恵那~名鉄顔戸駅(こうど)
H1.29.4.23~24
早朝家を出て、東海道線、新幹線、名古屋からワイドビュー信濃で恵那駅に8時41分に着いた。前から買いたかった中津川のお菓子「からすみ」を買い、9時に歩き始める。「中野村庄屋の家」「中野観音堂」を過ぎ、永田川を長島橋(おさじま)で渡る。坂の上交差点を多治見方面に進む。
寺の前にある、みたけわいわい館でお茶をいただき、アイスクリームを食べ休憩した。
蟹薬師願興寺は弘仁6年(815)伝教大師による創建で、蟹薬師は蟹の背に乗って現れた。国指定重要文化財の仏像が24体もあるそうで、立派な収蔵庫があったが、要予約だそうです。
右側の急な石段の上に「耳神社」がある。耳の病に御利益があるといわれている。平癒の願をかけて、備えてある大きな錐を耳に当てる。全快したらその人の年の数だけ錐をお供えする。簾のようにひもで結んだ錐がお供えしてあった。私もまねて耳が良くなるようにお願いする。 神社を掃除している方がいて、その方が先ほどにキリシタン遺跡の本の著者だった。この神社の謂れも説明していただいた。
右手斜面の上に「細久手坂の穴観音」がある。石窟内に寛政13年(1801)建立の馬頭観音が安置されている。観音の日にお参りすると九万九千回お参りしたことになるという。その先には津島神社のかわいいらしい祠が祀られている。解説版によると(尾張津島神社、京都八坂神社、えど天王社の分社で、室町時代より、牛頭(ごず)天王社、津島様と呼ばれ、本来は防疫の大神です。)とあった。
細久手長寿倶楽部お手製の「南蔵院跡」がある。不動明王を祀り、加持祈祷を行った。その先には「大塚」と書かれた案内がある。(昔ある高貴の方が当宿で病死した。以後、この字名がつく。ここより北側一帯が字大塚である。{おくそ塚」和宮は最初細久手宿に宿泊の予定だった。大火があり、急きょ大湫に変更された。宮様の用便だけは変更できず、この地に埋葬して敬愛したとか。)
細久手宿の絵図
大湫公民館の上にある小学校の校庭が「保々本陣跡」である。大湫を開村した保々家は関ヶ原、大阪の陣に参戦し三百石の所領を得た。本陣、庄屋、問屋を勤め、明治時代まで続いた。皇女和宮や数名の姫君がここに宿泊している。空地の奥には、「皇女和宮の陶製人形」が三体飾られていた。
藤大橋を渡り県道に出ると、右側に「藤村の高札場」がある。高札場の左側にはおおきな庚申塔が祀られている。
左側に豊玉稲荷の参道石段がある。赤い鳥居が林立する参道石段を上ると、小さなお稲荷さんが祀られていた。街道に戻り、進むと、左側の小路の突き当りに「上野観音堂」がある。いつもなら小さな祠もお参りしていくが、今日は20km歩かなければ宿に着かないので、手を合わせて先を急ぐ。
14時55分になったので、可児川を顔戸橋で渡り、名鉄広見線「顔戸駅」に向かう。15時5分の犬山行に乗り、犬山で犬山線に乗り換え名古屋へ。新幹線の乗り継ぎが良く、掛川、藤枝には18時1分に着いた。
神社の先で国道21号線から右に入る。中山道標識の先に「八幡神社社標」が建っている。(延長8年の創建で、源義家や顔戸城主斉藤妙椿も視野殿を修理した。)
大場交差点手前に「御嶽神社」がある。この辺りにあったものを整理し集めたような祠で、「清嶽覚直霊神碑」や常夜燈がある。扉を開けると立派な扁額があった。
寺の前を通り、御嵩まち役場を過ぎると「常夜燈」がある。右折し、西屋敷交差点を左折する。
名鉄御嵩駅
今日は、月曜日で、「みたけ館」をはじめ、お店が閉まっていて、町は閑散としている。竹屋跡は本陣野呂家の分家で、主屋は明治10年の建築。本陣は野呂家が勤め、本陣門は往時のもの。脇本陣は現「みたけ館」で宿場の資料を展示解説している。
商家竹屋跡
本陣跡
「みたけ華すし」の看板が出ている家に入った。人がいる気配はするが声をかけても返事が無い。ここは大正時代の古民家を改装してつくられた「華すし」の体験館で、予約が必要だった。町おこしのために考えられた巻き寿司で見た目もきれいです。
左手に「用心井戸」がある。水神が祀られ、井戸の前には「正一位 秋葉神社 上町組」と刻まれた石柱が建っている。
御嶽宿は、願興寺の門前町として栄え、東に大湫、細久手への難所を控え、大いに賑った。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠28軒であり、尾張藩領であった。
国道21号を黙々と歩き、井尻信号を直進する。長岡交差点を過ぎると栢森(かやもり)に入る。ここには栢森の一里塚があったが、今は位置不明。道標にしたがって進むと御嵩宿に入る。
街道に戻ると、その先に「中街道道標」「右中街道 中山道 大井駅 達」がある。東山時代は御嵩~次月~日吉~宿~半原~釜戸~竹折~大井の道筋で中街道と呼ばれていた。慶長7年に大井~大湫~細久手~御嵩間の道筋が新たに開削された。江戸防衛上から難路を選択した結果と言える。
旧道は国道21号線に出る。右折ししばらく行くと、右奥に「和泉式部廟所」がある。中山道をたどる途中御嵩のあたりで病に倒れ、鬼岩温泉で湯治したが、この地で没したといわれている。「ひとりさえ 渡れば沈む浮橋に あとなる人は しばしとどまる」
坂は一段と急な下り坂となる。ここは「牛の鼻欠け坂」で、牛の鼻が欠けてしまうほどの急な坂である。坂を下りると舗装路に吸収される。幕府は要害の地として西洞村を天領とした。この辺りから道標に従って右に左に曲がって進む。石段の上に「摩利支天」や「南無阿弥陀仏名号碑」があり、斜面に蕨がたくさん生えていて、相棒はお土産に収穫しました。
石畳を下ると、舗装路に突き当たる。ここを左折し、小川をわたり車道に出て、左折する。
その先に「右御殿場、左マリア像」の道標がある。200mと書いてあったので林の中に入り、順路に沿って歩いて行くと「マリア像」が祀られていた。像の後ろには「七御前」があり、仏教の墓石である五輪塔が多数ある。 昭和56年、道路工事による五輪塔の移転が行われた際に、その下から数点の十字架を彫った自然石が発見された。ここが仏教の墓地を利用したキリシタン遺跡であったことが判明した。 出土した十字架やマリア像は御嶽会館に収蔵されている。と書かれていて、この本をほしい方はここまでと連絡先が書いてあった。この方とは後ほどお会いすることになる。 この白いマリア像は昭和62年に建立された。
先に進むとY字路になり、左の謡坂(うとうさか)の石畳を下る。上り坂がとても急だったため、旅人が歌を歌いながら苦しさを紛らわしたことから「うたうさか」と呼ばれ、「うとうさか」となった。平成9年から12年にかけて修復整備された。段上の石窟の中に馬頭観音が二体安置されている。
小さな池がありこの辺りが「十本木洗い場跡」で立場の共同洗い場であった。この辺りに十本の松があり、広重画の題材となった茶屋跡である。
復元された「謡坂十本木の一里塚」がある。江戸日本橋より94里目である。十本木茶屋跡には、広重の木曽街道 御嵩」のモデルとなった木賃宿が描かれている。木賃宿は薪代を払って、自炊が原則であった。軒下の柱行燈には御嶽山御神燈が描かれている。
車道を進むと右手に「十本木立場跡」標柱がある。(もともと人足が杖を立て、駕籠や荷を下ろして休息した所から次第に茶屋などが設けられ、旅人の休息場として発展した。) 井戸脇に地蔵が安置されている。
竹林の中の舗装路を下りると、右側に「謡坂 竹炭」と書かれた古い家がある。突き当りを左折すると、左手に「一飲呑みの清水」がある。皇女和宮の野立てに使われた清水である。これも名水50選に選ばれているのに「飲まないでください。」と書かれていた。
下り坂を進むと、こんな山のなかに「カフェ」がある。さらに下ると、「唄清水」がある。この地は尾張藩千村氏の知行地であった。千村平右衛門の句碑「馬子唄の 響きの波立つ 清水かな」に由来する。岐阜県名水50選なのに「飲めません」と書かれていた。向かいには「禁裏御所巡拝記念碑」がある。
坂を上りきると、馬の水飲み場があり、ここが物見峠(諸之木峠)で5軒の茶屋があった。峠右手には「御殿場展望台」がある。皇女和宮通行の際、休憩のため、10月28日にここに御殿が造られた。大田宿を出立して、御嵩宿で昼食をとり、ここで休憩をとって、大湫宿で宿泊した。 展望台からは、恵那山、御嶽山が見える筈だが、かすんでいて見えなかった。
くじあげ坂を下ると、中山道道標がある。道標の先から久しぶりに人家を見る。突き当りを右に進む。天満宮常夜燈がある。台石には「當村氏子中」と刻まれている。つばせ村は東のくじあげ坂と西の諸木坂に挟まれた盆地で間の宿であった。
瑞浪市と御嵩市の境がY字路になっている。右に進むと、三面六臂の馬頭観音が石窟の中に安置されている。さらにくじあげ坂を上ると「山内嘉助屋敷跡」がある。城郭のような石垣を残している。江戸時代、酒造業を営み、茶屋本陣的役割を果たしていた。
緩い秋葉坂を上ると、鴨の巣(こうのす)道となり、斜面上に左手に「鴨之巣道の馬頭文字碑」がある。尾根道を進むと、鎌倉街道が合流する。この追分を鴨之巣追分といい、日吉辻と呼ばれた。追分には、「右旧鎌倉街道迄約1里余り」の道標や道祖神がある。街道は直進する。
右手に小さな池があり、「陸軍大将福島安正馬水池」と書かれている。(日露戦争の際にシベリア大陸を単騎横断して世界をあっと言わせた。大将が中山道を通った時愛馬に水を与えた池である。)
交通標識を右に進むと、「くじ場跡」標石がある。かってここに茶店があり、人足達がたむろし、荷の扱いの順番をくじできめたという。その先の斜面に馬頭観音が祀られている。
右奥に小さな祠があり、入ってみると、「皇女和宮のご使用の井戸」と書かれていた。(1861年、当宿で休憩した際に使用した。今も清水が途切れることなく湧き出ている。)と書かれていた。
直ぐ右手に「細久手本陣跡」標柱がある。本陣は代々小栗八郎右衛門が勤めた。規模は間口13軒(約22m)奥行4軒半(約8m)で建坪58坪だったが今は残されていない。本陣の向かいが脇本陣跡で、代々小栗八左衛門が勤めた。
朝8時、宿の主人夫妻に見送られて、出発する。昨日は、足がつって心配したが、元気に歩けそうです。
公民館の向かいにある今日の宿「大黒屋」は問屋を勤め、尾張藩の定本陣であった。国登録有形文化財で、卯建、玄関門、式台、上段の間が残っている。心づくしの夕食をいただく。宿泊客は私達を含め中山道を歩いている人たちで、5人だった。
大湫宿から御嶽宿までは四里三十町(約19km)と長く、その間には琵琶峠、物見峠が控え難渋を極めた。慶長15年(1813)細久手宿が新設された。宿並は、寛政10年、文化10年、安政5年に大火に見舞われた。今の街並みは安政の大火以降のものである。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠24軒であった。公民館の前には「ちょうちん祭り」のレリーフがある。毎年7月第4土曜日に開催される津島神社の祭礼で、江戸時代に作られた巻藁船を模した山車に赤丸提灯を飾り、宿内を練り歩く。
石段の上に「庚申堂」がある。享和2年(1802)建立の宿の魔除けとして建立された。庚申堂参道わきに高札場跡の標柱がある。
馬頭観音先を左に進む。すぐ先で右折する。宿口の枡形であったのかもしれない。県道を歩くと、日吉第二小学校跡碑と「天王様」が祀られている。天王様は、京都八坂神社の牛頭天王の信仰に始まり、疫病の大神である。細久手長寿倶楽部お手製の看板がある。「茶屋ヶ根」と書かれ、細久手宿の東入り口であったと書かれている。
細久手宿二近づくと「三国見晴台と馬頭様」標柱がある。切山辻の見晴らし台跡である。今は木が生い茂り何も見えません。馬頭観音は元治元年(1864)の建立である。「細久手長寿倶楽部」の手作り説明板がある。
奥之田の一里塚が両塚を残している。江戸日本橋より92里目で、「瑞浪の一里塚」ともいわれている。高さ3m、直径10m程で、自然の地形をうまく利用している。
その先の左側に「女男松の跡」標柱がある。一つの根から二本の松が生えていたことから夫婦円満、子授けに御利益があったというが、昭和の初めに枯れてしまった。
天神坂を下ると右側に「弁財天の池」がある。(池にはジュンサイやカキツバタが自生し、中の島には天保7年(1836)建立の石祠内に天文5年(1536)建立の弁財天が安置されている。)カキツバタはまだ咲いていなかった。しばらく歩き、左側の消火栓の先に「南垣ハナノキ自生地碑」がある。日本の固有種で3~4月に赤い花を咲かせるというので、期待していたが、もう咲き終わっていた。
国際犬訓練所の先には右手に「一つ家茶屋跡」があり、その先の天神前バス停には「天神辻の地蔵尊」がある。享保13年(1728)建立で、「浄信妙清信女」と刻まれている。バスの時刻表を見ると、朝1本、夕方1本しかなかった。
もうやっていないような養鶏場を過ぎると、緩い上りの北野坂になり、「北野坂の廻り国登塔」がある。安永6年(1777)建立、全国66ケ国の巡礼を達成した記念のもので、「六十六部碑」とも呼ばれる。
琵琶峠頂上に着いた。美濃路最高地(558m)。和宮歌碑「住み馴れし 都路いでて けふいくひ いそぐもつらき 東路のたび」傍らには、宝暦13年(1763)建立の「琵琶峠頂上の馬頭様」 が祀られている。
右手に母衣岩(ほろいわ陰石)20m先には烏帽子岩(陽石)がある。これらの大岩は二つ石とか夫婦岩(陰陽石)と呼ばれている二つの岩の間には「中山道二つ岩碑」がある。
その先に、「大洞の馬頭様」祀られている。文政8年(1825)建立の馬頭観音である。「大湫宿大洞小坂碑」がある。すぐ先で、大洞旧道は県道に吸収される。
県道65号線を進むと、休憩小屋がある。安藤広重の「大久手宿画」が掲げられている。中山道のモニュメントがあり、「大湫宿 十三峠←二つ岩→細久手宿 琵琶峠」と刻まれている。
東海道標に「釜戸駅3.7km」とある。嘉永7年(1854)土橋から石橋に架け替えられた「紅葉洞の石橋」跡があり、その先に「小坂の馬頭様」が岩の上に祀られている。
復元された「高札場」があり、ここが大湫宿の西(京)口である。車に見とれているうちに「観音堂」を見落とした。「大湫に過ぎたるもの神明社の大杉と観音堂」といわれた。
神明神社の大杉は樹齢1300年。樹高60m、直径3.2mの大樹であったが、3度の落雷により現在は40mになっている。街道筋で見た中で一番大きいのではないかと思う。
突然、クラシックカーに外国人が乗って細い街道を走ってくる。全部で30台くらい走る。こんなところで何か開催されているのかと帰ってから調べたが分からなかった。
左側に「旧旅籠三浦屋跡」「問屋丸森跡」の屋敷がある。国登録有形文化財になっている。森川家住宅は開放され見学できるようになっていた。ここで、今日の宿「大黒屋さん」に電話をする。「ここからゆっくり歩いて2時間くらい。」ということだった。
大湫(おおくて)宿は、慶長9年(1604)十三峠に新道が開設された際に新設された宿場で、東に十三峠、西に琵琶峠を控え小宿ながら旅籠は多かった。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠30軒であった。
ゆるやかな「童子ヶ根坂」をくだる。Y字路を左に進むと、十三峠最後の急な下り坂・寺坂を下る。右手に「寺坂の石仏石塔群」があり、「是より十三峠碑」が建っている。宗昌寺を過ぎると、「大湫宿碑」がある。14時46分、十三峠歩破しました。
広場には道中安全を祈って天保11年(1840)建立された三十三観音石窟がある。三十三体の馬頭観音が安置されている(。大湫宿内の馬持ち連中や助郷に係る近隣の村からの寄進である。また、定飛脚嶋田屋・京屋・甲州屋や奥州、越後の飛脚才領、松本や伊那の中馬連中が出資者に名を連ねている。)
ここからは巡礼坂の石畳になり、すぐ土道になる。「びあいと坂」「曽根松坂」の土道を下ると広場に出る。おつるさんが営んでいた「阿波屋茶屋跡碑」がある。
いったん下り、再び上ると樫の木坂の石畳が始まる。石畳を進むと、「権現山の一里塚」がある。この一里塚は、慶長8~9年の十三峠の新設に伴い築かれた。江戸日本橋より90里目である。
炭焼きの吾郎坂を下ると、「炭焼き立場跡」に出る。ここは展望が良く、十三峠のなかでは特に旅人に親しまれた立場であった。立場にある大畑村を抜けると、砂利道の吾郎坂になる。
弘法様からは権現坂の急な上り坂になり、坂の名が鞍骨坂に変わると、刈安神社の前に出る。神社が位置する権現山は標高470mで、刈安城址がある。
歴史の道道標を左の草道に入る。観音坂を上ると、大岩の上に祀られた「馬頭観音」がある。先には、「霊場巡拝碑」が建っている。天保2年(1831)建立で、「奉納西国、秩父、坂東供養塔」と刻まれている。
車道を上ると、「大久後の向茶屋跡」がある。ここの平坦地を「茶屋ヶ原」という。この辺りは大久後の立場でした。
すぐ先のY字路を右に進む。この先は急な西坂になる。左手に「馬茶屋跡」がある。木立を進むと開けた所に出る。ここからが茶屋坂の石畳が始まる。道なりに進み、舗装路を横断して、背の高い石垣に沿って、石段の上り坂に入る。上り坂はみつじ坂になり、直ぐに三城峠の頂上に出る。往時はここから藤、権現、奥の三城が望めたところを地名の由来としている。
ショウジョウバカマ
東海自然歩道道標の先には、「山形屋 渡邊」と刻まれた標石がある。
その先には「深萱立場」の解説がかかれている。(大井宿と大湫宿の中間にあたる立場。栗おこわや餅が名物であった。立場本陣は、大名などの身分の高い人の休息場であった。門や式台の付いた立派な建物であった。)深萱立場本陣・加納家の写真が添えられていた。
旧藤村を抜け、田畑に沿い明るい坂道を進む。黒すくも坂を下ると、左手に石塔群があり、佐倉宗五郎大明神が祀られている。
紅坂碑を過ぎると、紅坂橋を渡る。石畳はここで終わる。カタクリやフデリンドウが咲いている。
うばが出茶屋跡を過ぎると、紅坂はでん坂と呼ばれ「ボタン岩」がある。(花崗岩が牡丹の花状になっている。オニオンクラック(玉葱状剥離)と呼ばれる。)玉葱状になった岩がいくつも連なっていた。
旧道正面に送電線の鉄塔が現れると、平六坂碑がある。上りの平六坂の砂利道を進むと、平六茶屋跡標柱がある。先の開けた所が「びやいと茶屋跡」で、名物「枇杷湯糖」は枇杷の葉に薬草を加えて煎じたもの。
左側に宝暦6年(1756)建立の「首なし地蔵」がある。(二人の中間が地蔵前で昼寝をしていたが、一人が目を覚ますと、共の首が無い。怒った中間は「仲間が襲われたのに、黙って見ているとは。」と地蔵の首を切り落とした。それ以来、何度首を付けようとしても如何してもつかなかったという。)
祝坂の上り坂の馬頭観音が祀られている。今はみつばつつじが満開で、濃いピンクの花がきれいです。その先の右側に「姫御殿跡」がある。(皇女和宮降嫁の際に、岩村藩の御用蔵から運んだ無節のヒノキの柱や板と白綾の畳を敷いた御殿を建てて休息所とした。ここには「子持ち松」やその枝越しに馬籠が見えたことから、子と孫が続き、縁起の良い場所と言われた。
明治8年建立の「追分道標」がある。伊勢神宮の鳥居が彫られ、「右西京大阪、左伊勢名護や道」と刻まれている。(中山道を上街道、ここから分かれて下る道を下街道と呼んだ。下街道は竹折、釜戸から高山、多治見をへて名古屋に通じていた。上街道より8里も短かったため、中山道保護のため、商人荷の通行を禁止したが徹底することはでき無かった。)
尾根道を進み、「七本松坂」を上ると、車道に突き当たる。暫く車道を歩き、「歴史の道」道標のところから右の旧道に入る。しばらく歩き、開けたところにでる。「槙ヶ根立場跡」がある。(幕末には、槙本屋、水戸屋、東国屋、松本屋など九軒の茶屋があり、餅、草履、お六櫛を商っていた。明治36年、大井駅が開設し、中央線が全線開通し、中山道を利用する人がなくなる。今は、古井戸、茶屋跡、墓地などを残すのみとなった。)
西行坂を上ると、「西行塚」への上り坂があるが、今日はパスした。(不正形な五輪塔が西行の墓といわれ、竹林庵で死期を悟り、村人に中野坂に葬るように言い残した。)
ショウジョバカマの群落を見つけた。(紅色の花を能衣装の想像上の猩々の赤い毛に見立てて花の下の葉を袴だと考えた。)
その先の奥に寛保4年(1744)創建の「神明神社」がある。この地の産土神。境内には「めおと杉」の大樹がある。 右側に「西行塚 西三丁」と刻まれた道標がある。道路を横断し線路を横切ると「中山道大井宿解説」がある。田違川を西行橋で渡り、中央道高架をくぐる。
街道には、中山道灯籠のモニュメントがあり、その先の左側に「西行硯水公園」がある。水は枯れていたが、通りかかった夫人が「これが西行歌碑」と教えてくれた。苔むしていて字は読めなかった。(西行は「北面の武士であったが、出家しこの地に竹林庵を結び3年間を過ごした。ここの泉水で墨をすり、歌を詠んだ。) 「水の辺に清水流るる柳かげ しばしとてこそ 立ち留まりつれ」
脇本陣跡(現みたけ館)
砂利道の「地蔵坂(おつるが茶屋坂)」を下ると、水場があり「尻冷やし地蔵」が祀られている。(宝永8年(1711)伊勢の豪商熊野屋の夫人が急病になった時、この湧き水で助かり、感謝して地蔵を建立した。地蔵の後に泉があることから尻冷やし地蔵と呼ばれた。)それ以来お助け清水として、旅人や大名行列等も愛飲したという。
急坂を下り、炭火で焼いた餅が名物であった「灰くべ餅の茶屋跡」を過ぎると、「大久後の観音堂、弘法様」が高台に祀られている。覆い屋が新しくなっていた。
紅坂の一里塚があり、両塚を残している。江戸日本橋より89里目である。一里塚を過ぎると、紅坂の石畳が始まる。270mの石畳を残している。
地蔵からは急な下りの「乱れ坂」になる。あまりの急坂に大名行列が乱れたり、旅人の息が乱れ、女性の裾も乱れたことに由来する。乱れ坂碑から石畳になる。乱れ坂の先に「下座切場跡」がある。村役人が裃を着用し土下座をして、幕府や藩の役人を出迎えた所です。坂の麓の乱れ川は石も流れるほどの急流であった。飛脚たちが出資して土橋(乱れ橋)を架け、有料橋の時もあった。
今回は、十三峠越えがあったため、雪解けを待って街道歩きを再開した。大変だったが、無事歩き切り、顔戸までくることができた。坂の上り下りが大変だったが、標識がしっかりあったので、歩きやすかった。また大黒屋さんが土曜日がとれなかったため、御嶽宿が月曜日になってしまい、どこもお休みだったので、次回、少し戻ろうか、もう先に進もうか迷っています。楽しい峠道でした。
顔戸信号機を右に入ると「顔戸城址」の碑がある。(応仁の乱の頃、斉藤妙椿城を築城し、東濃の守りとした。)
その先に「鬼の首塚」がある。(鬼太郎と呼ばれる悪漢が村人を困らせていた。地頭が蟹薬師に祈願した所、祭礼の日に女装して現れるというお告げがあった。これをとらえて首を刎ねここに葬った。)傍らに正岡子規の句碑がある。「草枕 むすぶまもなき 野路の夕立」
車道を歩き、道標を斜め右の西洞(さいと)旧道に入る。Y字路を右の上り坂に進む。左手に「八十八か所巡拝納経塚」がある。西国、四国、坂東、秩父の霊場巡拝記念碑である。舗装路は土道になり、西洞坂の下り坂になると、右手斜面の石窟の中に明和二年建立の三面六臂の馬頭観音が祀られている。台座には、寒念供養塔と刻まれている。寒念仏は一年で最も寒い小寒から節分までの30日間鉦を叩き、念仏を唱えながら諸所をまわる苦行である。
街道に戻り、進むと「中山道道標」がある。「至御殿場」と刻まれている。ここが物見峠口である。諸の木坂を上ると、「百番供養塔」「南無妙法蓮華経」題目碑、さらに「三界萬霊塔」がある。やがて諸木坂は竹林にはいる。
追分の先の右側に「切られヶ洞」の石標がある。ここで牛追いが盗賊に切られたという。その先には、鴨之巣一里塚があり、両塚を残している。地形上北側の塚が16m東方にずれている。江戸日本橋より93里目。
右手に「秋葉坂の三尊石窟」がある。右の像は明和5年(1768)建立の三面六臂の千手観音中央は明和7年建立の一面六臂の馬頭観音、左には風化が進んだ石仏が石窟内に安置されている。 石仏の前の石灯籠は天保11年(1840)の銘がある。
峠開設時のノミで削った跡を残す岩が残っている。その先に両塚を完全に残す「八瀬沢の一里塚」がある。両塚は地形の制約で位置がズレている。江戸日本橋より91里目である。
琵琶峠東登り口碑には文政11年(1814)建立の馬頭観音等がある。石畳を上っていく。江戸時代の石畳としては最長で730mある。脇の水路からはカエルの声が聞こえる。
二つ岩碑には、大田南畝の壬戌紀行(じんじゅつ)の一節が刻まれている。(烏帽子岩は高さ6m、巾は約9m、母衣岩は高さは等しく、巾は倍ある。)広重は母衣岩を大湫として描いたといわれている。
脇本陣跡・本陣から分家した保々家が勤めた。母屋は国有形文化財。
古い街並みが続き、白山神社を過ぎた所に「虫籠窓」をもつ家があった。「岡田屋」と書かれた看板がかかっていた。
新森森川家住宅・明治期・国有形文化財
巡礼坂を進むと中山道ゴルフ倶楽部のカート道を横切る。その先に巡礼水碑があり、ロストボールが供えられていた。(ここで病になった巡礼の母娘が念仏を唱えると、目の前の大岩から水が噴き出したという「お助け清水」、巡礼水の上には宝暦7年(1757)建立の馬頭観音が祀られている。この辺りでは「馬頭様」と言うらしい。
「歴史の道中山道」の道標の所に「下切座跡」がある。向かいに大きな「中山道碑」があり、「是より藤」と刻まれている。ここは、恵那市武並町藤と瑞浪市釜戸大久後の境である。
頂上には、婆が営んでいた「ばばが茶屋跡」があり、石垣に囲まれた茶屋坂を下ると、車道に突き当たる。
深萱分岐を右に入る。休憩所があったので、そこで昼食をとった。十三峠に入るところに(食事場所や飲料を売るところが無いので、準備して入ること。)という看板があった。昔は旅人のために茶屋が所々にあったが、今は何もない。持ってきた食料をここで食べた。
向かいには、三社灯籠がある。嘉永7年(1854)深萱立場茶屋本陣当主加納三右衛門が奉納したもの。神明神社口の向こうには「よごれ茶屋跡」がある。
かくれ神坂を上ると、「妻の神」がある。道祖神の一種で、賽の神でもあり、ここは長島町久須見村と竹並町竹折村の境で悪霊の侵入を見張っている。
旧四ツ谷村の「お継原坂」を上り、竹折村高札場跡、四ツ谷立場跡、大名街道を過ぎると、Y字路があり、左の砂利道に進む。
「伊勢神宮遥拝所跡」(伊勢神宮参参拝の人は、ここで下街道を西に向かった。伊勢までの時間や費用の無い人はここで手を合わせて遥拝した。)
西行坂を上りつめると「槙ヶ根の一里塚」で、両塚を残している。江戸日本橋より88里目。この辺りは「西行の森」と呼ばれ、恵那市の「桜百選の園」で、たくさんの桜の木が満開でした。 ワラビ採りの人たちもいて、ここで蕨採りをしたいくらいだった。
「十三峠碑」があり、「是より十三峠」と刻まれている。向かい側には「馬頭観音」が祀られている。「十三峠におまけが七つ」と呼ばれ、美濃路の難所のひとつである。西行坂の石畳から始まる。