韮崎~教来石
R1..6.20~21
右側に「白須松林址碑」のある「ちびっこ広場」がある。公園の奥には宗良親王歌碑がある。「かりそめの 行きかいじとはききしかど いざや志らすに まつ人もなし」南朝方の征夷大将軍宗良親王が甲斐の援軍を求めてここまで来たが、味方になる者はなかった。この辺りは平安時代には一里にわたって松原が続き「白須松原」と呼ばれ、キノコの産地として京にまで知られていた。た。戦時中油をとるため伐採されてしまった。
今日の宿は韮崎にある「清水屋旅館」弘化2年(1845)創業の旅人御宿である。
朝早く家を出て、東海道線で富士まで行き、身延線に乗り換え甲府まで。朝早くは富士川号が走っていないので、各停で行く。中央線に乗り換え、韮崎駅に着いた。駅のホームから平和観音の姿が見える。関東三観音(高崎観音、大船観音)の一つ。9時45分歩き始める。
墓地先の右手の草地の大石は「教来石」という。村人はこの大石を「日本武尊」が酒折を経て来て休んだ石」であるところから経来石と呼び、のちに経が教になり、地名となった。馬頭観音一基、男女双体道祖神一基が上に祀られているとあるが、上には一基しか載っていなかった。もしかしたら、この石が違うのかもしれない。
街道に戻ると右に「明治天皇御小休所址碑」がある。その先に蓬莱郵便局があり、ハンコをもらうために寄った。もう14時を過ぎているため、帰りの帰り方を相談する。ここからタクシーを呼んでもらって、小淵沢に出て、JRに乗るか、バスで韮崎に帰るかどちらかになる。タクシーの番号を調べてもらって下教来石」バス停に行くと、14時42分発韮崎駅行があった。10分くらい待ってバスに乗り、韮崎に帰った。
前沢上信号機を右折して街道に戻ると「御嶽神社鳥居」がある、もう少し戻ると「石仏石塔群」がある。天保10年(1839)建立の馬頭観音、安政2年(1855)建立の馬頭観音、法界萬霊塔南無妙法蓮華経題目碑などがある。犬にほえられながら街道を戻り、前沢上交差点を右に入り濁川(神宮川)を濁川橋で渡る。この川は明治神宮の庭石用として玉砂利が献上されたところから「神宮川」と改名された。
北杜市民バス停の先に「玉斎吾七句碑」がある。「槍もちのおくれて通る日長かな」玉斎はこの地の人で徳が篤かった。細い道を抜けて国道に出ると前沢信号機の向こうに同じ「玉斎吾七句碑」がある。その先の右側に長光寺があり、境内に寛政元年(1797)建立の宝篋印塔がある。
名主宅に沿って左に入ると「天白神社」がある。すっかり荒れ果てて守をする人がいない感じの神社だった。入り口に安永3年(1774)建立の二十二夜供養塔が立っている。
その隣には「修験智拳寺」跡がある。山岳信仰と仏教が集合されたもので、神仏分離令により、廃寺となった。その先に「男女双体道祖神」「台ケ原宿碑」がある。
右側に元禄13年(1700)建築の旧家がある。立派な門構えだが、住んでいる気配がない。その隣に「登記所跡碑」がある。明治24年の開所。はじめは龍福寺の庫裏を借りて庁舎としたが、その後民間の住宅を借りて業務を行った。大正3年に庁舎が完成した。その後韮崎出張所に統合され、廃所になった。
宿を出て韮崎駅から教来石行のバスに乗る。昨日は850円だったのに、今日は870円だった。どうしてと思いつつバスを降り、午前9時15分歩き始める。白みそを商う永楽屋、岡村酒店はもう営業していない。
この地は高く平らにして、台盤のようであったことから台ケ原と呼ばれるようになった。本陣1軒、脇本陣1間軒、問屋1軒、旅籠14軒であった。日本の道百選に選ばれている。
児童公園に出る道がなく、畑の中を歩かせてもらった。公園内には「鹿島大神」が祀られている。また園内には馬頭観音、地蔵尊、享保16年(1731)建立の名号碑などがある。コンビニの向こうに稲荷神社がある。
来福寺は、中国の宋から渡来した蘭渓道隆禅師の開山。けいだは享保10年(1729)建立の宝篋印塔や延命地蔵尊がある。細い道を登っていくとお墓があり、その左側に「九頭竜社」がある。享保14年(1729)の建立。流川が水害を起こし、「水防の神」を祀った。そばに新聞受けがあり今日の新聞が入っている。まさか神様が読むことはなく、このそばにある家の新聞受けだろうということで納得する。
今回は交通の便が良くなく、韮崎市民バスや北杜市民バスを当てにしていったが、実際はこれらのバスはもっと本数が少なくなっていて利用することはできなかった。山梨交通のバスも3時間に一本と本数は少ないが効率的に利用することができた。JRから離れている街道を歩くことは難しいと思った。
街道を歩いた友人に教えてもらった地元の郵便局で入金してハンコをもらうということを、今回はやってみた。3ヶ所の郵便局でもらったが、一つの郵便局で2とか3個のはんこがある所もあった。カードも持っていけば急にお金が足りなくなっても出せると思った。前は土日に歩いていたので、できなかったが、これから平日に歩けば湯便局に寄ることができる。
右の大きな家は七賢蔵元である。(山梨銘醸・北原家は寛延2年(1749)の創業。幕末には高遠藩の御用商人を勤め、天保6年(1835)居宅新築の際、藩主より「竹林の七賢人」の欄間を頂戴する。明治天皇巡幸の際、行在所となった。)
左側に「台ケ原宿」の解説番があり、隣には「名水百選の里 水飲み場」があった。蛇口をひねってみたが水は出なかった。プルーンの木?なのか青い実をたわわにつけた木があちこち目につく。
橋の左手に「復興之碑」がある。昭和34年の台風7号の被害は穴山橋を押し流した。碑は岸信介氏の書。穴山橋は往時は長さ10間(約18m)横幅8尺(約2.4m)流失すると舟渡となった。橋を渡り円野郵便局で入金しハンコを押してもらう。
七里岩の裂け目があり橋が架かっている。その下に「愛のかけはし」と書かれた看板があり。その奥にあるハウス(カフェ)の看板か、この橋の名前なのか?上新田バス停のところに「新府城址」案内がある。新府城は七里岩の台上に築城された武田氏最後の城で、石垣を用いない、土塁と堀による平山城であった、藤武神社は新府城の守護神。城址には武田勝頼公霊社がある。
20号に入ると左に「治水護郷碑」がある。(昭和34年、二度の台風襲来で富士川と大武川が氾濫し多数の犠牲者を出した。水害復興を記念し、水没者の冥福を祈り、治水と郷土の発展を祈念している。)この辺りの右岩上に「新府城址」があり、その前には「城前寺」がある。
下祖母石村に入るとなまこ壁の家や長屋門を持つ家が目立つ。右側に「韮崎市石標」がたっている。何か書いてあるが読めない。
左側に「小林一三翁生家跡碑」がある。(宝塚歌劇団の創始者。跡地は「にらさき文化村」になっている。江戸中期以降の代表的な町屋建築であったが、宝塚ファミリーランドに移築されている。)
窟観音本堂 本尊聖観世音菩薩(空海作)、十王象、神鏡
弘法大師自尊像(空海作)
千体地蔵尊
「島原、松原、荒田案内図」がある。それを見ると石尊神社は2km西に鎮座している。武田家や徳川瀑布の崇敬が篤かった。石尊神社鳥居は参道中央口になる。なまこ壁の家がある。
向かいには「台ケ原の一里塚跡」碑がある。塚木はなかった。江戸日本橋より43里目。甲州道中では一里塚は場所さえ不明のところが多い。その先に「旧旅籠津留や諸国旅人御宿鶴屋」がある。講札が三枚かかっている。隣は現在営業している「つるや旅館」。今回の旅で予約したかったが、都合が悪いということで、泊まれなかった。
街道に出て、少し戻り左折し少し入ると「一橋家陣屋跡」がある。(巨摩郡三万四十四石余の一橋領を治めるために宝暦3年(1753)双葉町宇津谷村からこの地に陣屋を移転した。その後静岡県相良町にところがえになり、幕府領になった。)跡地は現在公園になっている。
韮崎はサッカーの町ということで、サッカーの像が飾られている。甲府まで中央線で出て、甲府から「富士川号」に乗って静岡まで、東海道線に乗り換え藤枝に無事帰った。やはり特急は早い。
街道下に「石塔」がある。ここを左折して国道20号に出る。下教来石信号機を直進すると石塔と地蔵様が祀られている。その奥に「来福寺」がある。
教来石宿の宿内家数は144軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠7軒であった。
県営白州団地入口バス停を右の道に入る。旧道には赤松並木が少し残っている。地名も白州町松原に変わる。 左手に七面大明神題目碑や石尊大明神常夜燈がある。石尊神社の南参道口である。七面大明神は日蓮宗法華経を守護する女神。その向かいには「般若堂」がある。大乗仏教の真髄を説いた「般若心経」を安置している。
街道を進み、火の見櫓を左折し、国道の向こう側に「若宮八幡宮」があるが、道の駅ができてしまっていて,どこか分からない。坂道があるので登っていくと神社の裏手に出た。道の駅の真後の高台にあった。白須村の産土神。武田家代々の祈願所として崇敬が篤かった。境内のもみの木は樹齢300余年で白須町指定天然記念物。地上6,6mで幹が折れ、南に枝を伸ばしている。幹は空洞で、中は落雷により焼けた跡がある。先ほど買ったピザを食べてしばらく休憩した。
街道に戻り、右折するとすると「自元寺」がある。武田二十四将馬場美濃守信房の創建で、位牌と墓がある。総門は屋敷から移築した。信房は信虎、信玄、勝頼に仕え、長篠の戦で殿軍を勤め戦死した。信長公記に「その働き比類なし」と記されている。うろうろしていると寺の方が墓を教えてくれた。
右に蔵を改修したような店がある。「白州 山の山の水農場」と書いてある。店に入るとキノコ屋さんで、いろいろな知らないキノコもあり、「なめこ」「たもぎだけ」「ひらたけ」の天然干しを買い求めた。出汁が良く出て美味しいそうです。ピザが運ばれてきたので、昼ごはんにしようと買った。。 この蔵は前にある今は閉まっている酒屋さんの蔵で、診療所だったこともあるそうで、改造してお店にしたそうです。
右の高台に田中神社がある。下諏訪宿から甲州道中に入った「お茶壷道中」は拝殿に宿泊した。宇治を出発した道中は往路は東海道を通るが、帰路は中山道を経て甲州道中に入り、谷村勝山城の茶壷蔵に収蔵して、熟成後秋に江戸城に搬入した。本殿が2棟ある。荒尾神社を合祀している。 境内に「熊野大権現」があるが、収められた地蔵様の頭に味噌が塗られている。手に子供を抱いているような姿なので子育て地蔵なのか?不思議な神社だった。
左側に「金精軒」がある。明治35年創業の元祖「信玄餅」の老舗。建物は旧旅籠であった。信玄餅をお土産に買う。生信玄餅もあり、試食させていただいた。味は桔梗屋と同じでした。夏は寒天でくるんだ「水信玄餅」が整理券を配るほど売れるそうです。
10時から屋敷の中を案内するガイドがあるが、のんびりとしていられないので、ここまでいいという家の中を見学した。立派な玄関があり、ここから天皇が出入り下のだろうか。また欄間を見せてもらいたかった。
右側に「日本の道百選」の石碑がありその奥に「郷倉跡」高札場跡」の解説板がある。(郷倉は飢饉に備え囲い米を備蓄していた。)(高札場の規模は高さ2間あまり、長さ3間、横7尺であった。幕府からの命令を板に墨で書いて提示した場所)
右側に「小松本陣跡」がある。小松屋伝右衛門が勤めた。慶応3年(1867)秋月講が建立した秋葉山大権現常夜燈がある。向かいには脇本陣があるが標識はない。宿開設当初は脇本陣はなく、宿役人の平石衛門の家が代用された。
台ケ原下信号機を渡ると「日本の道百選標識」がある。その向こうには「山燈籠、石仏、石塔」がある。少し進むと碑狩りの20号線沿いに「山梨交通 台ケ原中」バス停があり、ちょうど5時40分発の韮崎行があるので、バスに乗って韮崎に帰った。
草道を歩き、川をまたぎ、野菜畑を過ぎると舗装路になる。古道石標がある。左手に道祖神や馬頭観音が三基祀られている。20号に出るところに「古道入り口石標」がある。ここに「甲州道中分間延絵図」に描かれている道祖神があった。
川に沿って斜め右の土道に入る。右に「横山道標」がある。馬頭観音が三基祀られている。内二基は道標を兼ねている。 進むと丘の上に大石が見える。「無名の大石塔」で横山山頂に無名の巨石がある。花水橋供養塔または、日蓮遠忌碑を造るために台ケ原山中より引き出したもの。
時々雷鳴がする中、黙々と歩く。上三吹信号機を右の道に入る。右手に神明社がある。境内は浄土宗無量院跡、安永6年(1777)造立の地蔵尊等がある。その先に「七里塚跡」の標石。甲府より7里目の一里塚。
舞鶴入り口を入ると「万休院」がある。武田四名臣の一人馬場信春の子・馬場民部少輔の開祖。「舞鶴松」と呼ばれる名松があり賑わったが、松くい虫の被害にあい、枯死してしまった。松がなくてはと行かなかった。しばらく歩くと左手奥に「三富貴神社」がある。諏訪大明神を祀る。武田家代々の祈願所として崇敬が深く、武田家没後は徳川家の崇敬を集めた。
また20号を歩く。右側に「中山主衛頭基墓」がある。太源の駐車場奥にある。武田家の家臣で「塩尻峠の合戦」で功を挙げたが足を負傷して歩行困難になり、中山烽火陣地の台長を命じられた。昭和34年の土石流で家、田畑を流失しこの地を離れると書いてあった。奥には「法橋中山立平」の墓がある。「弘法大師霊感所」の石碑もたっている。
20号の武川村牧原歩道橋を渡り向こう側に「牧原八幡神社」がある。男山八幡宮を勧請したもので、牧原の総鎮守。参道口に萬霊塔や馬頭観音がある。北杜市民バスが止まっているので、JR中央線の駅に行けるか聞いてみた。バス停の時刻表を見ても一日に数本しかなく、どこ行きかもわからない。この後スクールバスになって生徒を送った後日野春駅行になるが、午後6時になるといわれた。歩道橋を右折し、駐在所の先で左折、右折し大武川を大武川橋で渡る。
20号から離れて右に入るところに「武川町農産物直売センター」がある。赤大根を買った。武川米も欲しかったが、重いのであきらめた。右の道を行くと、右に文政5年(1822)建立の「庚申塔」があり、その先に「長坂勘三郎顕彰碑」がある。長坂氏は武川小学校の初代校長。旧武川村森林組合の初代組合長を務めた。
橋を渡り、すぐ右に曲がる。黒沢川を黒沢橋で渡ると、左側に「馬頭観音」が4基並んでいる。その先の右側に新しい「六里塚」跡碑がある。甲府より六里目の一里塚。
右の橋の下には「南無阿弥陀仏名号碑」があるが、下に降りられないので何と書いてあるかわからない。これは安政7年(1860)建立で、旧宮脇村との境にあるところから「境界石」とも呼ばれた。小武川を小武川橋で渡る。「北杜市」に入った。
街道に戻り進むと、右手に「明治天皇圓野御小休所碑」がある。明治13年巡幸の際に内藤家で休息した。碑は庭内にあるので覗いて門の柵の間から写した。上円井信号機の所に「秋葉山常夜燈」がある。ここから少し残っている旧道痕跡を歩く。
江戸深川の商人・徳島兵左衛が身延詣での際にこの地の荒野を憂い、幕府の許可を得て,寛文5年(1665)開削に着手した。上円井(韮崎市円野)から曲輪田の大輪沢(櫛形町)まで約17kmの堰を造り上げた。
20号から右の道に入る。左に「徳島翁おはかみち道標」があり、細い道を入っていく。妙浄寺の急な石段を回避して坂を上る。高島堰開削にあたり「七面大明神」を祀り開祖した。高島夫妻の墓がある。夫の死後出家し「妙浄尼」と合し夫の菩提を弔った。
祖母石村は幕府領で文化初年、43戸の集落であった。今もなまこ壁や長屋門の旧家を残している。木陰もない道を進むと20号に合流する手前に石塔群がある。「蚕神」「石尊神」「道祖神」「和気大神」「九頭竜大神」が並んでいる。昭和34年の水害で流失し、復元されたもの。
左手に「新明宮」がある。享保9年(1724)この地に遷座。旧祖母石村、旧西岩下村の鎮守。境内の金毘羅山常夜燈は釜無川の舟運に由来する。釜無川には鰍澤河岸があり、富士川を経由して、東海道岩淵河岸に通じていた。 その先の右手に「赤地蔵」がある。南無阿弥陀仏名号碑。享保6年(1721)の建立。赤く塗られているということだったが、今は褐色でもともとの岩の色のように見えた。
右手に「茅葺の武家門」がある。武田家に仕えていた名家。
左側にあったコンビニで買い物をしてしばらく休んだ。今日は曇りの天気予報だったが、時々日が差すと暑い。滝田建材生コン工場の敷地内に石祠が三社並んでいる。8祖母石(うばいし)村は釜無川の氾濫に悩まされ、文化2年(1805)戸隠神社の祭神・九頭竜権現の分霊を祀った。) 「水難供養塔」を右の道に入る。(昭和34年8月14日の台風7号の豪雨で釜無川が氾濫。犠牲者を供養した。)
釜無川は甲斐と信濃の国境に位置する鋸岳に源を発し、八ヶ岳を源流とする立場川を吸収し、笛吹川と落ち合い、富士川となって駿河灘に注いでいる。 右手には七里岩が続く。街道の北東に連なる崖で、韮崎から蔦木までの七里続いている。太古に八ヶ岳が大噴火し八ヶ岳泥流と呼ばれる火砕流が一帯に堆積。これを釜無川が侵食したもの。
一ツ谷交差点で20号に合流する。そこに「水神宮」が祀られている。石祠は安政4年(1857)の建立。「九頭竜大権現講中」と刻まれている。 20号を進むと右に「十六石」がある。(信玄が釜無川の水害から河原部落を守るために治水工事を行い、堤防の根固めに並べた巨石が十六石)そばに大きな岩があったが、巨石とは言えず、今はどこにあるのだろう。
青坂分岐の左に「馬頭観音」が祀られている。青坂は「七里岩ライン」といい、甲州道中の迂回路「原道」口。韮崎から台ケ原まで釜無川の流域を通るところから河路と言われた。しばしば釜無川の氾濫により通行不能になったため、七里岩上に迂回路として原路が開削され甲州道中裏道とも呼ばれた。 その先の右側に「行人塚」がある。祠には「行人正人」と記されている。(行者が生きたまま埋葬され即身成仏したもの。祠の周囲には石仏石塔が集められている。ここに仏さまが埋葬されているのかと石の割れ目をのぞいたりした。)
七里岩を背に「白髭神社」がある。俳人・金井志雪句碑「暮おしむ 枝から明し 桜かな」境内には花の大きさが日本一という「大花桜」の、名木がある。今は葉だけがしげっていました。
韮崎市役所方面に左折する。広場に「武田信義像」がある。(武田橋を渡った釜無川対岸の地は武田氏発祥の地。願成寺には新羅三郎義光から4代目で初めて武田姓を名乗った信義の墓がある。武田八幡神社は武田家の氏神で本殿は信玄が寄進したもの。)
中国で見た「懸空寺」のミニバンで崖に吊る下がっている。空海が観音石仏を洞窟に安置して、住民が観音のために堂を建てたといわれている。
信号本町が信州佐久郡岩村田へ18里の佐久往還追分。街道を進むと右側に「雲岸窟観音」がある。(天長5年(828)弘法大師が七里岩の中腹に築いた岩屋観音堂で弘法大師像や千体仏を安置している。)韮崎から7里続いている崖の末端に位置している。
その先で、20号を降りなければならなかったのに、そのまま歩道を歩いてしまった。随分来てしまったので戻れず20号の上から「屛風岩・九頭竜社」「姥姿石」を見ることになった。屛風岩の上に九頭竜社が鎮座している。釜無川水防の神として信仰されている。その左方向には「姥姿石(うばいし)」がある。老婆があごを支えている姿に見えることからそう呼ばれるようになった。岩上には弘化2年(1845)建立の石祠が祀られている。
右に「石尊大権現常夜燈」がある。石尊神社の北参道口で傍に文政10年(1827)建立の供養塔や馬頭観音がある。その先に「甲子塔」「道祖神」がある。石祠が二社あり、一社には中に男女双体道祖神が祀られている。流川を流川橋で渡る。往時は板橋であった。ここが教来石(きょうらいし)宿の江戸口で枡形があった。
文化9年(1812)建立の秋葉山石塔が右の火の見櫓のところに立っている。秋葉山は常夜燈が多いので探してしまった。その角を右に入ると「旧名主宅」がある。門構えも立派で、「懐古の蔵 橋場」の看板が出ていたが閉館していた。
街道に戻る。右側に「南無妙法蓮華経題目碑」と石祠がある。祠の中には男女双体道祖神が祀られている。この辺りはこの形式の道祖神が多い。その先のブドウ畑の中に「武田神社」があり、鳥居奥には多数の石祠が並んでいる。ブドウの季節に畑に入るのはよくないが、ぶどうはまだ小さな粒なので入らせてもらった。
右側に「立場跡、共同井戸跡」の解説番がある。(立場は宿の出入り口にあり、人足、旅人、駕籠かきなどが休憩する掛け茶屋であった。時には旅籠として利用された。)(当初はつるべ式の揚水施設であったが、のちに揚水ポンプが導入された。昭和30年ころ白洲町になり水道が普及し共同井戸は廃止された。)
「北杜市武川町標識」がある。20号に出て尾白川を尾白川橋で渡る。左に「古道入り口はらちみち碑」がある。(古道は甲斐府中から韮崎市三ノ蔵より西に分かれ、小田川を経て穴山の車坂にかかり七里岩の長坂町渋沢の花木坂へと通じていた。ここで釜無川の花木橋を渡り、西岸の台ケ原へ出て、信州蔦木へと向かう道で、甲州街道以前の信州へ通じる主要な道であった。)
2日目