街道に戻り、左側に「八坂神社」がある。天然理心流近藤周助(勇の養父)の門人が奉納したがある。(安政5年近藤周助の門人であり、佐藤道場で稽古に励んでいた25名が八坂神社に奉納。欅板に大小2刀の木刀が架けられている。最後の嶋崎勇は後の近藤勇のことで、安政6年入門の土方の名前はない。八王子の千人同心・井上松五郎と弟の井上源三郎の子孫が今でも日野で近藤勇の子孫と共に「天然理心流勇武館」を組織し、流派を継承している。)と書かれていた。

分倍河原~高尾

H.30.6.30~7.1

新幹線で東京まで、京王線で分倍河原駅に着いた。街道を少し戻り「片町碑」に午前8時44分に着いた。甲州道中沿いの集落で、北側の片方だけが発達したことに由来する。この集落は番場宿に属しており、徳川家康が江戸に入城後、甲州道中の開通に伴い、街道に沿って出来た町である。

その参道を入っていくと「南養寺」がある。梵鐘は安永6年(1777)関家が鋳造したもの。境内には小堀遠州流の枯山水庭園がある。

矢川を矢川橋で渡る。矢川3丁目交差点の所に「五知如来」が祀られている。仏教の五の智(大円鏡智 妙観察智、平等性智、成所作智、法界体性智)を備えた仏で、大日如来の別名と言われる。5体の仏が並んでいる場合が多いが、ここは、石に五智如来と刻まれていた。) その先の左側に「青柳地蔵堂」がある。江戸時代前期造立の木造地蔵尊が安置されている。

その隣に寛政11年(1799)建立の「元青柳村の常夜燈」がある。竿石には「秋葉大権現」「正一位稲荷大明神」「榛名大権現」と刻まれている。傍には嘉永2年(1849)建立の馬頭観世音がある。参道を進むと奥に「青柳稲荷神社」がある。旧青柳村、旧石田村の鎮守。

本宿交番前交差点の所に「秋葉大権現常夜燈」がある。(この辺りは台地で水不足に苦労した。本宿村では「講」を作り、遠江の秋葉社で火伏の祈祷をし、この地に常夜燈を設けた。村内に番帖講中の氏名を記した木札をまわし、この灯籠に火を点じて無事を祈り隣に回した。)その先の西府町2丁目交差点右側に「本宿碑」がある。甲州道中が開設される前は宿場であった。

府中宿へ

多摩御陵西交差点を右斜めの道に入る。左側の奥に山王社がある。山王権現社で、松姫所縁の「子育て地蔵」がある。松姫は武田信玄の六女で、武田家滅亡後八王子に移り、三人の娘を育てた。松姫は千人同心の心の支えであった。

馬場横丁に入ると「宗格寺」がある。「千人隊事蹟碑」がある。境内にあるという大久保長安が築いたという「岩見土手の一部」は見つけられなかった。墓所には千人同心頭松本斗機蔵の墓がある。昌平黌に学び、天保8年(1837)水戸藩主徳川斉昭に上書を献じ、日本海開港を主張した。

八坂神社の向かいを斜めに入り、突き当りに「上宿の辻公園」がある。(日野宿は上宿、中宿、下宿に分かれて、この公園は甲州街道が西の八王子宿に向かう鈎型に折れる上宿の辻に接している。この付近は当時の甲州道中の道筋をほゞ正確に残している。)ここを左折して、日野駅前東交差点を横断する。

宿場には、日野本郷の名主と日野宿問屋を兼任し世襲する2軒の佐藤家の屋敷があった。1716年、西側の佐藤隼人家(上佐藤家)は本陣を、東側佐藤彦右衛門(下佐藤)は脇本陣を勤めた。1849年の大火で本陣、脇本陣は焼失し、現在の脇本陣は1864年に完成した。北面正面に式台玄関を設け、屋敷は瓦葺き、一般的な名主の屋敷と違い、脇本陣としての風格を備えている。新撰組とも深いかかわりがあり、幕末の表舞台ともなった。

蔦の絡まった古い建物がありその前に写真がある。有山家、屋号綿十と書かれている。(この写真は明治26年の大火の前に撮られたもの。有山家、中島家(嶋屋)、古谷家(油屋)土方家(方屋)と蔵の連なる甲州街道沿いの町並が良く分かる。) 川崎街道入口交差点の左手に「高幡不動道標」がある。高幡不動は関東三大不動(新勝寺、總願寺)のひとつ。土方歳三の菩提寺。

多摩川は埼玉の県境に位置する笠取山の水干に源を発し、下流で六郷川と名を変え、江戸湾に注ぐ。頭上をモノレールが走っていく。橋を渡ると土手道に「日野渡船場跡」の解説版がある。渡し賃は人と馬とは別に徴収され、武士、僧侶、宿の人は無賃であった。大正時代の渡し場の写真があった。

左側の高安寺の塀からケヤキの木が見える。「府中の名木百選 高安寺のケヤキ」の解説版が建っている。先日高安寺を訪れた際にはきずかなかった。その先に「弁慶坂碑」がある。高安寺の弁慶伝説に由来する。

立川市に入る。日野橋交差点にある「ファミレス」で昼食をとる。しばらく休憩して暑い中を歩き始めるが方向を間違えてしまい、元に戻る。都道29号線、奥多摩街道標識を斜めに入る。しばらく歩き、「旧甲州街道標識」を左折する。この辺りには桜並木があり、良い日陰を作っている。

高尾駅前交差点に「きくやホテル」がある、左折するとJR高尾駅があった。駅前の土産物屋を覗きたかったが電車の時間が迫っていて直ぐホームに急いだ。中央本線で東京駅まで、新幹線、東海道線を乗り継ぎ藤枝に帰った。

安永元年(1772)造立の石地蔵尊が右側に祀られている。地蔵菩薩の脇の細道は八王子城に通じていた。  その先の左側に「黒塀の旧家」がある。町田街道入口交差点で国道に合流する。

並木町交差点を過ぎると、八王子市役所横山事務所内に「オオツクバネガシ」がある。浅間宮の御神木であった。「散田の一里塚」はその東にあったが現在位置は不明。江戸日本橋より12里目。進むと、右側に「馬頭観音」が祀られている。

その先の右側に「了法寺」がある。千人同心の墓がある。その向かい側の道を入っていくと「興岳寺」がある。千人同心頭石坂弥次右衛門の墓と顕彰碑がある。戊辰戦争で日光東照宮の守備にあたったが、官軍と戦わずに引き返し、日光東照宮を守った。官軍と一戦も交えない責を問われて切腹した。墓は寺と反対側の墓地にあり、解説もついてないので、ガイドブックを見ていなかったら見つけることはできなかった。

追分交差点で道は左に入る。横断歩道橋の工事のため、追分道標が動かされていた。右側の陣馬街道に歩道橋を渡っていくと「八王子千人同心屋敷跡記念碑」があった。家康は武田氏の旧臣を召し抱え、甲州口の押さえとした。碑の辺りに幹部の屋敷や邸宅があり、平同心は八王子周辺で半士半農の生活を送った。追分道標は文化8年(1811)の建立。「左甲州道中高尾小道」「右あんげ道」と刻まれている。「あんげ」は陣馬街道のことで、かって武州安下に通じていた。空襲で折れ、不明な部分は復元してある。

街道に戻り本郷横丁交差点を過ぎると左側に明治期創業の「こんにゃく 寒天」の「中野屋商店」がある。今日は閉まっていた。この向かいに「笠間稲荷神社」があるというが見つからない。傍の自転車屋さんのおじさんに聞くと少し戻った「なのはなちびっこ広場」の奥にある。と教えてくれた。広場を入った奥の見えないところにあった。八木宿の鎮守。

史蹟大久保岩見守長安陣屋跡」碑がある。稲荷神社は陣屋内社であった。長安は幕府の代官頭として八王子宿を開設し、宿並の南側に陣屋を置いた。八王子千人同心の組織化や千人町の成立にも尽力した。千人同心とは、郷士身分の幕臣集団のことで、その任務は甲州口の警備と治安維持であった。普段は農耕に従事し、半士半農の身分であった。

八幡町交差点を左折しJR中央線の踏切を渡ると「念仏院」がある。念仏院の「時の鐘」は元禄12年(1699)八日市宿の名主・新野与左衛門が発願主になり、千人同心等の寄付で寄進され、昭和初期まで明け六つ(午前6時)と暮れ六つ(午後6時)の時を告げた。

街道を進み、八日町交差点を右に入ると左側に「八幡八雲神社」がある。中世に多摩丘陵一帯から相模に勢力を張った横山氏(武蔵七党のひとつ)の居城跡。横山党の守護神で八王子総鎮守。 境内には横山神社がある。(八幡八雲神社は横山等党の始祖である横山義孝が八幡社を勧請して創建した。この境内一帯が横山党の本拠地であった。義孝を祀った横山神社がある。)

街道に戻り、進むと右側に「市守大鳥神社」がある。市の守護神。「酉の日]が賑わう。神社前が八王子宿の江戸口(東)で木戸があった。道の奥にJR中央本線の八王子駅が見える。

その先のT字路を左折する。ここは新町の枡形で、その先の八王子駅入り口東交差点を左折する。右折して「子安神社」に寄る。八王子最古の神社・子安神社は古来より安産祈願の「底抜け柄杓」を奉納する習わしがある。大国玉神社では経木の柄杓だったが、ここのは竹の柄杓だった。朱印地六石の寄進を受けた。子安神社の右にある神門をくぐると「金毘羅神社」がある。子安神社前の「枝垂れ桜」金毘羅神社の「ソメイヨシノ」は4月上旬満開となり、3日間ライトアップされる。7月には「祇園祭」が行われ、祭神スサノオ様を乗せた神輿が八王子の町を荒々しく巡行する。

浅川大和田橋で渡る。浅川は4月から10月までは徒歩渡で、10月から3月までは架橋された。流末は多摩川に落ち合う。橋北詰に「焼夷弾・弾痕の保存について」の解説がある。太平洋戦争時の空襲による焼夷弾の着弾位置がタイルで示されている。(昭和20年8月2日、B29180機の空襲を受け、約450名が死没した。橋全体では託50個の焼夷弾が投下された。焼夷弾の跡が17個残っている。)

多摩平北交差点を過ぎると、右側に「日野台の一里塚」がある。実際は解説版より西90mの所にあった。塚木は雑木であった。江戸より10里目。日野台交差点を右に入ると左側に「一里塚公園」がある。人通りの少ない「ひのっぱら」を歩く旅人が一息ついた場所でもある。と書かれていた。通りには現在はイチョウ並木が続く。

背景に工場が写る写真はだめということで、解説版だけ写させていただいた。(美濃より移住して日野用水を開削した佐藤隼人を称え、業績をしたためた連署を埋葬した所から「請人塚」とも呼ばれた。)古墳かもしれないと掘って見たらしいが何も出なかったと案内の人が言っていた。昔はこの塚に大きなエノキがあっり、旅人たちが休息をとった。

ガードを潜り、左折し大阪上通りの上り坂を進む。中央自動車高架をくぐり、日野台3丁目交差点を過ぎると右手に「日野自動車」の大きな工場が見えてくる。敷地内に「上人塚]があるということで、工場の受付で見せてほしいとお願いする。「上人塚の狐」という日野の昔話の紙をもらい、案内してもらう。

簡単な朝食をとり、午前6時10分にホテルを出る。

2日目

日野駅前東交差点の所に「宝泉寺」がある。日野宿出身で、「鳥羽伏見の戦い」で戦死した新撰組副長助勤六番隊組長・井上源三郎の墓顕彰碑がある。源三郎は八王子千人同心の三男として生まれ、近藤勇の兄弟子であった。

日野本町2丁目交差点を左に入ると「大昌寺」がある。墓地に佐藤家の墓がある。墓誌には彦五郎,ノブの名がある。ノブは土方歳三の実姉である。墓地には「讃誉上人」「祐翁」の墓がある。[「讃誉上人]は武蔵国立川郷の領主・立川能登守の子といわれ、日野宿の人に請われて「大昌寺」を創「建した。「玉川居 祐翁」は日野宿旅宿「あずまや」の中村半兵衛の三男として生まれ、佐藤道場で天然理心流を学んだ。幕府の浪士組に土方等と加わったが、帰宿して、日野農兵隊に参加。甲陽鎮撫隊で活躍した。

本陣跡の向かい側には「日野交流館」がある。新撰組グッズが売られている。2階では日野宿の歴史と文化が紹介されている。その先の右側に「問屋場跡・高札場跡」碑があり。毎月前半は下佐藤、後半は上佐藤が勤めた。問屋場前には高札場があった。

明治天皇碑

橋を渡ると、「ようこそ 新撰組のふるさと日野へ」の大きな看板が出迎えてくれた。塀には大正末期の渡船場の写真が貼られている。左側に「東の地蔵」がある。享和9年(1809)造立で「福地蔵」ともいわれた。ここが日野宿の江戸口。祠前には文化8年(1811)建立の馬頭観音がある。新奥多摩街道入口交差点を右折する。

日野宿は、慶応10年(1605)八王子宿を整備した大久保長安によって開設され、「日野の渡し」を管理した。多摩川の鮎が名物で将軍家に献上された。本陣1軒、脇本陣1軒、問屋1軒、旅籠20軒であった。

日野宿

錦町下水処理場前交差点を横切り進むと左の角に「日野の渡し碑」「日野の渡し場跡碑」がある。(初期の渡し場は下流の「万願寺の渡し」であった。低地のため度々洪水に見舞われた。貞享元年(1684)「日野の渡し」が新設された。3月から10月までは舟渡しで,大小2隻の平底船が使用され、冬は土橋が架橋された。文政7年(1824)以降は1年中舟渡しとなった。大正15年日野橋の架橋で渡し場は終焉を迎えた。)

その先の右側に「永福寺」がある。街道を進むと左側に「保谷の常夜燈」がある。寛政6年(1794)建立で、上保谷村にあったもの。竿石には「秋葉大権現」「天満宮」「榛名大権現」と刻まれている。傍らには享和2年(1802)建立の千手観音供養塔がある。

その先の右側に「秋葉山常夜燈」がある。文久3年(1863)の建立で、「ジョートミ」と呼ばれる回覧板が各戸に廻り、毎夕交代で火を灯した。はす向かいの左側に「関家かなとこ跡」解説版がある。関家は鋳物三家(矢澤、森窪)のひとつ。江戸三名鐘のひとつ天龍寺の梵鐘は当家が鋳造したもの)

武蔵府中熊野神社古墳展示館」がある。石室が復元されていて、中に入ることができる。ヘルメットをかぶって中に入った。本横穴式石室は前室、後室、玄室からなる。奥の玄室の天井は丸く約3mと高くなっている。玄室からは多数の釘、ガラス玉、太刀の鞘につけられた鞘尻金具などが見つかっている。

上段の間

八王子宿

駒木野宿へ

今回は暑い日が続き、神社の境内で涼をとる時間が長かった。大きな木が生えている神社は風が通って涼しく良い休息になった。何とか高尾までこれて良かったです。今まではずっと都会の真ん中を歩いているようだったが、次回は小仏峠を歩きます。

(石室から見つかった鞘尻金具(刀の鞘の末端に付ける金具)は、鉄製の地金に銀で模様が付けられている。この模様の中に7つの円紋(○)で構成される七曜紋がある。古代の中国の思想を表したもので、当時の日本では最新文化として取り入れられたものと考えられる。)

街道に戻り、長房団地入口交差点を右折すると、「道標」がある。「右高尾山道」「左真覚寺道」と刻まれている。碑の後ろが散田の枡形。枡形を左折する。並木町に入ると左側に「長安寺」がある。参道の敷石は八王子市内を走っていた「武蔵中央電気鉄道」の敷石である。

京王線府中5号踏切を渡り、美好町3丁目西交差点の先の左側に「本陣門」が残っている。内藤家冠木門府中宿矢島本陣の表門を移築したもの。内藤家は旧本陣村の名主を勤めた。

熊野神社の行き方が分からず、通りがかりの婦人に聞いた。歩道橋を渡って、道の反対側に出るとある。ということだった。歩道橋を渡り向こう側に着くまで、見ていてくれた。ありがたいことです。  「熊野神社」は天正元年(1573)八王子城主北条陸奥守氏照が再建した。境内には「縁結びの木」と呼ばれる欅の木と樫の木の根元がいっしょになっ手成長した「相生木」がある。(北条氏照の家臣で篠村左近之助の娘に安寧姫と言う美しい娘がいた。郷士の息子で笛の名手がいた。二人はしばしば顔を合わせ、この木の下で逢瀬を重ねた。この木の根元に自分の名前と思いを寄せる人の名前を書いた小石を二つ置くと願いが叶うという。)熊野橋を渡って進む。

多摩御陵入口交差点の右側に「武蔵野墓地参道道標」がある。昭和天皇の陵墓である。道を挟んで「多摩御陵参道道標」がある。大正天皇の陵墓である。高尾駅までの街道に768本のイチョウ並木がある。昭和2年、多摩御陵造営の記念に植樹された。明治天皇陵墓には参詣したことがあるので、この陵墓も機会があれば参詣したいです。

街道に戻り、古い家がある。本郷横丁東交差点に入ると「松の湯」が営業している。その先に「産千代稲荷神社」がある。

夢美術館東交差点を右折し、路地を入っていくと左側に「禅東院」がある。境内には「とうがらし地蔵」がある。飢饉の時に唐辛子を内藤新宿の問屋に卸し、救われたところから祈願の際に「唐辛子」を備えるようになった。唐辛子がたくさんぶるさがっていた。

街道に戻り、夢美術館東交差点に「八日市宿跡碑」が建っている。八日市宿には新野本陣や山上脇本陣、問屋場があり、八王子宿の中心であった。

八王子城北条氏照の居城であったが、天正18年(1590)秀吉の家臣前田利家の攻めにより落城、後に領主となった家康は大久保長安に新たな街造りを命じた。宿並は東から横山宿、八日市宿、八幡宿で構成され、総称して八王子宿となった。四の日は横山宿、八の日は八日宿で六斎市が立ち大いに賑わった。本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠34軒であった。

社殿の後ろには「芭蕉句碑」がある。「蝶の飛ぶ ばかり 野中の ひかげ哉」  また享保8年(1723)建立の青面金剛や庚申塔がある。

橋をわたり、右折して「北大通り」を進む。市立5中交差点を左に入ると右側に「竹の鼻の一里塚」がある。塚木の大榎は明治30年の大火で焼失した。江戸日本橋より11里目。永福稲荷の境内には江戸中期に活躍した力士・八光山権五郎像がある。そういえば手水社が相撲の櫓の形をしている。

八王子バイパス高架をくぐり、ESSOの所で左の道に入る。(見落として戻った)左側に石仏石塔群がある。馬頭観音、道祖神、安政5年(15858)建立の道標「江戸むら大和田道」等がある。

八高線を跨ぎ、石川入口交差点を過ぎると、右側に「日枝神社」がある。古い女坂と新しい男坂の石段がある。石段を上ると社殿がある。慶安2年(1649)徳川家光より御朱印社領五石を賜った。その後ろ側に「東光寺」があり、参道口に庚申塔などがある。

その先に「コニカミノルタ」の工場があり、敷地内に「富士塚」がある。古墳ともいわれている。受付で見せてほしいと申し出たが、市役所経由でないと見せられないと断られた。コニカは明治6年、東京麹町で薬種問屋小西六兵衛店として創業した。高倉町に入ると右側に「高倉稲荷神社」がある。享保3年(1718)創建。高倉新田の鎮守。高倉原は高倉野ともいわれ、八王子近くまで1里半ばかりの荒野で、盗賊が跋扈し物騒であった。

工場前のスダジイ

日野駅前付近の「坂下地蔵堂」を探せず、日野の京口である「西の地蔵」を見つけられなかった。駅のガードの所に「甲武鉄道開通と日野煉瓦でできたトンネル」の解説がある。(JR中央線はかって甲武鉄道と呼ばれていた。JR日野駅の下には、用水を通すために作られた長さ21mの日野煉瓦でできたトンネルが現存している。)

今日の宿「ホテル・ブーゲンビリア」は、先ほど通った日野駅前交差点の先にあるということで、午後4時40分にホテルに入る。今日は暑い一日だったが、何とかここまで歩けて良かった。

日野本陣には佐藤彦五郎が近藤周助に師事して開いた「佐藤道場」があり、後の近藤勇や土方歳三、沖田総司、井上源三郎たちが稽古に励んだ。明治26年の大火で有山家(佐藤彦五郎の四男彦吉の養子先)が焼失したため、「上段の間」と続きの一間は有山家に移築された。門前に「明治天皇日野宿小休所及建物附御膳水碑がある。

その先を右折し又左折する。土手に石段で上がる。土手を右方向に歩くと多摩川に架かる立日橋がある。多摩川都市モノレール建設のため1989年道路部分が先行して開通した。その後2000年に立川北~多摩センターが開通した。

国立市役所入口交差点の先の右側に「潤澤学舎跡」解説がある。(明治5年、学制に基づく学舎が、杉田吉左エ門宅に開校された。当初児童数30名前後であった。その後「保谷小学校」となった。

その先の保谷天満宮前交差点左に「保谷天満宮」がある。(湯島天神、亀戸天神と並び関東三天神のひとつ。菅原道真が大宰府に流罪になると、三男の道武はこの地に配流された。道真の死後、父の像を彫り、これを祀ったのが天満宮の始まり。しかしこの像が出来が良くないところから「野暮天(谷保)」の語源となった。)

西府橋を渡り、国立インター入口交差点の先の右側に「獅子宿碑」がある。(天暦元年(947)村上天皇より獅子三基が下賜され、保谷天満宮に獅子舞が奉納された。その際、佐藤家が稽古場となった。地名はこの獅子舞に由来する。)道を挟んで藥医門の旧家がある。本田家は下保谷村の名主で、幕府の馬医者を勤めた。門は馬に乗ったままくぐれる造りになっている。

その先には「熊野神社」がある。旧本宿村の鎮守。社殿の裏には上円下方墳がある。(7世紀中ごろ、飛鳥時代の古墳で、上円下方墳である。古代の中国では天は丸いもの台地は四角いものと考えられていた。埋葬者は東国の有力者だると考えられている。)