H.31.4.2~3

初狩~山梨市

その隣に「杉御坊碑」がある。親鸞聖人万福寺に逗留した折、杉箸を地面に突き刺したところ、大木になったという。以来万福寺は杉御坊と呼ばれた。大杉は寛延の大火で焼失した。細い路地をずっと入っていくと「万福寺」がある。推古天皇12年(604)聖徳太子により創建された。境内の馬蹄石は太子が甲斐の黒駒に乗って飛来した時の馬蹄跡という。芭蕉句碑行駒の 麦に慰むやまどりかな

栗原の名前の由来はこの地を治めた栗原氏に由来する。本陣1軒、脇本陣1軒、問屋1軒、旅籠20軒であった。

早朝5時36分の東海道線に乗る。今回は信楽にあるミホミュージアムに行く夫と駅まで行き西と東に分かれた。新横浜から横浜線に乗り換え、八王子まで、中央線に乗り換え初狩に着いた。9時15分に着くはずが、高尾までの電車が遅れて、9時25分に歩き始める。駅の前には「山本周五郎」碑がある。

その先奥に「白山建岡神社」がある。社殿脇の白山神社のは山梨県指定天然記念物になっている。5月上旬が見ごろだそうです。この辺りは桃畑がたくさんあり、満開の花を上下する機械に乗って作業していた。花粉をつけているのか,花を間引いているのか?

栗原宿

ようあん坂」を上ると「勝沼学校跡碑」がある。ようあん坂碑の後ろに「海抜400m」と県庁からの距離を書いた碑が立っている。立派な小学校があり、校庭に入ったが跡には見えないのでそこにいた夫人に聞いてみたが「小学校は今もやっているとのこと。門の前に回り込むと「勝沼学校跡碑」があった。校庭には「明治天皇勝沼行在所跡」「御製歌碑」標柱がある。「えびかつら いろつきそめぬ やまなしの さとのあきかぜ さむくなるらし」えびかつらとはぶどうのこと。明治13年の山梨巡幸の際に、同年新築した勝沼学校校舎に宿泊した。

薬師如来像(平安初期)、日光・月光菩薩像(平安初期)、十二神将(鎌倉時代)、日光・月光菩薩像(鎌倉時代)は重要文化財に指定されている。薬師三尊は秘仏で、5年に一度の御開帳で、今は写真で公開されている。 係りの方の説明を聞きながら諸仏を拝む。この寺では「藤切会式」や「鳥居焼き祭り」が行われるそうです。

近藤勇は当初大善寺を本陣にと主張したが、武田家所縁の名刹を血で穢したのでは恐れ多いと、東神願鳥居に本陣を構えた。

大善寺は、養老2年(718)行基がこの地で修業し満願の日に右手にブドウを持った薬師如来が現れ、これと同じ像を造り安置した。以来ブドウは法薬として広く栽培されるようになった。落ち延びる武田勝頼の一行は薬師堂で夜を明かした。前に夫と参拝に来たことがあって、2回目の参拝です。

旧道を進み、横吹集落を進むと、右手の火の見櫓のところに「丸石道祖神」や「一石六地蔵尊」が祀られている。横吹集落を抜けると急な登り坂となり、国道20号に合流する。117k1ポイントを左の坂に入る。

古跡鞍懸」があるはずだが見つからない。観音堂の登り口で会ったおじさんが「お祭りの支度をしているので見に来て。」というので、急な坂を上っていくと、立派な観音堂があり、数人の人が幕を張ったり、提灯を吊るしたりしていた。本尊は聖観世音菩薩で京都清水寺より勧請したもので養蚕の守護神として信仰が厚かった。馬の藁沓を奉納する習慣があり、わらじがたくさん奉納されていた。お茶をごちそうになって坂を下った。旧甲州道中は観音堂を通り,長柿洞門の上を通るはずで、観音堂から向こう側に降りる道もあったはずだが、来た道を戻った。

真龍寺を過ぎると「古跡血洗澤」標柱がある。武田勝頼が落ち延びる際に、家臣の跡部大炊介が逃亡。土屋惣蔵がこれを討ち取りこの沢で血を洗い流した。土屋は天目山で討ち死にした。

右手に「鶴瀬関所跡」説明版がある。甲州12関の一つで、鶴瀬の口留番所と呼ばれた。物資流通の警戒と入り鉄砲出女を厳しく取り締まった。関所が宿の江戸口(東)であった。

本陣1軒、脇本陣2軒、問屋1軒、旅籠4軒。駒飼宿と合宿で、問屋業務は毎月朔日より20日まで勤めた。

2日目

隧道を抜けると、左側に「甲州街道峠道標識」があり、ここから下の道に入る。ぐんぐん下ると甘酒茶屋跡にでる。甘酒を商う茶屋があった。現代は茶屋もないので、今のほうが厳しいかもしれない。ここからまた左に下るのだったが、間違えて県道を歩いてしまった。この道は高所恐怖症の人には厳しいと書いてあったので、県道を歩いたほうが正解だったかもしれないが、随分と遠回りをしてしまった。

昭和13年竣工、昭和23年国道20号線新笹子トンネルの開通により役目を終えました。峠には右に回りこむと上がる道があったのだが、疲労困憊していて、思わず隧道を歩いてしまった。隧道は風は通り抜け、本当に寒かった。

地蔵前のY字路を左に入る。怖いような急坂を下り、落ちそうな丸木橋を渡る。木立の中を進み、険しい尾根道に出る。この辺りが笹子峠の最大の難所だったかもしれない。滑るように旧道を下ると県道に出る。この合流点には「甲州街道道標」がある。ツズラ折れの県道を進むと洋風レンガ造りの笹子隧道が現れる。15:34だった。峠まで1時間40分かかったことになる。

その先の左側に「天野本陣跡」がある。天野家が勤め、本陣門関札を残している。門脇に「明治天皇行在所碑」がある。明治13年山梨三重京都巡幸の際に宿所となった。

街道に出て、左折し歩き始める。宮川を渡る宮川橋は下初狩と中初狩の堺であった。「宮川橋の一目富士」といわれ南西の山間に富士山が望め、旅人に評判であったという。藤沢入り口交差点の左側に「今池家」がある。旧医院で国登録有形文化財になっている。鉄筋コンクリート造りの家です。

大正の柏尾橋は木造のトラス橋で、昭和30年に鉄筋の橋が架けられるまで使われていた。明治の柏尾橋は明治天皇行幸に合わせて、欄干付きボルト締め木造トラス橋が作られた。さらに奥には江戸時代の橋台の残されている。

太子堂

街道に戻ると、右手に「勝沼宿脇本陣跡」がある。蔵を残しているが、見落とした。その先に「本陣跡」標柱があり、「槍掛けの松」を残している。大名や公家が宿泊すると、その目印に槍を立手掛けた老松。屋号は「池田屋」であった。

忠玉園向かいのスロープを上ると「雀宮神社」がある。境内には芭蕉句碑山里は 万歳遅し 梅の花」がある。境内からは勝沼の町が広がって見える。

天狗橋の手前に「津島大明神」が祀られている。郷土を鎮めるための神として須佐之男命を祀った。橋を渡ったところに芭蕉句碑がある。「秣負う人を栞の夏野哉」明治40年の大出水にて流失した馬蹄石の句碑を再現した。右の道に入っていくと通行不能の旧道で駒飼の一里塚があるが、そのまま左折して進む。17:10になっていた。

街道に戻り進むと左手に「笹子餅」の看板があり、向かいには「みどりや」がある。名物笹子餅は難所笹子峠の茶屋で「峠の力餅」として商われ、評判であったという。買い求め、笹子駅で食べた。草餅で、日持ちがしないようです。駅の広場には「笹子隧道記念碑」がたっている。JR中央線高架脇歩行者用ガードに入る。阿弥陀海道旧道東口である。

大鹿川橋を渡り乙大鹿沢ガードをくぐる。「伝説立石坂の立石」標柱がある。桃太郎が鬼に投げつけた「石杖」が突き刺さった。ガードの手前を左折するとあったようだが、中央線の向こう側に石の頭部分が見えたので良しとした。隣に貯木場がある。

本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠4軒であった。阿弥陀海道宿と黒野田宿と三宿で一宿とし、問屋業務は月の内23日からも晦日まで勤めた。左手の旧家は旅籠万屋跡で、この辺りに「天野脇本陣跡」「今泉本陣跡」があるが標識はない。天野さんや今泉さんの表札を出している家が何軒かある。

その先の右側に文化6年(1809)建立の「秋葉山常夜燈」があり、傍らに丸石道祖神が祀られている。この辺りの道祖神は石段の上に丸石を積み重ねたものが多い。等々力交差点を過ぎる県道は国道411号大菩薩ラインに変わる。築30年の古民家を利用した「ほうとう店」の先に「延命地蔵尊」が祀られている。その前には丸石道祖神常夜燈がある。

その先を進むと中町に入る。、左側に「仲松屋」がある。萩野家が質屋で財を成した豪商。江戸時代後期の主屋を中心とした東屋敷と明治前期の建築を中心とした西屋敷2軒分の商家建築を残している。中町には高札場があった。その先の右側に三階造りの蔵がある。明治20年ころの大火の後、自己所有の山林の材木で建てた。地下1階、地上3階の土蔵。老朽化が進み、市によって保存予定と書いてあったが、まだ修復はされていないようです。

大善寺の向かいに旧道痕跡があり、そこを歩く。柏尾交差点を右の県道38号線に入る。右手に「国見坂」標柱がある。元和7年(1753)に甲州道中の往還筋地名と定められた。標柱の並びに「馬頭観音」宝暦3年(1753)建立の「南無妙法蓮華経題目碑」がある。すぐ先の左手にはワイン民宿鈴屋園がある。そういえば大善寺も「史跡ワイン民宿」と書いてあった。

行者堂と役の行者像。このお堂の前で「藤切会式」が行われる。修験道の開祖・役小角(えんのおずの)が大蛇を退治したと1300年前から伝わるお祭り。大蛇をかたどった藤の根を修験者が切り落とし、持ち帰ると果実豊作や魔除けなどにご利益があるといわれ、毎年壮絶な奪い合いが繰り広げられる。

本堂・薬師堂は弘安9年(1286)建立の銘があり、関東周辺で最も古い建物で、国宝に指定されている。檜皮葺の流麗な線を持ち、鎌倉時代の建築の力強さがよく表れている。薬師三尊像が収められた厨子国宝に指定されている。

今は昭和の柏尾橋で深沢川を渡る。深沢川は高宕山に源を発し、流末は日川に落ち合います。街道は勝沼町に入る。街道筋には観光ブドウ農園が軒を連ねる。右手の柏尾山甲州高尾山登山口に柏尾薬師如来標柱がある。薬師堂への裏参道である。

柏尾古戦場跡官軍と甲陽鎮撫隊との激戦地。剣一筋の新選組は近代装備の官軍に歯が立たず、総崩れとなり八王子まで後退し解散した。近藤は流山で官軍に捕らわれ板橋で斬首された。土方は会津、宮古、函館と転戦し五稜郭で戦死、幕末のあだ花は露と消えた。

深沢川にかかる柏尾橋手前を右に下るころび石坂旧道痕跡である。旧道に踏み込むと馬頭観音がある。天保7年勝沼宿の脇本陣家が中心となって建立した。

すぐ先が深沢入り口交差点で、大善寺境内の東神願(ひがしじんが)鳥居が戦中まで道中に跨っていた。甲州街道は鳥居の下を通り、慶応4年近藤勇率いる幕府軍はこの鳥居の前に大砲2門を据え本陣とし、江戸へ向かう幕府軍を迎え打った。右手のスロープを上ると、擁壁上にあるのは柏尾白山経塚で、出土品は重要文化財として東京国立博物館に収蔵されている。

下った先の右手に雑草の間に「史跡横吹一里塚」標柱がある。初鹿野(はじかの)村枝郷横吹地内で片塚、塚木は榎でした。江戸日本橋より30里目である。この辺り一帯はブドウ畑が広がっている。遠くに雪をかぶった山が見える。 その先の左手に大和町、勝沼町の堺モニュメントがある。大和町名産の赤みがかった甲州鞍馬石が組み合わさっている。

国道20号線をくぐると左手に「古跡武田不動尊標柱」と石灯篭がある。脇の急な石段を下ると武田不動尊が復元されている。落ち延びる勝頼は武田の守り本尊として奉持していた「不動尊」を里人に託した。

長柿洞門の左の細い道に入る。通行止めになっている「長垣の吊橋」がある。その先に芭蕉句碑がある。「観音の甍見やりつ花の雲」大和12景の「長垣の吊り橋」は朽ちてしまった。その先に「大和12景 長垣のつり橋とブドウ畑」標識がある。

鶴瀬交差点を横断すると右手に享和3年建立の常夜燈がある。鶴瀬の地名は都留(つる)の青(瀬)に当たるところに由来する。常夜燈先で国道20号線に合流する。

日川を立合橋で渡る。日川は三日川ともいわれた。武田勝頼勢の自刃により流血で流れが3日間濁ったという。笹子沢川を吸収した日川は笛吹川となり、釜無川、富士川と名前を変え駿河湾に注ぐ。先に進むと左手に「古跡金岡自画地蔵尊碑」がある。大和絵の巨匠が岩に地蔵絵を描くと、時とともに消えてしまったが、水をかけると絵が浮かび上がったという。この岩は明治40年の洪水で焼失した。

中央自動車道高架をくぐり、旧道は県道212号線に突き当たり、左折する。大和橋西詰交差点を左折し国道20号線に合流する。ここを右折すると、甲斐大和駅がある。その先に武田勝頼終焉の地、景徳院がある。  国道を進むと甲州鞍馬石の灯篭を商う塩野庭石店がある。見逃してしまったが、ここまで戻り向かいの坂を上ると民家の裏に「武田勝頼公腰掛石」がある。武田家の家紋武田菱が浮いて見えるところから菱石ともいわれる。小山田信茂の裏切りを知り、苦渋の選択を迫られたところです。今は村営住宅になってしまっている。

サンガムの向かいに「甲州街道駒飼宿標柱」がある。駒飼宿の東の入り口である。7:25出発する。右手に異様に曲がった黒松がある。笹子沢川を古道橋で渡り、白川に吸収される。

寒い朝だが、良いお天気でよかった。ほうとうの朝食だった。ガイドブックに囲炉裏のある部屋が紹介されていたので、たずねると、2階にあるということで階段を上がっていくと屋根裏に部屋があったが囲炉裏は組み立て式ということで取り払われていた。

入り口にあるキッチンカ―であちこちのイベントに出かけるそうです。もちろん売るのはカレーです。

本陣1軒、脇本陣1軒、問屋1軒、旅64軒で、問屋業務は鶴瀬宿と合宿で、毎月21日より晦日まで勤めた。いにしえこの地には甲斐源氏の牧があった。 左手に脇本陣跡、渡辺本陣跡がある。旅籠屋「冨屋陣左衛門」が脇本陣を勤めた。渡辺本陣は酒造業を兼ねた。奥に「明治天皇御小休所跡碑」がある。

駒飼宿

40分ほど県道を下ると「甲州街道峠道標識」がある。間違えずに谷を下ればここに出てくるはずだった。ここからは県道を歩く。しばらくすると「桃の木茶屋跡」がある。往時3軒の茶屋があった。この先の谷筋は通行不可になっていて、県道を下る。

14;55 矢立の杉に出る。根回り14.8M、目通り9.9m、幹は地上約21,5mで折れ、樹幹中は空洞になっている。出陣の際に武者がこの杉に矢を射立て武運長久を祈った。  2代目歌川広重は諸国名所案内百景で甲州矢立杉を描いている。「矢立の杉」看板にその絵が載っている。矢立の杉近くに笹子峠の一里塚があったともいわれているが、位置不明。江戸日本橋より28里目である。 

Y字路を左に入り、笹子川を旧黒野田橋で渡る。その先に「普明院・黒野田の一里塚」がある。黒野田宿本陣天野家の先祖が開基。阿弥陀海道宿の阿弥陀堂にあった阿弥陀像をここに移し本尊とした。境内には芭蕉句碑がある。「行くたびに いどころ変わる かたつむり」かたつむりの置物が数個置いてあった。門脇には「江戸日本橋より25里」碑がある。両塚とも黒野田宿内で、塚木は松であった。江戸日本橋より27里目である。

辰巳沢を越えると黒野田宿に入る。難所笹子峠を控え賑わった。本陣1軒、脇本陣1軒、、問屋1軒、旅籠14軒であった。白野宿と阿弥陀海道宿の三宿で一宿とし、問屋業務は月の内朔日から15日まで勤めた。緩い登り坂を上ると左手に「笠懸地蔵」が鎮座している。安政2年(1855)の建立。天明天保の大飢饉による窮乏をこの地蔵に心願した。頭に重い石を置いた珍しい地蔵です。河童かと思いました。

黒野田宿

地内にあった阿弥陀堂が地名の由来となった。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠4軒、問屋1軒。白野宿と黒野田宿の三宿で1宿とし、問屋業務は月の内16日から22日までとした。

JR中央線の吉久保ガードをくぐり、国道に出て右折する。国道を進むと右の奥に「旧笹子小学校」がある。明治6年の創立だが、平成22年に廃校となった。小学校手前を左折し旧笹子橋で笹子川を渡り、右折する。正面に「笹一酒造」があり、大正8年の創業である。お酒は興味ないのでスルーしたが、世界一大きな「平和大太鼓」があるそうです。

異形な松を直進すると「小俣家」があるが見つけられなかった。地頭小俣左衛門の娘が毒蛇となったが、親鸞聖人に済度された。地頭はこの徳を慕って剃髪し、「唯念」と称して善福寺の二世になった。松まで戻り左折すると、「葦ヶ池跡碑」がある。毒蛇となった娘が棲みついた池、葦草が群生し、低地であったため、「葦ヶ窪」の地名の由来となった。ここを通りかかった親鸞上人が小石に南無阿弥陀仏の名号を書き、池に投げ入れると、娘の霊は済度(成仏)した。旧道は小俣家の先でJR中央線に分断され、通行不能になっている。

神社の向かいに「親鸞聖人念仏供養塚」がある。「毒蛇済度旧跡碑」や多数の石仏石塔群がある。親鸞聖人毒蛇になった娘を成仏させた。 ここは滝子山登山口で、御坊山,笹子雁ヶ摺原山、大鹿峠方面の案内図があった。

国道20号に合流し、しばらく歩くと右側に「子(ね)神社」がある。白野宿の鎮守で、境内の大杉は名木、かってはここから大鹿峠に向かう裏街道があった。というが大杉が見当たらない。祭神の大国主命の遣いが(ねずみ)であることからこの名が付いた。桜がきれいに咲いていた。

シマダトレーディングの脇の山道は旧道痕跡で、旧道は天神山の北を迂回し、滝子川を高巻きにして白野宿に至っていたが、中央自動車道の敷設により消滅した。天神山を回り込むように歩き「悲しみの森、癒しの森」看板を探すがない。探すとそばの空き地に転がっていた。そこのJR中央線のガードをくぐった先に「一里塚跡 白野」がある。両塚とも白野宿内で。西の塚木は榎、東の塚木は松であった。江戸日本橋より26里目男女双体道祖神が祀られている。

側子(そばこ)バス停を過ぎると「小林本陣跡」がある。本陣前には「明治天皇御小休遺跡」碑がある。明治13年6月の行幸の際に旧本陣で休息した。本陣の向かいが脇本陣だが、遺構は残されていない。天保7年(1836)脇本陣の小林伝兵衛は米価高騰に憤慨し、甲州騒動の打ちこわしを指導し、獄死した。   街道沿いに「石仏石塔群」がある。馬頭観音、至音塔、南無阿弥陀仏名号碑、正徳元年(1711)の地蔵尊、、安永7年(1778)建立の秋葉毎夜燈がある。

この辺りには寺が多い。光善寺、妙善寺大法寺、を過ぎると左手にお屋敷がある。「大戸屋グループ創業者 三森久実 生誕地」と書かれている。その先に右側に「天神社」があり、明和3年(1765)宝暦2年(1752)建立の御神燈丸石道祖神がある。この辺りから道が分岐が続き下栗原交差点にでる。この辺りから帰りのことを考え始めコンビニを探しタクシーを読んでもらうことにした。

奉納諏訪大明神」の旗がはためく路地を入っていくと「諏訪神社」がある。等々力村の鎮守。境内の「大けやき」は推定樹齢400年で勝沼町最大。目通り4.8m、樹高30mである。

第二次世界大戦中は田中家本家に北白川宮が疎開し、銀行はその関係者が住んだ。2階には疎開当時の品々が残されている。

右手に「旧田中銀行社屋」がある。国登録有形文化財経済産業省近代化産業遺産勝沼郵便電信局として建てられ、のち山梨田中銀行の社屋として利用された洋風建築(藤村式建築)。ボランティアの夫人に中を説明していただいてコーヒーを出していただいた。外に出てから「あの方のように,年をとってもしゃきっとして元気でいたいね。」と話し合った。

本陣の角に小道があり「小佐手小路」と書かれている。これは勝沼氏館大手門からまっすぐに北に伸びる道筋。小路の両側には家臣団の屋敷が立ち並び、城下町を形成していた。その道を奥に進むと「泉勝寺」がある。信友夫人が母のために創建し、勝沼氏の菩提寺となった。

上行寺の先の左手奥に「勝沼氏館跡」がある。勝沼氏は信玄の父・信虎の弟野信友の家臣系で、親類衆として武田軍団の一翼を担い、この地に館を構えた。子の信元は逆心の疑いをかけられ、永禄3年(1560)信玄に滅ぼされた。跡地は草原になっていて、勝沼氏供養地蔵がある。信友の娘・理慶尼が館跡に造立し、これを復活したもの。

元和4年(1618)宿開設。甲府盆地の東端に位置し、峡東地方の物資集積の地として栄え、万治元年(1658)より市が立ち大いに賑わった。本陣1軒、脇本陣2軒、問屋1軒、旅籠23軒。

県立ワインセンター案内に沿って左に入ると「勝沼氏家臣屋敷跡」があり、茅葺屋根の建物が復元されている。カヤは屋根からはがれているし、土間には枯れ葉がたまったりしていて整備が行き届いていない感じがした。

展望台からは、勝沼の町が一望できる。遠くには雪をかぶった鳳凰三山や白根三山がきれいに見える。

薪で沸かした風呂に入り、冷え切った体を温めて、休んだ。

旧甲州街道標識があり、この地方独特のつくりをした家が建っている。坂を下ると今日の宿「大黒屋サンガム」があった。江戸時代の旅籠を改装して宿にしている。(大黒屋は旅籠の名前、サンガムはカレー屋さんの名前)ウーファーの外国人スタッフを受け入れているそうだが、今日はオーナー女主人一人だった。都内でカレー屋さんをやっていてここに宿泊施設を造った。カレーが美味しいそうだが、チキンがメインの美味しい夕食だった。17時20分に着いた。暗くならないうちに着けて良かった。

舗装路は土道になり砂防ダムを過ぎて、新田沢に沿って登っていく。木橋を渡り、杉林の峠道を歩いていくと、「笹子峠自然遊歩道」道標」に出る。旧甲州街道で、左の細い道に入っていく。

コンビニ跡先でY字路になる。国道20号線から左の県道日蔭笹子線に入る。すぐ先で土道に入る。先のY字路を石垣の間の草道を進むと県道に合流する。新田沢を山口橋で渡る。新田下バス停のところに「甲州街道標識」がある。ここを右に入る。ここが笹子峠の登り口となります。13:50

笹子川を屋影橋で渡る。その先の右側に石仏石塔群がある。岩上に宝暦5年(1755)建立の「南無妙法蓮華経題目碑」や馬頭観音が祀られている。その先の左側には庚申塔、馬頭観音が祀られている。

笹子橋を渡って左折し、天野宅を右折し、突き当りの小山を回り込むと「阿弥陀堂跡」がある。このお堂が阿弥陀海道宿の名前の由来となっている。

道中に戻り、すぐ右の斜めの道に入る。ここが白野宿東口である。宿並を進むと右手に庚申塔、常夜燈、石仏がある。白野中宿バス停を過ぎると、火の見櫓の奥に山の神、白山権現、天織姫などの小社が祀られ、秋葉常夜燈と文化3年(1806)建立の廿三夜塔がある。なぜか祠の前には大黒様が置かれ、屋根の上に米俵が置かれている小社もあった。

右側赤レンガの蔵がある。笹子川を船石橋で渡ると左側に「船石碑銘」がある。親鸞聖人が船形の石に座って説法を行った。この石は明治40年の水害で流失した。碑の傍らには道標「御舩石所在地は従是東三拾間余」とある。桜がきれいだ。

歌田バス停で見るとバスは16時台しかない。コンビニの前に「明治天皇小休所跡碑」がある。明治13年、旧日川村の志村勘兵衛宅で休息した。

白野宿

道を挟んで「上行寺」がある。日蓮宗長遠山、参道口の寺標には「日蓮聖人投宿之地」と刻まれ、文化2年(1805)建立の南無妙法蓮華経題目碑がある。境内の枝垂れ桜がきれいだった。

鶴瀬宿
中初狩宿

今回は笹子峠越えが大変だった。山の上にある観音堂に案内してくれたお爺さん、田中銀行で説明をしてくれた夫人、万福寺参道で竹細工をしていたおじいさん、いろいろな方に会えて楽しかったです。道を間違えたり、目指すものを見つけられなかったり、通り過ぎてしまったりの旅でしたが、充実した街道歩きでした。

栗原宿続き

その先の右側に「大宮五所大神」がある。旧栗原筋五十五ヶ村の鎮守。社殿歌舞伎つくりになっている。往時はここで歌舞伎興行の一座が芝居を打ち、評判を確認して甲府に入った。

国道を進むと右手に「ロリアンワイン白百合醸造」がある。ワイン工場の見学や試飲ができるそうです。過ぎると山梨市から甲州市に入る。

勝沼宿

厩跡

近藤勇像

14:40、広場に出る。三軒茶屋跡で、中ノ茶屋とも呼ばれ「蕎麦飯」が名物であった。跡地奥に「明治天皇御野立所跡碑」がある。明治13年山梨県巡幸の際に、天野治兵衛家で野立を行った。このような難所を天皇は馬で通ったのだろうかとか、蓮台に乗ってたのでは?とか言いながら当時を思った。

線路に沿って進むと「萬霊塔」がある。生けるもの全てを供養している。その先の笹子町原公民館の先の右側に「稲村神社」がある。吉ヶ窪村、原村の産土神。境内には一つの根方から三本の幹が聳える大杉や馬頭観音、廿三夜塔、男女合体道祖神が祀られている。立派な神社で桜がきれいに咲いていた。

本陣1軒、脇本陣1軒、問屋1軒、旅籠25軒であった。下初狩と合宿で、問屋業務は月の内朔日から15日までを勤めた。

前のコンビニでタクシーを呼んでもらい山梨市駅から中央線に乗り、八王子、新横浜、静岡、藤枝と乗り継いで帰った。

柏尾の古戦場

柏尾戦争の痕跡

理慶尼は信玄公のいとこと言われ、出家して当寺に居住した。武田家の最後を記した「理慶尼記」は墓とともに大善寺に残されている。落ち延びる勝頼一行は薬師堂で一夜を過ごした。

阿弥陀海道宿