その先の右側に「法忍寺」がある。十九池の竜女伝説のお椀が保管されている。(街道の南にある十九(つづら)池に住む竜女が美女に化け、民家に椀を借りに来たという。ところが返された椀が生臭かったという伝説がある。)ENEOSの裏に「與市の宮」がある。源平時代の関ヶ原の郷士関ヶ原與市を祀っている。`2匹の犬にほえられながらお参りし、街道に戻ると、街道筋の民家の庭に「関ヶ原與市之邸跡」碑があった。
美江寺~柏原
左に若宮神社社標が立っている。。大友皇子を祀っている。坂を上ると分岐に「大谷吉隆(吉継)墓7丁」道標がある。その奥に箭崎地蔵堂がある。明治11年に坂を開削した際に出土した地蔵と弘文天皇陵にあった地蔵を合わせて安置した。その右には「矢尻の池」がある。壬申の乱の時、大友皇子の兵士が矢尻で掘った井戸跡である。
H.29.9.30~10.01
「日本歴史街道 関ヶ原」の標柱があり左に、「六部地蔵」がある。(宝暦11年(1761)この地でなくなった諸国行脚の六部を供養したもの。痛みのひどい時に御利益があり「六部地蔵 歯痛なおりて 礼参り」と大事にされている。
始発の電車に乗り、豊橋で快速に乗り換え、大垣に着いた。カラフルな電車の樽見鉄道に乗り換える。前回の続きの「美江寺」駅に着いた。AM.9:00に歩き始める。
東公門交差点の所に「関ヶ原酒造」がある。ずっと後まで続く大きな酒造である。明治32年の創業で、「たまり醤油」は宮内庁御用達。
桝屋旅館の手前を右に入ると「毘沙門天がある。(宿場時代総社八幡社の境内に町の守護仏として毘沙門仏を安置したが、明治2年の神仏分離令でここに移された。)
美江寺宿は、小宿で、大雨の度に長良川の逆水にみまわれ、街道は浸水し、宿としての評判は悪く、幕末にはガラの悪い宿として恐れられていた。本陣は1軒、旅籠は11軒だった。幕府領(大垣藩預かり)であった。
先ほど分岐した道に合流すると左手に「弘文天皇御陵候補地150m」「自害峰三本杉150m」標識がある。壬申の乱で敗れた大友皇子は大津の山前で自害した。東軍の将・村国男依は皇子の首を不破の野上に持ち帰り、天武天皇の首実検の後、丘陵に埋葬した。この目印が自害峰の三本杉である。明治3年大友皇子に弘文天皇の称号が追号され、この地は弘文天皇御陵候補地になった。
右側に「若宮八幡宮」があり、石段がずっと上に伸びている。本殿は東海道線を越した山の中腹にある。本殿のさらに上が「大谷吉継陣地跡」でお墓もある。食事場所ないので、関ヶ原のコンビニで買ったおむすびを食べ、休んだ。その先に「ここは中山道間の宿山中」標柱があり、「高札場跡」があった。、
街道に戻り進むと、左手に「大神宮常夜燈」がある。この辺りが関ヶ原宿の西口であった。さらに進むと、右手に「西首塚」がある。関ヶ原合戦の戦死者数千人の首級を葬った塚で、大木の裏には胴塚があり、五輪塔が並んでいる。
街道沿いに「桝屋旅館」がある。永長元年(1096)創業の老舗旅館である。ガイドブックにものっているが、営業してるように見えなかった。その先に「相川脇本陣跡」があり、門を残している。門前には「至道無難禅師生誕地」碑がある。(禅師は慶長8年(1603)相川家に生まれ、愚堂国師の弟子の門下となった。日本橋白木屋元祖木村彦太郎とは従兄弟の間柄で、彦太郎の精神的糧は禅師によるものである。)
旧道が国道21号線に吸収される一ツ軒交差点の手前、国道の右に「徳川家康初陣跡」があり、国道のこちら側から旗が立っているのが見える。桃配山は、壬申の乱の際に大海人皇子がここに布陣し、兵に桃を配り勝利をえた、家康はこの故事にならって最初の布陣を行った。
街道は国道21号線を日守西交差点で横断する。左手の関ヶ原バイパスの新設により旧道は一部消滅している。右手に「中山道 垂井宿」の看板があり、しばらく行くと「これより中山道 関ヶ原」標柱がある。関ヶ原バイパスを跨ぐと旧道が復活する。
古い建物が良く残っている。この辺りに「問屋場跡」がある。金岩弥一右衛門が代々勤め庄屋を兼ねた。相川の人足渡しの手配も行った。
AM.7時45分歩き始めた。少し歩いたところで、紙屋塚を見落として、戻り、迷いながら「紙屋塚」にたどり着く。ここの紙屋は府中に置かれた国府に和紙を納めていた。美濃和紙発祥の地である。
追分東交差点を過ぎ、昼飯交差点を過ぎると、右側に「喜久一九稲荷神社」があり、境内には日露戦争時、敵艦に命中した砲弾が奉納されている。そのむこうに「地蔵堂」がある。その後ろには「馬頭観音堂」があり、これらは「垂井宿」の宿口にあり、悪霊の侵入を見張っている。
街道に戻ると、向かい側の空地にに「旧圓願寺跡」がある。(平治の乱で源氏が敗れると、鞍馬山に隠れ住む牛若丸が吉次に伴われ奥州平泉に向かう際、この圓願寺で休息し、杖代わりに芦を地面にさして さしおくも 形見となれや後の世に 源氏栄えて芦竹(よしたけ)となれと詠み、出立した。すると芦が芽吹いて、杖に葉が茂り、これを芦竹と呼びこの寺を「芦竹庵」と呼ぶようになった。) 奥の方には五輪塔が並んでいる。「小篠竹の塚」と呼ばれ、照手姫の墓と伝わっている。
街道筋には「小糠山古墳を保存する会」の看板が出ている。その先には「延長寺」が右手にある。(山門は青野城の表門を移築したもの。天正元年(1681)春日局の子稲葉正次の子正休(まさやす)は12000石の大名となり、青野城の城主となった。)とあるが、中にはいっていくと、山門の解体修理中であった。
杭瀬川を赤坂大橋で渡る。手前に「杭瀬川の蛍」碑がある。ここには我が国最大のゲンジボタルが生息している。
その先の右側に「八幡神社」がある。境内では村人が祭礼の準備をしていた。芭蕉句碑がある。芭蕉は元禄元年(1689)奥の細道結びの地・大垣へ、伊吹山を左手に見ながら北国脇往還を歩き、大垣の門人・高岡斜嶺の句会で詠んだ句である。 「其のままよ 月もたのまし 伊吹の山」
柏原宿は古くから東山道の宿駅として発展し、建久元年(1190)源頼朝が初上洛の際宿陣した。江戸時代は伊吹山から産出するよもぎを原料にした艾(もぐさ)が宿場名物だった。本陣1軒、脇本陣1軒、問屋6軒、旅籠22軒であった。
先の右手に地蔵祠があり、ここを右に入ると「常盤御前墓」がある。常盤御前は鞍馬山から東国に向かった牛若丸を案じ、乳母の千草と後を追うが、山中の宿で土賊に殺された。常盤御前は死ぬ間際に「牛若丸がそのうちきっとこの道を通って都に上がるはず、その折に是非道端から見守りたい。」と言い残し、宿の主人に形見の品を手渡し、息を引き取った。宿の主人は念願がかなうように街道脇に塚を築き、手厚く葬った。 芭蕉句碑 「義朝の 心に似たり 秋の風 」
関ヶ原宿は伊吹山地と鈴鹿山系が迫る狭隘の地で、軍事上の要衝であった。北国脇往還の追分を控え、問屋場は8軒置かれ、美濃16宿中加納宿に次ぐ規模を誇った。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠33軒だった。
花の手入れをしている婦人がいたので、酔芙蓉の花を褒めると「栃餅があるから、食べていって。」と言われた。お言葉に甘えて御馳走になり、お礼を言って歩き出すと、栗をお土産に下さった。家に帰って、小さな栗は茹で、大きな栗は栗ご飯にして頂きました。
野上は東山道時代の宿駅で、「遊女の里」と呼ばれ、後に「間の宿」となった。
茶屋の隣が「垂井の一里塚」で、南塚をほぼ完全に残している。江戸日本橋より112番目の一里塚。関ヶ原の戦いで、浅野幸長はこの一里塚あたりに布陣し、南宮山の毛利秀元ら西軍に備えた。茶屋を案内してくれたおじさんが「この辺りに鹿がでて庭木の葉を食べる。」と言っていたが塚を一周すると鹿のフンが落ちていた。
本龍寺からおおきく右に曲がり前川橋の手前が垂井宿の「西見付跡」で愛宕神社が祀られている。広重は垂井宿として「西見付」を描いている。八尺地蔵尊道標がある。前川に沿って左に200mほど行くと「八尺地蔵尊」がある。前川橋を渡るとT字路に突き当たり、左に進む。
垂井宿は東海道宮宿に通じる脇往還美濃路との追分を控え、交通の要衝として栄え、中仙道で唯一大八車の使用が許可された。毎月五と九の日に南宮神社鳥居付近で六斎市が開かれ、大いに賑った。本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠27軒、大垣藩預かりの幕府領だった。
右手に「如来寺」があり、参道口には善光寺分身如来と刻まれたお百度石がある。本尊は信州善光寺の三尊仏の尊影を模刻したもの。「如来寺の由来」「昼飯町の由来」「三尊仏について」の説明板が沢山立っている。
赤坂宿は杭瀬川の舟運や谷汲街道、伊勢に通じる養老街道を控え、大いに賑った。本陣は1軒、脇本陣1軒、旅籠17軒、大垣藩領であった。
隣には「馬淵家長屋門」がある。呂久の渡しで船年寄を勤めた馬淵家のもので、船頭8人、助務7人を抱えていた。門脇には「明治天皇御小休所跡碑」がある。
角の左には「即心院」がある。参道口にはお地蔵さまを安置した地蔵堂がある。その先の右手には「蓮生寺」がある。境内には「秩父宮妃殿下御休憩所跡碑」がある。昭和51年皇女和宮百年祭に臨席しました。
「船場ヲ経テ太田町」と刻まれた道標が建っている。(瑞穂市市内の民家で家の建て替えに伴い発見された。50年ほど前にこの家の家主が道路工事現場から運んできた土砂に紛れ込んでいたらしい。)
「大月浄水公園」の中に入る。両側には美濃16宿の名前が刻まれている。車道に出ると「旧中山道」と刻まれた標石が二つ立っている。この間が旧道位置である。
その隣に「神明神社」の鳥居がある。柏原の氏神総社である。鳥居脇に、旧東山道の道筋を残している。残念ながらその先は消滅している。
馬淵家と観音堂間は枡形状に進む。地蔵堂と観音堂の奥に「小簾紅園」がある。呂久の渡し場跡で、皇女和宮の歌碑が立っている。 皇女和宮は大垣藩の用意した御座船で渡河し、その際に、対岸の馬淵家の紅葉を見て一首詠んでいる。 おちていく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ 昭和4年、皇女和宮の遺徳を偲んで、この呂久の渡しの地に「小簾紅園」が造られた。
美江寺大門裏の信号機の所に「美江寺の一里塚跡」標石がある。江戸日本橋より108里目である。その向こうに「自然居士の墓」標石がある。自然居士(じねんこじ)は和泉国(大阪府)日根郡自然田村の生まれで,臨済宗南禅寺大明国師に師事した奇行遊行の禅僧だった。
「東薬師」の先の角を右折すると「柏原駅」がある。通り過ぎてまた戻って来た。16時15分の大垣行に乗り、豊橋、浜松と乗り継いで20時10分に藤枝駅に着いた。今回は、つるやのおかみさんに「吊るし雛」をいただいたり、街道筋の婦人に栗をいただき温かい人情に触れました。秋の気配のする街道歩きでした。
砂走川を渡ると枡形になり、「東見付け跡」が柏原宿の江戸口である。その先に「竜宝院跡」がある。大きな山燈籠が建っている。
「ベンガラの町・今須」と書かれていたが、この宿に入ってベンガラが塗られた家が残っている。
右側に「照手姫笠掛地蔵」がある。(小栗判官助重は落命の危機にあったが、照手姫が路傍の地蔵に笠を懸け、一心に祈ると全快した。)
野瀬踏切を渡ると、左側に「柏原宿碑」がある。
右側に「中山道碑」がある。「→寝物語の里 長久寺 ←江戸後期大和軍郡山嶺」 その先に「長比城跡上り口」がある。長比(たけくらべ)城は姉川合戦の緒戦が行われた。本戦である姉川の戦いは9日後に始まった。
緩い坂を上り、旧長久寺村を出ると、「楓並木」がある。明治になって植栽されたもので、往時は松並木であった。並木を進むと、右側に「弘法大師御侘水碑」がある。
長久寺村は美濃側5軒、近江側25軒の集落で、美濃側は美濃なまりで金が流通し、近江側は近江なまりで銀が流通していた。 のどかな旧長久村を進むと、右側に「春日神社」がある。
その先で、細い溝を横断する。この1尺5寸(約50cm)の小溝が「美濃(岐阜県)」と「近江(滋賀県」の国境(県境)である。「寝物語の里碑」がある。美濃側に両国屋、近江側にかめやという旅籠が溝を挟んで並んでいたので、隣同士が二階で寝そべりながら、互いに国境越に話ができたことから「寝物語の里」と言われるようにあった。
先に進み、国道21号線を今須交差点で渡り、東海道線を車返踏切で渡る。大塚関ヶ原工場先の右手に芭蕉句碑がある。 正月も 美濃と近江や 閏月
年暮れぬ 笠着て草履 はきながら
(南北朝の頃、二条良基と言う公家が、不破の関が荒れ果て板疵から漏れる月の光が面白いと聞いて、都から牛車でやって来た。この坂を上る途中で、屋根が直されたと聞いて、「葺き替えて 月こそもらぬ板疵 とく住みあらせ 不破の関守」と詠んで、都へ車を引き返してしまった。)
信号交差点の手前に山燈籠がある。街道は右に大きく曲がり、西今須バス停の所から左に入る草道の上り坂がある。この坂が「車返しの坂」である。草道に入ると石柱「車返地蔵尊」があり、奥に「車返地蔵尊」が祠に安置されている。
愛宕神社参道口に踏み込むと明治30年建立の常夜燈がある。愛宕神社は東海道線の線路の向こうにある。通りがかりの人に「神社で餅まきがあるよ。」と誘われたが先を急いだ。真宗寺、法善寺を過ぎると、右側に村の鎮守の八幡神社がある。鳥居をくぐると山燈籠があり、本殿は更に奥にある。
右側に「問屋場跡」がある。美濃16宿の内で現存する問屋場は山崎家だけである。文政3年(1820)建立の建物には永樂通宝の軒丸瓦や明治2年の凶作による農民一揆(今須騒動)の刀傷を残している。その向かいには「金毘羅大権現永代常夜燈」がある。(問屋が荷を紛失、金毘羅大権現に祈願したところ、今須宿に荷があるとのお告げがあった。河地屋は礼に常夜燈を寄贈した。)
中挟川を今須橋で渡ると、銅版葺木造の常夜燈がある。その先の右側に「今須宿」の石碑があり「今須宿本陣、脇本陣跡」の案内板がある。(本陣は現在の小学校と支所付近に位置していた。脇本陣は二軒あり、小学校の駐車場付近にあった。本陣の唯一の遺構は青坂神社に移設された家康腰掛石である。脇本陣の母屋は玉泉寺に移築されている。)
今須宿は、妙応寺の門前町として発展し、琵琶湖から美濃への物資流通で賑わい、問屋場は七軒あった。本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠13軒で、幕府領(大垣藩預かり領)だった。
今須宿東枡形をトレースして松浦組の右に進む。雨谷川を門前橋で渡る。右側のシャッターに「今須宿」の絵が描かれている。広重は今須宿として国境を描いている。近江側の茶屋近江屋と美濃側の茶屋両国屋の間に江濃両国境と記された傍示杭を描いている。
国道を進むと「今須の一里塚」がある。国道敷設で撤去された一里塚を、本来の位置より東側に復元した。江戸日本橋より114里目。東海道線のむこうに「青坂(せいばん)神社」の幟が見える。祖鎌倉権五郎影政を祀っている。この地を支配した長江氏の祖先である。
山中踏切を渡ると、旧道は東海道本線の上りと下り線の間の上り坂を進む。標高175mの今須峠に着いた。厳寒期は積雪が多く難所であったが数軒の茶屋があった。今は雑草に覆われている。峠を下っていくと右側に「百万巻経碑」があるが、木に覆われて見えず、振り返ってみて初めて見ることができた。本来はこの碑の前が旧道になる。国道21号線に出る所に「これより中山道標柱」がある。
小さな沢を渡る。黒血川である。その昔は山中川と言われていた。壬申の乱の流血で岩石は黒く染まったという。この川は古来、青野が原や関ヶ原の戦いで、軍事上しばしば利用されてきた。黒血川先の左眼下に「鶯の滝」がある。滝の高さは約4.5m、水量も豊かで年中鶯の鳴く平坦地の滝として、中仙道の名所だった。
その先の左側に「山中大師道標」がある。道標を兼ねた石仏に右聖蓮寺道と刻まれている。親鸞聖人ゆかりの古刹である。 その筋向いには「常盤地蔵」がある。村人が哀れに思い常盤地蔵を安置した。2万騎の大軍を率いて上洛する義経は地蔵の前で母の冥福を祈った。旧道は東海道本線に沿って上り坂になる。
滝の向かいには「三地蔵」が祀られている。鶯瀧地蔵菩薩、黒血川地蔵尊、新設された交通安全地蔵菩薩が並んでいる。 すぐ先のY字路を右に進み、東海道新幹線のガードをくぐる。
古い民家の前に「立場跡」標識がある。(旗本竹中氏の知行地であった山中村は中山道間の宿として賑わっていた。関ヶ原宿と今須宿の間は1里であるが、今須峠を控え立場に立ち寄る人も多かった。)
国道手前に「大谷吉継陣跡、大谷吉継墓」の道標がある。「関ヶ原豆知識」(湯浅五助は大谷吉継の家臣で、自刃した吉継の介錯を務めた。吉継の命により首を隠すところを藤堂高刑に見られ、秘密にすることを条件に自分の首を差し出した。) 国道を少し歩いて、左の旧道に入り、旧山中村に入る。
藤古川を藤下橋で渡る。藤古川の説明がある(藤古川は古くは関の藤川と称し、壬申の乱では、川を挟んで東に天武天皇軍、西に弘文天皇軍が対峙した。)
旧道は急な大木戸坂を下りる。「不破関西城門と藤古川」の案内板があり、その奥に「戸佐々神社」がある。不破関を鎮護する関比男明神が祀られている。(不破関は藤古川を西限とし左岸の河岸段丘上に主要施設が築造された。川面と河岸段丘の高度さは10~12mの急な崖になっており、伊吹と養老、南宮山系に挟まれた狭隘な地で、自然の要塞をたくみに利用した。ここには大木戸と言う地名も残っていて、「西城門」があったとされている。)
Y字路を左に坂を上ると「不破関資料館」がある。不破関の規模や構造は全く不明であったが、昭和49年からの発掘調査によってその概要が明らかになった。資料館の葉その時に出土した土器や和同開珎などが展示されている。
右側に「不破の関跡」がある。(壬申の乱以降に設けられた関。破れざる関を意味する。東海道の伊勢鈴鹿関、北陸道の越前愛発関とともに古代律令制下の三関のひとつ。130年続いた不破関は延暦8年(789)桓武天皇の代で廃止された。以降は代々三輪家が関守を勤めた。関跡(三輪家庭)には芭蕉句碑「秋風や 藪も畠も 不破の関」
右手に「不破関庁舎跡」があり、裏の畑を進むと、大海人皇子の「兜掛石」や「沓脱石」がある。鶏頭が真っ赤な花を付けている。
右手に「不破関東城門跡」がある。(美濃不破の関の中央を東西の東山道が通り抜けていた。関の東端と西端に城門や楼が設けられていた。)その向かいには「井上神社社標があり、御祭りの提灯が掲げられている。壬申の乱で勝利した天武天皇を祀っている。
松尾交差点の左折ポイントには「中山道 関ヶ原宿松尾」標識がある。旧松尾町に入ると、左手に地蔵堂がある。右に行くと「合戦地 小西行長 宇喜多秀家 島津義弘陣地址跡」の看板があり、650mと書いてあった。
その先の右手に「本陣跡」があるが、建物遺構は残されていない。路地を入ると「八幡神社」がある。この道は「北国街道」でこの追分から木之本を経て今庄で北陸街道に合流する。鳥居右にあるスダジイは本陣の庭にあった木で、本陣唯一の遺構である。樹齢は書いてないが、大木である。神社の先に「東首塚」がある。家康によって首実検された敵将の首が埋葬されている。
国道21号線を横断して、斜め右の筋に入る。再び松並木になり、松並木が終わると、右に一面四臂の馬頭観音が石祠に安置されている。その先で旧道は国道に吸収される。。関ヶ原東町の交差点を横断する。この辺りは関ヶ原宿の東口で、往時は土塁が築かれていた。宿並の右に「若宮八幡神社」がある。関ヶ原の合戦で社殿は焼失したが、家康が再建の援助を行った。
しばらくすると、松並木が始まる。樹齢300年の松並木を天然記念物に指定し、保護に努めている。「山内一豊陣跡」がある。(関ヶ原の戦いの際に、垂井の一里塚より桃配山までの中山道に布陣し、南宮山の敵に備えた。その後、柴井まで前進した。戦後、妻の内助の功もあって土佐の国主になっている。)
この北側150mの所に「しゃもじ塚」がある。(平忠常の墓、長元4年(1031)平忠常の乱で捕えられ京に護送される際に、病に倒れ、里人が出した食物をしゃもじごと口に入れ息絶えてしまった)。
上り坂のくねった街道を行くと「伊富岐神社鳥居」がある。ここから200mの所に本殿がある。伊富岐(伊吹)山麓の豪族伊福氏を祀っている。平木川を渡ると右に「野上七つ井戸」がある。道沿いに栗の木が植わっていて、栗の実が覗いている。下に落ちている栗もあった。
街道は旧松島村に入る。松並木沿いの小さな村であったことから「松島」となった。村内の松島稲荷神社は天保10年(1839)伏見稲荷を勧進したもの。 JR東海道線の出屋敷踏切を渡り、国道1号線を渡る。旧道を進み日守川を渡ると「日守の茶屋」がある。境内に地蔵堂があり、句詠の場所でもあった。
境内には時雨庵があり、元禄4年(1691)芭蕉は当寺に冬ごもりをした。時雨庵には芭蕉翁木像が安置されている。芭蕉句碑(作り木の 庭をいさめる 時雨かな)芭蕉や美濃派ゆかりの俳人傘狂の句碑を建て作り木塚と呼ばれている。
宿並の右には本龍寺がある。参道口は高札場があった。山門や書院の玄関は脇本陣の物を移したもの。明治天皇は明治11年北陸巡行の際に休息をした。
街道に戻ると右手に旧旅籠屋「長浜屋」がある。垂井宿お休み処」となっていたが、朝早かったからか、開いていなかった。次の旧商家は「小林家住宅」で(油屋を営んでいた宇吉家から明治14年小林家が譲り受け昭和初期まで「亀屋」の屋号で旅籠を営んでいた。軒下には防火用の濡れ筵掛けが残っている。文化年間(1817年頃)築の建物。
その先に「本陣跡碑」があり、栗田家が勤め、酒造業も営んでいた。その先に「雨宮大社大鳥居」がある。社殿は雨宮山の麓に鎮座している。関ヶ原合戦の際にここに布陣した西軍安国寺恵瓊に焼き払われ、三代将軍家光が再建した。明神型鳥居は約400両の金額で、石屋権兵衛が建てた。額には「正一位中山金山彦大神」と刻まれている。
宿並の家屋には旧屋号が掲げられている。因みに泊まった「つるや旅館」は「飯売旅籠屋 大津屋」と書かれていた。枡形が残されていて、枡形の正面に「旅籠鶴丸屋」がある。安永6年(1772)築、浪速講、文明講の指定旅籠だった。当時は南側に入口があり、二階には鉄砲窓が残り、離れに上段の間が残っている。
宿のおかみさんの心づくしの朝食をいただいて、玄関を出ると、昨日2回あった二人組のおじさんにまた会った。赤坂から大垣に戻り泊って、朝ここまで歩いてきたそうで、今回は5泊6日で歩いて京都まで行くそうです。
午後6時を回り、付近は真っ暗になって来た。今日の宿「つるや旅館」を探して、長い一日が終わった。
T字路を右折し、梅谷橋を渡り、次いで相川を相川橋で渡る「相川の人足渡し跡(相川は昔から暴れ川で、架橋ができず人足渡しであった。川越人足は垂井宿の百姓が勤めた。姫君などの特別の通行がある時には木橋が架けられた。)川を渡ると「東の見付け」跡がある。
道は大きく曲がりT字路に突き当たる。「垂井追分」である。(垂井宿は東海道と中山道を結ぶ美濃路の分岐点で大いに賑わった。追分は宿場の東にあり、自然石の道標が立てられた。「是より右東海道、大垣道 左木曽海道たにくみみち」と刻まれていた。 )
暫く歩いて行くと、右側に「駒引稲荷神社」がある。駒引交差点を過ぎると右側に「地蔵堂」と「平尾御坊道標」がある。北600mに平野御坊願證寺がある。
その先の右手の地蔵堂には「地蔵尊坐像」が安置されている。その隣に「青野ヶ原の一里塚跡」がある。大正5年建立の大神宮常夜燈前に標石がある。江戸日本橋より111里目。
街道から北に入ると、「教覚寺」がある。その脇に「稲葉石見守正休公碑」がある。貞享元年(1684)正休が提出した淀川治水事業の予算が高いと職を解任され、これを恨み、大老の堀田正俊を江戸城内で刺殺、自身は老中大久保忠朝に斬殺された。時に正休は享年45歳、稲葉家は改易になった。 教覚寺の鐘楼の石垣には「フズリナ」の化石が露出している。どれがフズリナの化石か分からなかった。
大谷川の手前に「青墓宿」の標柱がある。中世東山道時代にここに「青墓宿」があり、遊女に里として知られていた。 大谷川を渡り、県道216号線を横断し、旧青野町に入ると、「智教寺」があり、その向かいに「国分寺道標」がある。北300mに美濃国国分寺がある。道標には「薬師如来御寶前」と刻まれている。
青野小学校を過ぎ、左手に「照手姫水汲井戸道標」がある。この横道を進むと「照手姫水汲井戸」がある。(照手姫は小栗判官正清と恋仲になるが、判官は毒殺され、姫は人さらいにあう。青墓長者に売られ、姫は客取りを拒否したために、籠で井戸水を汲めといういじめにあった。毒に倒れた判官は熊野の湯につかってよみがえり、姫を迎えに来たといいます。)
この先の右奥に「小糠山古墳」がある。古墳上には墓石が林立しているので、すぐにそことは分からなかった。古墳は前方後円墳で、東海地方最大である。小糠山は青墓宿の遊女たちが化粧に使った粉糠が積もり、山になったという伝説に由来している。
昼飯町の交差点を過ぎると「史跡の里 青墓町」の標柱がある。この地は古墳が多く「大墓」と呼ばれていた。これが「青墓」に転化し地名になった。
昼飯(ひるい)伝説・本多善行が難波の海から拾い上げた三尊仏(善光寺如来)を信濃に運ぶ途中ここで昼飯を摂った。
兜岩の先で廃線を横断する。この地で産出する石灰を運ぶ貨物線だった。「昼飯(ひるい)大塚古墳」の案内を見て左折する。岐阜県下最大の前方後円墳である。今から約1600年前古墳時代前期に造られ、埋葬者はこの地方の大首長の1人であろうと推測されている。復元保存工事も終わり、上からは濃尾平野、伊吹山、関ヶ原などが一望できる。。
しばらく県道赤坂垂井線を歩くと、左側に「兜岩・赤坂宿御使者場跡」がある。関ヶ原の前哨戦「杭瀬川の戦い」で戦死した東軍中村隊の武将野一色頼母の兜を埋葬した塚がある。ここは赤坂宿の京口である。
その先の右手に「所郁太郎生誕地」碑がある。郁太郎は天保9年(1838)赤坂宿の酒造家矢橋亦一の四男として生まれた。幼少にして揖斐郡大野村の医師所伊織の養子となる。漢学、医学、文学歴史、蘭学を学ぶ。
向かいには妙法寺があり、所郁太郎、戸田三弥の墓がある。中に入って探したが、門前にあった。
その先には「宿場の駅 五七処」があり、屋号の五七は日本橋から数えて57番目の宿であるところからで、お土産ものが売っているというので、楽しみにしたが、閉まっていた。隣の「お嫁入り普請探訪館」は3時で閉まっていたので、もう閉館だったのかもしれない。会館の前でうろうろしていると車が止まって、人が出てきて開けてくれた。中は資料館になっていて、いろいろな資料をもらった。見栄えを良くするために表側だけが二階建てと言う珍しい造りを内部から見ることができる。
四辻の左の旧家は「本陣」を勤めた矢橋家住宅である。天保4年(1833)に建てられた大型町屋で国登録有形文化財である。隣の榎屋旅館が「脇本陣跡」で、宝暦年間以降は飯沼家が勤め、問屋、年寄役を兼務した。維新後は榎屋の屋号で旅館を営んだ。
宿並には、二階建てを模した旧家が数軒残されている。これは皇女和宮の通行に際し見苦しい家があっては非礼とのことで、54軒が建て直され、空き地にも家を建て宿並を整えたとされる。これを「御嫁入普請」といい、費用は幕府より10年債で借用したが、3年後幕府は崩壊し借金は帳消しになった。
右側に「谷汲道道標」がある北の筋は谷汲巡礼街道、南は伊勢に通じる養老街道。奥に「赤坂宿」の説明と看板があった。ここは四ッ辻で角に立派な町屋が建っている。
その向かいには「旧清水家住宅」がある。享保15年(1730)に建築された、切妻造りの住宅で、2階の二階の軒高が低い「つし二階」(中二階とも呼ばれる。)の町屋の技法をとっている大きな商家で、昔は米屋を営んでいた。平成24年に市に寄贈され、修理復元された。
本陣跡は公園になっている。奥にある銅像は、幕末の医師・所郁太郎で、全身を斬られた井上聞多(馨)を畳針で縫合し一命を救った。
左手に「本陣跡」がある。寛永以降は馬淵太郎左衛門、次いで平又左衛門、天明、寛政の頃は谷小兵衛、以降は矢橋広助が明治維新まで勤めた。文久元年には皇女和宮が宿泊している。
会館の隣には「浅間神社」がある。赤坂宿の守護神である。西濃鉄道の踏切を越すと「赤坂本町駅跡」碑がある。線路の先には「美濃赤坂駅」がある。
右手の北詰に常夜燈があり、その下には「赤坂湊跡」が復元されている。広重は川面に岩を描いているが、往時は川幅が広く、水量が多かった。流末は揖斐川に繋がり、尾張名古屋や桑名宿との舟運が盛んで、湊には諸藩の廻米が集積された。明治になると、近くの金生山で採掘された石灰の積み出しに五百隻の舟で賑わった。大正時代になると、鉄道が敷設され、舟運は衰退した。 その隣には、「赤坂港会館」がある。明治8年に中山道と谷汲街道の分岐点に建てられた警察屯所で、現在の建物は復元です。内部は資料館になっている。
旧杭瀬川手前に「赤坂宿御使者場跡」がある。参勤交代の大名や公卿通行の際に、宿役人や名主が送迎した所。橋を渡ると、左手に「大灯台モニュメント」がある。
広重は杭瀬川に架かる土橋、渡り詰に傍示杭「自是大垣藩赤坂宿」その先に赤坂宿の宿並をがいている。大海皇子(天武天皇)は672年壬申の乱で傷を負い、この川で傷を洗うとたちまち治ったことから「苦医瀬川」と呼ばれた。
枝郷から赤坂新町に入ると左手に「多賀神社」がある。本殿は昭和34年の伊勢湾台風で被害を受け、翌年再建された。その先に美濃路追分があり道標燈籠に「左なかせんどう 右おおがきみち」と刻まれている。美濃路は東海道宮宿に通じる脇往還である。燈籠の傍にあるオブジェには(中山道赤坂宿をイメージし、地域素材である石灰岩とホタルを生かして造られた。)と書かれていた。
菅野川を渡り、すぐ先のY字路を左に入る。南方排水路を白山橋で渡ると左手に「白山神社」がある。村社で、拝殿が新しくなっていた。その先の左手に「池尻の一里塚」跡がある。江戸日本橋より110里目である。 その隣にある「麺茶房 さらい」で2時を過ぎた遅い昼食をとる。店の前で「小簾紅園」であった二人組のおじさんに会う。先に行ったはずなのに、いつの間にか追い越してしまった。
養老線の踏切を渡る。右手に東赤坂駅がある。菅野川の手前を左手に曲がると、「菅野神社」がある。(奈良時代に百済王の末裔が祖神を御祭神として奈良興福寺領だったこの地に祀ったのが始まりで、この地の十三ヶ村の総鎮守である。
左折するところに「地蔵堂」がある。「是より北八丁」と刻まれた「加納薬師如来道標」がある。地蔵には「左かのふやくし」と刻まれ道標を兼ねている。その先を右に入ったところに「日比野 五鳳」の胸像があり、知らない人だった。踏切の手前に看板があり、「かなの至宝 日比野五鳳」と書かれていた。書家で、昭和の三筆と言われ、神戸町の庁舎の壁書「山上憶良」の歌と反歌が紹介されていた。
この先で街道は緩やかにカーブする。三回り半の半回りか?突き当りを右折すると「中山道七回り半」の標柱がある。加納排水路を西浦橋で渡り、すぐ先で道路を横断し、共同住宅の裏に回りこむ。この筋が旧道である。旧道は県道230号柳瀬赤坂線のT字路に突き当たり、左折する。カワイ建材を右折し、突き当りを左折する。
三津屋4丁目の交差点に道標を兼ねた「聖観世音菩薩」がある。像には「右ぜんこうじ道 左谷汲山ごうど いび近道」と刻まれている。
三つ目のカーブを左に進み、曽根排水路を境橋で渡る。排水路は桜のトンネルになっている。東の川橋を渡ると、三ツ谷交差点を右折した所に「弘法大師爪彫薬師堂」がある。弘法大師が爪で彫った薬師如来を安置している。 街道にもどり進むと、左手に「秋葉神社」がある。三津屋町の鎮守である。御祭りの準備をしていた。
二つ目のカーブを右に回ると「素戔嗚(すさのお)神社」がある。天照皇大神宮の弟の素戔嗚大神を鎮守し、五穀豊穣、無病息災を願う。祇園信仰の神社である。
柳瀬橋を渡り、街道に戻り、右折して大垣輪中上の土手道を進む。大垣輪中は大垣一帯を堤で囲み、水害から守っている。Y字路を右に進み、平野井川大橋をくぐる。右手に「中仙道三回り半」標柱がある。ここから三つのカーブと僅かなカーブがあることを意味している。歩いていると、戻っているような錯覚を感じる。土手の赤い曼珠沙華が綺麗だ。
土手道を進み、柳瀬橋を渡ると「神明神社」がある。ここに「柳瀬の一里塚跡標柱」があるはずが、見当たらない。「美濃中山道と一里塚」の説明板が立っていた。江戸日本橋より109里目である。
平野井川を新橋で渡り、土手道を進む。酔芙蓉が赤、ピンク,白の花を咲かせている。
平野井川の手前の左側に地蔵堂がある。平野井川の氾濫を見張っています。
豊後川を渡ると、「日本歴史街道 神戸町」の標柱がある。この流れが旧呂久川、現在の揖斐川は大正14年の河川改修によって変更された。奥には「神明神社」が祀られている。
ここで、道を間違えて、先に「白鳥神社」に行く。継体天皇在位頃(507~31)に堂宇を建立し、寛文7年(1667)遷宮の棟札を残している。祭りの準備をしていました。元に戻り、「良縁寺」に向かう。呂久の渡しを勤めた馬淵善左衛門の墓がある。墓は伸びた木の陰になり、やっと探し当てた。
旧道が揖斐川の土手に沿って一直線に伸びている。往時は江戸時代に植栽された松並木があったが、土地改良等で消滅した。イチョウの木には銀杏の実が鈴なりについている。土手の下を左に進み、鷺田橋のトンネルをくぐり、左に進み、鷺田橋上に出る。 揖斐川の流末は伊勢湾に注ぐ。河口では揖斐川、木曽川、長良川の大河が横たわり、東海道の七里の渡しとなっている。 呂久歩道橋で下り、土手下の道を進む。
巣南橋までもどり、街道を進む。右側に「大垣藩傍示石」がある。「従是西大垣領」と刻まれている。犀川に沿って進むと長護寺川に突き当たり、この先の旧道は消滅している。右に進み、県道156号線に出て、朱塗りの長護寺橋を渡る。
T字路を左折して犀川に沿って進むと「神明神社」がある。旧新月村の鎮守である。先で犀川を巣南橋で渡りしばらく歩くと「熊野神社」がある。境内には春日局ゆかりの地碑があり、十七条城跡で、城主の稲葉正成の妻福は後の春日局であり、出世熊野といわれた。
街道はT路ロに突き当たる。この正面に千躰寺がある。千躰堂には自然居士が桧材から彫り上げた阿弥陀如来立像が千体安置されている。ちょうど隣に住む方がお堂を開けてくれた。真ん中の仏像が盗難に遭って、脇に安置されていた仏像が今は真ん中に安置されている。罰当たりなことです。
犀川を新月橋で渡る。寛文7年(1667)勧進によって架設された橋である。犀川は墨俣城の脇を流れ、長良川に落ち合う。秀吉は犀川の上流から材木を流して、一夜にして墨俣城を築いたといわれている。広重は「美江寺宿」として犀川を描いている。左奥の集落は屋根だけを描いている。これは集落を川の氾濫から守るため、周囲を堤防で囲っているためで、輪中と言う。
T字路を右折する。分岐には道標「右 大垣赤坂二至ル左大垣墨俣二至ル」がある。この分岐には高札場があり、美江寺宿の西口であった。 右折して進むと、「千手観音堂」がある。天保4年(1833)造立の千手観音が安置されている。
「すなみ柿」の看板が立っている。家に帰って調べてみた。(岐阜県巣南町で戦前に、富有柿の中で、ほかの木に比べて大玉で着色が早い木が発見され、その後試作が続けられ、1989年に新しい品種として、認定された。富有柿の枝変わり品種がすなみ柿である。富有柿より硬めの食感である。)柿の木は沢山あったが、富有柿は11月下旬から、すなみ柿は11月上旬ということで、まだ早かった。
その先の左手に「美江寺本陣跡」がある。天正17年(1589)秀吉の外知により、問屋場が設けられ、往還の荷物中継が行われた。寛永14年(1637)伝馬役家と徒歩役家各々25軒を定め、問屋の支配下に置き、美江寺宿が開設された。それから32年後、加納藩の戸田丹波守光永によって本陣が建てられ、問屋山本金兵衛が勤めた。本陣の建物は明治24年の濃尾大地震で倒壊した。古文書を残している。 向かいには、「開蒙学校跡」がある。尋常小学校の前身である。
左折した右手の旧家は、「庄屋和田家」で、旧家路城主・和田氏の末裔という。
神社の境内には、神社前にあった高札場が復元されている。高札場には、正徳元年(1711)から幕末まで続いた高札が掲げられている。
美江寺交差点の所に、「美江寺神社」がある。境内には美江寺観音堂があるが、明治36年に、旧庄屋和田家の蔵にあった観音像を安置しているお堂である。
美江寺神社の手前を右に入る路地は「美江寺観世音道」で、旧参道である。美江寺神社の裏辺りに観音堂があった。この地は、河川の氾濫に悩まされ、十一面観音に祈願すると「美しい江」となった。道三はこの観音を岐阜に移してしまい、廃寺となった。
左手に、「造り酒屋布屋」がある。元禄9年(1696)の創業で、濃尾地震で宿内で唯一残った商家である。加納藩は小森文左衛門に酒株を与えた。その裏側の小中学校に「美江寺城址」がある。室町時代に美濃国の守護職であった土岐氏の家臣の和田八郎が応仁・文明の頃(1460)美江寺を築城し、代々和田氏の居城であった。