三島〜箱根〜三島 H.24.04.1
今日は、最大の難所、箱根峠を目指すので、早朝6時前に家をでた。6時23分のJRで、三島まで。8時15分の沼津箱根登山線 元箱根港行きに乗る。1時間に1本しかないので、先日帰るときに時刻表を見ていった。前回の続きなので、 塚原上で下りる。8時36分 夢舞台 東海道 塚原新田 臼転坂が目の前にあった。
箱根エコパーキングという駐車場があり、その中を歩いていくと、箱根八里記念碑(峠の地蔵)と書かれた8体の現代的な地蔵がおかれている。それぞれに未来への道標となろう言葉を抱えて現代の一里塚といえると書かれていた。黒柳徹子氏や、桜井よし子氏など8人の方々です。
藤枝〜三島 1280円
三島〜藤枝 1280円
バス 280円
バス 940円
すり鉢曲輪
左側には、畑が続き、農作業をする人たちがいた。
笹原一里塚
12〜3分歩くと、左側に、松雲寺があり、寺本陣旧跡と書いてあった。また、明治天皇史跡などもあった。
新しい標識が要所要所に立っているが、このような古いものもあった。箱根旧街道(小時雨坂)とあったが、この坂の名前だろうか。 今日はお天気が良く、富士山も見えたが、春なので、霞んで見えた。
傍に、駒形神社があり、境内には、犬塚明神が祀られていた。
駒形神社の前を通り、左折して直進すると箱根宿に入る。関所南交差点を過ぎたあたりから、観光客で賑わっている。バス乗り場で、案内所に行くと1時28分の三島行きがあるというので、今日はここで終わりにする。
箱根旧街道向坂地区の入り口には、芦川の石仏群がある。元は、駒形神社の境内にあったものをここに移した。箱根で最も古い万治元年の庚申塔や巡礼供養塔がある。
釜石坂に出る。説明板によると、「この坂道に残る杉並木は、芦ノ湖畔のトンキン地区、吾妻嶽地区、箱根関所付近の新谷町地区と並んで江戸時代の杉並木です。あわせて約420本の老杉が残っている。」
12時5分 夢舞台 東海道 兜石の道標があり、東屋があった。。少し入ったところに、井上靖の箱根八里記念碑がある。 北斗蘭干 と書かれていた。(北極星が燦然と夜空に輝く)と言う意味だそうだ。国道に出るところに、石柱があり、是より京都百里、江戸二十五里と書かれていた。
臼転坂の上り口にある説明板によると「東海道の最大の難所は、小田原宿と三島宿を結ぶ標高845mの箱根峠を越える箱根8里(約32km)区間で、箱根旧街道と呼ばれる。最初は箱根竹の束を敷いたが、幅2間の石畳に改修された。ここ臼転坂は、牛がこの道で転がったとか、臼を転がしたため、この名が付いたとされる。」
赤石坂の説明板を見て、国1号線の下をくぐり、向坂に至る。
此のあたりには、茨が生い茂っているので、此のあたりの草原を茨平と言う。と書かれていた。国道に出て、しばらく歩くが、付近は、冬なので、枯れ草の草原が広がっている。
その向いには、中山一里塚がある。箱根八里西坂と書いてあり、箱根関所跡まで4kmと書いてあった。国道に出て、しばらく国道を歩く。右に入る入り口に標識があったが、木で隠れていて、見落とすところだった。
風が強く、帽子が飛ばされそうで、良く整備された所だったが、観光客は少なかった。これから良い季節には、子供連れで遊びに来るには良い所だと思う。岱崎出丸のほうだけを見学した。
箱根宿
芦ノ湖や海賊船をみて、雲助団子を買い求め、バスに乗った。箱根旧街道は、新しく出来た国道に寸断されれいたが、良く整備復元されていて、旧道を気持ちよく歩くことが出来た。 また、駅伝ミュージアムなどもあり、ここは、箱根駅伝の終点でもあり、出発点でもある。
周囲は、篠竹、箱根竹といわれる高さのある笹が茂っている。風越坂の石畳に出る。説明板によると、当時石畳が敷かれたところは、坂だけで、集落や平坦な所には、敷かれなかった。
しばらく車道を歩き、入る道がないかときょろきょろすると、右側に箱根旧街道の標識があった。挟石坂の急な半分壊れた階段を下りる。案内板によると、当時は、ごろごろした石と、一面の茅しかない荒涼とした所だったようです。
12時20分 標高846mの箱根峠に着いた。バンザーイ!!随分広いところで、現代の峠はあちこちに伸びた道で、迷いそう。そのあたりをうろうろしてしまったが、元箱根方面を目指して歩いていると、下からウオーカーらしいおじさんが上がってきた。「箱根関所はこの道でいいですか?」と聞くと「3kmくらい歩くとあるよ。」と教えてくれた。
箱根八里記念碑
小さな階段を上り、兜石坂に入る。石がごろごろしていて、随分荒れた感じだった。10分ほど歩くと、兜石跡と書かれた小さな石碑が建っている。
11時43分、夢舞台 東海道 接待茶屋 の道標に着いた。接待茶屋とは、江戸時代中期の、箱根山金剛院別当が、箱根山を往来する人々の苦難を救うため、人や馬に粥や飼葉、焚き火を無料で施した。その後途絶えたり、再興したりして、昭和45年に鈴木家が終止符をうつまで、箱根を往来する人馬の救済をした。
かぶと石は、説明板によると、「兜の形をしているからかぶと石といわれる。また、傍の碑銘によれば、豊臣秀吉が小田原征伐の時に、休息した際に、兜を置いた石であると言われている。兜石坂に会ったものを、昭和の初めに、国道1号線拡張のため、此の地に移した。」
向こうから走るように来る人がいる。山伏の格好をしている。「おじさんは、山伏ですか?」と聞いてみた。「そうだ。奈良の大峰山で修行した。毎月一回、湯元から三島まで歩いている。」と言っていた。寒いのでダウンを着ているのがおかしかったが、初めて山伏に出会って、色々話を聴くことが出来てよかった。また、走るようにして去って行った。
願合寺地区の石畳復元・修理の看板が出ている。此の地区には、石橋が見つかっている。村上石橋とここ一本杉の石橋で、長さ160cm、幅60cmで、厚さ35cmの板状の石を6枚敷き並べてある。
雲助とは、江戸時代に、宿場や街道で駕籠かきや、荷物の運搬に携わった人夫のことをいい、道中の安全な移動を支えてきた。足下を見て悪いことをする人たちもいたが、案内板には、雲助がいなかったら、箱根の坂を登れない女や病人はどうなったでしょうと擁護している。
中山城を後にして、箱根峠を目指し、石畳を歩く。芝切地蔵尊が左側にある。説明板によると「山中新田の旅籠に巡礼姿の旅人が泊まった折、急な腹痛でこの世を去った。死ぬ前に「私を地蔵尊として祀り、芝塚を積んで、故郷の常陸が見えるようにしてください。村人の健康を守ってあげます。と言い残した。村人は地蔵尊を祀り、小麦饅頭を作り旅人を接待した。」
坂の入り口に馬頭観世音の石碑が建っている。その前で、出会ったおじさんに「どこまで行くの?」と聞かれ、「お昼頃までで、どこまでいけるか?」と聞いたら、「中山城くらいかな。健脚ならもっといけるよ。」頑張って歩こう。坂は5分ほどで国道に出た。
開けた明るい広場に出る。仮設トイレもあった。この先は石原坂と言うようである。荒れた石ころの坂を上がっていくと、大きな石があり、念仏石という説明板があった。石の前には、「南無阿弥陀仏 宗閑寺」と書かれた碑がある。行き倒れになった旅人を、寺が供養して碑を建てたと書いてあった。今は整備されて歩きやすくなっているが、昔は難所と言われて旅人にとっては、大変な所だったのだろう。
しばらく国道を歩き、左折する。民家の横を右折し、大枯木坂を上る。はじめは開けた道が続くが、突然杉林になる。
一本杉の石橋
国道に合流して、歩道橋の手前を右方向に入る。箱根旧街道の石柱があった。直ぐに、雲助徳利の墓がある。墓石に盃と徳利が刻まれている。雲助の親分、松谷久四郎は、元々武士で、西国大名の指南役まで務めたが、酒が原因で国を出た。流れ着いた箱根で雲助の仲間になった。雲助たちには人望があったようだ。この墓は、中山一里塚あたりにあったが、いつの間にか此の地に移ってきました。と説明版に書かれていた。
昭和48年から発掘調査を行い、障子堀や畝堀などの発見は、水のない空堀の底に畝を残し、敵兵の行動を阻害するという北条流築城の特徴を示している。
岱崎出丸入り口50m先の標識を過ぎると 10時17分 夢舞台 東海道 山中新田 山中城跡 の道標がある。山中城は、小田原北条氏の城で、豊臣秀吉に攻められて僅か半日で落城した悲劇の城といわれている。旧東街道は、本城と岱崎出丸の間を通っている。街道右手の岱崎出丸から戦闘が始まった。豊臣勢にも多数の死者がでたらしい。
箱根峠 山中城址の道標がある横断歩道を渡り、右方向へ入る。そこに夢舞台 東海道 中山新田 腰巻地区の道標がある。また、腰巻地区石畳復元修復の看板があった。10分ほど杉林の中を歩くと司馬遼太郎の箱根八里記念碑がある。幾億の跫音が 坂に積もり 吐く息が谷を埋める わが箱根にこそ
句碑の前に食堂があり、その横の旧道を進む。そこに、10時 夢舞台 東海道 山中新田 富士見平の道標があった。
階段を上り、国道に出る。急カーブでクルマが多く危ないので、右方向に迂回し、横断歩道を渡る。渡ったところに、富士見平芭蕉句碑があった。 霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き 今日は、句碑の後に白い富士山が見えた。
上長坂地区の石畳復元整備の説明板がある。平成8年 上長坂地区370mを復元整備したとあり、整備復元の方法が書いてあった。
5分程で、国道に合流する。9時45分 夢舞台 東海道 笹原新田 の道標がある。そこに笹原地区の石畳復元、整備の説明板がある。平成9年に、笹原地区の430mのうち380mを復元整備した。とあり、整備の方法が書いてあった。国道をしばらく歩くと、また同じ道標があり、右折して、上長坂方面に入る。
10分ほど歩くとまた、車道に出る。9時33分 夢舞台 東海道 笹原新田 笹原一里塚の道標がある。一里塚は南側のみ現存していた。塚の周囲は30mほどあるが、うっそうとしていて、道標がなければ見逃してしまう。大岡信の箱根八里記念碑がある。 森のこだま谺(こだま)を背に 此の径をゆく 次なる道に出会うため
9時20分 夢舞台 東海道 こわめし坂の道標がある。説明板によると「ここ下長坂は、別名こわめし坂と言う。急勾配で、背に負った米も人の汗や蒸気で蒸され、ついに強飯になるからだといわれる。」道の反対側にも同じ案内板があり、坂が始まった。
説明板によると、「題目坂は、玉沢妙法華寺への道程を示す題目石から名づけられたと言われている。題目石は、現在、法善寺に移されている。」 坂を上ると、征夷大将軍 足利尊氏公 建立 七面堂旧址の石碑が建っていた。題目坂を上り、小学校脇を通りしばらく集落の間を歩く。左に法善寺旧址の石碑が建っている。
道は、Y字に分岐し、そのまんなかに 8時52分 夢舞台 東海道 題目坂 がある。左に曲がった先に、題目坂 箱根峠の標識があり、階段があった。
坂を上がり、市の山のバス亭前左に、六地蔵と地蔵堂があった。地蔵堂には、このあたりで所々に出てくる、「軒下の美術館」があり、その土地の名所旧跡の写真や絵が飾ってある。
途中、函南原生林こちらと言う矢印があった。薄暗い林の中を歩き、階段を上ると、国道に出た。10時 夢舞台 東海道 山中新田 願合寺地区 の道標がある。
御馬場北堀
箱根八里記念碑
箱根関所跡まで9km