箱根〜小田原 H.24.04.28
再び、箱根登山鉄道の踏み切りを渡り、国道沿いに歩く。上を電車が通っていった。さっきは、ロマンスカーも通った。上板橋交差点手前を左折し、鉄道のガード下を通る。ここは、「板橋旧道」と呼ぶようです。結構風情のある通りで、御豆腐屋を見つけた。あきれるくらいの種類のがんもどきを売っている。何種類か買い求めた。「もっと買いたいが、旅の途中なので。」と言うと、是非、「ういろう」に寄っていくようにと勧めてくれた。
寺から5〜6分行ったところに、工務店があり、隣の空き地に石碑があり、「初花の瀑・夫勝五郎ノ仇討本懐祈願ノタメ初花ガ垢離ヲ取ッタ瀧ト伝エラレル」と書いてある。他の方のHPには、向かいの山にふた筋の滝が見えたとあるが、そこにいたおじさんに聞いてみたが、分からなかった。
本陣跡を左に見て、「箱根旧街道」の標識の所を入っていく。石畳の構造を解説した説明板を見て、大沢坂を下りて行く。説明板によると、(大沢川を渡ったところです。幕末の下田奉行小笠原長保の「甲申旅日記」には、大沢坂は、座頭転ばしともいうとぞ、このあたりツツジ盛んにて、??と書かれていた。当時の石畳の道が良く残っている坂で、苔むした石畳が往時を偲ばせる。)
箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川
ここから登り坂で、しばらく行くと権現坂の碑と看板がある。(小田原から来た旅人がこの地に来て一息ついて、目の前に芦ノ湖を見て、箱根山にきたという実感が体に伝わってくる所です。)と書いてあったが、ここからは、芦ノ湖は見えなかった。
早朝、家を自転車で出て、6時23分の電車で三島へ、8時15分のバスで、前回の終点、箱根町に向かった。9時に芦ノ湖に着く。今日は晴天で、湖の向こうに真っ白な富士山が見えた。
箱根宿は、本陣6軒、脇本陣1軒、旅籠36軒である。箱根宿の由来は、1618年に、西国大名の要請により、箱根越え参勤交代の労苦を緩和するため、小田原と三島から50戸づつ移転させ、ここに宿場を開き、翌年箱根関所が設けられた。
江戸時代末期の解体修理の際の「相州箱根関所御修復出来形帳」な韮山の江川文庫から発見され、平成11年から13年にかけて跡地の発掘調査をし、大番所、上番休憩所、厠、雪隠、京口御門などの建物や石垣、などの復元を行い、16年から公開を始めた。平成16年からは、屏風山側の整備をはじめ、江戸口御門、遠見番所、足軽番所などを復元し、19年の全面公開となった。また関所資料館もあります。
入生田の踏切を渡り、12〜3分で「小田原の道祖神」があり、そこに江戸から数えて21番目の風祭の一里塚の表示板があった。
連歌師宗祇の墓(供養塔)
甘酒茶屋で磯辺餅と暑かったので、甘酒ではなく、紫蘇ジユースを頼んだ。箱根宿と畑宿のちょうど中間にあり、旅人が休むのにちょうど良かった。当時は箱根8里で13軒あった。 赤穂浪士 神埼与五郎が東くだりの時、馬喰の丑五郎から言いがかりをつけられ、大事の前の小事と詫び状を書いたという講談上で有名な処である。隣に休憩所があり、当時の生活用品を展示してある。付近には、コメサクラが咲き綺麗だったが、茶屋の前には藤棚がある。
箱根ホテルは本陣はふや跡で、ホテルの前に、樹齢400年の楓の大木が残っている。説明板によると、(箱根の関所が開かれた時、街道筋には杉の苗を植えたが、宿場内には、楓の苗を植えた。明治中期の道路拡張で殆どが切り倒されたが、本陣前の楓だけが残った。)種が飛んだのか、楓の幹から、桜の幹が伸び、花を咲かせていた。
国道に合流して、しばらく行くと、お城のような建物が見えてくる。小田原城ではなく、「ういろう」のお店だった。ういろうは「外郎家」で、元々、薬を売っていたが、室町時代から接待で作っていた「ういろう」も市販するようになった。市川団十郎の歌舞伎十八番「外郎売り」でも知られている。
右側に正眼寺があり、曽我兄弟の伝説を伝える古刹で、曽我兄弟の供養塔があり、おくにはお堂もあるようです。供養塔が分からなくて、境内で話をしていたおばあさん達に教えてもらった。
仲睦ましい道祖神が祀られている。何か書かれた説明板があったが、字が消えていて分からなかった。このあたりは、旧街道というより、温泉街を歩く。
箱根観音福寿院の看板を左に入る。東坂最後の石畳「猿沢石畳」を歩く。猿橋を渡り、6分ほどで石畳は終わり、車道に出る。少し行くと江戸から22番目の湯本茶屋一里塚にいたる。
甘酒橋、山根橋といった小さな橋を渡る。山根橋のところに須雲川 自然探勝歩道についての説明板があった。(この歩道は、須雲川沿いに畑宿より元箱根にいたる旧東海道に沿った歴史的なたたずまいを持つ、自然歩道で、途中には、旧街道そのままの石畳を残されている。元箱根まで、甘酒茶屋を経て杉並木まで3kmの道のりである。)
茶屋からまた山道を下っていくと追込坂の看板がある。茶屋までの坂を言う。説明板によると(「新編相模国風土記稿」によるとフッコミ坂といったかもしれません。)とあった。傍に、「親鸞聖人と笈の平」の碑があった。説明板によると(東国の教化を終えて、四人の弟子と親鸞が箱根路を登ってこの地に来た時、上人は弟子の性信坊と蓮位坊に「師弟打ち連れて上洛した後は、たれが東国の信徒を導くのか心配である。御坊はこれから立ち戻って教化してもらいたい。」と頼み、師弟の悲しい別れをした場所と伝えたれている。)とあった。
右側に身代わり地蔵がある。説明板によると、(宇治川の先陣争いで有名な、梶原景季は、箱根をとおりかかった時、何者かに襲われました。弁舌巧みで、たびたび人を陥れた平景時と間違えられたらしい。幸いにも、傍らにあった地蔵が、身代わりになって命が助かった。それ以来、この地蔵を景季の身代わり地蔵とよんでいる。)彫刻家 澤田政廣の箱根八里記念碑がある。「天下の険」と書かれていた。
10分くらい歩くと、左側に箱根一里塚跡がある。説明板には(藤原久保の一里塚で、街道の西側に盛土をして、檀を植えた。江戸から数えて24番目の塚である。) ここにも、入り口とおなじ「旧東街道杉並木」の石碑が立っていた。
このあたりから、旧道を歩いては、車道に出て、少し歩き、また旧道に出てを繰り返す。旧道に出るのに怪談が多く、京に上る旅人にとっては大変だろう。 国道脇の左側の階段を上る。崖の上を少し歩き、再び、階段を下り、車道を横断歩道で渡る。
箱根関所が、現在の場所に置かれたのは、江戸初期の1619年で、幕府は全国53ヶ所に関所を設けたが、中山道の木曾福島(長野県)、碓井(群馬県)、東海道の新居(静岡県)箱根(神奈川県)の4ヶ所は規模も大きく、重要な関所だった。関所の役割は、「入り鉄砲に出女」を取り締まる所で、この関所は、「出女」に厳しかった。
国道を歩く。10分ほどで、Y字の道を左に行くが、道路拡張か、新東名の工事なのか大々的に工事をしていて、歩くのも大変。旧街道は、国道に合流したあと、有料道路の標識がある先を左に入る。ここからは、このような趣きのある連子格子の家などもある。
早雲寺から10分ほどで、三枚橋を渡る。左に箱根登山鉄道の湯本駅が見える。2時10分になっていたので、電車に乗ろうか迷ったが、小田原まで行くことにした。橋を渡り右折する。この辺りの風景が、下部温泉から川を渡って出てくる風景に似ている。この川は早川だった。
5分ほど歩くと、小田原北条氏5代の菩提寺「早雲寺」がある。二代目氏綱が父早雲の遺命で建てた京都紫野大徳寺派の名刹である。
五代の墓
しばらく車道を歩くと、「葛原坂」と書かれた看板がある。(新編相模国風土記稿に海道(東海道)中須雲川村境にあり、のぼり1町ばかりとしか書かれていません。地名が葛原で、今もこのあたりには葛の葉が生い茂っている。)
直ぐ先に、浄瑠璃「箱根霊験いざりの仇討」の貞女初花・勝五郎の墓がある鎖雲禅寺がある。寺内には、初花堂もある。
県道に合流し、しばらく県道を歩く。「女転し坂」の説明板があり、(箱根の難所のひとつで、急な坂が長く、馬に乗った夫人がこの付近で落馬し、死んでしまったことからこの名がついた。)箱根には〜転がしとか、〜滑の名前の付いた坂が沢山ある。それだけ急な坂が多く、難所だったことが分かる。しばらく歩くと、須雲橋を渡った右隅に「女転坂」の石碑があった。このあたりから説明板のあるあたりまで急な坂があったのかもしれない。
県道732号線に出る。2〜3分で「須雲川自然探勝歩道」の下げ看板を左折し、「割り石坂」へ。「是より江戸時代の石畳」の標識がある。江戸時代の石畳は直ぐ終わり、復元の石畳になるが、叉少しいくと、江戸時代の標識があり、少しいくとそれも終わる。所々に残っているらしい。説明板によると、(曽我五郎が、富士の裾野にあだ討ちに行く時に、刀の切れ味を試そうと、路傍の巨石を真っ二つに割ったとこrと伝えられている。)とあった。
箱根路の移り変わりという説明板が建っている。箱根路は、古来より、東西交通の難所であり、大きな障壁となってきた。この障壁を通過する交通路は、地形の制約を受けながら、常に箱根山を対象に設けられた。@碓井路 最も古い峠道 A足柄道 奈良、平安時代に利用された道 B湯坂道 鎌倉、足利時代に利用された道、C旧東海道 江戸時代に開かれた道D国道1号線(現在の東海道)を地図で示してあった。
箱根細工のお店の前に大きな切り株が置いてある。(桂神代といって、火山の噴火や大地震で土砂が崩れ、何千年も土に埋まっていた埋もれ木である。樹齢300年の桂神代は全国でも珍しい。) このような古い家もまだ残っている。
明治天皇小休止址の石碑、本陣茗荷屋跡がある。ハリスタウンゼントが下田から江戸に行く途中の箱根越えで、関所で検査を拒否しトラブル続出で、この本陣の庭園を見て機嫌を直した。というエピソードが残っている。明治天皇は、3回もこの地で休息をしている。
畑宿は、郷土の伝統工芸箱根細工が生まれ、育ったところ。木地細工が作られた記録は古く、小田原北條氏時代までさかのぼる。江戸時代は、箱根旧街道の間の村として栄え、沢山の茶店が並び名物のソバ、鮎の塩焼き、箱根細工が旅人の足をとめた。
直ぐ傍に、芹沢光治良の箱根八里記念碑が建っている。
箱根路や 往時をとどめ のぼりしに 未来の展けて たのしかりけり
11時45分 畑宿一里塚に来た。茶屋を出たのが10時55分なので、ここまで1時間10分かかっている。案内板によると{山の斜面にあるにで、周囲を整地し、直径5間(9m)の円形に石積を築き、小石を積み上げ、表層に土を盛って、頂上に標議樹として、畑宿から見て、右側の塚にはモミを、左側には、ケヤキが植えられていた。江戸から数えて23番目の一里塚で、明治時代に一部が削られてしまったが、復元整備を行なった。
是は、歩道橋で、下を車が走っているが、ここにも石畳を敷き詰め、昔の道を復元している。
ここから10分ほど車道を歩き、「西海子坂」を下りる。この「猿滑坂」から「西海子坂」にいたるあたりが、東坂では、最も難所であり急坂であった。現在では、災害などで崩れてしまったところが多いという。私は、降りるばかりだが、上がってくる人たちは随分大変のようで、グループの人たちは遅れている人を待って出発していた。途中座り込んでしまっている人もいた。
車道のヘアーピンカーブを見て、樫木坂を長い階段を下りる。説明板に(「新編相模国風土記稿」に高く険しい崖に樫樹あり。ゆえに名を得る。また、「東海道名所日記」には、けわしきこと、道中一番の難所なり。おとこ、かくそよみける 。樫の木の坂をこゆれば、苦しくて、どんぐりほどの涙こぼれる。 と書かれている。)
階段を下りると、猿滑坂の看板が立っている。(「新編相模国風土記稿」に殊に危険、猿侯といえども、たやすく登りえず、寄りて名とす。とあり、難所らしい坂の由来が書かれている。県道の横断歩道橋が架かっているあたりが当時の坂でした。)とあった。
左に「箱根馬子唄歌碑」を見て、「天ヶ石坂」「白水坂」を過ぎとあるがこの二つの標識は見落としたか、なくなったかで、確認できなかった。於玉坂の石碑を過ぎると県道732号線を横断する。
坂を上ると、右側に少し入ったところに、御玉観音がある。元禄16年、お玉は奉公先から国許に帰る途中、手形がないので、箱根関所を通ることが出来ず、発見され捕らえられ、処刑された。処刑場所は、本道を逃れて裏山である、屏風山に踏み入った坂道で行なわれ、首をナズナ池(現お玉ヶ池)で洗ったとされる。行き倒れの旅人達の骨が沢山埋まっていたのを集め供養したお堂でもある。
10時2分、旧道に出る。入り口に「箱根旧街道 畑宿 湯本をへて小田原にいたる。」と書かれていた。これから、街道の入り口や出口にこのような道標が何回も出てきます。 ドイツの博物学者、エンゲルベルト。ケンペルとC・M・バーニーを讃えた石碑が立っていた。ケンペルは1691年1691年に箱根を訪れ、箱根の美しさを世界に紹介した。バーニーはこの地に別荘を持っていた英国の貿易商で、大正11年にケンペルの著書「日本誌」の序文を引用し「自然を大切にするように」と碑を建てた。
箱根神社の大鳥居が見える。鳥居の所を右に行く行き方もあるようだが、賽の河原を見たかったので、しばらく直進する。どこまでいってもそれらしいところがないので、お店の方に聞くと、直ぐそこの坂を登り、お寺の脇を行くと、旧道に出るので、その先にある。と言うことだった。その通りに行ったが、賽の河原はなかった。地図を見ると、湖沿いなので、あの方は、何かと勘違いされたのだろう。
国道を300mほど歩き、右方向の杉並木に入る。左側に、「旧東海道杉並木」の石碑がある。400本余りの立派な杉が立ち並んでいる。樹齢350年前後で、道幅も当時の2間(3,6m)である。説明板によると、杉並木の保護に力を入れているようです。