R.1.5.18~19

山梨市~韮崎

東川を渡ると「光善寺跡」がある。文化15年(1818)の丸石道祖神、寛政5年(1793)建立の三界萬霊塔などがあある。

松原交差点を過ぎ、十郎川を十郎大橋で渡る。十郎川は濁川に吸収され笛吹川に落ち合う。右の傍らにかわいらしい「六地蔵」が陽刻されている。

富士駅から身延線に乗り換えて、甲府まで、中央線で山梨市駅に着いた。朝早くは富士川号がなく、全部各停なので4時間17分もかかった。タクシーで前回のコンビニまで行く。10:00に歩き始める。 駅前には甲州八珍果をテーマにした「大地のシンフォニー」のモニュメントがある。八珍果とはブドウ、モモ、カキ、クリ、ナシ、リンゴ、ザクロ、クルミ(またはギンナン)である。

街道に戻り、交差点の左奥に「文殊神社」がある。境内に芭蕉句碑がある。「物言えば 唇寒し 秋の風」 「素堂治水碑」がある。山口素堂は甲府藩士で近くを流れる濁川の治水事業に携わった。お堂は新しく、碑には新しい注連縄がかかっていた。

ENEOSUを左折すると、左奥に「天尊躰寺」がある。金山奉行を勤めた大久保長安や「目に青葉山ほほぎす初がつお」の山口素堂の墓がある。素堂は上教石山口の出身で甲府藩士であった。

荒川を荒川橋で渡る。橋の中央にバス停があった。先日甲府に来た時もこの橋を渡ったが気が付かなかった。相棒が「日野小平の心旅で見た。」と教えてくれた。珍しい光景です。貢川(くかわ)を貢川橋でわたる。西橋詰を右の道に入る。左のカーブするところに「サイカチ」の木がある。推定樹齢300年。サイカチは川岸の湿ったところに生える樹木で、ここが貢川沿いであったことを証明している。大小2本そろっていることから夫婦サイカチと呼んでいるが両樹とも雄木である。

日産プリンスの手前を左折し、坂を上ると「姫宮神社」がある。境内には宝暦6年(1835)建立の「鏡石」がある。中央が丸くくり抜かれている。富士講の信者がこの穴を通して富士を遥拝した。今日はよく晴れていたが富士を拝むことはできなかった。「船山河岸碑」を探してうろうろしたが、神社の前の広場にあった。(天保6年(1835)釜無川の流れを大岩で川岸を築いた。富士川舟運の終点として大いに賑わった。)

その筋向いには「旧庄屋宅」がある。豪勢な建物を残している。庭もきれいに手入れされている。なまこ壁が残っている。

下今井上町信号機を右に伸びた道は「穂坂道」で甲斐と信濃を結んでいる。その先の左に下今井の丸石道祖神がある。架道橋くぐりY字路を右にはいると県道6号甲府韮崎線に入ると右に「泣石」がある。(天正10年(1582)高遠城が落城すると勝頼は完成したばかりの新府韮崎城に火を放ち岩殿城に向けて落ち延びた。その際勝頼夫人がここで振り返り燃える城を見て涙を流したという。)

その際を左の坂道に入る。庚申塔男女双体道祖神がある。

視界が開け右手に「茅が岳」が見える。赤坂台病院を過ぎると右手に小屋があり、その中に石仏石塔が押し込められている。地蔵尊「右江戸道 左五ヶ村道」や供養塔があるのだがひどい。。

店を出て街道に戻ると右側に「諏訪神社」がある。竜王町の産土神。並びには赤坂稲荷神社がある。境内には「竜王新町諏訪神社秋季御柱大祭」の御柱がたっていた。

赤坂を上るのに疲れて、右の奥の幟を見つける。「みんなの家」だったか?お母さんと息子さんが土日だけやっている食堂で、冷やしうどんをいただいた。350円でコーヒーもつけてくれた。街道を歩いているというと給食の食パンを「おやつに食べて」といただいた。近所の人が何人か昼を食べに来ていて、ほっと温まる時間を過ごせた。

営業していない名取温泉の奥に「真福寺」がある。寛永5年(1628)創建。境内には享保5年(1720)建立の「回國地蔵尊」がある。松尾神社を過ぎ、竜王新町交差点を右折する。右側に丸石道祖神がある。

山梨県立美術館」や「県立文学館」があるが、先日訪れたのでパスする。貢川2丁目信号機を左折し「龍源寺」を探す。境内には六地蔵、筆塚、石塔などがある。八幡宮を探しながら歩くが見つけられず、街道に戻ると「甲斐市」に入り、中央自動車道高架をくぐる。

貢川交差点を過ぎると「桔梗屋 康二郎」がある。信玄餅を買う。本社工場では「信玄餅の詰放題」というのをやっているそうで,機会があればやってみたい。

右側に天然寺がある。境内に勢至菩薩像が祀られている。その先には「法輪寺」がある。境内には叩けば金聲がした「かんかん地蔵」が祀られている。この地蔵は当寺を開祖した武田有義の墓。武田家の祖・新羅三郎義光の四代孫で鎌倉幕府討幕を図ったが失敗し、五島列島に逃れ、五島家の始祖となった。

その先の左側に「身延山別院」がある。境内には髭文字で刻まれた「南無妙法蓮華経題目碑」がある。その先の右側に「新聞発祥之地」碑がある。峡中新聞(現山梨日日)は明治5年の創刊で、現在最古の地方紙で、昭和47年の創刊百周年記念に建碑された。

街道に戻り、右の細い道を入ると「甲斐奈神社」がある。甲斐国の鎮守。武田信虎が躑躅ヶ崎に居城を移す際に遷座させた。拝殿は新しく立派だった。すぐ隣に「瑞泉寺」がある。甲府年寄りを勤めた坂田家の墓がある。

尊躰寺は武田信虎が緑町に建てたもので、武田が滅ぶときに家康が甲斐に入城して宿舎にした。その後現在の位置に移された。甲府徽典館(きてんかん)学問所富田武陵を教授に起用して藩番役邸に開校された。

街道の右手に「石和八幡宮」がある。武田信光が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請して武田家の氏神とした。天正10年(1582)織田軍の兵火で焼失。翌年家康が再建した。以降甲斐歴代国主や甲府勤番は参拝を例とした。

追分にある「酒折れボランティア庭園

本居宣長碑

山形大弐碑

右手に「石和本陣跡」がある。宝暦11年(1761)信州高遠城主内藤大和守が参勤交代のため、初めて石和を通行するにあたり、仲町の後藤甚兵衛に本陣を命じた。明治13年の大火で焼失し、土蔵を残すのみである。

石和温泉郷東入り口交差点を左折し、笛吹橋バス停を斜め右に入る。松並木は明治40年の大水害後の植樹。木曽川海苔店のところに「笛吹権三郎像」がたっている。(権三郎は洪水で流された母を日夜探し求め、母の好きだった笛を吹きながらさ迷い歩いた。ついに深みにはまって亡くなってしまった。その後、夜になると笛の音が河原に響き、笛吹川と呼ばれるようになった。)

韮崎宿

天守台からの白根三山

明治天皇御登臨址碑

甲府柳町宿

白川高校を過ぎると、右手に旧家がある。屋根には養蚕農家特有の煙だし屋根を乗せている。その先の左側の鳥居の奥に秋葉大権現山神宮石尊大権現の石塔が祀られている。その先の右手に異形の松がある。この辺りには立派な松が多く植わっている。

左側に「大蓮寺」があり山門の修理(建て替え?)をしていた。その先に「馬つなぎ石」が残っている。馬の手綱を石の穴に通してつないだ。今は商店の幟の押さえ石になってしまっている。

本町交差点を右折すると「梅天神社」がある。その先に「学問の道 天神町通り」と書かれた鳥居がある。鳥居をくぐりJR中央線の高架をくぐると左側に「韮崎駅」がある。甲府まで戻り、甲府から富士川号で静岡まで、無事に藤枝まで帰った。行きは各停だったので4時間以上かかったが、富士川号に乗ったので帰りは3時間あまりで帰れた。

その先の左手に「清水屋旅館」がある。弘化2年(1845)創業の旅人御宿で現在も営業している。向かいには「本陣跡」がある。(問屋を兼ねていた。甲州道中を通行する大名は高島藩高遠藩、飯田藩に限られ、韮崎本陣に宿泊することはなかった。)その隣に「馬つなぎ石」が残っている。

韮崎の地名は長く延びる七里岩がニラのように見え、その先端に位置しているところを由来としている。北に信州道(佐久往還)南に身延道(駿信往還)船山川岸を控え交通の要衝として賑わった。本陣1軒、問屋1軒、旅籠17軒であった。

街道に戻り二十三夜塔があるY字路を左に進み突き当りを左折する。塩川を塩川橋で渡る。塩川橋西詰を斜め右のJR中央線沿いに進むと、韮崎市に入る。

下今井の男女双体道祖神がある。天保2年(1831)の建立。なまこ壁が随所に残っている。

その先の左側に「竜王新町中の道祖神』がある。その先には「竜王新町上の道祖神」が祀られている。その先には右に赤坂供養塔があり、南無阿弥陀仏と刻まれている。赤坂は赤土の坂で雨が降るとぬかるんで行き倒れの旅人が多かった。左には馬頭観音が祠の中に祀られている。

道祖神の奥に厄除け不動尊が祀られている。不動立像は弘法大師42歳の時の作で、元は光前寺(廃寺)の本尊であった。街道の右側に「明治天皇御小休所址碑」がある。明治14年巡幸の際に休息した旧家。その隣に「称念寺」がある。境内に「くりぬき井戸」がある。一枚岩をくり抜いた石枠の井戸で、ここを往来する旅人が休息したところから「お休み井戸」と呼ばれた。

その先の左側に「日蓮遠忌碑」がある。右は天明元年(1781)建立の日蓮大菩薩五百年忌。左は天保2年(1831)建立の五百五十遠忌、遠忌とは五十年毎に行う宗祖の回忌法要のこと。その先の左側に「山形神社社標」がある。「従是923米」と刻まれている。明治10年の建立で、祭神は山形大弐。大弐は江戸時代の儒学者で、尊王攘夷を唱え処刑された。維新後正一位に叙せられた。

サイカチは幹に棘があり、大きな豆ができる。実にはサポニンが含まれ、石鹸代わりになった。

寿交番前信号機のところに「光雲寺」がある。境内には萬霊塔」がある。細い道を入って市立穴切小学校をぐるっと回りこむと「穴切大神社」がある。(甲府盆地は湖沼であった。国司が祈ると南の丘に穴が開き水が流れ良田となった。以来水の神として信仰が篤かった。本殿桃山期のもので国指定文化財。)

甲州道中、相生歩道橋に戻る。丸の内郵便局東交差点の左側に「身延道追分道標」がある。鰍沢を経て身延への身延道で、更に東海道の岩淵に至るところから「駿州往還」とも呼ばれた。「西志んしうみち 南みのぶみち」と刻まれている。

甲府城址現舞鶴公園。江戸防衛の要害として重要視され、のちに甲府が幕府直轄地になると、甲府勤番が置かれた。城郭が鶴が舞う姿に似ているところから舞鶴城とも呼ばれる。)よく整備されてきれいで、近くに住んでいたら毎日散歩に来たい場所だと思った。

2日目

甲府の地名は甲斐国の府中であったところを由来とする。1519年武田信玄の父・信虎が石和からこの地の躑躅ヶ崎に居館を構えた。秀吉の代に甲府城が築かれ、以降城下町として発展した。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠21軒。

問屋街入り口交差点を右折すると正面に「うなぎ若荒井」があった。17時を回っていたのでここで夕食をとる。うな丼は美味しかった。創業100年の老舗である。 この辺りのホテルは予約が取れなかった。予約してある東横インを探して甲府の町を歩く。思いのほか大きな都会で驚いた。

NTT甲府支店西交差点を左折すると、左側に「柳町大神宮」がある。節分には参拝者が赤鬼青鬼に向かって豆をまく。境内には「お伊勢の森跡地」碑がある。

街道筋には「印傳屋」がある。天正10年(1582)創業。遠祖上原勇七が鹿皮に漆付けの技法を創案した。印伝の財布を欲しいと思っていたので、青海波の模様の財布を購入した。

大久保長安の供養塔

金手を右折すると左側に「教安寺」がある。家康の八男・仙千代高岳院廟所がある。平岩親吉は幼少より家康に仕え、甲府城6万3千石の領主となったが、子がなく平岩家の断絶を惜しんだ家康は仙千代を養子とした。本堂前には城下に時を告げた時の鐘が保存されている。

隣には「願生稲荷神社」がある。覆屋の中には嘉永3年(1850)建立の本殿が祀られている。武田館跡地に祀られていた古城稲荷を勧請したものである。街道筋の戻ると「芸妓置屋 青砥家」の看板が目についた。今でも芸者さんがいるのだろうか?

旧板垣村に入り、大円川を大円新橋で渡る。善光寺入り口交差点から右を見ると、遠くに「甲斐善光寺」が見える。時間の関係でパスした。善光寺架道橋でJR身延線をくぐり、金手を曲がり高倉川を高倉橋で渡る。右手に「石川家住宅」がある。塗籠土蔵造りの旧屋号・河内屋跡で、糸繭の問屋であった。堀内に道祖神を祀っている。この地方では、枡形のことを金手(かねんて)という。

左側に「山梨学院大学」が見えてくる。その向かいの広場に鉄のかごに石をいれた物がたくさん並んでいる。(笛吹川の河原に聖牛が復元されている。)もしかしたらこれが聖牛を模したものかもしれないと勝手に思った。河原に三角錐のコンクリートが並んでいたが現代の聖牛なのかもしれない。

街道に戻ると右側に「山崎刑場跡」がある。南無妙法蓮華経題目碑、六地蔵、無縫塔、墓塔などがある。ここには斬首場2ヶ所、首洗い井戸4ヶ所、骨捨て井戸1ヶ所があった。「酒折宮道標」を右に入る道が酒折宮の旧参道口である。街道は左に進む。

山崎三差路は青梅街道追分である。青梅街道は内藤新宿で甲道中と別れ青梅、大菩薩峠を経て再びここで甲州道中に合流する。評判の悪い鶴川の渡しを避ける旅人で賑わった。青梅街道に入り、JR中央線の踏切を渡ると左側に「摩利支天尊堂」がある。(昔、疫病が流行った時、力丞なる者が21日の祈祷を行い疫病が納まったところからここに堂を建てて江戸深川から本尊をもらい受けた。本尊はイノシシの上に武将姿の摩利支天が乗っている。)

街道に戻り進むと、甲府和戸郵便局の先に小社があり、二宮金次郎の像が立っている。今ならスマホを見ながら歩くという姿でしょうか?

英和大学入り口交差点を左折し先の信号を左折し、用水に沿って歩き、民家の前を右折すると「在原塚」がある。(平安の歌人・在原業平の次男・滋春が旅の途中この地で亡くなった。その墓と言われる。宝篋印塔五輪塔がある。)かりそめの 行き交い路と想いしに 今は限りの門出なりけり 母に残した辞世の歌

アリア入り口交差点を過ぎると右側に「川田町由来」標柱がある。(川田の名の起こりは川原に由来する。この地には武田家の川田館があり、「御所曲輪」の地名を残している。)その先の左側に長屋門の旧家がある。そのはす向かいに「和戸町由来」標柱がある。(和戸町は平安期この付近を中心に栄えた表門郷の遺称、)

第二平等川を甲運橋で渡る。往時の笛吹川跡、往時は「川田の渡し」で夏は舟渡し、冬は仮橋であった。「川田河岸」があり、駿州岩淵までの舟運があった。明治40年の水害で現在の笛吹川の流れになった。笛吹市、甲府市の境。平等川を平等橋で渡る。京都宇治川に匹敵するくらい蛍が見事だったところから、平等院にちなみ平等川と呼ばれた。甲運橋のたもとに「川田道標」がある。万延元年(1860)の建立。「左甲府 甲運橋 身延道」「右富士山 大山 江戸道」裏面「左三峰山 大嶽山」と刻まれている。

本陣先の左手に「小林公園」がある。本町出身の実業家小林中(あたる)の旧宅跡である。公園は由学館跡でもある。文政6年(1823)石和代官山本大善がつくった学舎で漢学を教え、町人にも聴講を許した。公園を突っ切ると石和南小学校門脇に「石和陣屋跡碑」がある。甲州が幕府領になった以降は代官所から陣屋になった。

その先に「遠妙寺」がある。境内に「鵜飼勘助の墓」がある。勘助は殺生禁断の流域で密漁し、簀巻きの刑で沈殺され、石和川の亡霊となった。文永11年(1274)日蓮聖人がこれを済度し成仏させた。供養塔を納めた漁翁堂がある。

ここから右の道に入る。右側に「長昌院」がある。落ち延びる勝頼が座ったという「勝頼腰掛石」があったが、明治40年の水害で流失してしまった。八田公民館のところに丸石がたくさん乗った丸石道祖神がある。

笛吹川の土手に出て川沿いを歩く。先に進むと県道411号に合流する。そこに「甲州桃太郎街道標柱」がある。笛吹川笛吹橋で渡る。往時は石和川といった。甲武信ヶ岳、国師ヶ岳,奥千丈岳に源を発する。富士見町で釜無川(富士川)に落ち合う。橋の向こうには石和温泉のホテルが立ち並んでいる。

右手に白山神社があり、丸石道祖神が祀られている。このあたりは旧南田中村で、ブドウ畑、モモ畑が続いている。

渡り詰を左折すると草むらの中に「節婦の碑」がある(随分探してしまった。)(旧田中村の百姓の妻・栗女は寝たきりの夫と老婆を世話していた。享保13年(1728)豪雨で日川が氾濫すると、老婆を背負って避難させ、夫を背負って家を出たが濁流にのまれてしまった。これを讃える碑である。)土手を石段で降り、用水沿いを歩いて国道411号線を横断し向かいの旧道に入る。

一町田中交差点を左折すると、左に豪壮な旧家門を残している。日川に突き当り、土手道を右に進み日川橋を渡る。「笛吹市」に入った。

交差点の右側には「称名院」がある。勝頼が落ち延びる際に、信玄の形見「水晶の数珠」をここに託したという。本堂の外壁には「餓鬼像」二体が括り付けられている。

一町田中交差点を右に曲がると「水上稲荷神社」があり、田安陣屋跡である。八代将軍吉宗の次男・田安宗武に甲斐山梨郡二八ヶ村が領地として与えられ陣屋が置かれた。陣屋の石垣の上には守護神である水上稲荷が祀られている。ここにも立派な松がある。

その先の分岐を左折する。すぐ右折して街道に復帰するつもりが、国道4111号線に出てしまい、反対方向に歩いてしまった。田畑信号機で新がついているのに気が付き、信号機を右折して旧道に戻る。

下今井の町並みが街道に沿って20町20間(2.2km)続く。村内には立場があった。なまこ壁の土蔵を残している。右側に自性院がある。参道の石畳は明和2年(1765)の敷設。途中の看板には「水戸黄門が諸国漫遊の旅の途中当寺に立ち寄った時にけつまずいた石」とあるが、黄門様は本当は漫遊していないので本当かどうか?境内には火防のために勧請された大森稲荷神社が祀られている。

日川に沿って歩く。この辺りは明治以降日本一の桃の産地となった。右側に「宮下翁碑があり、その隣に三階建ての土蔵がある。

信号機の先を右折して「妙善寺」を探す。車を降りた方に聞いて細い道を行くと右手に「一橋陣屋跡」の説明版があった。延享3年(1746)吉宗の四男・一橋宗尹の巨摩郡三万石の所領支配のために置かれた。その向かいに「妙善寺」がある。天文5年(1536)建立の板碑がある。また境内には「妙善寺の榧」と呼ばれる巨樹がある。

今回は気温が高く歩くのには大変だった。また道を大幅に間違えたりしたが、赤坂の食堂のおばさんや道を聞いた人達に助けられて歩くことができました。沿道ではバラの花がよく手入れされた家が目立ちきれいでした。

栗原宿

韮崎宿続き

稲荷櫓 (艮(うしとら)櫓)

酒折宮入り口交差点を右に入り、JR中央線の踏み切の向こうに「酒折宮」がある。(日本武尊が東征の帰途、この地の翁に与えた「火打袋」を守護神として祀っている。)本居、山形の国学者は幕末の尊王攘夷思想に理論武装を与えた。

富田武陵の墓。

甲府城東郵便局の先に「金毘羅神社」がある。金山奉行を勤めた大久保長安が金銀採掘成就祈願のために祀った屋敷神ともいう。「一条町の金毘羅さん」として多くの参拝者を集めている。

石材店のところで、国道411号線に合流する。石和宿は河川が流れる荒れ地にて、藺草が一面に生い茂っていたところから「蘭の沢(いのさわ)」と呼ばれ、いつしか石和と呼ばれるようになった。武田氏の故地で、五代信光は石和の地に館を構え、18代信玄が甲州躑躅ヶ崎に移るまで武田氏の本拠地であった。 本陣1軒、脇本陣2軒、問屋1軒、旅籠18軒であった。

石和宿