早朝家を出て、JRで豊橋へ、名鉄に乗り換えて、本宿まで行った。東海道にでる地下道には、「東海道分間延絵図」が描かれ、「御油から藤川までが描かれている。8時10分、前回の続きから歩き始める。

右側に松の木が現れ、だんだん松の木の数が増えていく。10時29分三叉路にでる。ここは藤川村の西の端で、左側の道は土呂、西尾、吉良方面に行く道で、吉良道、吉良街道と呼ばれていた。江戸時代、参勤交代の行列、助郷務めの出役、海産物の搬入路など重要な脇街道であった。また、伝説には、茶壷行列が通ると雨が降るという「茶壷の涙雨」の話も残っている。童謡「ずいずいずっころばしごまみそずい、ちゃつぼにおわれてとっぴんしゃん ぬけたらどんどこしょ」とは、嫌われ者の茶壷道中が来たら、戸を閉めて、抜けたら、あーやれやれという意味らしい。初めて知った。

石垣の所には「からむしの自生地」とあり、イラクサ科の多年草で、この付近では「ちょま」といい茎の皮をはいで、取れた繊維で糸をつむぎ縄をなった。

H.24.10.27

本宿〜東岡崎

8時52分、舞木交差点で、国1号と合流する。向こうに山中八幡宮の赤い鳥居が見える。

8時18分、豊川信用金庫のある交差点の手前の右側に本宿史跡保存会の「一里塚跡」があった。少し行った右側に長屋門のある屋敷がある。宇都野龍碩邸跡の説明板がある。(本宿村医家宇都野氏は、古部村の出といわれ、宝暦年間三代立碩が開業したのが始まりと言われる。七代龍碩は、シーボルト門人の青木周弼に医学を学んだ蘭方医として知られる。安政年間、当時としては画期的な、植疱瘡(種痘)を施している。)

街道の戻り、国1号、市場町交差点先で左側に入る道に、藤川宿の矢印があった。 

9時20分、藤川宿の東棒鼻に着いた。日本橋から37番目の宿場であるが、赤坂宿より二里強しかなく、家数は302軒、人口は1213人と少ない。村の規模が小さいためやっていけなくなり、隣町の市場町から68戸を移転させ、加宿市場村を作った。

大平郵便局の前に、西大平藩陣屋跡の案内がある。右奥に100mほど入ると陣屋の門構えが見える。門と塀だけで、内部は平地になっていた。 西大平藩陣屋は、大岡越前守忠相が領地を治めるために設けたものである。忠相は旗本であったが、72歳の時に、吉宗の口ぞえで4080石の加増を受け、1万石の大名になった。藩主だったのは、僅か3年で、その後は子孫が継ぎ、明治維新を迎えた。江戸常駐の定府大名だったため、参勤交代をしたことはない。陣屋には、郡代1名、郡奉行1名、代官2名、手代3名、郷足軽4〜5名が詰めていた。額田組12村、宝飯組5村、加茂、碧海7村が領地で、それぞれの組に陣屋役人がおかれ、年貢の徴収や村々の取り締まりを行なっていた。 

交差点をはさんで、十王堂がある。十王堂は十人の王を祀るお堂で、その王とは、冥土にいて死者の罪を裁く判官を言う。 その奥には、成就院があり、境内の右側には芭蕉の句碑がある。 ここも三河 むらさき麦の かきつはた はせを 

棒鼻を入り、右折しT字路を左折する。此処に「藤川宿の曲手」の説明板があった。(かねんてとは、直線状の道を直角に右に曲がり、また左へとクランク上に曲がることをいう。加宿市場町を設けた時に、その東はずれを意識的に曲げてつけたことによる。外的から宿を守るため、とか、道を曲げることにより、街道の長さを増やし、住む人を増やしたともいわれる。この付近には、当時繁盛した茶屋「かどや佐七」跡が曲がり角にあり、常夜燈もある。)

棒鼻とは、土塁に石垣、その上に竹矢来や木を植えたもので、番人が居て、宿場の出入りを監視していた。ここにあるのは、平成4年に復元されたものである。歌川広重「藤川 棒鼻の図」がある。

藤川宿

道路を渡って、畑の中を歩き大きな常夜燈に向かう。八幡宮の氏子達が天保年間に建立したもの。130段の石段を上がると、本宮がある。弘治4年、今川氏から開放された家康が、初陣の三河寺部城攻めに際して、戦勝祈願をしたところである。慶長2年には、衛門を建て、社殿を造営した。 三河一向一揆で、門徒達に追われた家康が身を隠したとされる鳩ヶ窟がある。

8時46分、屋根の付いたお休み処があり、舞木の説明板がある。(舞木町の名前の由来は、山中八幡神宮記の一節に「文武天皇の頃、雲の中より神樹の一片が神霊を乗せて舞い降りる。」と書いてあるところから、「木が舞い下りる」をとって舞木と名づけた。永證寺を見ながら舞木橋を渡ると僅かながら松並木が残っている。

その先に松の木が何本か見えてきた。8時21分、本宿町沢渡交差点で本宿は終わる。此処には、道標と本宿の説明板があった。是より東、本宿村とあり、赤坂宿と藤川宿の中間に位置する村としての役割を果たしていた。また、本宿は麻縄に産地として、麻細工が盛んであった。

しばらく道沿いに歩き、乙川に突き当たる。右折して大平橋をわたる。大平東交差点を横断し、右に入る道が旧東海道である。少し先には薬師寺があり、その先に、秋葉山常夜燈と火の見櫓がある。少し先は三叉路になっていて、つくて道 東海道と書かれた道標がある。「つくて」とは、新城市作手村のことのようで、此処から東海道と分かれて曲ると、作手村に行くという道標である。

鳩ヶ窟

東海道は、此処からまた国T号に合流する。国道の右側を歩く。ここは江戸時代山綱村だったところである。やがて旧舞木村に入る。しばらく歩くと名鉄の線路沿いに出る。線路に沿った細い道を歩いていくと、名鉄山中駅がある。

街道は、藤川西の交差点で国1号と合流する。その後、2kmほど国道を歩く。美合新町交差点手前で、左側の細い道に入る。

ここから先が、宿場の中心である。伝馬町5丁目交差点で、太陽緑地を横切り、直進する。

ここを左折し、若宮1丁目交差点を直進すると、右に根石寺、根石観音堂がある。このあたりは、地面を掘ると、投げるのに良い石が出てきたので、投町、根石町という名前が付いた。両町2丁目交差点を過ぎ100m先を右折する。此処を右折して少し行くと、両町公民館がある。公民館の前に小さな社があり、その中に、常夜燈が保管されている。寛政2年に建てられた秋葉常夜燈であるが、昭和20年の戦災で被害を受け、その一部をこのように大切に保管している。

ヤンマーディーゼルの前を右折し、二つ目の若宮町交差点の角に、「岡崎城下二十七曲がり」の碑があり、「欠町より投町角岡崎城入り口」の石碑が建っている。(江戸時代の岡崎の町は、東海道の宿駅として栄えた。市民病院跡地の当地は、宿内の東端に位置する投町(なぐりちょう)と呼ばれていた。東海道の往還は当地の南で欠村から宿内に入り、ここで西に大きく曲がる。その曲折点は岡崎城下二十七曲がりの一つに数えられる。19世紀初頭、投町には多くの店が軒を並べていた。茶屋で売られていた「餡かけ豆腐」(あわゆき)は当宿の名物であった。)

12時34分、木の冠木門岡崎七曲りの石碑がある。 江戸時代には、ここが岡崎宿の江戸方の入り口で、番人が冠木門を入ってくる旅人を監視していた。岡崎宿は、二十七曲がりといわれるほど道が右折、左折を繰り返す。宿場町と同時に、岡崎藩五万石の城下町であったため、道が複雑になった。

岡崎宿

11時33分、大平バス停前に大平一里塚がある。日本橋から80里に当たる。現在の一里塚は、昭和3年の道路改修の際に、北側の一里塚は破壊され、南側だけが残った。塚の大きさは、高さ2.4m、中央には榎が植えられている。元は榎の巨木であったが、昭和20年の台風で倒木し、新たに植えられたものである。 

西の棒鼻をでて、しばらく行くと左側に「藤川一里塚跡」がある。東海道の開設と同時に作られた一里塚だったが、天保年間には、南側はすでになくなり、北側の榎は昭和初期に枯れてなくなったという。

10時15分、藤川小学校の前に西の棒鼻がある。宿場の出入り口を棒鼻といい、地元の往還図には、宿囲石垣とある。と書いてあった。 小学校では、何か行事があるのか、父兄が車で集ってきていた。校舎には、「銅メダルおめでとう」とあり、アーチェリーの蟹江選手の母校だったようだ。「きんさんぎんさん」のぎんさんも蟹江さんだったと思う。この辺りには多い苗字のようだ。歌川豊広の歌碑があった。広重の師匠で浮世絵師だった。 藤川の 宿の棒鼻 見渡せば 杉のうるしと うで蛸のあし

江戸時代の東海宿村大概帳には、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠36軒とある。銭屋の蓮向かいに本陣だった森川家があり、現在は第二資料館になっている。歌川広重の藤川宿図がかかっている。 藤川宿の本陣は2軒あったが、その後退転を繰り返し、江戸時代後期には、森川久左衛門が本陣を務めた。脇本陣を務めたのは、大西喜太夫の橘屋で、現在は藤川資料館になっている。

粟生人形店

銭屋、つる屋、米屋と書かれた家がある。資料館の説明板によると、つる屋は旅籠で、当時藤川にあった7軒の大旅籠のひとつ。二階は大名行列を見下ろさないように、網目格子になっている。米屋と銭屋は商家であった。

休日切符   2600円
豊橋〜本宿   470円
東岡崎〜豊橋 540円
バス        160円
計      3770円

岡崎宿続き

交差点を越えると、「備前屋」がある。「淡雪」と「八丁味噌煎餅」を買い求めた。時間も1時を過ぎたので、備前屋の横を通って、名鉄東岡崎から豊橋にでて、JRで家に帰った。

ガソリンスタンドに突き当たったら左折する。ここを通る道は、岡崎城を避けて居るので、旅人は城を見ることはできなかった。岡崎城は、松平清康が、享禄3年に現在の場所に移したので、孫の家康はこの城内で生まれている。

曲がり角にはこのような道標が立って居る。「両町より伝馬町角}と書いてある。

その道の手前に、風化した東海道の説明板があるが、新しく東海道の石の道標が立っていた。道は段々細くなり、県道48号線を越えると、スクラップ工場がある。山綱川にかかる橋を渡る。

長さ1kmの間に、約90本の黒松の立派な松並木が残っている。

資料館脇本陣の裏手には、石垣も残っていた。

その先で橋を渡ると、江戸時代の藤川村である。右側に、高札場の案内板があった。それによると、高札場は、高さ一丈、長さ二間半、横は一間の大きさで、八枚の高札が提示されていた。現在保存されている高札は6枚あり、3枚は資料館に保存されている。とあった。

その先の左奥に入ると、片目不動と書かれた赤い幟が何本もひるがえっている。真言宗醍醐派の弘法山明星院というお寺で、寺の本尊が徳川家康の窮地を救ったということで有名なのだ。 家康が、戦で追い詰められた時、見知らぬ武士に助けられたが、武士は、敵の矢で片目をつぶされ、消えてしまった。後日、家康が明星院に参拝した際、堂内の不動尊の目がつぶれているのを見て、あの武士は不動尊の化身だったのかと感謝した。本尊の不動明王立像は、秘仏になっている。

この辺りはむらさき麦が名物だったが、長らく栽培されていなかったのを、平成6年に栽培に成功し、現在では、数箇所で栽培されている。資料館にもむらさき麦のことが書かれていた。根元から穂先まで紫色絵押した麦だそうです。ここで、藤川宿は終わる。わずか九町二十間(約1200m)の短い宿場だった。

東海道で3番目に大きな宿場で、本陣3軒、脇本陣3軒、旅籠120軒あった。

街道を直進すると、ファミリーマート岡崎総合センター前で国1号と合流する。右手奥に、村社八幡宮がある。鳥居が3本もある立派な社だった。国1号を右折し、アオヤマダイソー脇の道に入り、インターチェンジ入り口の下をくぐって、向こう側に出る。しばらく国道沿いを歩き、国道と分かれて右に入り、法光寺の前を通り、直進する。

赤坂宿へ