の資料は残されていないので、櫻井家古立図面、太田宿脇本陣林家などを参考に復元した。

右側の廃業したレストランの所で桜洞橋を渡る。先の廃業したカフェの駐車場から階段を下り、トンネルで国道21号、JR高山線をくぐる。トンネルを抜けると「うとう坂」の山道になる。当初の中山道は木曽川に沿ってあったが、この先の鵜沼までが急傾斜で危ないので慶安4年(1651)うとう坂越えのうとう坂が開削された。うとう坂は長坂、天王坂、賽の神坂の総称である。

祐泉寺の所が「上町の枡形」で、この辺りが土田の渡し跡で、祐泉寺の山門は宿並に背を向け木曽川に向いている。右側には「十六銀行旧太田支店跡」がある。明治40年の建築で、鬼瓦には「」の文字が残されている。

広重は今渡の渡し場風景を描いている。画中の筏は尾張藩領の木曽ヒノキを熱田湊まで運んでいる。太田宿は慶長15年(1610)大久保長安から太田渡船頭屋敷安堵状により船頭8人の屋敷が保証された。 太田宿は、飛騨街道、郡上街道の分岐にあたり、おおいに賑わった。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠20軒で尾張藩領であった。

木曽川を太田橋で渡る。橋を渡ると可児市から美濃加茂市に入る。渡り詰を横断し、土手道に入る。今渡の渡しの対岸は太田の渡しである。河川敷は「化石の森」になっている。平成6年に川床から大規模な珪化木群が発見され公園として整備された。(森林が埋没し根幹が化石となった。平成6年に400本余り発見)

弘法堂の階段を下りると「今渡の渡し場跡」がある。この渡しは「木曽のかけはし 太田の渡し うすい峠がなくばよい」と言われた中山道三大難所の一つだった。明治になると、両岸間に鉄索を張り、それに船を滑車で繋ぎ、川の流れを利用して船を進める岡田式渡船となった。太田橋の先には今渡ダムの堰が見える。

富士浅間神社前を右折すると太田橋になるが、直進し、今渡の渡し場跡の向かう。坂を下りていくと「弘法堂」があり、階段から木曽川が望める。可児の名水「錦江水」が湧き出ている。飲めるようだが、遠慮した。

喫茶陣家駐車場辺りが問屋場跡である。野口家が勤め、東町庄屋を兼ね、安政5年以降は脇本陣も勤めた。その先の大安寺川を大安寺大橋で渡ると西町に入る。

鵜沼中山道交差点の手前に復元された「高札場」があある。本来は東木戸を入った右手にあった。左手には「是より東尾州」と刻まれた「尾州領傍示石」がある。これは鵜沼村(尾張藩領)と各務村(天領)の村境に立っていた。

石仏石塔群(文化6年建立の南観世音菩薩や六十六部廻国供養搭)の先には赤坂神社がある。往時は天王社と称していた。寛永12年(1635)の遷座。

ちょうどお昼時であるが、今日も食事をするところが無い。涼しい風に吹かれながら、ここで一休みし、持っているパンやお菓子をボソボソ食べた。 一部石段になっている坂を下ると、国道21号線に出る。右に入る旧道があり、桜並木の遊歩道になっている。すぐに旧道は終了し車の通りが多い国道を歩く。

行幸公園」があり、「行幸巌」碑がある。対岸に迫る鳩吹山の景はライン下り第一の佳景と言われる。昭和天皇から今上陛下までここを訪れた方々のお名前が記されていた。

本来の旧道は加茂川の渡り詰めから斜め右に進んでいたが、今は消滅している。一色大橋に突き当たったら右折し国道21号線にでて、左折する。酒倉交差点を過ぎると「パジェロ生誕の地」と書かれた三菱の工場に沿って歩く。四谷川を跨ぐと左側に「一里塚址」標柱がある。江戸より99里目の塚である。

木曽川の土手道に入るところに「深田神社」がある。左手には木曽川の流れが広がる。

突き当りから木曽川沿いに出てもどると「川並番所跡」がある。尾張藩は木曽川の舟運を監視し、舟荷物改め、抜荷取り締まりを行った。川沿いから中山道会館に入り、見学した。

その先の左側には「林脇本陣跡」の立派なお屋敷がある。大田村庄屋、尾張藩勘定所を兼ねた。播隆上人はここで亡くなり、板垣退助は投宿した翌日岐阜で暗殺された。

その隣には「祐泉寺」がある。瀧場観音は宿の大火でも焼失を免れ、「火伏観音」と呼ばれる。境内には芭蕉の句碑坪内逍遥の歌碑北原白秋の歌碑がある。 「春なれや なもなき山の 朝がすみ」貞享2年(1685)二月堂参篭のために伊賀から奈良へ向かう途中に吟じた。

すぐ先に新町木戸跡標柱がある。太田宿の江戸口(東)で木戸番が詰めていた。写真屋さんを右折し、美濃大田駅に向かう。15分歩き今日の宿「美濃加茂ステーションホテル」に入った。 今日は、最初の電車が遅れたり、道を間違ったり、宿も違うホテルに間違えて入ったり、いろいろあったが、なんとかここまでたどり着いた。それにしても、駅前はホテルと居酒屋ばかりで、夕食をとるのに苦労した。

その先の右側に「中山道太田宿」モニュメントがある。「右御嵩伏見三里 左太田宿脇本陣三丁」と刻まれている。向かいには「南無妙法蓮華経」と書かれた髭題目碑がある。傍の解説版には(法華経塚は、埋葬地の入り口に建てられた石碑)とあった。

左側に「神明水神公園」があり、休憩所やトイレがある。川の方に下りると、「御嶽神社」「水神社」などと刻まれた石碑が5基並んでいる。

神社の先で左に入る道があり、間違えて入ってしまった。街道は左にカーブしながら国道21号に合流する。途中で間違えに気付き、ガソリンスタンドのおじさんに道を聞いて、中恵土交差点まで戻った。地下道の脇に「恵土の一里塚」碑がある。是より30m東と刻まれている。江戸から97里目の一里塚である。

先の右手に弘法堂があり、境内には「四国巡礼碑」や「新四国第八十六番札所碑」がある。その先に「上恵土神社」がある。二番目の鳥居には「神明神社」「白山神社」とある。先ほどの小さなおかず屋さんで買った「棒葉鮨」を食べた。近くにあったら便利なお店だと思った。

左手に正岡子規の句碑すげ笠の 生国名のれ ほととぎす」と刻まれた碑がある。子規は伏見に一泊し、新村湊から川舟で木曽川を下った。すぐ先の上恵土交差点には大正4年建立の道標「右 太田渡ヲ経テ岐阜市ニ至ル約4里」「左 多治見及犬山ニ至ル約4里」がある。

御嵩町伏見公民館の前に。「伏見宿本陣之碑」がある。本陣は代々岡田与治右衛門が勤めた。嘉永元年(1848)に大火で焼失し、再建されることなく明治維新を迎えた。本陣の碑の隣には「是よ里東尾州領」と刻まれた「領界碑」(傍示杭)がある。脇本陣は代々岡田与兵衛が勤めた。

伏見宿

広重の「御嶽」が描かれたドアを開いて中に入る。日本最古の象が闊歩した1800万年前から、古代には「東山道」平安歌人「和泉式部」の伝説、「中山道」と宿場町の隆盛、禁断の信仰「キリシタン」の遺物など。御嶽宿の歴史と文化を感じる。

加納宿へ

鵜沼宿を後にしてひたすら歩き、鵜沼羽場町に入ると「津島神社」がある。鳥居奥が拝殿で、村芝居が上映された皆楽座は回り舞台になっている。客席を持たない舞台のみの農村舞台で、むしろを敷いて客席とした。明治24年の濃尾震災で倒壊し、明治32年に再建された。

その先の右側に「愛宕神社常夜燈」がある。街道は鵜沼羽場町交差点で国道21号線に吸収される。おがせ町交差点左手角に「三面六臂の馬頭観音」が祠の中に祀られている。

その先には弘法大師像を安置した八木山弘法堂があり、境内には石仏石塔が並んでいる。その先の空安寺の手前には「衣装塚古墳」がある。墳丘は直径52m、高さは7mあり、円墳としては県下最大の古墳である。古墳に上ると上には石搭石仏が並んでいた。

その先には、元禄11年(1698)建立の南観世音菩薩や馬頭観音が祀られている。石段を上ると農業用水のため池、翠池があり、ハスの葉が出ていたが花はまだ咲いていなかった。そこに「西見附跡」がある。鵜沼宿の西木戸跡で、西口(京口)である。

伊木山通り交差点を渡ると、左手に「中山道鵜沼宿碑」がある。交差点の右手には常夜燈、狛犬を配した小さな社がある。

隣は梅田昭二住宅である。主屋は本家に次いで古く、明治元年の建物である。離れは明治25年濃尾震災の翌年の建物である。木造2階建ての切妻造りで、正面中央に入り口を設け、左に鉄格子、右に木格子を入れる。

次が茗荷屋(梅田吉道家住宅)で旧旅籠である。現在の建物は160年前に建てられて、濃尾震災にも耐えたとされている。鵜沼宿で唯一江戸時代の貴重な建物である。主屋は袖うだつを上げ、窓には縦格子を入れている。梅田家は信長の家臣から土着した。

神社の向かい左手に旧家が4棟軒を連ねている。手前は「坂井家住宅(丸一屋)である。明治27年の建築で、中仙道に向かって門を構え、塀を廻らせている。主屋は玄関を入った正面に切妻造りの破風を付け、式台玄関を設ける格式高い造りである。

脇本陣の隣には、風呂場を案内された時。「危険が迫った時は崖を上って神社に逃げます。」と言っていた二ノ宮神社がある。石段を上っていくと、左手に横穴式石室を残す円墳の上に村社が鎮座している。上に上がると、石室の石の頭が出ていた。

向かい側には、「菊川酒蔵」がある。創業明治4年。銘酒「美濃地酒篝火」の蔵元。

その隣には、復元された坂井脇本陣がある。貞享2年(1685)野ざらし紀行道中の松尾芭蕉は鵜沼を訪れ脇本陣に滞在している。その後貞享5年7月にに再び訪れ「汲溜の水泡たつや 蝉の声」同年8月に再度訪れ、菊花酒のもてなしを受け、主人の求めに応じ、楠の化石に即興の句を彫った。「ふく志るも 喰へば喰せよきく乃酒」 その後、木曽路を経て信濃への更科行に旅立った芭蕉は「おくられつ 送りつ栗は 木曽の秋」と詠み美濃の俳人達との別れを惜しんだ。関ヶ原の戦いで戦死した大谷吉継の三男が脇本陣の家祖である。

その隣には「桜井本陣跡」がある。遺構はない。問屋、庄屋を兼ねた。皇女和宮はここで昼食をとっている伊能忠敬等、測量隊もここに宿泊している。。隣接して「南無妙法蓮華経」題目碑がある。

左側に「旧大垣城鉄門」が移築されている。大垣城本丸の表門である。明治9年に払い下げられた。 右手には、「鵜沼宿町屋館」がある。絹屋という屋号で旅籠を営み、明治初めから30年代まで郵便局を営んでいた旧武藤家住宅である。主屋は濃尾震災で倒壊しその後再築された。

宿並を進むと、左からの道を吸収する。この分岐に道標が立っている。「ここは中山道鵜沼宿 これよりうとう峠」と刻まれている。交差点を横断すると常夜燈がある。

鵜沼宿は、慶安4年(1651)うとう峠が開削され、新設された宿場。古代から東山道が置かれ交通の要衝であった。明治24年の濃尾大地震で壊滅的な被害をうけた。本陣1軒、脇本陣一軒、旅籠25軒であった。

鵜沼宿

栄泉は木曽川左岸の段丘上に見える犬山城と、木曽川を挟んで鵜沼宿を描いている。最初に犬山城を築いたのは織田信康(信長の叔父)で、信康は齊藤道三の美濃稲葉山城攻め(加納口の戦い)で戦死した。

Y字路を右に進むと、「赤坂の地蔵堂」がある。宝暦13年(1763)建立の地蔵には、「右ハさいしょみち 左ハせんこうし」と刻まれ道標を兼ねていた。このお地蔵さんは三度交通事故に遭っているが、祠が壊れてもお地蔵さんだけは無事だったそうです。地蔵堂の前が鵜沼宿東見付跡

合戸(がっこ)池に沿って進む。江戸時代は農業用水だったが、現在は雨水調整池になっている。子供たちが池の鯉に向かってパンをちぎって投げていた。突き当りを左折して、天王坂を下る。眼下に鵜沼宿が見て来た。道には「中仙道鵜沼宿遠望」の写真がある。犬山城が見えるというが、見つけられなかった。

右側に「日本ライン鵜沼の森」碑があり、向かいには「6もりの本やさん」がある。ここは図書館だった。

うとう坂を上りつめると左側に「小田原宿喜右衛門菩提碑」がある。この峠で盗賊に襲われ殺された。鵜沼の村役人が建てた菩提碑で、「うぬまへ拾六丁 太田へ壱里廿丁」と刻まれ道標も兼ねている。その先に「うとう峠の一里塚」がある。北塚を残している。江戸より百里目の一里塚である。南塚は太平洋戦争中に航空隊の兵舎建設のため壊された。

水のたまった砂防ダムを過ぎるとうとう坂は石畳道になる。ダムにはアヤメ(ショウブ?)が咲いている。

勝山交差点手前の土手道に「水神・庚申塔」が祀られている。この辺りが勝山湊跡である。ここで土手道は終わり、国道21号線に出る。勝山交差点手前の右手に「勝山道標」がある。「右江戸善光寺 左せきかじ」と刻まれている。此の交差点を右に進むと、刀匠関孫六で有名な関に至る。

土手道に戻ると正面の城山(265m)にある猿啄(さるばみ)城址が見える。城主多治見修理は齊藤道三と通じ、織田信長の前に落城、信長はこの地を勝山と命名した。

土手道を下りると「宝積寺」がある。この地には桃太郎伝説があり、木曽川下流の対岸には桃太郎神社がある。取組の地名は桃太郎が鬼と取組し退治した所、宝積寺は桃太郎が宝物を積んで帰って来たところと伝わっている。取組の交差点手前に石仏が2体祀られている。地蔵菩薩と観音菩薩である。

「難読町村名 坂祝(さかほぎ)」の看板が目につく。坂祝の地名は式内社・坂祝神社に由来する。先に進むと、坂祝町取組歩道橋を左折して木曽川の土手道に入る。土手道は「ロマンティック街道」と命名され、遊歩道になっている。

木曽川に沿って歩くと右側に「兼松嘨風句碑」がある。承応3年(1654)深田村に生まれ、美濃を代表する俳人である。

右手に太田小学校がある。「尾張藩太田代官所跡」である。(現太田小学校、中津川から鵜沼までの中山道と木曽川に沿った尾張藩5万石を支配した。ここには役宅があり、坪内逍遥の父は代官手代であった。)左手に坪内逍遥ゆかりの妙見堂があり、日蓮宗太田教会の看板が出ていた。

弥勒寺跡まで戻り、国道41号線高架をくぐり、左折すると「虚空蔵堂」がある。この辺りが大井戸の渡し跡で、太田宿の西口である。承久の乱大井戸古戦場で、鎌倉時代に後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げたが敗れた。この虚空蔵堂辺りに上皇率いる朝廷軍が布陣し、鎌倉幕府軍が撃破した。虚空蔵堂の裏には、坪内逍遥ゆかりの「ムクノキ」がある。大正8年、夫婦そろってこの地を訪れ、ムクノキの根元で記念撮影をした。逍遥61歳だった。

その先の角に「高札場跡」があり、道の反対側には「郡上街道追分道標」がある。この道標は名古屋の塩問屋伊藤萬蔵が建立したもので、「右関上有知道、左西京伊勢道」と刻まれている。ここは西の枡形で、その先には秋葉神社と庚申堂が祀られている。突き当りが弥勒寺跡で、脇本陣で亡くなった播隆上人は当初、ここに埋葬されたが、廃寺になると、祐泉寺に移された。

隣には「太田宿中山道会館」がある。小松屋案内所のおじさんが9時からと言っていたので、先に進むが、実際は9時前に見学できた。

その先には「御代桜酒蔵」の大きな建物がある。宿場時代には茶屋と酒の販売をなりわいとしていた。明治26年旧本陣の福田家から酒蔵権を譲り受けた老舗蔵元である。

辰巳屋

永楽屋

案内所のおじさんが「魚徳」の鮎の甘露煮が太田の名物だからと連れていってくれた。昭和20年の創業のお店で、甘露煮を買い求めた。太田宿は「蜂屋柿」と呼ばれる干し柿も名物で、「美濃吊るし柿」とも呼ばれる。

左側には「旧旅籠小松屋」がある。江戸時代末期の町屋建築で、現在は「太田宿案内所」として内部を公開している。

左側の太田稲荷神社の境内には「播隆上人」「志賀重昴」の墓碑がある。播隆上人は文政11年(1828)に槍ヶ岳を初登頂し、山頂に厨子を設置し、阿弥陀如来、観世音菩薩、文殊菩薩の三尊像を安置した。享保11年(1840)この地でその生涯を閉じた。木曽川の風景を「日本ライン」と命名した志賀重昴(しげたか)の墓もある。 槍ヶ岳に登った時、上人が修行したとされる石窟があり、その穴に入っていくと山頂に出ると騙されたことを思い出した。播隆上人の墓は他にも4ヶ所ある。

15分歩いて、街道に戻る。御前7時50分に歩き始める。右手に古い家があり「小生(旧和島骨董店」は天保6年の生まれです。同輩者には 井上馨 松方正義 坂本龍馬 天保時代は天保の改革 天保飢饉 大塩平八郎の乱など政局混迷)と書かれた看板がかかっている。

駅前に「坪内逍遥」の銅像があるというので、駅前に向かう。逍遥は太田宿の生まれで、父は尾張藩士で、太田代官所の手代を勤めた。明治維新と共に名古屋の笹島村に戻った。

2日目

太田宿

柏木ポンプ場を右に降りる。ここは太田宿の東の枡形で、坂を降り切ったら突き当りの神明堂交差点を左折する。交差点の東の分岐点には追分道標がある。「左 飛騨高山 右 東京善光寺」とあり、飛騨高山道と善光寺道の追分である。

土手道を進むと、土手下の文化会館の所に「古井の一里塚跡」標柱がある。江戸より98里目の一里塚である。その先には「岡本一平終焉の地碑」がある。漫画家一平は岡本太郎の父である。

道を挟んで向かい側に「渡し場公園」があり、黒い御影石の渡し場跡碑が立っている。鎌倉時代には下流の土田に渡し場があり、大井戸の渡しと呼ばれ、江戸時代に入ると土田の渡しと呼ばれた。その後木曽川の流れが変わり、天明以後は今渡の渡し場に変更され、土田宿は廃止になった。

住吉交差点を過ぎると右手に今渡神社の鳥居が見える。旧今渡村の鎮守住吉神社、八幡神社、神明神社の三社を合祀し、今渡神社となった。旧今渡村には、立場が置かれ、渡しを控え大いに賑わった。今渡公民館南交差点を過ぎると、右手に「龍洞寺」がある。境内には「龍の枕石」がある。この地に住み着いた雌雄の龍神の寝枕であったといわれている。

愛知用水を大東橋で跨ぎ、公設市場交差点を右折する。加茂公設地方卸売市場をやり過ごし、JR太多線を中仙道踏切で渡る。この辺りに「辞世塚」や「開運北辰妙見大菩薩碑」があるが見つけられなかった

宿場を出ると、右手に常夜燈や小さなが祀られている。街道は伏見西坂の下りになり、右手に「南無阿弥陀仏」と刻まれた碑がある。槍ヶ岳を開山した浄土宗の播隆上人が建立した名号碑である。

伏見交差点の所には、休憩所があり道標「右 御嶽 左 兼山 八百津」がある。齊藤道三の養子正義が築いた兼山城に通じる。 左側には「旧旅籠 三吉屋」がある。生薬「感応丸」を商っていた。文政7年(1824)駱駝の見世物興行師が病になり逗留し、一目見ようと近隣近在の村人が集まった。

伏見宿は木曽川の新村湊を控え、荷の集積場として賑わい、「太田の渡し」が川止めになると旅人であふれた。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠29軒であった。 広重は、伏見宿として犬山街道の中恵土にあった伏見大杉を描いている。右の三味線を持つ三人ずれは(ごぜ)で、御嶽宿の願興寺はごぜ達に屋敷を与えて手厚く保護した。大杉は昭和9年に室戸台風で倒れてしまった。

変則十字路を左折する。中山道道標がある。その先で、旧道は国道21号線に吸収される。そこには、道標があり「左伏見宿、右御嵩宿」と刻まれている。

中華料理店を右に入ると、「比衣一里塚」の標石がある。江戸より96里目である。その先には御嵩町指定名木の「柿の木」があり、花をたくさんつけていた。新道の475号線を袈道橋でくぐる。

9:59の電車に間に合わず、30分辺りをふらふらして、また広見線に乗り、顔戸で下りる。可児川を顔戸橋で渡り、今日の街道歩きが10時50分に始まる。

御嶽宿本陣野呂家には慶長7年2月14日付けの「御嶽宿伝馬掟朱印状」が届けられている。

前回は閉まっていた「商家竹屋」が開いていた。「竹屋資料館」と名付けらている。明治10年頃の建築とされるが、江戸時代の様式を色濃く残す。竹屋は本陣野呂家の分家が営業していた。主屋と茶室が御嵩町有形文化財になっている。

茶室

御嶽宿へ

四軒目が旧旅籠若竹屋(安田家住宅)である。主屋は昭和5年の建築だが、木造2階建ての切妻造りで1,2階に格子を入れている。軒の高さや表構えを周囲に揃え、中山道の宿並を今に伝えている。

志賀重昴

播隆上人

水車が廻る米屋さんを過ぎると「中山道太田宿→」と刻まれた標石がある。

高倉口交差点を過ぎたら、可児警察署伏見駐在所」を斜め右に入る。「高倉山古墳」があるというので古墳を探して随分奥まで歩いてしまった。向こうから来た人に聞いて、間違いに気付き引き返す。国道から1本目の道を左折する。「大柳跡」も見つけられないまま、国道に出る。この辺りが伏見宿の江戸口である。)

3時43分に「苧ヶ瀬(おがせ)駅」に着いた。各務原線に乗り、犬山で乗り換え名古屋に出て、新幹線、東海道線を乗り継いで藤枝に帰った。

1日目はアクシデントが相次ぎ、どうなることかと思ったが、2日目は何とか歩き切れた。日差しは強かったが風がさわやかで、歩きやすかった。次回は夏になるので、暫くお休みになるかもしれないです。