中津川~恵那

H.28.12.10~11

旅館いち川の手前を右折し、堅町に入る。三つ目の枡形である。ここは往時「旅籠角屋」であった。献立表が出ていたので、まだ開いているのかと暖簾をくぐって入ってみた。2時までで終わりということで、食事はできなかった。福神漬けが売っていたので買い求めた。先ほどの資料館では「本日は終了しました」の木札が下がっていたり、ここでは終わりなのにまだ看板が出ていたりとのんびりしている。

中央自動車道を恵那峡橋でまたぐと右側に「菅原神社」がある。慶長年間の創建で、学問の神様です。

正善寺バス停の先で街道はT字路に突き当たる。ここを左折する。右側の丘の上に「大井鬼子母神碑」と「明治天皇行在所碑」道標がある。

公園内に「甚平坂のハナノキ」の看板がある。カエデ科の落葉樹で、はなかえでともいう。長野県、愛知県、岐阜県に自生している。花は3~4月で、新芽の芽吹く前に、赤い花が咲く。

馬坂、甚平坂の急な上りになる。広重は大井宿として、雪の甚平坂を描いている。右の山は恵那山、左奥は御嶽山です。

交差点を渡る前に右折してしばらく行ったところに「富士浅間神社」がある。例大祭に三河万歳の系統をひく「七福万歳」が奉納される。11時40分をまわったのに食事ができるような店が無い。境内でパンなどを食べていると、男の子が来て礼儀正しくお参りし、鳥居の所で一礼して帰っていった。何かの祈願に来たのだ頭かと想像を巡らせた。

大きなエノキの前に氏神と金神の石の祠が祀られている。「岡瀬澤の社宮司(しゃぐじ)」である。土地の神の信仰で木の神とされている。

5分ほどで、「恵那市」に入る。左側には「中山道」の自然石の石碑が立っている。

歴史の道 茄子川」の解説版がある。(ここから中津川まで約6.4km、大井宿までは約4kmであった。長丁場のため、ここに茄子川御小休所(篠原家)が置かれ、大名、姫君の通行の休憩所の役割を果たした。)その先には中山道標識と「茄子川焼」の解説版がある。(天正6年(1578)瀬戸の加藤吉右衛門が諏訪の前窯場に来て、施釉陶器を焼いたのが始まり。木曽飯田方面からの帰り馬が茄子川焼を信州に運び人気を博した。村の自由用産業として明治末まで続いた。)

茶屋本陣の両角には「秋葉山常夜燈」があり、「是よりあきはみち」と刻まれている。ここが遠州秋葉道の追分である。茶屋本陣側の常夜燈は享和3年(1803)の建立。

立場からは急な下り坂となる。左側に石仏石塔群がある。約10基並んでいる。県道420号線のガードをくぐり坂本川を坂本橋でわたる。しばらくして「坂本観音堂」がある。延享2年(1745)の馬頭観音が祀られている。

街道は車道との十字路に突き当たる。その手前左にある小さなため池は「馬の水飲み池跡」である。道の反対側には「坂本立場跡碑」がある。ここは千旦林村と茄子川村の境に当たり、古くは東山道の宿駅であった。

その先の右側に「三ツ家の一里塚跡碑」がある。江戸より86里目。千旦林地下歩道で車道を横断すると、街道は急な坂道になる。街道の右手には頭部が三つある三面六臂の馬頭観音が石の祠に納まっている。

中央橋の下を覗くと、整備された道がある。中津川遊歩道公園で、かってここには本州製紙の原料や製品を運ぶ軽便鉄道が敷かれていた。春には桜、夏は水路に梅花藻が咲き、蛍なども見られる。

角を曲がると、「林本陣跡」がある。母屋は昭和22年の大火で焼失してしまったが、安土桃山様式を伝える本陣門を残している。皇女和宮はここで昼食をとっている。門脇の松は記念に植栽されたものだが、今のは2代目です。

道なりに進み、中山道道標を右折すると、駒場(こまんば)村に入る。高札が三枚復元され、家屋に掲げられて、「駒場村高札場跡碑」が立っている。

早朝家をでて、東海道線、新幹線、ワイドビュー信濃と乗り継いで、中津川駅に着いた。バスで馬籠に向かう。観光シーズンは終わったのか、バスの乗客は5人だった。馬籠宿に着いた。先日見られなかった島崎家の菩提寺である「永昌寺」を訪ねる。藤村の遺髪と遺爪を納めた墓や父正樹の墓がある。

15時を回ったので、今回はここで終了です。恵那駅までもどり、名古屋行の快速電車に乗り、新幹線、東海道線を乗り継いで家に帰りました。寒さのせいか、カメラの電池が赤く表示され、懐に入れて温めながら歩きました。もしかしたら電池が少なくなっているかもしてないので、写真もあまりとらず何とか歩く事ができました。宿自体は小さく直ぐすぎてしまったが、自然の中を歩いたという気がします。駅前には「すや本店」がありました。

その先に「大井村庄屋古谷家」がある。(母屋や塀は、柱や梁、垂木も土壁で塗り、北側屋根に宇田津を付け、北側の土塀は厚さ約30cmの防火壁として、全体が火災予防の建築になっている。)

すぐ先の右側に「明治天皇大井行在所碑」の立っている旧家がある。明治13年の巡幸に際して、旅籠兼商家を営む伊藤家(現岩井家)に宿泊した。使用された奥座敷を残している。

右側に「宿役人の家」がある。(林家は本陣より分家して以来明治に至るまで代々大井宿役人の問屋役を勤めた。大旅籠でもあった。その向かいには「脇本陣跡碑」がある。高木善右衛門が勤めた。下問屋も兼ねていた。大井宿問屋場は本町に上問屋、ここに下問屋があった。問屋場は人や荷物の継立事務を行っていた。

本町に入ると「大井村庄屋古山家」があり、「ひしや資料館」となっている。古山家は屋号が菱屋といい、江戸時代中期以降、大井村の庄屋を勤めた家柄で、明治以降は郵便取扱役、恵那郡役所掛屋(銀行)に任命され、養蚕研究や俳諧文化の推進にも力を尽くした。 資料館は古山家住宅を改修・復元し、大井宿の町屋を体験してもらうために開館した。

突き当りを左折する。ここが一つ目の枡形で、延寿院横薬師で、本尊の薬師如来は行基の作と伝わっている。

大井宿は西に難所十三峠を控え、岩村街道、秋葉道、下街道と交差し、善光寺、伊勢神宮、熱田神宮への参拝客、尾張へ向かう商人や牛馬荷物で賑わい、美濃16宿中で最も繁栄した。宿並は横町、本町、堅町、茶屋町、橋町の五町と六ケ所の枡形で構成された。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠41軒であった。

大井宿

街道には山本用水が横切っている。この辺りの田畑は水不足で困っていた。安永元年(1772)阿木川の水を灌漑用水として引いた。   明智鉄道を中津ガードでくぐると、正面に「南無阿弥陀仏題目碑」がある。

神社から長国寺にちなむ寺坂の石段を下りると、上宿の8人の女講連中が建立した「馬頭観音」がある。その先には上宿石仏群が村を悪疫や悪人から守っている。なかでも「痰切地蔵」は風邪を引いたら拝めと言われ参拝者が多かった。一番左の碑は、和歌山生まれの高僧「徳本」の碑である。左側には立派な休憩所があり、トイレを借りて休んだ。

県道は大きくカーブし左手に石仏石塔群がある。背の高い長石塔は国石寺の和尚が村内の安全を祈願して延宝8年(1680)建立した。根津甚八は子宝に恵まれず、妻と共に長興寺の妊観音に祈願したところ一子小太郎を授かった。長興寺を再建し、寺地を寄進して長国寺と改めた。

関戸バス停の先の左側に「関戸の一里塚跡碑」がある。江戸から87里目

県道を歩くと、すぐ左の石段の上に「祖霊社根津神社」本殿裏の関戸宝篋印塔は頼朝の御家人で信州の人と言われる根津甚八の墳墓と言われている。その向かいの擁壁上には甚平坂石仏群がある。馬頭観音や虵塚という石塚があり、虵はダとかジャとか読む字で、蛇と一緒の意味がある。

県道410号苗木恵那線が左に迂回するが、正面の石段を上る。ここが根津甚八にちなむ甚平坂である。階段の横には「馬塚」「犬塚」がある。(昔、嘴が槍のように尖り、羽が刃物のように硬い化け鳥がいて、旅人や里人に危害を加えた。鎌倉幕府は根津甚八に鳥退治を命じた。根津は馬に乗り、犬と鷹を連れ、化け鳥を追い、この坂に追い詰めた。馬はここで倒れ、犬と鷹がなおも追い続けたが、犬は日吉(現瑞浪市)で力尽きた。)

岡瀬沢バス停の先に旧岡瀬澤村の庚申塔がある。今も庚申講があり、庚申の日に講元に集まって無病息災を祈っていると書かれていた。向かいの民家にも庚申塔がある。

岡瀬坂を下ると、旧岡瀬澤村に入る。岡瀬澤交差点を横断すると永代燈があり、遠州秋葉山への追分である。濁川を筋違橋で渡る。川に斜めに架けてあったのでこの名前が付いた。 

広久手の上り坂には大正14年建立の馬頭観音が祀られている。この馬頭観音は三面八臂で、大変珍しい。旅人の道中安全と、悪人と悪疫を防ごうと開眼供養された。

 この辺りには、久手と言う地名が多い。調べてみると’(久手とは湿気が多くて水草などが生えている低湿地。それを避けるように道がくねくねと曲っている場所をいう。大湫の湫の同じ意味。)なるほど!この辺りは坂が多く歩くのに大変です。

茄子川バス停の先に「篠原茶屋本陣跡」がある。茄子川村は「間の宿」であった。篠原家は茄子川村の村役人、尾張藩の庄屋を兼ねていた。皇女和宮もここで休息している。家の前には「明治天皇茄子川御小休所御膳水碑」がある。

その先の右側には「尾州白木改番所跡碑」がある。(木曽川筋には各所に「川番所」中山道には「白木番所」が設けられ、木曽産出の材木を厳しく監視した。) 中仙道道標の先には「長連寺薬師堂」の説明板がある。(天正10年(1582)岩村城主となった森蘭丸が建立したが焼失してしまった。)

おじさんにお礼を言って、また街道を歩く。左側に「茄子川村の高札場碑」がある。茄子川村の東口である。(茄子川の由来は、昔この地の御殿様が亡くなると、「鳴り物禁止令」が出た。「生り物」と勘違いして収穫まじかの茄子を川に捨ててしまった。)

右側に立派な家があるので、その先の家さきにいたおじさんに聞くと、「珍しいものを見せてあげる。」と納屋の奥に案内してくれた。土蔵の壁面に描かれた「漆喰画」であった。古いものらしいがしっかりと残っていた。大井宿の篠原家の縁者だそうだ。街道を歩いている人に見せているのだろうか。有難うございました。

右側の石垣上に、石仏と石塔が祀られている。その先には「将監塚」の説明がある。美濃代官を勤めた岡田将監の墓である。と書かれていたがなにも残っていない。

先の左手には「中平神明神社」の解説があり、落ち葉で覆われた急な石段を上っていくと、かわいらしい社殿が祀られている。神明神社の森には、津島神社、妙見神社の二社が祀られている。神明神社は坂本神社八幡宮の境内社であったと記されていた。

中平に入ると、左手段上にお堂があり、弘法大師が祀られている。境内には二体の馬頭観音が祀られている。

藪下バス停の先で、左の道に入る。この分岐には「手差し道標」右新国道美乃坂本駅に至る、左旧国道 大井町に至る。と刻まれている。

街道の左側に「上宿休憩所」があり、トイレを借りて、少し休憩した。その先の高台に地蔵祠や寛文12年(1672)建立の「南無阿弥陀仏」名号碑等がある。

この追分には「石仏石塔群」があり、なかでも「是より苗木道」と刻まれた「双頭一身道祖神」は珍しい。

米田川と刻まれた石塔の先の左側に「中山道駒場村道標」があり、右大井宿、左中津川宿と刻まれている。その同じ敷地に「東山道坂本駅碑」があり、右阿智駅、左大井駅と刻まれていた。(近江と陸奥を結ぶ東山道は、都か美濃の国・坂本駅を通って、信濃の国・阿智駅へと通じていた。この2駅間は距離が長いうえ、急峻な神坂峠(標高1595m)越えを控え、難所であった。坂本駅の場所は定かでないがこの辺りであったと思われる。)

8時16分、「津島神社参道社標」があり、青い「中山道標識」がある。その先に「石仏・石塔群」があり、文化3年(1806)建立の馬頭観音や「南無阿弥陀仏碑」など4基が並んでいる、。

中津川を中津橋で渡る。しばらく行ったところで、資料館の人に教えられたとおりに左折し、今日の宿である「ルートイン中津川」に向かった。ずっと上り坂で17分かかってやっと着き、今日の行程が終わった。

本町広場には、懐かしい井戸がある。 「宿場町の用水」という説明板がある。(四つ目川には板橋がかかっており、旅人はこの橋を渡って本町まで急な坂を上った。上りつめると街道の真ん中には用水が走っていた。生活用水、防火用水として使われていた。明治13年の明治天皇通行の折、馬車が通れるように用水は埋め立てられた。)

脇本陣を勤めた森家は、明治維新以降旅館を営み、明治天皇、板垣退助、キリスト教宣教師など多くの人が宿泊、休憩されている。江戸時代から問屋を勤め、運送業を行っていたため、明治5年、森家宅内に中津川郵便取扱所が開設され、郵政事業に尽力された。 森家は、戦国武将の一族だった。森長可は織田信長に仕えた美濃金山城主。資料館の横に「明治天皇小休止碑」がある。

先に進むと、旭ヶ丘公園があり、園内には「経王書写塔」がある。安永8年(1779)建立、台石の下に法華経の経文を一字づつ一寸の丸い小石360個に墨で書いたものが収められている。文盲の人もこの塔を拝むと読経したのと同じ御利益があると言われている。

山茶花の古木が赤い花をたくさんつけていた。その先の中山道碑の所には白い花を付けた山茶花の木があった。

急坂をぐんぐん下りていく。途中左側に「馬頭観音(いぼ観音)」が祀られている。(イボができると、石を借りてさすり、治ったら石を二つにして返す習慣がある。)南天の赤い実がきれいだった。

石畳を出ると、しばらくして左側に「鐘鋳り場跡」がある。(宝永2年、医王寺の梵鐘を鋳造した所からこの辺りは「かねいりば」「かねば」と呼ばれる。)草を分け入って奥に行くと「馬頭観音」が祀られていた。

この先で、石畳の道に入るのだが、見落として道路を回りこんだ下から入ってしまった。道路を横断して落合旧道にはいる。開けたところに休憩所があり、新茶屋に移転する前の立場茶屋で、ここに街道案内がある。(従来から中山道落合の石畳として保存されていた三か所の石畳をつなぎ合わせて復元した約840mの石畳は険しい木曽路と開けた美濃路の二つの雰囲気を持っている。)

本陣の前を右折する。二つ目の枡形である。左折して本陣の塀沿いに回りこむと、内城稲荷神社がある。社殿の前には「源斉の根付石」と言われる石が置いてある。 「和宮泉」と呼ばれる井戸がある。「良水これに勝る水なし」と喜ばれ、中津川まで運んだという。今も水が湧いているというが、覗いても良く分からなかった。

うだつ(隣の家との境の壁を屋根より上に伸ばし、それに小屋根をつけたもの。火事の時、隣に燃え移るのを防いだり、隣の火事を防いだりする。中津川宿は美濃市についでうだつが多い町です。)はざま酒造は慶長6年(1601)創業で、銘酒「恵那山」の蔵元。

中津川宿は、北に苗木城、東に木曽の宿並を控え、物資の集散地として栄え、三と八の日には六斎市が立ち、東濃の中心として賑わった。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠29軒であった。

急坂を上りつめると、国道十九号線に突き当たる。中山道地下道で国道を横断すると、「中山道上金かいわい」の案内板がある。この辺りは江戸時代、上金村と呼ばれ中津川村の支村であった。

藤村の「母を葬るのうた」の歌碑がある。

中野観音堂の前には寛政8年(1796)の秋葉常夜燈があり、ここには中野高札場があった。

洪水に備えた「浸水防止壁」がある。

駅前通りを横断して本町通りに入り、先を進むと「中野村庄屋の家」がある。文久3年(1861)皇女和宮降嫁の際に、岩村藩代官より助郷村にもかかわらず賄役を強要された野村村百姓熊崎新三郎が役務を終えたのち、賄役の慣例化を恐れ、庄屋宅に滞在していた代官吉田泰蔵に斬りつけた。代官の強要を岩村藩に訴え、代官は罷免され、野井村に金25両が下付された。

橋を渡ると、右側に「五平餅」のお店が眼に入る。昼食をとっていなかったので、ここで「五平餅」をいただく。五本は多いと思ったがぺろりとお腹に入ってしまった。馬籠峠の茶屋で食べたのと一緒で、ゴマダレがかかっていた。雑然とした駄菓子屋さんで、壁に浅田真央さんと一緒に移った写真が飾られていた。友人とここに昨年食べに来たのだそうだ。赤い車を運転していたそうです。「がんばれ 真央ちゃん!!」

突き当りを左折すると橋場に入る。五つ目の枡形です。突き当りの大津屋さんを右折する。六つ目の枡形です。すぐ先で宿並は阿木川に突き当たり、大井宿はここで終わる。阿木川は中津川と恵那の中間に位置する焼山が源で、木曽川に合流する。大井橋で阿木川を渡る。

市神神社の手前を左折し、茶屋町に入る。四つ目の枡形である。市神神社は元々上町にあった。この地では良質な煙草を産出し、毎年正月七日に「煙草市」が立った。福団子といって、たばこの花をかたどった団子を求めるのが通例であった。明治24年に現在地に移転した。子供達の遊び場になっていた。

明治初年の写真が飾られていて、(木曽路に大井出梁造りで、取り外しのできる格子戸がはまり、軒下には講札がかけてある。)とあった。

五妙坂を下ると復元された高札場がある。横川を上横橋で渡ると大井宿に入る。

痰切地蔵

千旦林バス停の先に「式内坂本神社八幡宮」がある。大宝2年(702)創建、天平2年(737)八幡宮を勧進し、後に嵐讃岐が再建に尽力した。その先に「千旦林村の高札場跡碑」がある。千旦林村が立場であった。

供養碑先の階段を下り、車道に合流して先の横断標識の所で国道を横断し、JR中央線側に出る。中津川インター口バス停の先で歩道橋を過ぎたら斜め右に入る。その先の中山道標識を右に入る。六地蔵川を六地蔵橋で渡ると、「六地蔵石憧」がある。明暦3年(1657)建立で、六地蔵が刻まれている。傍らには宝永6年(1709)建立の「南無阿弥陀仏題目碑」がある。

急坂を上りつめると街道は道路を横断して「小石塚立場跡」に出る。「恋し塚」とも呼ばれ数軒の茶屋があった。向かいには「嵐讃岐供養碑」がある。嵐讃岐は木曽家の有力武将の1人で、千旦林に居を構え、千旦林八幡宮の再建に尽力した。

その先には、「上宿の一里塚跡碑」がある。江戸より85里目、塚前には「明治天皇御鳳輦前駆奉仕蹟碑」がある。両塚には榎が植えられていた。北側の塚が昭和9年に3分の1の大きさで復元されている。明治13年の行幸の際に、駒場村の青年達が出て、馬車の先引きを懸命に行い、こでの木坂を通したと言われている。

車道は右にそれるが、旧道は正面の坂を上る。上宿の一里塚までの坂を小手の木坂という。坂の頂上に「こでの木」があったという。石段の左の坂を上り、車道を右折して、先の左石段を上り、車道を右折して、一本目を左折する。そのまま直進する道は「苗木道」で遠山佐渡守一万三千石の苗木城下に通じている。
朝食をとって7時30分にホテルを出る。今度は下り坂を歩いて15分で街道に戻った。

2日目

中津川宿の京口で、高札場があった。常夜燈の裏の細道が旧道痕跡。今は行き止まりになっている。ここを下った先に中津川橋があった。

横町の枡形(宿場の入り口から本陣や脇本陣がある宿場の中心地が見通せないように作られたクランク型の道である。宿場を防衛する為に作られた。)この先には、天満屋、十八屋、白木屋などが軒を連ねる。

隣には「中津川の庄屋を勤めた肥田家(現曽我家)がある。肥田家は代々九郎兵衛を名乗り、屋号は田丸屋、江戸後期からは旅館を営んでいた。明治26年には恵那山に登ったウエストんが宿泊している。明治30年代になると曽我家が譲り受け、中津川で最初の医院を開業した。向かいには、問屋を兼ねた「市岡長右衛門本陣跡」で遺構は残っていない。皇女和宮が10月29日に宿泊している。

左側に小さな秋葉神社が祀られている。その横に「脇本陣跡碑」がある。代々森家が勤めた。(脇本陣は右20mの所にありました。)と書かれている。

中津川宿

高札場の傍らには、常夜燈、庚申塔、二十二夜塔などが据えられている。

茶屋坂を下ると車道に出る。左にカーブして先の歩道橋でバス通りを跨ぐ。この辺りが道が分からなくて迷った。先に歩いていたおじさんもあちこち道を探していた。この先は案内がしっかりしているので、その通りに歩くと高札場に出る。

茶屋坂の下り坂に入る。坂の途中には「間元矩(はざまもとのり)」の碑がある。中津川の初代町長を勤めた顕彰碑で、父の秀矩は国学者平田篤胤没後の門人だった。

公園の先を右にカーブして、ガードレールの切れ目から下り坂に入る。その分岐に芭蕉句碑(すみれ塚)がある。「山路きて 何やらゆかし 寿み連草」 その傍には、馬頭観音や庚申塔がある。

赤い鳥居の桟道を入ると、「旭ヶ丘伏見稲荷」が祀られている。境内には、「石仏、三井寺観音」が祀られている。(昔から土地の人は歯観音といって、虫歯の痛みを直す観音として、今でも参拝者がいる。)

街道脇には「秋葉大権現常夜燈」があり、その先には右側に「尾州白木改番所跡」がある。天明二年(1782)与坂から移設され、木曽から搬出される材木を厳しく取り締まった。白木とは、ヒノキなどの木の皮を削った生地のまゝの木材で、屋根板、天井板、橋板などに利用した。

その先に「第一用水上金水力発電所」があり説明板によると(中津川市では、小水力発電の開発に取り組んでいる。この小水力発電設備は今から約350年前に開発された歴史ある第一用水の水量と水路の落差を利用して発電するシステムです。発電したクリーンな電力は、道路の街路灯(LED10灯)として利用している。)

急な坂を下り、広場に快心庵という休憩所がある。トイレを借りて一休みする。子野川を子野橋で渡り、先に進むと立派な枝垂れ桜が見える。子野の地蔵堂跡で、今は石仏石塔群になっている。桜の木は幹が空洞になっていて土が詰められていた。桜の下に元禄6年(1823)建立の庚申塔等がある。

坂を上りつめると「覚明神社」がある。天明5年(1785)御嶽山の開山を目指した覚明行者がここにあった茶店に泊まり、その際に残した金剛杖、湯のみ、数珠等を祀っている。隣は、御嶽教槙坂覚明霊地保存社で、行事の様子を写した写真が飾られていた。

橋の先は登り坂で左手に19号線の地下道が現れたらここをくぐる。車道を横断して、向かいの与坂旧道の上り坂に入る。坂を上り、坂を下りると「与坂立場跡」がある。立場茶屋、越前屋の名物は三文餅、名産は与坂徳利だった。また、与坂には、「白木改番所」が設置されたが天明2年に上金(中津川)に移転した。向かいには、地蔵祠があり、弘法大師36番札所碑がある。

19号線に沿って坂を下り、突き当りを右折して道なりに進み、下落合川を横手橋で渡る。橋の親柱には「東木曽東京方面 西美濃京都方面」と刻まれ道標を兼ねている。

いったん下った道は急な上り坂になる。ウオーカーのおじさんが汗をふきふき下りてきて、この先は急坂が続くよ。と教えてくれた。国道19号線をおがらん橋で跨ぐと、「おがらん神社」がある。木曽義仲の家来の落合五郎兼行が美濃口の抑えとして館を構えた所と言われている。館跡はおがらん(御伽藍)とよばれ、今はおがらん4社(愛宕神社、山の上神社、天神社、落合五郎兼行神社)が祀られている。

この松の前を左折する。下の枡形で、「右至中山道中津町一里」の石柱道標がある。先ほどのJAで聞いた食堂にいくため、ここを右折して広い道に出ると、食堂があった。「しょうゆかつ丼」を食べたが、ほかにソースかつ丼、味噌かつ丼などがあった。 街道に戻り、道標の向かいの公園は「落合村役場跡」である。

その先には、「門冠の松」が見える。善昌寺の松で、明治24年の道路改修時に寺の一部が道路となり、松がそのまま残され路上に突き出た。この松は創建当時の山門を覆っていたことから、「門冠(もんかぶり)の松」と呼ばれている。樹齢450年

右側に、「井口本陣跡」がある。本陣門は文化12年の大火で焼失後、加賀前田家より寄贈されたもの。皇女和宮降嫁の際に、上段の間で休息した。上段の間の写真が落合宿の案内板に載せられていた。門の前には、明治天皇落合小休碑がある。明治13年の巡幸の際に宿の中央に流れていた用水は端に寄せられた。

中山道の付け替えと落合大橋」(落合川に架かる下桁橋は江戸時代には落合橋とか大橋と呼ばれ、少し下流にあった。洪水により度々流失し、医王寺までの上り道がつづら折れの難所であったため、道筋を変更した。この道も悪路であったため、再び十曲峠をとおる前の道筋に戻った。この時につづら折れの道を廃し、北側に大くき曲って、緩やかに上る道に付け替えられた。)

落合宿は美濃路の東端で、三と六の日に六斎市が開かれ、火縄が有名で、水中でも消えないと言われた。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠14軒であった。広重は落合川に架かる下桁橋、下の枡形、落合宿を描いている。

落合宿

街道沿いには馬頭観音道祖神が祀られ、宿に入りこむ悪霊や悪疫を見張っている。その先に「飯田道追分道標」が立っている。

坂を下り、落合川を「下桁橋」でわたる。落合川は恵那山を源とし、同じく恵那山を源とする湯舟沢川を上流で吸収し、木曽川に落ち合う。

街道が大きく右に曲ると「医王寺」の枝垂れ桜が眼に入る。本尊の「薬師如来」は行基作で「虫封じ薬師」と親しまれ、和尚が助けた狐から教わった「狐膏薬」は刀傷に効くと評判であった。境内には伊勢湾台風で倒れ、二代目の枝垂れ桜がある。芭蕉句碑梅が香に のっと日が出る 山路かな」落合出身の美濃派俳人・崇左坊らによって芭蕉翁160回忌供養のために建てられた。

先に進むと、「なんじゃもんじゃの杜碑」がある。学名をヒトツバタコというモクセイ科の落葉樹で5~6月に白い花を咲かせる。今は花も葉もなく、何の木か分からない。咲いているのをみて見たい。石畳美濃坂を登っていく。ここが馬籠宿と落合宿の境にある標高500mの十曲峠で、小さな木橋を渡ると右からの車道に吸収される。

天保5年建立の芭蕉句碑がある。「送られつ 送りつ果ては 木曽の穐(あき)」島崎藤村の「夜明け前」の中で、本陣の当主「正樹」と年寄役のふたりが出来上がった碑を見て、「この穐と言う字は気に入らん。のぎへんがくずしてあって木曽の蠅としか読めん。」とぼやいている。傍に拓本禁止の立札があった。

神坂の下りになると小公園がある。中津川が一望でき、「信州サンセットポイント百選」に選ばれている。馬籠上陣場にあった島崎正樹の歌碑はこの景を讃えたものである。 正岡子規句碑桑の実の 木曽路出づれば 麦穂かな」かっ血した子規は明治22年に木曽路を経由して松山に帰郷している。

荒町の下り坂を過ぎると、左側に「男女双体道祖神」がある。

左側に「諏訪神社」がある。参道を歩いて行くと、社殿が現れる。村の鎮守である。参道口には「島崎正樹翁記念碑」がある。(最後の当主島崎正樹は維新後木曽谷三十三ヶ村の総代になり、木曽山林の解放運動に奔走したが、弾劾にあい、焦燥の内に生涯を閉じている。)

「丸山の坂」を上ると「馬籠城跡」の解説がある。(この辺りを丸山、城山ともいい、500年ほど前の室町時代から馬籠城があった。関ヶ原の後、家康は木曽を直轄領としたが、元和元年尾州徳川義直の領地とし、馬籠城は廃城となった。) 丸山坂には、庚申塔や石仏が集められている。

大湫宿

馬籠宿へ

地図ではこの道を上がっていくと「木曽義仲妹菊姫の墓・五輪塔」があるが、道が分からなかったので、あきらめて、街道に出る。先日は観光客でごったがえしていたが、今日は静かな街道歩きができる。馬籠宿は坂の町である。

その先には「白木番所跡」の解説版がある。(この小路を番所道と言い、奥に尾張藩の白木番所があった。尾張藩の役人が常駐し、木曽木材の監視が行われた。)

その先に「中山道歴史資料館」がある。「維新の人・間 秀矩」の企画展をやっていた。中津川宿から国を動かそうとした商人ということで、先ほどの顕彰碑のあった元矩の父である。 中津川宿の旧家から発見された資料を保管、展示している。幕末維新を駆け抜けた人々に関する貴重な資料もある。裏手には、脇本陣の上段の間、土蔵が復元されている。建具、柱、欄間などを再利用している。

小祠の前から下り坂にあり、三五沢を三五沢橋で渡る。すぐ先の左側斜面に「子野の一里塚碑」がある。僅かに東塚の痕跡を残している。江戸より84里目の塚。  まき坂を上がると、段上に元禄8年(1695)建立の馬頭観音が祀られている。

左の広場の前には「助け合い大釜」が展示されている(。文久元年(1861)和宮の大通行時には、4日間で延べ約2万6千人が落合宿を通過している。おもてなしをするため、各家の竈はひきも切らず炊き続けられたという。大釜(口径約1.5m)はその象徴を示す。落合宿祭りには、この大釜で「千人キノコ汁」を作っている。)

大きな山茶花の木がり、その向こうに「塚田脇本陣跡碑」がある。脇本陣を勤めた塚田家は、問屋を勤め庄屋も兼ねていた。妻籠、馬籠、落合に分宿した水戸天狗党は、落合宿に集結して中津川宿に向かった。

道は県道7号中津川南木曽線に突き当たる。ここに高札場跡がある。県道を横断して坂道を上がる。 上の枡形を曲ると、寛政4年建立の「上町の常夜燈」がある。(往時、街道には4基の秋葉山常夜燈があったが、明治13年の道路整備で一基は善昌寺に、2基はおがらん公園の愛宕社に移築された。)と書かれていた。宿は1804年と1815年に大火に遭っている。

新茶屋の一里塚が現存している。右の塚は松、左の塚には木がない。江戸より数えて83里目である。

句碑の先には「是より北木曽路」と刻まれた碑がある。ここが信濃(長野県)と木曽路(岐阜県)の境で木曽路の北入口となる。藤村が地元の要請で揮毫したものである。右側には「信濃美濃国境」の石標が立っている。今は馬籠峠が県境である。

旧新茶屋村に入る。新茶屋はワラビもちが名物の立場茶屋だった。元は美濃側にあったが、江戸時代の終わりにこの地に移り、新茶屋と呼ばれた。道中日記の方が泊まった「梅の家」さん、「新茶屋」の民宿が並んでいる。

復元された枡形や水車小屋を見て馬籠宿を後にする。県道7号中津川南木曽線を横断すると、「中山道馬籠宿碑」がある。「江戸江八十里半、京江五十二里半」とあるが、実質は「江戸江八十二里半、京江五十四里半」だそうです。緩い下り坂「石屋坂」を進む。

新町交差点を過ぎると、左手に「すや」がある。元禄年間創業で、元は酢屋であった。今は「栗きんとん」の老舗である。中津川は栗きんとん発祥の地と言われ、たくさんのお店がある。 向かいには「前田青邨画伯生誕之地碑」がある。明治18年中津川で生まれた近代日本画の巨匠である。